「名前はあるのか」
夜、福沢は子供にそんなことを問いかけていた。
福沢の目の前で子供は目を丸くして、その手の中に握り締めていた箸を落とした。えっと出ていく小さな声。
どうしてそんなことをと子供は聞く。
「聞かなくても分かっているんじゃ」
子供の目はじっと福沢を見ている。大きな褪せた目に見つめられたから福沢はそうだなと一つ頷いていた。
「でも確認のためだ。お前に名前はあるか」
問われる子供は福沢を見ていた目を俯けさせていた。小さく子供の首が揺れていく。ないよと子供の声が聞こえる。
「僕に名前なんてないよ」
「そうか」
福沢の目は子供からそっとそらされていて一度ゆっくりと目を閉じていく。吐きだされると良き。じゃあと声を出して子供を見つめる。
「名前をつけなくてはな」
子供の口が最初の時よりもさらに丸くなっていた。そのまま固まって動かなくなる。一瞬後に我に返ってどうしてとじっと見ながら問いかけてくる。
「どうして」
「あった方がいいだろう。お前のためにも……、それに
だから明日太宰につけてもらおう」
ひゅっと息をのみこむ音。見開く目
「太宰さんなのどうして」
「それが必要だと思うからだ」
子供が聞く。福沢は確かな意思がこもった声でそう答えていた。
翌日福沢は太宰を呼び留めていた。
「太宰あの子の名前を付けてやってくれないか」
そして告げていく。太宰の目は大きくなって口を開ける。えっと出ていく声。何でとあせた色が震えている。
「なんでですか」
「それがきっとけじめになる」
静かに福沢が告げる。固まった太宰はそんな福沢を見て何も言わなかった
「名前つけるんだって」
「ええ」
ピクリと肩が跳ねることを抑えられなかった。一拍遅れてからでていく声。低いものになっているような気までしてしまった。太宰の目は淀んだ色をして机を睨んでいる。深く考えなくてもいい。お前が思いつける何かでいいとそんなことを福沢に言われたものの太宰は何も思いつくことなどできなくて今しばらく待ってもらうことになってしまっていた。
本当はつけたくさえもないのが太宰の本音なのだが、それを福沢は許してくれなかったのだ。子供だけでなく探偵社のほかの社員にも太宰が名前を付けることになったことを話していて、もうみんな知ってしまっていた。話しかけてきたのは今帰ってきて事情を知った与謝野だけだが、その前から気にしているような視線は感じていたのだった。
その視線が強くなって太宰や与謝野を窺ってくる。何かしら言いたげな視線。視界の中に不安げな顔をしたみんなが映る。太宰の口からため息が出ていた。
仕事をやっている手も与謝野が来る前からちっとも動いていない。怒り出しそうな国木田でさえ今日ばかりは何も言えないでいた。与謝野の目がちらりと探偵社の奥を見る。そこには子供が座っていて、今は勉強をしている時間だった。いつもの通り大人しく椅子に座ってペンを手にしているが、いつもと違って集中はできていないようであった。
ちらりちらりと太宰を見ていて時折目が合う。その度逃げるが、それでも子供の目は太宰を見ていた。好奇心とかそういった類のもののためではないのはなんとなくわかる。
恐怖とか緊張とかと言ったそういう良くないもののためだ。
探偵社の空気がやたらと重苦しくて帰ってきたばかりの与謝野でさえ息が詰まりそうだった。周りはどれだけ大変かと見る。何人かと目があっては助けてというような縋る目で見てこられていたが助けられるようなことはなかった。
ガシガシと与謝野の手が髪をかきむしる。太宰の目がそんな与謝野を見てからゆがめられていた。微笑むような形。すみませんねなんてそんなことを軽い調子で言っているけど、そんなこと決して言える状況でないことは分かる
「社長も何を考えているんだい。仲良くなんてないだろう」
あえて悪いだろうなんて言わなかったけれど、伝わるものだろう。一瞬目をさまよわした後にまた笑みを浮かべなおしていた。張り付けて口を開く。
「けじめだそうですよ」
聞き耳をたてられている部屋の中、首を傾けるものなんていなかったけど、眉を顰めるものは多くいた。かくいう与謝野もその一人で当事者の太宰が目の前にいるという中でもゴキブリを見るような目で太宰を見ていた。
「やっぱり子供だったのかい」
「違います。それだけは違う。あの子は」
問いかける声。太宰は首を振る。だけどその先を言うことはなかった。
夜福沢はじっと子供を見ていた。子供は大人しく座ってご飯を食べている。いつもと変わりないようにも思うが、少しだけ落ち込んでいるようにも見える。何かを考えこんでいるような。
そう見えるだけなのかもしれないが、口を閉ざして何も言わない子供に福沢はまだもう少しだけ待てとそう声をかけていた。子供の目が福沢を映す。
一日待ったが結局太宰は子供に名前を付けることはできていなかった。もう少しと言ったがきっとまだまだ先になるだろうことを福沢は分かっていた。
恐らく子供もだろう。合わせた目を少しだけ泳がせて名前なんていらないよとそう言っていた。
「今までもなかったし、これからもなくても問題はないよ。もし必要だったとしてもあの人に決めてもらわなくても……」
「言っただろ。それがけじめだと」
子供の言葉を福沢は強い声でかき消していた。じっと子供を見る目は、子供を映しながらもその面影によく見た太宰を見ていた。
「何かしらの形でけじめをつけていた方があれのためにもいいのだ。だから付き合ってやってくれ」
頼むとそうねがう。子供の口元は小さく噛みしめられた。目があたりをさまよいながらもしばらくすると一つ頷いていた。でもとそんな声も出ていく。
「でもけじめなんてなくてもちゃんとわかっているよ」
「そうだな。それでも一つの儀式としてつけておいた方がいい」
福沢の答えは変わらない。確固たる意志を持って伝えていく。だからと子供を見る。子供の目はまだ何かを探そうと下をさまよう。
時計の音がする。
太宰に似た顔立ちが福沢を見る。
「……あの人の事嫌いなの」
小さく口が開いてそんなことを問いかけた。問われた福沢は驚くこともなく子供を見返す。
「何故そう思う」
「だってあの人とても辛そうにしている」
名前を付けろと告げられた時から、そのもっと前から太宰はずっと苦しそうだった。ずっとこの場所から逃げ出したいとそんな顔をして日々を過ごしていた。それでも逃げ出さなかったのは誰に言われたからでもない太宰の意思だ。
それは二人ともわかっている。
「……そうだな。これを超えていくことで変わっていくものもあるだろう。そう願っている。変わりたいとそう思っている」
子供は福沢の言葉に何も言わなかった。
口を閉ざして、それから暫くして止まっていた箸を動かしだした。これ以上の会話はもうできなさそうであった。
福沢も食事を再開する。
無言が続いていく。子供の目はずっと皿の上を見ていてあげられることがない。いまだ何かを考え続けているような子供に福沢は口を開いていた。
「そういえば明日は敦たちと午前中は出かけるそうだな。何処に行くんだ」
話題を変えて子供を見る。動いていた箸が止まって、その目が一瞬だけさまよった。
「公園って。ボールとかで遊ぶんだって言ってました」
「そうか。それは楽しそうだな」
子供の手が箸をぎゅっと強く握る。口元が一度引き結ばれていた。今も少しだけとがっている。福沢の目が穏やかに子供をみて楽しんでくるんだぞと声をかけている。だけども子供は頷くこともなく俯いてしまっていた。
だけどなんて声が聞こえてくる。気にするなと福沢は子供が何かを言い切る前に伝えていた。
「お前を巻き込んでしまってはいるが、これはあれの問題だ。お前は気にせず。ただ楽しんで来い」
福沢はじっと子供を見る。厳しい顔つきはそれでも優しい色をしていた。
「やはり来たか」
子供を寝かしつけた後に家の外に出た福沢は、玄関の前に立ち尽くしている太宰を見つけていた。驚くことはなくじっと闇と同化している男を見る。
ゆっくりと動く影。褪せた目が黒い色に見えてしまう。
「……社長」
紡がれた言葉は低く小さかった。夜の闇にその音がすぐ溶けていく。
「名前はまだ決まってないか」
問いかける声。夜の目は細められて地面を見下ろした。薄く開いた口から息がこぼれていく。
「分かっているでしょう」
「そうなのだがな」
夜に溶ける小さな声。聞き逃さないのはひとえにすべて福沢の耳がいいおかげだ。そうでなければ何かを言ったことさえ分からなかっただろう。そらすことなく太宰を見続ける。
太宰の目はずっと下を見ているから合うことはない。
「寄っていくか」
家を指さした。太宰は動かない。小さく口を開くだけだ。そこから出ていくのは否定の音。
「あの子はお前と違って寝つきがいい。そうそう起きんぞ」
「それでもいいですよ」
いいはするものの福沢には答えは分かっていた。緩く首が振られるのを見てそうかとすぐに答えている。立ち尽くしていた太宰の体が少し動いた。後ろにほんの少しだが下がっていく。
帰ろうとしながらでも太宰の目は地面を見ながら僅かだけ福沢の家を視界に収めていた。それを外に追い出せないでいる。
「名前……」
いまだ小さな声が出ていく。
「どうした」
福沢の目は太宰を見つめて問う。言いたいことなんてわかっていた。それでも太宰に聞く。太宰はしばらく動かずにいて、それからそっと後ろを向いていた。
「何でもないです」
おやすみなさいも何も言わず太宰は離れていく。時折福沢の方が見るが何も言わなかったし、福沢も口を堅く引き結んで何も言わなかった。
太宰が闇の中に溶けて消えていく。
それを見送ってから引き結んだ口を開いた。はあああと深い吐息が出ていく。頭を抱えてしまいながらも追いかけることはしない。
「すまぬな。でも……これで何か進める気がするのだ」
でていく声。分かるだろうと誰もいない中問う。
子供たちの笑い声がその場にはたくさん響いていた。土曜日だからか敦と鏡花、賢治、その三人に連れられて子供がきた公園ではほかにも沢山の人たちが遊んでいて、みんな楽しそうだった。
敦や鏡花たちも子供を楽しませようとボールを手に楽しそうに話しかけていたが、子供はどこか上の空で答えたり、言われるまま遊んだりはするのだが楽しそうではなかった。
出かけるとき楽しんでくるのだぞと福沢に言われていたが、どうにも今の子供にはそれは難しいみたいだった。いっそもう帰った方がいいんじゃないか。帰って何ができるわけでもないけれど、太宰の傍にいた方が子供にもいいのだろうか。そんなことを考えて敦や鏡花が目を合わせていた。
帰りますかと問おうとする。だけどその前に賢治の方が子供に先に問いかけていた。
「楽しくないですか」
ぎょっと二人の目が見開く。とても直接的な言葉だ。聞かれた子供も驚いていたけど、すぐにその首を横に振っていた。そんなことないよ。なんてことも口にしているがその目はすぐに地面を映した。
とがる口元。それを見ていた敦や鏡花がやはりと思うけれど、賢治の方は二人に笑って僕に任せてくださいと胸を張っていた。
「太宰さんのこと気にしているんですか」
またもやとても直接的な問いをしている。昨日からどことなく落ち込んでいるような子供にみんな気になっていながらも聞けずにいたことだ。せめて何かで気を紛らわせたらと提案したのが今日のこの公園へのお出かけでもあったのだ。
それもうまくいかず空回りしているのを感じていた中、賢治はにこにこと笑って子供と話そうとしていた。子供は地面を見て口を閉ざしている。
一度その首を横に振ろうとしていたがそれは途中で止まっていた。
「僕は社長の考えてることや太宰さんのことはよくわかりませんが、でも一つだけ言えることがあります」
にこにこと笑って賢治が話す。子供の顔が上がっていた。
「何」
「みんなあなたに楽しんでもらいたいって思ってることです。社長もそれにきっと太宰さんも」
小さな子供の目が見開いていく。賢治に任せようと成り行きを見守っていた二人の目もまた見開いていた。
「……そうかな。あの人は……僕が楽しんだら……」
褪せた目が泳ぐ。戸惑った声。細められていく目。下を見ながら子供が首を振っていく。だけども賢治からは明るくて疑うことのない声が出ていた。
「間違いないですよ。太宰さん確かに少し冷たい態度ですが、でも気にかけているのは見てたら分かります。きっと幸せにしていてくれたら喜びます」
「……気にかけているのは確かだけど、でもそれは……」
少しどころかなんて言う驚きは口にせず敦と鏡花の二人は二人を見守っていた。子供の目はまだ泳いでいる。何かを言葉にはできず口を閉ざしていた。
悩み続ける子供に賢治は笑いかけることを辞めない。きらきらとおひさまのような笑顔を向けている。
「そうですね。いろいろ考えてしまうことはあるかもしれません。でもずっと考えているのは苦しいのでせめて今だけは一緒に楽しみませんか」
「……」
「全部一度忘れてしまいましょう。ね」
子供の手を取って、子供の目に無理やり映りこんで笑いかける
「でも」
子供からでていく小さな声。目が泳いでそんなことしたら、それはなんて言葉が出ていく。何を言いたいのか、何を思っているのか肝心なことは聞こえないけど、賢治はそれでいいと思ったのだろう。
ただ笑っている。
何を言いたかったのか知りたいと思ってしまう敦も今はそれがいいのだろうとぐっと言葉を飲み込んだ。
「大丈夫ですよ。何かあるならまた後で考えたらいいんです。今日は今日を楽しみましょう。その方がきっと太宰さんのためにもなりますよ。
そう社長も出かける時言っていたでしょう」
四人が出かける挨拶をしたとき、福沢は子供の頭を撫でていた。そして楽しんで来いとそう言った。あれのことを今は気にしなくていい。昨日も言ったが気にせずただ楽しんで来い。……その方がきっとあれのためにもなるからとそう言っていたのを四人とも聞いていた。
その時子供がわずかに体を強張らせたことを手を握っていた敦は知っていた。
子供の目が泣き出しそうに細められて賢治の笑顔を写した。
「……あの人はとても酷いことをしようとしてるの。それでもいいの。僕は、それが……」
きょとりと賢治の青い目が一度瞬きしていたけれど、すぐに笑顔を取り戻している。えなんて敦が驚く横で賢治はただ子供に向けて笑っていた。
「いいですよ。
よくわかりませんけど、社長はいい人ですから。きっとそんなに酷いことにはならないんですよ。だから一緒にたくさん遊びましょう」
子供は口を開けて呆けた。賢治をその目に一杯映してそれから少しだけ目をそらした後にもう一度賢治を映して口元を上げていた。笑いたいんだってそう分かる形だった。
何して遊びますと賢治が問う。子供が何かを考えるけど、出てくるものはないのか賢治と、それに敦や鏡花を見た。何がどうなったのか分からないけれども今はとにかく遊んだほうがいいのだと伝わった二人は二人の中に入っていく。
もう一度ボール遊びでもしますかとボールを手に敦が言った。
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