福沢と言えば鏡花が住む地域のもので知らぬ人はいないほどの大富豪だった。何代も続く商人の家であり、その上主人は刑部の役人でもある。多くの召使を抱え、妻はなんと十人以上いる。どの妻も高い家柄にそんじょそこらではお見掛けできないほどの美人。毎日誰かが噂して誰かが羨み、誰かがねたむ。
 そんな家。
 そして鏡花は数か月前からその家で十三番目の奥方の部屋付として働いている。
 親を殺され、人買いに連れ去られ、買われた先では人には言えないようなことをさせられてきた身を思うと何故そうなったのか理解できないような状況だ。だけど鏡花はもうその事を考えるのは止めた。
 なんといってもそれよりもっと理解できない状況が目の前にある。
 それは彼女が使える主、治のことである。
 ごめんね。私はまだやることがあるのだよ。
 初めてあった日、そう言った彼女はその数日後に福沢の元に嫁いだ。気まぐれのように従者にした鏡花を連れてだ。報復を恐れる彼女に大丈夫だよと甘い言葉をささやいて仲間に引きずり込んだ彼女がこの家で何をするのかと思っていれば何もすることはなかった。
 女たちはみんなこの家の主の寵愛を求め、日夜貶しあい引っ張り合っていたがそれに参加すらせずただ与えられた部屋でぼうとしていた。
 現主は大変変わり者で婚姻の話が来れば断ることなく受けるが、その後は誰か一人の元に通うと言う事はしないらしい。その日一番早く褥に誘った者を抱くそうだが、何もしない、鏡花にも何も求めない彼女が抱かれたことは未だ一度もない。
 顔を合わせたのも結婚した時だけだろう。
 この家の食事は大広間で主とともに取ることもできるが、望むものは自室で一人食べることも許されている。他の妻たちは少しでも自分をよく見てもらおうと主と食べることを選ぶが、彼女は一人自室で食べる。食事はもちろん鏡花が運ぶのでそれで部屋の外にでることはなく、そしてそれ以外でも彼女が外にでることはなかった。
 部屋にこもった彼女が会うのは鏡花か、鏡花がこの家に来て仲良くなった馬屋番の敦、それか行商人ぐらいだった。
 この行商人に会うのにも変わったことがある。福沢の家の妻たちは毎月決まった額が主から与えられる。それはそこらの町人たちが汗水流し何か月も働いてやっと手に入るような額。噂では寵姫となったものや、子を産んだものにはもっと多く与えられるらしいが今の所はそのような人は一人もおらず知る者はいなかった。
 それを妻たちは自分が着飾る為に使うのだが、彼女はそうしないのだ。ではどうするかというといつかここから出ていくときお金はたくさん持っていた方がいいからね。でも金貨だと取られてしまうかもしれないだろう。それならば装飾品に変えておいた方がいい。主からもらった大切な品だと言えばここの主人は優しいから奪い取ったりしないよとそんな事を言いながらすべて鏡花が使うものに変えてしまうのだ。
 この子に似合う衣を。この子に似合う簪を。腕輪。耳飾り、首飾り、靴、扇と行商人に頼み鏡花の為のものを集める。鏡花が着ている部屋付の衣装もこの家は部屋付も好きに装って言いそうだからいいものを着ようねと毎月新しいものを新しいデザインで用意する。
 私には何も必要ないからと自分のために使ったことはなく、着た当初持ってきていたわずかな服を着こなしている。正直今やどちらが主でどちらが部屋付なのか分からないほどになってきていて、時折遣いで母屋に行くと妻の一人に間違えられることがある。
 きっと彼女が母屋に行けば召使に間違えられるのだろう。
 ここに嫁ぐものの多くは福沢の持つ財産や権力を期待してのことだと言うのに彼女にはそれがなかった。
 それどころか生きる欲すら持ってなかった。
 彼女は毎日鏡花の髪を漉き、鏡花に服を着せるが、数か月前から誰にも会わないからと自分の服を着替えることを辞めている。そしてどうせ何もしないからと食べる量も少なくなっていて、これが望みだからと明らかに栄養不足で細ってきた現在は主に告げることも医者を呼ぶことも禁じていた。
 ここで、あの人の近くで朽ちていく。長年思い続けた人の傍で死ねる。これほどの喜びがあるだろうか。私はこの為だけにずっと生きてきたのだ。
 部屋についた小さな窓から主が住む母屋の方を眺めてある日彼女が呟いた言葉。
 その言葉を聞いて鏡花はやっと彼女の望みを理解したけどそれはさらに教会を混乱させるだけであった。
 苦しいことはいっぱいあった。辛いことも悲しい事も。それでも鏡花は死ねなかった。死ぬのが怖くて、生きていたいと思ってしまった。君の人生今より少しは良くしてあげよう。君がしたくないことをしなくていいよう。したい事をしていけるようにしてあげる。そう言って笑った彼女を見た時、その手に縋ってしまったぐらいには生きることにまだ執着していた。
 だから生きることに執着がない彼女が理解できずにいるのだ。
 彼女は大変な変わり者であった。



 そんな彼女は恐らくもう時期死ぬ。
 最初は数口程度食べなくなっただけの料理にほとんど手をつけなくなった。ここ数日は雀の涙しか食べなくなって、二日前からは何も食べてない。猫の額よりも食べなくなったころから手ずから私だと食べきれないからと言って無理矢理食べさせていた敦にも鏡花に余りをもっていかせるようになって、鏡花以外とは誰とも会っていない。食べなくなる何日か前には遺書を書いていた。
 君ならうまくやれるよなんて言いながら本当のことを少し混ぜた嘘のことが書かれた遺書。この家と自分の家の恨み言が書かれた遺書は彼女の内面は全部まがい物だった。
 一日前に毎日見ていた窓の外、母屋のある方角を見なくなった。起き上がることもできないのだ。鏡花の髪を漉くこともなくなったけど、まだ支度の最後簪を挿してくれる。
 いいかい。いくつかのものはこの家を出た後、あの福沢の十三番目の妻が身に着けていたものだって言って売るのだよ。全部は駄目。ほんの数品程度。でもきっとすごい噂になっているからそれだけで面白半分高値で買ってくれる愚か者も出てくるからと何度か繰り返し言葉にしている。その他にも死んだあとどうすればいいのかを事細かに伝え、文にもしてくれていた。誰にも見つからないようにとそれは鏡花の靴の中に縫い付けられている。
 彼女の死期はとても近いのだ。
 ようやくだと彼女は晴れやかな顔で笑う。満たされたその笑みを鏡花は見つめる。彼女の歓びを無に帰すのは、彼女に救われた鏡花がすべきことではないのだろう。
 それでも鏡花は主である彼女が死ぬのが嫌で、どうすればいいのかずっと考えていた。そしてその答えを鏡花はちゃんと知っていた。
 だから鏡花はもう彼女が目を開けていることすらできなくなってきた今、部屋を抜け出して、早朝から母屋の中人を待っていた。
 待ち人は早い時間に共を一人連れて鏡花が潜む廊下を歩いてきた。遠目で少しだけ見たその人が本当にその人なのか少しだけ怯えながら声をかけた。朝日を受けきらきらと輝いていた銀が揺れた。
 誰だと待ち人が鏡花を見、供の男がすかさず鏡花と待ち人の間に身を割り込んでいた。警戒した目で見つめてくる。
 部屋付は部屋の主と共にいることが多いから、一日数回、下手をすると膳を受け取るためにしか外にでない鏡花を知らない者はこの家には多い。供の者は知らなかったのだろう。
 だけど待ち人の方は見覚えはあるのかいいと供に声を掛けていた。部屋付のものだと彼がいうと供は驚いていた。それもそうだろう。部屋付とは思えないほど豪華に着飾っている自覚はある。だからこそ供は警戒もしたのだろう。
「何故部屋付がここに。旦那様へのお目通りであればまだ早い。決めら」
「お願いです。今日は何が何でも私の主の所に来てください。そうでなければ駄目なのです。お願いです」
 供の言葉を遮って鏡花は膝をついていた。
 鏡花は知っている。鏡花の主は丸め込むのがうまい。言葉を生き物のように扱って人の心を簡単に掌握する。だから医者に見せたところで彼女はその医者を丸め込んでしまうかもしれない。他の人だって同じ。
 でもそれでももしかしたら彼女が特別に思う彼ならば、
 この福沢の主人であれば何かを変えられるかもしれない。
 だから鏡花は縋った。
 供が貴様何を考えてと怒鳴るが、待てと主が止めていた。
「貴殿の主は」
「はい。十三番目の妻でございます」
 どくどくと鼓動が激しくなる。お願いだと願う。
「そうか。それでは今夜向かおう」


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