「すまない。また待たせてしまったな」
 どきりと太宰の胸が音を立てて跳ね上がった。眉を寄せて困ったように頭を下げてくる姿を見てドキドキといたいぐらいに胸は高鳴る。大丈夫ですと言う声は震えていた。寒いだろうと冷えた体に羽織がかけられ、首筋にはマフラーが優しくまかれていく。どちらもまだ暖かい感覚がして、太宰の胸はぎゅうと搾り上げられていた。
 それでは行こうかと目の前に差し出される手を一も二もなく取っていく。強く握りしめれば、冷たいなと言って太宰よりも強い力で握りしめられる。変な声が出そうになって太宰は慌てて歯を強く感じた。どうしたと銀灰の目が見降ろしてくるから何でもないですよとそう言って笑った。
 ぎゅっと太宰の手を握って福沢が前へ進んでいく。
 今日は十三回目のデートの日だった。止めなくてはと思っている筈なのだが、やっぱりやめることはできずデートを重ねてしまっていた。重ねるごとに距離が縮まっている気がするのは気のせいではないだろう。今日はこれから福沢の家に行くことになっていた。
 どうしてそんなことになったのかというと、前回のデートの時、本当は外にでるのは苦手で人が多くいると休まらないなんてことを太宰が話したからだった。外に出かけるのが負担になっているなら次からは私の家で過ごそうかと福沢が言ってくれたのだった。 
 ほんの少し、ほんの少しだけその言葉を期待して、本当はそれならば会うのは今日で終わりにしようかと言われるのを待っていた太宰はその時どう反応していいのか分からずに固まってしまっていた。後からそのことに気付いた福沢が嫌だったか。すまぬ。調子に乗りすぎてしまったと謝る。その時によせば良かったのに、太宰はそんな事ありません。嬉しくてとそんなことまで言ってしまっておかげで今回福沢の家に行くことが確定してしまっていた。
 歩きながら福沢が太宰に話しかけてくる。
 とてもたわいもない話で相槌を打ちながら歩く。福沢と言えばそんなに話すタイプにも見えないが、こうしてデートを重ねるうちに彼の方から話題を振ってくれるようになっていた。一度太宰が話題が思い浮かばなくなり、どうしてよいのか分からなくなったのがきっかけのような感じだった。太宰が困らないように福沢からも話してくれてそれが余計に太宰の心を騒がせた。
 福沢が話してくれているだけでそのことを思い出しては胸が喜びで騒ぐ。叫び出したくなるのを抑えながら二人歩いて福沢の家にまで向かった。
 近くで待ち合わせをしていたこともあってそう時間はかからずに家についていた。ここが私の家だ。入れと福沢に招かれる。
 いつだったか探偵社の宴会の時に福沢の家にはお邪魔したことがあった。が、その時とは比でないぐらいに緊張して、その時のことが何も出てこなかった。
 玄関に入ってどうしたらいいのかと福沢を見てしまう。福沢はくすりと微笑むと太宰に向けてその手を差し出していた。
 おいでと低い声が優しく告げる。太宰は気付けば親についていく小鳥のようにその手を取ってしまっていた。ぎゅっと熱い手が太宰の手を握り締めて奥の部屋まで誘う。誘われるままに太宰はついて歩いていた。居間まで案内されて敷かれた座布団の上に座るよう促される。
 座った太宰の隣には福沢もまた座っていた。
 何をしようかと福沢が微笑みかけてくる。探偵社では見かけることのない気の抜けた優しい笑みだ。向けられることのない笑みを向けられて太宰の胸が嫌な音を立てる。好きと縁のないと思っていた言葉が出ていて太宰は顔を手で覆いそうになった。それをこらえて太宰は何でもとそう答えていた。
「こうしているだけでも十分楽しいですから」
「疲れているだろうし、ゆっくりと過ごしてくれ。なんなら寝てくれてもいい。枕でも出そうか」
「そこまでは良いんですが、でもすごく魅力的ですね」
 福沢の声はとても穏やかに太宰へ向けられている。腹の底からむずむずとしてくるものを感じながら太宰もまた穏やかに笑って返した。福沢が目元を細めて太宰に手を伸ばす。大きな福沢の手は太宰の頭に触れて、そして優しく撫でてきていた。ふわふわと触れては離れていく。少し離れたかと思えばまた撫でてきて、太宰に優しい目を向けている。
 隣に座る福沢は今の太宰には少し大きく見える。女体化してこじんまりとしてしまった太宰の体を福沢が引き寄せてそっとその頭を自分の胸元に引き寄せていた。少し近いんじゃないかと思えるような距離感。
 ドキドキと太宰の胸は高鳴る。
 何回ものデートの間、弱さを演出して庇護すべきものと福沢の中へ刷り込んで手に入れた距離は暖かく太宰にとって何にも代えがたいものになっていた。ぽんぽんと福沢の手が頭を撫でて温もりをくれる。
 ちょっとだけ目を閉じてもいいですかと太宰はそう口にしてしまっていた。ふっと口角を柔らかく上げた福沢はああと優しく答えて太宰の頭をなでる手を少しだけ弱めた。眠くなったら眠れとまで囁いてそんな手で触れてくる。抗いがたい眠気を感じながらも太宰はそれは嫌だと眠気に打ち勝とうとしていた。
 目は閉じているものの色んなことを考えていく。少し気になっている組織のことだったり、探偵社に因縁をつけてきている政治家のことだったり、思考を回して少しでも眠気を飛ばそうとするけど、福沢がそんな太宰を咎めるように頭を撫でては瞼に大きな手で触れてくる。もともと冷え性なのもあるが、女体化するようになってからと云うもの余計に冷え性になった気がする体では福沢の手は暖かく心地よかった。どうしようもない眠気に抗えなくなって太宰は眠ってしまっていた。


 目を開けると福沢の微笑みが飛び込んできた。
 よく眠ったかと福沢は優しく太宰に問いかけてくる。太宰は起きたことも理解しきれない頭で頷いていた。ふわふわと福沢の手が撫でていき、それからゆっくりと力の抜けた体を畳の上に横たえていく。頭の部分には座布団が差し込まれていた。福沢が先ほどまで使っていた者なのか暖かくてそれだけでまた眠気が襲ってくる。
 立ち上がった福沢は昼食の支度をしてくる。と言って厨に向かう。手伝わなければと太宰の頭に言葉は浮かんだものの何処かに浮かんでいるようにふわふわしている体では動くことができなかった。
 最近は福沢といるとこんな時が多かった。
 甘やかされるのに慣れてしまって福沢のやさしさに触れるとふわふわしてそれだけで蕩けてしまう。体が甘やかされていいもの。大丈夫なものと判断してしまっていた。
 ことことと福沢が何かを準備している音が聞こえてくる。その音を聞きながら太宰は目を閉じていた。準備ができたら起こしてくれるだろう。
 そう思うと自分から動く気持ちもなくなっていた。
 目を閉じてただただ暖かいぬくもりを甘受する。
 福沢の家にはエアコンなんてもの見当たらなくて、暖房器具も別段いいものが使われているようにも見えないのに、太宰の部屋どころか探偵社よりも暖かいようなそんな錯覚を起こさせた。


「もう日が暮れてきたな。帰った方がいいかもしれぬが」
 電気のまだつけていない部屋。手元すらも見えなくなってきたころようよう福沢がそう口にしていた。その言葉を聞いて福沢の胸元に頭を寄せていた太宰はのそりと顔だけで福沢を見上げていた。
 まだ帰りたくなどはなかった。もう少し、むしろずっとここに居たい。そう思ってしまうがそうも言ってられないのが現実だった。
「泊っていくか」
 福沢が優しく聞いてくれる。だけど太宰はゆっくりと首を振っていた。福沢も太宰も明日は仕事だ。別れた後、少し時間を置いてから行けば多少のごまかしは聞くだろうが、、ずっと一緒にいた後にまた会うのではぼろが出る可能性は高かった。
 自分が太宰治であるなんて事実は何が起きても言えるはずがないのだから。ばれることだけは隠さなくてはいけない。だから太宰はゆっくりと起き上がってもう帰りますと微笑んでいた。
 そうかと言う福沢が少しだけ悲しそうだった気がする。
 そうであったらいいと祈りながら太宰は帰る支度を整えていく。




 太宰と福沢が不思議そうに首を傾けたのは何気ない日常のさなかであった。
 書類を受け取ろうとした福沢の手が止まり、太宰をじっと見つめてくる。突然のことであるがとんでもないことをやらかしている自覚のある太宰はそれだけで肩をはねさせ驚いていた。
 口元が引きつってしまいながら福沢を見る。なんとか頬笑みを浮かべてどうしましたと問いかけた。福沢はじっと太宰を見てそれからふっと口元を上げている。
「否、すまないな。知り合いと同じ匂いがしたもので少し気になってな。
 いい匂いだが、香水か何かを使っているのか」
 かけられた言葉に太宰の目は丸く見開いていた。えっと出ていく声。思わず手首を嗅いでから太宰は一度動きを止めていた。甘い匂いが手首からはした。甘いがすっとしていて、ふわりと鼻に届くが次の瞬間には抜けていくようなそんな香。そうでありながら記憶に残るようなはっきりとした甘さも持っている。それは太宰がいつも潜入するときに使っているものとは違う女性となって福沢に会いに行く時だけ使っている専用のものだった。
 独特なにおいで似ったようなにおいは少ない。太宰がこれを買った店でしか売っておらずそれなりに記憶に残る。女の子として福沢に会いに行くと決めた時、福沢は動物的感覚の鋭い人だから匂いも変えた方がいいだろうといろいろ考えた末に選んだものだ。
 福沢はすっきりとしたものの方がすきそうだから、何処かすっきりとした感じのものを選びつつ、甘えたいと言うその望みを考えると子どものような印象を持たせた方がいい。それなら匂いもある程度甘さがあった方がいいだろうと、その両方が備わったものを探してやっと見つけた香水。
 福沢と会う時だけ付けるはずだったが、最近の太宰は恐ろしく忙しく寝不足で朝は帽としていたために本来つける予定だったものと間違えてつけてきてしまったようだった。
 やってしまったと思いつつも太宰はそうみたいですねと言っていた。
「恐らく出社する前に可憐な女性に声をかけたのでその時手についていたのがついてしまったのでしょう。
 中中ない香りですが社長がこの匂いの方と知り合いとは意外ですね
……社長どうしました」
 嘘八百を並び立てていた太宰の首がふっと傾いていた。その額からは汗が一筋流れ落ちていく、暑いなんてことはない。今は冬であり、社長室には暖房がかかっているが、福沢が苦手なこともあってほんの少し暖かい程度だ。それなのに何故汗が流れたのか。そんなのは簡単なことで福沢の空気が何故かとてつもなく恐ろしいものになっているのだった。一言でも何か話せばやられるんじゃないか。そう思ってしまうぐらいに冷えたもので気づいた太宰は福沢の名前を呼ぶことさえ戸惑ってしまった。突然どうしてと福沢を見降ろす。7
 呼ばれた福沢ははっとして太宰を見、さっとその瞳をそらしていた。よそを見る目は何かを驚いているような様子がある。太宰の首がさらに傾いてしまった。どうしたんですと問いかける。福沢は凄い勢いで首を振っていた。何でもないと言う。
「何でもないのだが、太宰、その声をかけた女性というのはどんな女性だったのだ」
「どんなって……あーー茶髪で癖毛の可愛らしいタイプの女性でしたよ。白い手が魅力的でした」
 戸惑いながらも答えないのも変かと太宰は答えていたが、その途中か福沢の様子がまた恐ろしいものに変わっていて、太宰は息をのみこんでいた。
 どうしてだと首を傾けてしまいながらじっと福沢を見る。あの社長と声をかければ再び福沢は元に戻っており、太宰から目をそらしながら壁を睨んでいた。あーーそのと躊躇った声が福沢からでていく。
「あまり不必要に女性に声をかけるものではないぞ今後はそのようなことはしないようねい」
 はあと太宰からは間抜けな声が出ていく。呆れられているのは分かっていたが、福沢から直接このようなことを言われたのは今回が初めてであった。何故と首を傾けてしまいそうなところそれよりと福沢が強引に話を変えてしまっていた。
「先ほど私がこの匂いの女性と知り合いなのは意外だと言っていたがあれはどういうことだ」
「ああ、だって少々幼い感じがするでしょう、この匂い。社長が女性と言えば妙齢の方が多くてもう少し落ち着いた匂いを好みそうですので」
「なるほどな。言われてみれば確かにそうかもしれないが……」
 突然の転換についていけなくなりながらもなんとか答えた太宰。福沢はその話を聞いて納得していたが、ふっとその口角を上げて柔らかく微笑んでいた。
「でもこの匂いは悪くないと思うがな。寧ろ好ましいな」
 いつになく優しい声だった。
 穏やかで慈愛に満ちているような落ち着いた声。細められた目も柔らかく口元には滅多にない笑みが浮かんでいる。どきりと太宰の胸が嫌な音をたてた。どくどくと脈打つ。とても柔らかで優しい顔は乱歩や与謝野と話している時ですら見ないほどのものだった。
 社長と先ほどまでと違う意味で震えた唇で名前を紡げば、はっと顔を上げた福沢はほのかに頬を赤らめてから何でもないとそう答えていた。えっとと戸惑った声がまた太宰から出てしまう。
「その知り合いの女性というの好きなんですか、なんて」
 どくどくと煩い音を消そうととんでもないことを太宰は言ってしまっていた。煩い胸の音に頭がばかになってしまったのだ。
 でも今の反応は。否、そんなわけないと必死で音を掻き消そうとする中、福沢の銀灰の目は大きくなって太宰を映して、そして数秒固まった後、周り出していた、みるみるうちに福沢の頬が赤くなっていく。
 ぽっかんと小さく開いた口、丸くなった目。
 それだけしか表情の変化はないのに頬だけはやたらと赤くなって、耳まで赤くなっていた。固く口を閉ざして福沢が俯く。机の上を睨んだかと思えば目を閉じて、開けた後福沢は秘密にしてくれとか細い声で紡いでいた。
 叫び出さなかったことを誰かほめてくれ。太宰は本気でそう思った。



その日の夜、やっとこそさ家に帰りついて寝ようとした太宰は昼間のことを思い出しては値付けずについには立ち上がって風呂場で水を被っていた。女の姿に変化したのに、もう一度太宰は水を被る。
 すると女の姿から猫の姿へと太宰は変化していた。
 みゃあと太宰の口から猫の鳴き声が出ていく。
 そして変化した太宰はするりと部屋から抜け出すと夜の街を走り出したのだった。


 みゃあーみゃあーー
太宰は何度か声を上げた。お願いしますと祈るような気持ちだった。そしたらその気持ちが通じたのかガタリと音がして目の前のガラス戸が開いた。月の光を受けた銀の輝きが上から降ってくる。
「こんな夜更けにどうした?」
 少し眠たげな声が聞こえる。その声の主は福沢であった。福沢が猫となった太宰を見降ろしておぬしはと声を上げる。しゃがみ込みながら福沢の手が太宰に伸びて太宰の体を撫でていく。
「いつもの子猫か。いつの間に私の家を知っていたんだ」
 撫でていく手はさすが猫好きというのか気持ちがいいものだ。だけど福沢はどういう訳かその辺の猫には恐れられているので嫌がりもせず撫でさせてくれる太宰を普段猫を見る目よりもさらに嬉しげに見てはたくさん撫でてくる。
 みゃあと太宰からは喜びの声が出ていた。

 呪泉卿
 太宰が落ちた恐ろしい泉のあった修行地にはそれはもう無数の似たような呪いの泉があった。その中の一つにあった猫呪泉に太宰は自分の意思で落ちたのだった。
 理由は単純明快で福沢に甘えるのがうまくいくか分からないから、もしもの時は猫として甘えようと考えたからだ。
 そして女の姿で見事甘えることには成功したが、猫の姿を活用しないのももったいないと太宰は猫の姿でも福沢に会いに来ているのだった。
みゃあみゃあと福沢の手にじゃれついてく。福沢は優しく撫でる。
 そうされながら太宰は昼間のことをまた思い出していた。言わないでくれと真っ赤にして告げた福沢。その前のいい匂いだと言った福沢のとても優しい顔。ぱっと見た時それらは恋をしている人々の姿に重なって。今思えば太宰が女性の話をした時のあの恐ろしい表情もまた嫉妬に狂っている者たちの顔によく似ていた。
 それらをおもいだしながら太宰は福沢の腕の中でなく。

 好き。好き。好き。好き
 
 その言葉が太宰の体の中で渦巻いていた。
 この人が私の事を好き。私に恋している。
 こんな素晴らしいことが他にあるのだろうか。この人は私のものだ


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