「あーー、本当随分な所に逃げ込んでくれたねぇ」
 怒りなのか呆れなのか自分ですら分からない言葉が男からでた。ボタボタと垂れていく雫。重たく張り付く衣服。濡れた肢体を見下ろした男は深いため息をつく。
「あーー、どうしようか、これ」
 彼の視界の中には濡れた白いシャツが張り付き肌色を覗かせる巨大な肉の塊。何となく下から持ち上げたそれはふにゅりと柔らかに形を変える。手にはずっしりとした感触が伝わりもにもにと触れると確かな弾力を感じる。
 これが何か理解したくないと思いながらも男、彼は理解していた。自分が触っているのが胸であると。自分の胸元から生えた胸であると。
 男であるはずの彼から胸が生えていた。
 ああーーという声がするのを男は色のない目で見つめる。何処からかやって来たのか小太りの男が一人。
「お客さん娘溺泉に落ちてしまたのか! 
 娘溺泉は千五百年前若い娘が溺れたという悲劇的伝説があるのだよ。以来ここで溺れたもの皆、若い娘の姿になてしまう呪い的泉!」
 妙に説明的な声を聞きながらへぇーー、そのうなのと感情のこもらない声を男は落とす。
「伝説の修行場呪泉郷ヤバイところだとは聞いていたけどまさかこんなヤバさだったとはね。ああーー、もう帰りたい。まともに仕事したりなんてしなければ良かった」
「仕事? 何の話あるか?」
「あーー、こっちの話。気にしないで。それよりここの泉って全部こんな感じなの」
「そうあるね。全部そうよ。熊猫や家鴨、豚、子供、蛸、蛙、善人や温厚になたりするもあるよ。ああ、猫とかもあるね」
「猫?」
 聞いたはいいが半分以上は聞いてなかった男の言葉の一人に太宰はぴくりと反応した。ふっと何かを考え込むように顎に手を当てる。そして顔をあげた彼はにんまりと笑った。

「ねえ、その猫の泉って何処にあるの」
 



「なあ、いいだろ。姉ちゃんよ。ちょっとお茶するだけだからよ。ほら、ほら怖いことしねえって」
「そうそう。だからさ、ほらな」
「嫌です。離して」
「良いから良いから。なあ、」
「嫌だってば!」

 横濱の街中、男女の揉め声が響く。嫌がる女を強引に連れていこうとする男たち。助けを求めるように嫌だと口にする女性。周りには多くの人がいながら誰も助けようとはしていなかった。男二人が女を抑え込む。一際大きな悲鳴をあげようとした女の口許には男の一人が手をあてて声を抑えた。道行く人誰もが連れていかれるそう思ったときだった。

「止めろ。嫌がっておるの分からんのか」

 男女三人の間に別の声が割って入った。低いその声の主は銀髪の壮年で女を抑えている男の腕を掴んでいた。

「はあい、何だよ。おっさん。勝手に入ってくんなよ。俺達は仲良くしようってだけなんだからさ。なあ」
「ああ、そうだ。その女が一人で寂しそうだからつきあってやろうかってだけなんだ」

 ちがう、そんなんじゃないと女が言おうとしたが口を抑えていた手はまだそのままで音を奪う。だからよと男たちが口にしようとしたとき男の一人から悲鳴が上がった。

「痛い!いたい!いたぁいいいい!!」

 壮年の男に腕を捕まれた方の男がのたうち回る。

「止めろと言ったのだ。これ以上するようならこの腕へし折っても良いのだぞ」
「ひいぃ! やめ、やめっ!やめるからやめてくれ」

 情けなく男は懇願し手が離された瞬間に逃げていく。もう一人の男は訳が分からず目を白黒させていたが壮年の男が一睨みすればこれまた情けない悲鳴をあげて去っていた。後には壮年の男と女だけが残る。

「大丈夫だったか」
「はい……。あの、ありがとうございます!貴方が居なかったら私。そうだ是非お礼をさせてください。あ、そうだよかったら一緒にお茶とかはいかがですか」
「いや、礼が欲しくてしたわけでもない。気にしないでくれ」
 壮年の男が無事を確認すれば大人しいタイプに見えた女がキラキラとさせた目で詰め寄ってきます。駄目だからと壮年の男は口にしています。目についたから助けただけでこれと言った思いは何度も告げるのだがそれでもと相手は詰め寄ってきて壮年の男もついには断りきることができませんでした。
「それでも私には一生事のように嬉しいことだったのです。だから是非お礼をさせてください。ここでしなければ今後ずっと後悔してしまいます」
 最後の一押しを決めたのはこの言葉だった。涙さえ滲ませながら言われるのにはどうしても駄目だといいきれなかったのだ。女が嬉しそうに笑い此方にいいお店がありますのと前を歩いていく。その後ろを壮年の男がついていく。銀色の髪が日の光を受けて輝く。武装探偵社社長福沢諭吉。
 その男の前を歩く女は口元ににんまりと笑みを浮かべていた。セピア色の目が妖しく光る。自らが勤める社の長を罠にかけた今は女の男。太宰治は機嫌よく歩を進めた。



  2

 ねえ、良ければまたお会いしましょうと言い、断る相手に無理矢理約束を押し付けた日から3ヶ月。太宰は約束した場所に来ていた。化粧をしかつらを被り自分だとは気付かれないよう変身した太宰は福沢がやって来るのをまちながらどうしようかと考える。今日こそ言わねばならぬと思いながらも言いたくないとも思い悩んだ。
福沢との逢瀬を重ねること8回ほど。水を被り女の姿になってでかける太宰は未だ福沢に自分の正体を教えていなかった。


 ことの始まりは横濱で立て続けに起こった窃盗事件。その犯人がとある官僚の家に盗みに入った際、お金や宝石以外に何やら大事な書類まで盗み出したらしく探偵社に依頼が舞い込んできた。窃盗犯を追い掛けているとその相手が中国にまで逃げてしまう。それを追い中国まで行くことに。他の依頼も山ほどあ。人数をさける状況でもなかったため太宰が一人で追い掛けた。窃盗犯が逃げ込んだのは呪泉郷と呼ばれる観光地。恐ろしい場所だと噂だけで聞いていた太宰は窃盗犯を追い掛ける途中、泉に突き落とされた事でその恐ろしさの理由を知った。そこにある無数の泉はすべて呪われており落ちれば何かに変身してしまうようになるのだ。

 こんな話をしても殆どのものが何を馬鹿なというだろう。太宰も自分が実際に体験しなければ言っていたと思う。だが悲しいかな。太宰は泉に落ち水を被れば女になってしまうようになったのだ。愕然と自分の体を見下ろしていた太宰はだがそこに現れた観光案内人の言葉でふっと思い付いたのだ。これは使えるのではないかと。

 太宰は窃盗犯を捕まえ物も取り戻したあと意気揚々と探偵社に戻った。呪いにかかったとは思えないほどに上機嫌だった。
 そして呪いのことは誰にも告げず、太宰は女の姿で福沢の前に現れた。
 福沢が散歩で赴くであろう場所に先回りし、彼が無視できぬよう絡まれる。金でキャストは用意していた。が、作戦実行前に妙な輩に絡まれたのは計画外で焦った。まあ、そのお陰でより自然に近付くことが出来たのであれで良かったのだと今は思っている。金は無駄になってしまったけど。そうやって福沢に近付きお礼だと称してお茶に誘い別れるときに無理矢理約束を押し付けた。来ないかもと思いながらも行けば律儀に福沢は来て、帰り間際にはまた約束を押し付けるそんなことをずっと繰り返した。
 なぜそんな面倒なことをするのか。その理由は実に単純で太宰は福沢に甘えてみたかったのだ。
 初めに福沢を見たときの感想は強い男。腕は勿論のことその精神も含めてそう評した。毅然とした姿で探偵社を纏めあげる凄い人。人を守る正義の者としてありながらも柔軟さも備えている。良い人のもとで働けそうだ。
 それが最初の感想。
 その評価は変わりだした、というよりその評価に他のものが付け足されるようになったのは数年してからのことだった。それまでも何となく思いながらどうでもいいものとして処理していたものに目が行くようになった。
 乱歩さんや鏡花ちゃんの頭を撫でる手。何かあれば親身になって社員の話を聞く。無表情で表情筋が凍っているのではないかと思えるような 人でありながら、時に社員を見つめる目が柔らかに細められる。
 そんな福沢の姿を一人遠くから眺めながら太宰はまるで親のようだなと思った。
 決して言葉多くもなく分かりにくくあるが社員を褒める姿は父親のようであるし、何かと生活面で問題のある社員特に調査員達の心配をし面倒を見る姿は母親のようでもあった。
 見つめているうちに次第に良いなと思うようになった。私もみんなのように社長に子供扱いとはまた違うと思うがそんな扱いを受けてみたいと。
 だが直ぐに太宰は無理だなと判断を下す。
 そう云った扱いを受けるような者でないことは何より太宰自身が分かっていた。わりと問題児でこそあるもののやるとなった仕事は完璧にこなすし、私生活の部分は誰にも入らせたことがない。落ち込むような性格もしていない。残念だと思いながらもまあ仕方ないと太宰は諦めた。
 遠くからみんな姿を見ていると羨ましくなることもあったが無理なものは無理なのだと諦めていた。
 そんな中で女になった自分を見てこれはいけるんじゃないかと太宰は考えた。みんなと同じ扱いと言うのは無理だろうが上手くいけば福沢に甘えることが出来るのではないかと。
 そして作戦を決行した。作戦は成功。二回目でちょっとした相談事をしたら親身に聞いてもらい、五回目では頭を撫でてもらえた。六回目ではだいぶ片寄った食生活なのをばらして心配してもらい。その日の夜は福沢と外で食べた。七回目も福沢と共に。昼も食べてないのではないかとおにぎりを作ってきてくれてもいた。福沢の手作りのそれを喜んで食べた。八回目も福沢おにぎりを作ってきてくれ今度は少しだがおかずもついていた。夜も二人で食べて……予想していたのよりずっと甘やかされ面倒を見てもらった。


 そして九回目の今日。太宰はため息を落としどうしようと考えるもういっそのこと福沢がくるまえに帰ってしまおうかとすら考えた。
 最初の数回はただ純粋に状況を楽しめたのだが、今はそれができなくなっていた。騙す罪悪感からとかではなく、予想よりも優しくしてもらうことが気持ちのいいものであったからだ。心配され頭を撫でられ世話を焼かれる。太宰があまりされてこなかったそれらは太宰が思っていたよりずっと彼の心を揺さぶった。もっとされたいと思ったようになるだけ驚きなのに、さらに驚いたのは太宰が抱き始めたある感情だった。
 もんもんと悩みながらも太宰の胸はドキドキと音を鳴らしていて……。うぅと唸った所で太宰の口からあっと音が漏れた。待ち人を見つけて一気に鼓動が早くなる。目があったのにそれだけで赤くなりそうな顔を服の上から皮膚に爪を突き立てることで抑えて不自然にならないよう深呼吸をする。早足でやって来るのに歪みそうな口許を完璧な笑みの形にする。
「待ったか」
「待っていませんよ」
 大丈夫ですと答えながらその実太宰の心のなかはちっとも大丈夫じゃなかった。尋常でないほど荒ぶり喜んでいた。太宰が待つこと五分。約束の時間からは一時間半も前に福沢はやって来ていた。一回目の時は五分前だった。五分前に福沢がやって来た時にはすでに太宰がいて、待たせては悪いと思ったのだろう。二回目は十五分前。それでも太宰はいてお約束の用にナンパ目的の男に絡まれていた。初めてあった時のやからのように強引なやつらで多分これが一番の原因だと太宰は考えてる。それ以降福沢は前の時よりも必ず早めにつくようになりだけど太宰はその前につき福沢を待っている。
 駆け足に自分のもとに来る姿や決して悪くないのに気まずそうな顔ですまぬと謝る姿、後冬の時期であるから少し薄着で待つ太宰に冷えただろうとマフラーや羽織を差し出してくる姿がとてつもないほど気にいってしまったためだ。悪いと思いながらも早めに来るのを止められない。どうも女の太宰は太宰が思うより見た目が言いようで時々ナンパされるのもいい。助けてくれる姿は出来るならビデオで撮って何度でも見返したいと思う。早くなっていくこと事態も大切にされているようで気に入っている。
「行こうか」
 はいと歩き出す福沢の少し後ろを歩きながら太宰はほぅと息をはく。俯けばかけてもらったばかりのマフラーに口許がうまり、うぅと唸った。誰にも聞こえない小さな声で福沢さんの匂いがすると呟く。


 始まりは好奇心だった。優しくされてみたいという好奇心。ちょっとだけ甘えてみたいという太宰らしからぬ思いからで直ぐにやめるつもりだったのに。
 それなのに、太宰は恋をしてしまっていた。
 会社の上司、それも社長。太宰が元に戻れば同じ性別の男を好きになってしまっていた。

 止めなければ。これ以上深みに嵌まる前に会うのをやめてなかったことにしなければと思うのに……。
 前を行く福沢を見つめれば振り返る。その姿にも太宰は呆けたように息を吐いた。



 駄目。格好良い……。こんなの止めれるわけないじゃない




 やめなければと思うのにそれはもはや手遅れだった


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