「猟犬! 何でここに」
ざわりと探偵社の空気がざわついたの調査が始まってから一か月後のことであった。
 驚いた青の目。見開かれ震える口から声が出ていく。じっと睨みつけ見つめる先にいるのはやってきた異分子。猟犬の福地はそんな目は見ずにきょろきょろと探偵社の中を見渡していた。
「福沢はいるか」
 その口から出ていく声。無視された国木田の頬が引きつる。今すぐ噛みつきそうになりながら、とげとげしい声が国木田から出ていく。
「社長。社長ならば今は留守だが何のようだ」
「ちょっとした依頼を頼みたいんですよ」
「依頼」
 答えたのは福地ではなく彼についてきていた条野である。探偵社の殆どが嫌そうに目元を細めていた。福地はあたりを見渡し、あいているその辺の椅子に座っている。好き勝手している男を今すぐ追い出したいと思いつつ全員の目は条野に向いていた。彼の話を待っている。
「ええ、貴方達も知っているでしょうここ最近の辻斬り事件。そのけんについて福沢諭吉殿のお力をおかりしたいんです」
「社長の? なんでだい」
 眉間にしわを作った与謝野が問いかけた。すぐに嫌な可能性が思い浮かんでどっか、いってくれないかねと言っている。その言葉は無視して福地は椅子の上にふんぞり返ったままだ。
いないのなら、待たせて貰うぞと、言い放っている。国木田の額に青筋が浮かぶ。おいだしてやろうかと与謝野が拳を握った。
 その時、探偵社の扉が開いた。現れたのは話題の福沢である。福沢は社内を見て福地を見つけるとその目を細め、口元を歪めた。
「何の騒ぎだ」
「社長」
 低い声が出ていく。はっとしたように事務員が福沢を呼んだ、与謝野は嫌そうな顔をする
「福沢、帰ったか」
 嬉々として声を上げた福地。こっちに座れと自身が座っている隣の椅子を開けていた。そこは調査に出ていない太宰の椅子である。我が物顔をしていて福沢の眉間にしわが増えた。
「何故貴様がここにいる」
「お前にようがあってな」
「私に……」
 さらに低い声。睨みつけるが福地は気にせずに答えた。福沢の眉間の皴がさらに強くなる、何のようだと聞こうとして開いた口はすぐに閉じて、他に視線が向く。床に落ちて唇を噛みしめた福沢に福地は〇〇という男を知っているなと問いかけていた。
「それが何か」
 目を伏せたまま福沢は聞く。
「やはり気付いているようだな。そいつが辻斬りの犯人だ」
 福地の声に福沢の目元に深いしわができる。ぎゅっと噛みしめられる唇。見開く周りの目。福沢を見てくるのからにげながら福沢は目を一度閉ざしていた。
「気付いてはいなかった。もしやとは思っていたがな。奴の切口に似ていたから」
 福沢から出ていく声。福地が鼻を鳴らした。
「ふん。それで分からんお前ではないだろうが」
「で、私への用事とはなんだ」
「分かっているだろう。あの男が犯人だとなると捕まえられるのはわしかお前しかおらん。手伝え」
 目を下に向けたまま福沢は聞いた。福地の目は真っ直ぐに福沢を見ていた。


 結局福沢は福地やその部下とともに男を捕まえる捕り物に参加することとなってしまっていた。嫌だと言いそうになったが武装探偵社の社長であると言う誇りとは言えないまでも、確かな何かが邪魔をしていた。分かったと口にして、そして言われるままについてきたその場所でまず福地がしてきたのは腕の確認であった。
「お前、腕はどこまで落ちてる」
 じっと見つめて問われる。福沢はぎろりと福地を睨み返していた。ただそれだけのこと。冷たい空気が流れていく。ぞっと背筋を震わせるような何か。近くにいた隊員の何名かが静かにその場からよけていた。
 一番冷たい視線を浴びる福地は肩をすくめて呆れたように首を振る。さすが幼馴染と言うべきなのか圧されている様子は欠片もなかった。
「分かった分かった。言い方を変える。あの男に勝てると思うか」
「……腕が、落ちたとは思っていない。刀を握らなくなっても修練を辞めたことはなかった。だが、奴がこの十数年の間もずっと人を斬り続けて生きてきたのだとすると私よりもずっと強くなっているだろう。奴はただ人を斬るだけで満足する男ではない。より強い相手を何時も求めていた」
 鋭い眼差しが福沢を見つめてくる。息を吐きだした福沢は今度はちゃんと答えていた。その眉間には深い皴が寄っており、眼差しはさらに鋭いものになっていた。淡々と語っていくものの口元は強く噛みしめられており、今にも獣のような息を吐きだしそうであった。
「なるほどな。良く分かっておるな」
 深く福地が頷く。福沢がそんな福地を見た。もの言いたげな目。その目だけでどういうことだと問うてくる。
「実は既に一度彼奴とやりあっておるんじゃ」
「結果は」
 わずかに寄る眉。だが戸惑うことはなくすかさず問う。
「こってんぱんじゃ。なんじゃ彼奴わしらより化け物じゃないか。お陰で部下の殆どが病院よ。異能も厄介じゃしな。おかげでわしも脇腹に一太刀いれられてな」
 そうかと福沢から低い声が出た。そう言えばそうだったなと昔を思い出して眉間にもう一つしわが刻まれていた。険しい顔をして前を見つめる。
 福地も福沢が見つめる場所を見つめた。その場所に二人が狙う男がいる筈である。
「勝てる確率は少ないが。だからと言って負けるわけにはいかんぞ」
「分かっている」
 福地の言葉に福沢は頷く。前を見つめた二人の足がわずかだが動いた。後ろに下がっていた隊員たちが一歩もどってくる。全員が男のいる場所を見つめていた。
「さて、行くとするか」
「ああ」


 男との戦いは逃げ場を奪うために連れていた隊員たちの誰一人動くことができないものであった。男と福地、福沢が切りあうさまを見つめるだけであった。
 激しい戦い。互いに消耗しあいながらもどちらも決め手の一手を打つことはできなかった。無数の切り傷が福地と福沢の二人についた。らちが明かない。そう思った時、男が動いた。
 福地の刃をはじき、福沢の手を掴んで福地の元へ投げた。そして立ち尽くしたままの隊員たちの元に向かって、何人かを切りつけて逃走したのだった。
 逃走した男を福沢たちは離れた場所から追いかけていた。相手から決して気付かれない距離を保ちながら耳のいい条野に追跡を任せていた。
「条野。どうだ。奴は今どっちに向かっている」
「こちらになりますが、良いのですか二人とも怪我の手当てをしなくて」
 福地に問われた条野は答えながら、二人の姿をみた。どちらも深手までは追っていないが、細かい傷が多く、全身が血まみれになっていた。常人であれば動くのもままならそうな姿でそれでも二人は歩を止めることはない。
「ふん。これぐらいへでもないわ。お前は残っていても良いのだぞ。福沢」
「ぬかせ」
 軽口を叩きあいながら進む。口調は軽いが空気には重さが残っていた。


「ここですね」
 暫くしてたどり着いたのは山の中にある小さな小屋であった。人から隠れ住むようないかにもと言えるような場所。
「成る程。ここが奴の拠点か。四方を囲んで取り押さえるか」
「それだけでは無理だろ。何か奴を捕まえるための策を練らねば」
「そうだな」
 小屋を見ながら二人は話し合う。何故今までこの場所が気付かれなかったのか、不思議なほど分かりやすい場所だが、よく見ればその小屋の周りには不自然な痕が見られた。恐らくは発見したものは何人かいただろう。だが誰かにその事を伝える前にやられている。
 男に気付かれないよう息をひそめて話し合う。その最中、条野が何かに気付いて二人を止めていた。
「誰かきます」
 条野の目が小屋から通じる道を見る。まだその場所には何も見えないが条野の耳は何かをとらえているようだった。耳を澄ませるようなそんな様子もなく遠くの音まで聞くその耳は音を把握し、そしてその目元を僅かに顰めていた。
「この音……」
 小さな声が条野から出る。何かあるのかと二人が条野を見た。彼の眼差しが鋭いものになっていた。じっと音が聞こえる方向を睨むのに、二人も同じようにしてその方向を見た。
 やがてやってくる人の姿。
 その姿を見て福沢の目が見開いていた。
「太宰!」
 小さいが鋭い声が名前を呼ぶ。立ち上がりかけたのを抑えながら福沢の目はやってきた男の姿をとらえていた。そこにいるのは間違いなく彼の仲間の太宰であった。
 重い砂色のコートの裾を揺らしながら太宰は男のいる小屋に向かって歩いていく。何かの調査に来た。そんな様子ではなかった。
「どう言うことだ、福沢。奴は何でこんなところに。まさか」
「そんなはずはない。あれはそんなことをするような奴ではない」
 太宰を見ていた眼差しが福沢を見る。剣呑としている声。福沢はすぐさま否定の言葉を返していた。呆然としているがそれは考えるより先に出ていく。太宰の足は迷うことなく小屋に向かい、そして小屋の中へと入っていく。
「元ポートマフィアだろう」
「今は私の社員だ」
 福地と福沢。
 お互い、今にもその腰にある刀を握り締め抜刀しそうな勢いで睨みあった。
「この事件ポートマフィアが一枚噛んでいると噂もあるが。彼奴らだけ誰も襲われていないじゃないか」
 福地の目がちらりと太宰が消えた小屋を見る。福沢の眉間の皴が濃くなった。そちらを見ることなく言葉を紡ぐ。
「ありえん。確かに誰一人襲われてないらしいがそうだとするとやり方が露骨すぎる。こんなことをポートマフィアの首領がするとは思えない。ポートマフィアに疑いを持たせたいがための行動だろう。実際この一ヶ月のうちに奴らを襲った組織が幾つかあったのだろう」
「ええ、四組織ほどに襲われているらしいですよ」
 時折言葉に詰まり、自身の考えをまとめる。何処かにすがる様子があったのに条野が頷いていた。ほっと息が出ていく。だけど福地はそれでは納得はしなかった。
「そう思わせるのが狙いかもしれん」
「源一郎何が言いたい」
 福沢の目は福地を睨む。切りかかるための間合いを取り始めていた。
「彼奴は信用ならん。あの男といる以上敵として斬る」
「私とやる気か」
 二人の手が刀に伸びていく。一触即発。何時きり会ってもおかしくなくなる。ぞっとするような空気が流れる。気おされながら条野が二人に制止をかけた。
「二人とも落ち着いてください。ばれますよ」
 二人の動きが止まった。小屋を見る。小屋の方からは何やら人が話し合う音がしていた。そして小屋の扉が開いて中から人が出てくる。
 でてきたのは蓬髪の頭。
 太宰であった。
福沢の口が開いてその名前を呼んだ。聞き取れないぐらいのかすかな声。じっとその姿を見つめてしまう。太宰はというとその視線には気づかない様子で小屋の中にいるだろう男に向かって何事かを言っていた。そういう事だからとそんな声がかすかに聞こえてくる。
 その声は太宰のいつものものとは少しばかり違っていた。柔らかさがなく冷たい。何かに追われているようなそんなものが見える。福沢の眉が寄った。
 名前を再び呼んでしまう。太宰が気付くことは絶対にない距離だ。
 小屋の中からもう一つの人影が見えた。その人影の手が太宰の手を掴み、そして肩を押す。太宰の体が地面の上に倒れていく。すぐにその上に人影が乗る。
 人影は男であった。
 男はげひた笑みを浮かべて組み敷いた太宰を見降ろし、そして太宰の服に手を伸ばしていた。ボタンを外すこともなく無理矢理に引きちぎっていく。
「こんなところでやるつもりですか」
 獣のような男を太宰は驚くこともなく冷たく見上げていた。抵抗する様子もなくされるがままになりながらも獣めと吐き捨てている。
「どうせ誰もこんなところきやしねえよ。それとも俺に逆らうつもりか」
「……」
 男はその口元を歪にゆがめて太宰を笑った。口を閉ざした太宰は物言わず見上げる。男の手が太宰の服をすべて脱がし、太宰の肌があらわになる。その肌は包帯に覆われているが、男はその包帯もまた破いていた。
 太宰の肌の上、男の手がはい回り、そしてその体を持ち上げては何もせずに己のものを太宰の中、突き立てていた。僅かにだが苦痛の吐息が太宰から出た。だが太宰は平然とした様子で男を受け入れている。
「寄せ、福沢」
 低い制止の声が福地から出た。
 気づけば福沢は刀を抜いて男を切りかかる体勢に入っていた。
「今でていてどうなる。今のわしらでは叶わん。帰って作戦を立ててから」
 冷静な声。福沢とてそれが正しいと分かっている。だけど……。
「ふ、くざわ」
 怒りが収まらず殺気が漏れ出た。福地の目が見開いていた。かすれた声で名前を呼ばれる。はっとして福沢は頬の肉を噛みしめていた。鉄の味が口の中広がっていく。分かっていると抑え込んだ声が出ていく。
 福地の目はまだ驚いて福沢を見ている。
「おまえ、どうしたんだ。いくら社員とは言え」
 問いかけてくる声。黙れと低い声が福沢からでてた。何も聞くなとその一言で伝える。福地は男を見た。思考を入れ替えるが、福沢の目は男ではなく、その下で喘ぐこともなく揺さぶられている太宰だけを見ていた。



 太宰の中に男のものが吐き出されていくのが分かる。
 満足したのか男が離れていく。先ほどまで揺さぶられるだけだった太宰は男が離れたのに息を吐きだして、男を見ていた。その口が動く。
「また余計な相手を殺してきましたね。計画を立てろと言ったのは貴方でしょう。私の計画を壊すようなことをしないでください」
 ぴくりと福地の耳が動いた。男とその下にいる太宰を睨む。太宰は冷たい目をして男を睨んでいるが、男は気にする様子もなく嫌な笑みを浮かべている。
「はぁん。貧相な計画を立てておいて随分ないいようじゃねえか」
「貧相? 私は貴方の願いを叶えるため最高の計画を立てていますが。貴方の辻斬り、そして私が裏でしている情報漏洩。そのすべてポートマフィアが犯人だと思い込み彼らに攻撃を仕掛けようとするもの、彼らを犯人仕立て上げようといるものがいると気付き疑心暗鬼に陥っているもの。この町は今緊張状態にある。後もう少ししたら複数の組織のアジトを爆弾で吹き飛ばします。そしたら戦争の始まりですよ」
 太宰から語られる恐ろしい計画。ぞっと背筋が冷える、福地や条野も肌を震わせて二人を見ている。太宰の目は何もないような黒い色をしていた。男がそんな太宰を見ては鼻で笑う。
「ふん、本当にそうなれば良いんだがな」
「何か」
 男の様子に眉をしかめて太宰は問うていた。男の目が太宰を見降ろす。
「あいつに邪魔されるだなんて計画になかった筈だが」
「ふく、ざわさんに」
 太宰の目が見開いた。男は誰とは言っていない。それでも己の名前を出した太宰に福沢の目は僅かに潜まる。二人の間共通の知人が福沢だからなのか。だがそれにしては太宰の驚きようは尋常ではなかった。
 二つの目が見開いて、そしてその唇が震えているのが分かるほど声はかすれていた。
「ああ、今日ターゲットを殺そうとしたときに現れやがったな。まあ、ちゃんとターゲットは殺してやったが。俺はあんな話聞いてなかったが」
 太宰を睨みつける男の目が徐々に鋭くなっていく。男の手が少しずつ太宰に伸びていた。
「まさかお前俺を裏切ってんじゃえねえだろうな」
「そんなこと」
 男の手が太宰の首に触れて、そして締め上げていく。気道を確実に潰しているのだろう。太宰の顔が青ざめていき、その顔が苦痛で歪んでいく。だが太宰は抵抗しなかった。
 苦し気にしながら男を見ている。
「お前が俺を裏切ろうとどうでも良いがな一つ覚えとけ。裏切ったら最後お前の秘密って奴をあの男にばらしてやるからな」
 言葉とともに男の手が離れていく。解放された太宰はせき込みながら見上げる。
「けほっけほっ、わた、しは、裏切ってなんて」
「その言葉、今は信じてやるよ」
 男の手が太宰の顎を掴む。自分の目に目を合わさせながら笑ってる。
「ばらされたくないなら俺のために動け」
 男の言葉に太宰は口元を歪める。だけどそれは一瞬のことであった。すぐに男を見ては浅く頷く。
「分かってる。だけど貴方も私の計画通りに動いて。恐らくばれた理由は」
「もうばれたんだからどうでもいいだろ。どうにかあのおとこたちにあわないよう計画立ててくれよな。俺はあっても良いんだが、だけど次あえばころしちまうからな」
 男は投げやりに答え、そして太宰に言葉を投げつけていた。上がる口元。二人が殺気立った。太宰の目も男を睨んでいた。とても静かに男を見据えて殺気を送っている。男の口元はさらに楽しそうに上がっては肩を震わせる。
「おお、恐い恐い。そんなめもできるんだな。昔は人形みたいな目しかしない奴だったのによ。そんなにあの男が大事か」
「うるさい。何だって良いでしょう」
 太宰の声は静かだ。ただ静かに答えて男から目をそらす。口元が歪みながら、男は立ち上がっていた。動く男を太宰の目が追いかける。低い声が出た。
「どこへ行く気ですかここでおとなしくしていてください」
「水浴びだよ。水浴び。べたべたして気持ちわりぃ」
 太宰の静止の声など気にも留めず男は好きに歩いていく。はあと太宰から吐息が出ていく。男のいなくなった場所で太宰は静かに上を見上げた。見上げた太宰の口元が開いて、それからその端がゆっくりと持ち上がっていた。
 空には月が上がっている。
 月を見上げて太宰は何かを握りしめるしぐさをした。それを首筋にあてる
「福沢さん……」
 太宰が福沢を呼んだ。福沢の目は一心に太宰を見ていた。なんだとそのくちが動く。その先で太宰は握りしめた何かを首をかすめるように動かしていた。
 赤い血の幻が福沢に見える。
「どうして殺してくれなかったの」



 すべてが終わった後、福沢がふらりと向かったのは太宰の家であった。人の気配を感じる。そのことに安心しながら部屋の前で立ち尽くす。どあのぶに手をかけながらも回す勇気がなかった。手のひらが震えていく。何もできず凍り付いている。
 どくどくと心臓が嫌に早く音を立てている。どうしてと男に組み敷かれ抱かれていた太宰を思い出してはその言葉が湧いていく。
 どうして私を殺してくれなかったの。
 太宰の声が責めるよう耳に届く。息苦しさを感じて胸を抑えた。ドアノブに振れた手は回すことも離すこともできない。
 今にも足元から崩れていきそうであった。そんな時、部屋の扉が開いていた。力加減を間違えたてしまったのだ。えっと聞こえる驚いた声。姿が見えることはない。
 ゆっくりと深い呼吸をする音がわずかに聞こえてくる。張りつめた空気が伝わってくる。胸元を抑えながら福沢は大丈夫だと台所の陰に隠れた太宰に声をかけていた。
 近づいてそっとのぞき込む。見開く目。何でとその唇が音を紡いでいた。
 どうしてと問いかけられる。福沢は一瞬言葉に詰まった。あの男に抱かれる太宰の姿を思い出し、どうしてと問いかけたくなりながら唾とともに飲み込んでいく。眠れなくてなと言った。
「どうにも眠れなくてお前に会えば眠れるかと思った。すまなかったな。驚かせてしまっただろう」
 嘘がすらすらと出ていく。嘘は苦手であると思っていたが案外そうではなかったのか。今だからこそかと思いながら福沢は太宰を見る。徐々に開いていく褪せた目。福沢を映しながらあちこちに彷徨う。あのそのと意味のない言葉を呟いている。寝てないからよかったんですけど。小さな声で太宰が言う。でもと続けられた。
いやだったかと福沢が聞いた。太宰はいえと首を振る。
「そうじゃないそうじゃないんですけど、でもその、どうしていいか分からなくて私の部屋何もないから、福沢さんにはきっと休んでもらえません」
「私は気にしないがでもお前が嫌なら帰る」
ぎゅっと目元を細め太宰が言う。困っているのがありありと伝わってくるから福沢は踵を返そうとした、僅かにこけたような太宰のほほ。白くなったように思う肌。それらに不安が募りながら、福沢の問いに戸惑っている太宰にほんの少し喜びもした。今すぐあの男を捕まえると言った福地の姿を思い出す。
 一人山を下りる太宰に突撃していきそうだったがそれを抑えたのは福沢だった。
 絶対何かある。もしかしたら敵を騙して、たおすつもりなのかもしれないとそう言い聞かせた。疑いの目ではあったもののその言葉で福地たちは引き下がってくれた。もしそうでなかった場合、その時はどうなるか心しておけと言う言葉を残して……。
 太宰を信じてよかった。疑わないで良かったと福沢は思っていた。
 もし本当に敵対していたなら太宰はもっとうまく装うはずだ。何かあるなんて絶対に思わせない。たとえ知ってしまったとしても嘘ではないかと思わせるぐらい。いつも通りの姿を演じるはず。演じられていない今、何かがきっとある。
 そのなにかが何なのか。考えていれば太宰の手が福沢の裾を握り締めていた。ぎゅっと強く握りしめて、それからその口元を小さく歪ませていく。
 嫌じゃないのでとその口から声が聞こえた。
「嫌じゃないので、どうぞ」
 そっと福沢を導いて家の中に招く太宰。俯いた顔。旋毛が見えてああと福沢は帰ろうとしていた踵を戻して太宰の部屋の中に入っていく。太宰の部屋は本人の言葉通り散らかっていた。缶のごみがあたりに散乱している。埃も積もっていた。
 しかれた布団が目につく。それ以外はとくになにもない。備え付けの机がある程度で、部屋に招きながら太宰はその動きを玄関で止めていた。福沢を掴んだまま動かなくなる。福沢は何も言わず待っていた。どうしますか。眠りますかと暫くして太宰がそう問いかけてきた。じっと見つめてこられる。ああと福沢は頷いた。そうだなと布団に近づいていく。
 汚いんですけどと太宰が言うので気にしないと口にしていた。二人きりで布団の中に映る。福沢は組み敷かれていた太宰の姿を思い出す。思わずぎゅっと抱きしめてしまう。太宰の体は跳ねた。福沢さんと呼んでくる声は震えていた。
 眠れないからとそんな声が出ていた。こうしていたら眠れる気がする。思っていない声が出てくる。太宰は少し安堵したようでそうですかといいながら福沢に抱き着いてくる。ぎゅっと腕を伸ばしてくる。その体は震えていた。



「なぜあの男が」
 聞こえた声にはねた心。どうしてその名前がと思ったけど、すぐにどうしてか分かってしまっていた。男をとらえるため手を合わせたと聞いたばかりだった。
 ぞっと肝が冷えていく感覚。どくどくと胸がなる。嫌と湧きだす言葉。
 男に抱かれながらその感覚は一つも感じられず、福沢のことだけが太宰の頭の中にあった。
 福沢は強い。でも……。
 男はそれより強かった。もし戦うことになったら福地と一緒だったとしても死ぬ可能性はある。福沢の姿が目の前で真っ赤に染まっていく。太宰はそれが怖かった。
 恐ろしかった。叫びそうになりながらそれをこらえた。死んでほしくない。死なれては駄目だ。
 沸く恐怖
 心のどこかでわめく声。友をなくした時に思ったようなそれよりももっと強く痛く感じる。どうしてこんなものが湧くのか分からなかった。
 なんでと理解できない衝動に怯えながら帰った家。何もできなかった。思考が回らない。やらなくてはいけないことがたくさんある。それでも動けない。そんな時、太宰の元にやってきた福沢。何で、どうして。そう言った言葉も思い浮かばなかった。怖いと思った。もし死んだら。目の前が暗くて、何の話をしているかもわかっていないまま話は弾んで、それから気付けば太宰は福沢と一緒に横になっていた。ぎゅっと抱きしめてくる福沢の腕。力強く抱きしめてくる腕に太宰は一瞬震えてしまった。そしてその体が動かなくなってしまっている。
 嫌なものを感じて指の先から冷たくなっていく。福沢の両腕はことさら優しく抱きしめてくる。
 こうしたら眠れるからとそう福沢が言うのに寝ることを忘れかけていた太宰はそうなのだろうかと思った。どくどくと聞こえてくる音が少し心地よかった。泣きたいようなそんな気持ちになる。その体の中にもぐりこむ。失いたくないと強く願った。それからどれぐらい経っただろう。
 目を開けると福沢の胸元が見えた。体を包み込む大きな手。その手が頭をなでていた。酷く穏やかに感じたその時、太宰はそれを失いたくないと強く感じだのだ。
 今この瞬間がとても愛おしいと。
 好きなんて陳腐な言葉を思い出したのはその時だ。好きと初めて福沢が言った。あの時の事。
 その時に感じた衝動。
 思い出しながら太宰は好きとつぶやいた。今この瞬間が好きで福沢が好き。そんな答えにやっとたどり着いていた。



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