[newpage]

ピンポーンピンポーン
 夕飯を食べている途中、鳴り響いたチャイムの音にこんな時間に何だろうと首を傾けたのは太宰だけだった。ぴんの音が聞こえた瞬間、乱歩はげっと苦々しい声を落とていたし、福沢もチャイムがなり終わる頃には来たのかと呟いていた。乱歩だけなら分かるのだが何故福沢も分かったのだろうと立ち上がる福沢を見つめ太宰はぼんやり考えた。
 客人を迎えるために福沢がでていこうとする。その裾を乱歩の手が掴んだ。酷く青ざめた顔をしていた。
「でなくて良いよ福沢さん」
「そんなわけにもいかんだろ」
「居留守使えば、いやでも使ったところで」
 手を離せ。そういう福沢の声は乱歩には聞こえていなかった。何事かをぶつぶつと呟くのに誰なんだろうと太宰はのんきに思っていた。福沢が無理矢理乱歩の手を離して玄関にむかう。ぐるりと乱歩の顔が太宰の方に向いた。
「太宰早く食べろ」
「へ?」
 いうやいなや自身も物凄いスピードで皿の上のものを平らげた乱歩を前に太宰はえっと目を点にしてかたまった。どうしたらいいのだろうと思ってしまうのに、口に詰めこんだものをまだ飲み込めてない乱歩の手が太宰から箸を奪っていく。
「良いから詰め込め」
「え、ちょ」
 太宰に伸びる手。口に手を当てられ力付くで開けられる。あいた隙間から大量のご飯が口のなかに詰め込まれていくのに噎せる太宰はどうすればと焦った。乱歩を突き飛ばすようなことはできない。だがこのままでは窒息死してしまう。それはある意味いいのでは。でもそんなことになれば社長に迷惑をかけるなとあれほどいっただろうと地獄の果てまで国木田が追いかけてきそうで嫌だ。回避しなければと詰め込まれ過ぎてしろずんでいく頭の中で考えていた。
 ごんという激しい音が聞こえてくるまでは。遅れてぎゃ!と叫び声が聞こえ口の中から僅かに物が飛び出ていく。ほんの少し呼吸ができるようになった。それでも口のなかにはまだ多くの物が詰まっていて太宰は吐き出しそうになるのを何とか抑える。
 何があったのかうっすら開けた目蓋の隙間から心配そうに見つめる福沢の姿が見えた。その奥で乱歩が頭を抑えている。
「ゆっくり飲み込め。無理なら吐き出してもよい」
 言われるのに太宰はこくりと頷いた。咀嚼するのも難しいなか奥歯で少しずつ噛んでは喉に流し込んでいく。やっとのことで食べ終わった頃にはもう食事をするのが嫌になっていた。お疲れと福沢の指が汗で張り付いた髪を横に流した。
「乱歩がすまなかったな」
「……いえ、」
「たくなにやってんだい、乱歩さん」
 続く言葉が出てこず口を閉ざした太宰は聞こえてきた声にあれっと顔をあげた。そこには与謝野がいる。
「与謝野先生どうして」
「太宰。今すぐ夕飯を全部食べるんだ。ここはこれから地獄になる」
「へ?」
 ここに。言うはずの言葉を遮られ太宰の目はまたに点になる。もしやまたと警戒するのに乱歩はとても焦った顔をみせる。
「良いから早く」
 鋭い声が飛ぶのに太宰が答える前、おやおやと笑みをふくんだ声がして与謝野の腕が乱歩に絡み付いていた。
「地獄って久しぶりに帰ってきたのにえらい言いようじゃないか」
 美女が自分から絡み付いて耳元で囁くなど男なら羨みそうな立場にいながらも乱歩の顔は青ざめていく。
「どうせまた朝まで飲むだけでしょ」
「乱歩さんも飲めば良いだろ」
「ジョーダン! 二人につきあって飲めるわけないだろ! 僕らはさっさと部屋に戻るから酒盛りは僕らが部屋に戻ってからにしてよね」
「つれないねーー」
 二人の会話が続くのに太宰は漸く与謝野が酒盛りをしに来たのだと言うことに気づく。そう言えばそんな話を前にしていただろうかと思い出しているのに二人の会話の矛先が太宰に向いてしまった。
「どう思う。太宰。酷いと思わないかい」
 問い掛けられるのに予想していなかった太宰は反応が遅れる。なんと言えばいいのか正しいのか。考えながら話す。
 乱歩さんも恐ろしいがこう言う時敵に回さない方がいいのは与謝野さんの方かな。
「ええと、そうですね。そんなに邪険にしなくとも良いのでは」
 口にした瞬間太宰は少しだけ後悔した。己を見る乱歩の目が塵を見るようなものになっていたのだ。乱歩の口元がいつになく険しく歪む。
「お前は二人の恐ろしさがわかっていないからそんなことが言えるんだ。良いからさっさと食べ終えて」
 強い口調と共に目の前にある皿を押し出されるのにええと太宰からは戸惑いの声が上がる。まだ食べれる。だが急いで食べるような気持ちにはなれない。迷うのにいつの間にか乱歩から離れていた与謝野の腕が太宰に回ってきた。うっとその瞬間固まったのは酒の匂いが漂ってきたからだ。
「乱歩さんだけ部屋に戻ればいいんじゃないかい。太宰は私たちと飲むからさ」
「駄目! 二人に付き合わせるとか流石にかわいそうでしょう」
 これもしかして与謝野先生もう酔っているのでは。聞く前に話しは太宰を置き去りに進んでいく。
「太宰は乱歩さんと違って酒をよく呑むんだから、多少付き合わせても大丈夫だよ」
「与謝野さんは自分の酒癖の悪さ自覚して話してくれる。酔った与謝野さんの相手をするのがどれだけめんどくさいか」
「なんだい。人がたち悪いみたいにさ」
「兎に角太宰は呑まないからね!」
 これは自分の意見は聞いてもらえそうにないな。まあ、どちらでもいいから良いのだけど……。でもどうしたらこの話し終わるのだろう。
 そんな思いで二人の会話を聞く太宰の目は辺りをさ迷った。本人に自覚はないが、だいぶ疲弊した目をしている。その目が福沢とはちあう。頬杖をつきながら三人を眺めていた福沢は太宰の姿にそろそろ二人を止めるかと立ち上がった。手始めに太宰に絡み付いている与謝野を引き離す。
「取り敢えず今日は部屋にもどれ太宰。三人で飲むのはまた今度次の日が仕事の日にでもしよう」
「ええ、それじゃあ酔えないじゃないか」
「それでいいんだよ! むしろ呑まなくても良い」
 与謝野から不満げな声が上がる。それに対して乱歩からも同様の声が上がった。無難な道に逃げたなと福沢に向かって噛み付かれるのに、仕方無いだろうと短く返した。どちらも己の言い分が通らないと後で拗ねるのだから。どちらの言い分も聞いた方が楽なのだ。
「なんだい。面白くない」
 ぷくりと与謝野の頬は膨らんでいるもののこれならまあ後で拗ねることはないだろうと引き離した与謝野をその辺に転がした。
「ほら太宰。早く食べな」
「あ、はい」
 乱歩に促され太宰は夕飯に戻ろうとした。だがその動きが止まり乱歩を見る。えっと、お箸何処ですか。問い掛ける声にあっと乱歩から声が上がった。乱歩が太宰から奪い取った箸は何時のまにやら乱歩の手か離れていた。きょろきょろと見回したあと、乱歩はごめんね。そう言った。つまり、それは……。まあ、良いですけど。太宰から出ていく声。新しいの取ってくるのも面倒だしな、手で食べていいかな。物臭なことを考えるのにそう簡単に許すな。つけ上がるぞと福沢の声。ほらと差し出されたのは乱歩に奪われた太宰の箸だった。
「なんだ。福沢さんが持ってたんだ。それなら言ってよね」
「放り投げるおまえが悪いんだろう」
「そうなんだけどさ」
「食べ終わるまで待つからあまり急がなくとも良いぞ。お前のペースで食べなさい」
 渡された箸で食べ直しながら太宰は取り敢えず首を縦に振っておいた。話す二人を見る。二人の話しに与謝野も参戦して騒がしくなっていく。
 さて、どうするべきか。
 太宰はまた一つ考えた。そろそろ限界なんだけどと思いながら与謝野を見つめる。福沢と乱歩には普段の食事量が極端に少ないことがもうばれているから残すことも出きるのだが、今は与謝野がいるからなと。食べた方がいいか、食べなくともいいか。どちらがいいか考える太宰は、考えながら口のなかに放り込んでいた。胃の中に無理矢理に落とし込んでいきながら、後一口か二口で吐くな。そう冷静に判断する。
 まだ皿の上には三分の二ほどは残っていた。ひとくちを飲み込んで二口目を食べようと箸が皿の上の料理を掴んだ。
「待て、無理して食べるな」
「後で吐くんだから無理に食べようとするなよな」
 福沢が太宰の手を掴み、乱歩が太宰の前から皿を浚っていく。ひょいと福沢の座っていた席に太宰の皿は置かれた。きょとんと瞬きをする隙間にも箸は手から奪われ、乱歩が太宰の腕を引いている。
「ほら、部屋戻るよ。戻ったら今日は絶対この部屋に近寄るな。近寄れば地獄を見るからね」
 呆然とする太宰の耳に乱歩の声が聞こえる。
僕は忠告したからな」



 翌朝、太宰は居間の前で足を止めていた。
 何故だか朝早くに起きた太宰は水が呑みたくて居間まで来たのだが襖の前までくると開けて良いのか悩んでしまう。今夜は近付くなだから、夜が開けた今はもう入って良いと思うのだが、それでも本当にそれで良いのか考えてしまったのた。部屋の中からは二人ぶんの気配がしていた。
 一人は起きているのだろう。何かを言っているのが聞こえてくる。恐らくは起きているのは福沢。こらと叱るような声が聞こえる。考えて太宰は襖を開けた。
 開けて太宰は凍り付いてしまう。
 見えたのは床一面酒瓶の転がる部屋だった。畳が見えないのではと思うほどに空の酒瓶が転がっている。その中に福沢と与謝野の二人はいて、与謝野は横になっていた。酒瓶を抱えて眠る与謝野の肩を福沢が揺らしている。
「起きろ。こんなところで寝たら風邪を引くぞ」
 ぺしぺし。頬も叩くが与謝野に起きる気配はない。ごろごろと畳の上を転がっては酒瓶がぶつかり合い大きな音を立てていく。与謝野と少し厳しめの声が部屋の空気を震わせた。
 んーーと、与謝野の目が僅かに開く。うーーと唸り声が薄く開いた口からでた。
「眩しぃ」
「朝だからな。ほら、起きろ。直に乱歩たちが来るぞ。また何か言われたくないだろう」
 肩を揺さぶる福沢の手が与謝野を膝の上に乗せる。水を飲めと口元にコップを運ぶのを太宰は見ていた。さっきよりも目が開くものの嫌々と首は激しく振られて。振った衝撃に与謝野の顔は歪んだ。
「んーー、頭いたいーー」
 おっさんのような声が与謝野から出ていく。はあとあきれたようなため息を福沢はついた。与謝野の体を半分ほど起きあげる。だらんと糸が垂れた人形のように与謝野の体は垂れていて。
「限界まで飲むからだろう。何時もいっているが二日酔いになるまで飲むな」
「良いじゃないか。こっちは疲れてるんだよ」
「疲れているのはわかるが後で後悔するのは自分だろう。ほら、起きろ」
「んん、駄目むりー」
「こら!」
 起き上がらせようとした体は福沢にもたれ掛かってくる。全体重をかけて抱き付いてくるのに少しだけ福沢も体勢を崩しかけてしまう。支えながら何とか一人で立たせようとしているものの与謝野にその力はもうない。
「部屋までいかんか」
「つれててーー」
「自分で行け」
 聞こえてくるのはむにゃむにゃという何ともわざとらしい寝息だ。開いていたはずの与謝野の目はもう閉じてしまっている。
「全く」
 はぁと今までとは少し違う感じのため息が落ちた。薄くだが与謝野の目が開くのが見えた。
「お味噌汁飲みたい」
 眠っているふりをしていたはずなのにはっきりとした声で与謝野はねだる。腕が福沢の背に回っていた。与謝野の体を抱き上げる腕の一つがぽんぽんと背を叩いて。
「はいはい。起きたらしじみの味噌汁用意しておいてやる」
「やりー」
 嬉しげな声が聞こえる。その次に聞こえるのは深いため息。鍛練が足りぬとぼそりと聞こえた。与謝野を抱えあげる福沢。部屋に運ぼうとしているのだろう。襖の前に立っていた太宰と目があった。珍しく福沢の目が見開く。
「太宰、起きていたのか」
 気付かれてなかったんだ。そう思いながら太宰は小さく首を縦にふった。何だか目が覚めてしまいまして。そう言う声は小さい。
「そうか。たまの早起きも良いものだ。だが朝餉はもう少しだけ待っていてくれるか」
「はい」
 こやつを部屋のでねかせたらすぐ作るから。与謝野を抱っこして言う福沢にはぁと太宰からは力ない声がもれる



 朝食ができたのはそれから半刻後の事だった。湯気が立つ朝食の前で太宰は首を傾ける。焼き魚に卵焼き、和え物にお味噌汁とご飯が普段の朝食だが今日はそれが少し違っていた。野菜炒めにお味噌汁。そしてご飯である。いつもより随分と簡素な作りに不思議に思ってしまう。流石に一日中飲んだ後に料理をするのは気が重かったのだろうか。
 福沢を眺めようとして目に入るのは乱歩だ。先ほどから乱歩の行動も太宰は不可解に感じていた。乱歩はいつもなら真っ先に朝食に箸をつけるのだが、今日は何故だかまじまじと見つめては皿を遠ざけ、暫くして近付けるを繰り返している。
 どうしたのですか、乱歩さん。朝食ができてから五分ぐらいたってから太宰は聞いた。太宰が今日はどうしたのだろうと考え食べていない間にも福沢は黙々と食べており、もう半分ほど皿の上からはなくなっていた。
「いや……、気をつけて食べろよ、太宰」
「はあ」
 乱歩から歯切れの悪い声が聞こえ、首をさらに傾けながらも太宰は箸を手に取った。分からないことばかりで不安になるが、食べるしかあるまいと皿に箸をつける。ちらりと福沢を見たが福沢は己のぶんを一口食べるだけ。なにも言わない。
 不安な気持ちがさらに強くなりながら太宰は一口を食べた。
 食べた瞬間、太宰は悲鳴を上げそうになった。
 口を抑えて身もだえる。かっ、かと奇妙な声が出ていく。ああと乱歩からはやっぱりかと言わんばかりの声が聞こえてくる。はいと水を差し出された。
「やっぱりね、これだから飲んだ後の福沢さんのご飯は食べたくないんだよ。やったらめったら辛いんだからさ」
 ため息と共に乱歩が言う。机の上に沈む体を見ながらそう言うことは早めに言っておいてほしかったと太宰は強く思った。口のなかがマグマのように燃えたぎるほど辛くて生きている心地がしない。こんなものをもくもくと食べていたのか。化け物じゃないのかと福沢相手に思ってしまう。
 その福沢はむっと不満そうな顔をしていた。
「文句があるなら自分で作れば良いだろ」
「朝からご飯作るなんて面倒なことしたくないの」
 一口を食べながら低い声をだし乱歩を睨み付けるのに、乱歩は福沢を睨んでいた。遠くに置いた皿から一口を食べる。食べて直ぐに水をのみ口を抑えた。
「あーー、もう辛い」
 信じらんない! 乱歩がバカなんじゃないのと言ってくるのに福沢はそっぽを向いた。目に入るのは口を抑えながら箸で皿の中のものをつつく太宰の姿だ。あまり行儀のよい姿ではないが何かを言うことは出来なかった。太宰が一口をつまんでは皿に戻す。乱歩のように皿を遠くにおしやっていた
「大丈夫か、太宰」
「は、はい」
 聞けばひきつる顔。福沢はなにも言わず一口食べる。そんなに辛いのだろうかと言うのが福沢が抱く疑問だが、辛いのだと言うことは与謝野や乱歩さらに二人に付き合わされてしまった多くの人の意見で答えは出ている。むぅと唇がへのじに歪んだ。
「無理なら無理して食べなくともよい」
 歪んだ口から大変不服そうに出てきた言葉に喜んだのは太宰ではなかった。太宰はへっ? と声をだして固まっており、やったーと喜んだのは乱歩だ。
「じゃあ、僕も」
「乱歩はたべろ」
 心底嬉しそうな声は福沢により低くなった声を出させる。ちょっとと乱歩から声が上がる。
「依怙贔屓はやめてよね」
「お前は何時も食べているだろ」
「嫌々だよ、ほかに食べるものないから!」
「今日もこれ以外食べるものはない」
「太宰に作ってもらうからいいの!」
「え?」
 一色触発の雰囲気のなか届いた声にすっとんきょうな声が太宰からは出る。何を言っているのだこの人はと乱歩を見つめる。乱歩は怪訝そうな顔で太宰をみてから嫌そうに目を細めた。
「……太宰、お前作れ」
 喉から絞り出したとしか思えない声で言われるのに、いや、そんなに嫌がられているのに作れませんよと思ったがそれは言えない。でも、乱歩がいやがる以上に大きな問題があって。
「私料理など……できませんけど」
 だからこそこの家にお世話になっているのだし。そのさきは乱歩の声で途切れる。
「福沢さんに教えてもらえば良いだろ」
「……それでは社長が作るのとかわりないのでは」
「味付けは変わる」
「ええ」
 できればこの手は使いたくないと思っているのがありありと分かる顔で提案されるのに太宰からでるのは戸惑った声だけだ。辛くて食べられたものでないのは本当の事だが、だからといって自身が料理を作れるとも思わなかった。何よりめんどくさい。助けを求めるように太宰は福沢をみる。無意味だと思っていても見てしまった。
「太宰を困らせるな」
「困らせてるのは福沢さんだから。こんな辛い料理どう食べろって言うのさ!」
 視線があい、福沢は太宰を助けようと動くが乱歩に一蹴されてしまった。ぐっと言葉が喉につまる。自覚が薄々でき始めているのがまずかった。
「作り直せばいいのだろう」
 目をそらしながら言うのに乱歩ははんめで福沢をみる。直ぐに噛み付かれた。
「作り直しても福沢さんが作ったらおんなじになるだろう!」
「……今度は辛めにしないよう気を付ける」
「本当に」
 福沢に向けられる疑いの眼差し。乱歩さんが社長にこんな目を向けるなんてと太宰はこんなときながら感心していた。はぁと乱歩から聞こえたため息。まあ、いいや。どうせ食べられないし。残すのは全部福沢さんが食べてね。乱歩の声に太宰はほっと息を吐いた。福沢から負のオーラが漂う。
 作ってくると立ち上がる福沢を乱歩がご機嫌で見送る。福沢がいなくなったあとはごろりと畳に横になっていた。
「酔っぱらいには困るよね」
 横になった乱歩が声をかけてくるのに太宰はなんと答えて言いか分からずはぁと曖昧な声を出した。いつの間にか自身の皿を福沢の席に移動していた乱歩にならい太宰も皿を移動させる。気を付けろよと乱歩の声が聞こえた。
「あの二人が揃ってようと本当めんどくさいから」
「はあ……」
 そうなんですねと太宰からは不思議そうな声が出る。与謝野さんはともかく社長にそんな印象はなかったのにと思うのにぼやく乱歩の声が届く。
「昨日で何本消費したんだか。どうせ家にあった酒全部飲んだに違いないよ。今日にでも昨日消費したぶんの酒買溜めにいくんだろうし。ほんとさ、僕のお菓子の事言うんだったら自分のお酒をどうにかしてほしいよね」
 話しかけているのか。それとも独り言なのか。判断に迷う。独り言だろうと思ったが、乱歩はそう思うでしょうと太宰に同意を求めてきて。そうですね。言おうとするがその前に別の事が太宰は気になってしまった。
「そんなに。……社長そんなにお酒たくさん飲むんですか?」
 気になってついでてしまった言葉。何を今さらと乱歩があきれる。
「バカみたいに飲むよ。ていうかお前も飲んでいるところ見てるだろう」
「へ?」
「夜毎日飲んでるじゃないか」
「え?」
 なんの話だと太宰は目を点にして乱歩を見た。そんな太宰こそを乱歩は信じられないと見る。太宰が思い出す毎日の夜の事。夕飯を食べお風呂にはいる。それから寝るまではみんな居間にいる。夕飯を食べるときにお酒は飲んでいないし、お風呂に入るまでも飲んでいなかった。お風呂に入った後は記憶を辿りそう言えばと思い付く。たしかにおちょこのようなものを手にしていた時もあったような……。
「そういえば飲んでいたような……」
 首を傾ける太宰を乱歩がじっと見ている。己を見つめる目に閉ざされた太宰の口は歪な形を浮かべた。
「ちょっと気抜きすぎじゃない。気付かないなんて」
「……すみません」
か細い声が出て行く。
「別に謝らなくとも良いけどね。いいんじゃない」
 うつむく太宰に聞こえたのは存外柔らかい声だ。
「誰もお前をとって喰おうなんて考えてもいないんだからここじゃ気を抜いていたって良いよ。何かあっても大抵のことは福沢さんが何とかしてくれる。お前は福沢さんに甘えていたらいいさ」



 夜、太宰は居間に行こうとした足を途中で止めた。人が起きている気配を感じて起き出した太宰は驚きに目を見開いた。恐らく居間にいるのだろうと思っていたのに縁側にいたなど。寒くないのだろうか。考えるのに銀灰の目が太宰を見た。
 ふと口元が上がる。
「また、眠れぬのか」
 一緒に寝てやろうか。穏やかな声で言われるのに太宰は緩く首をふった。
「いえ、そういうわけではないので、ただ……」
 起きているのが気になっただけ。でもそれは言えなかった。何を言えば良いのだろうと迷う太宰の目は彼方此方に動きそして下を見た。福沢の回りに何本もの酒瓶が転がっている。
「……また飲んでいるのですか」
 ぼそりとでていた声に福沢の首がかたむく。なんの事だと少し迷った後、ああと声が上がった。
「昨日は与謝野につられてぐいぐいのんでしまったからな。今日はのんびり飲もうかと思って」
「……のんびり、ですか」
 周りに転がる酒瓶を見下ろす。風に吹かれて時折ころころ転がるのは中身がもうないものだろう。それが三本、いや福沢のむこうにもう二つほど見える。あわせて五本だろうか。十時頃に一度三人でそれぞれの部屋に戻ってからまだ一刻もたっていない。太宰が福沢が起き出すのを感じたのはそれから随分時間がたってからだったことを考えても充分のんびりとは言えないのではないのだろうか。
 こんなに呑むんだと太宰は驚いていた。
「お酒好きなんですね」
 呆れとも感心ともつかない音で太宰の口からは声がでていた。太宰自身もどんなつもりで言ったのかは分かっていない。単純に驚いただけだろうか。好きだと言う話やだから社長に贈られる物は酒が多いと言う話は知っていたが、実際に見るのは始めてだったから。普段の生活のなかでそんなにお酒を呑むようなイメージもなかった。何となくそう言ったものとは無縁そうだと勝手に思っていた。
 やはり人のイメージほどあてにならないものもないな。思う太宰は思考する途中でふっと考えを止めた。返事が返ってこない事に気づいたのだ。福沢を見れば何故か固まっていた。
「社長?」
 どうしたのだと名を呼び掛ける。はっとした福沢はふむと顎を手で抑える。
「どうなのだろうな」
「嫌いなんですか?」
 聞こえた声に太宰はえっと声を上げる。すぐにでも好きだと言われると思っていた。どう言うことだと思う前で福沢はうーーんと唸っていた。
「嫌いではない。毎日呑んでいる。が……好きとかは考えたことがなかった……」
 飲むのが当たり前だったからな。はぁと福沢の言葉に太宰から妙な声が漏れる。
「そうだな。好きだな。酒はうまい」
 一つ頷いた福沢が酒を呑んでいく。ごくごくと呷るように呑んでいくのにやっはりのんびりではないなと思いながら少し離れた位置に太宰は腰を下ろした。邪魔はしない方が良いのではないだろうか。部屋に戻った方が。考えているが実行するきにはなれず、視線を下におとした。
 こぽこぽとおちょこに酒を注ぐ音が存外近くで聞こえた。
 横を見れば近いところに福沢がいる。酒がたっぷりと注がれたおちよこが太宰に差し出されて。
「お前も飲むか」
 問いかけられるのに太宰は驚いた。まさか誘われるなどとは思っていなかったのだ。よいのですか。小さく聞く声。ぱちぱちと瞬く目は福沢を見上げる。一人で飲んでいたいのでは。出ていく声に一瞬銀灰の目を大きくした福沢は口元に柔らかな弧を描いた
「よい。一人で飲むのもよいが、共に呑んだ方がもっと良いものに思えるだろう」
 言葉と共に差し出されるおちょこに太宰の手は伸びる。言葉の意味はよく分からなかった。考えるのを途中でやめてしまった。
 美味しい。一口含んで太宰から声が落ちる。だろう。満足そうな声が福沢から聞こえ、太宰のてからおちょこが離れる。福沢が一口含んですぐに太宰のもとに戻ってきた。
「おちょこ、新しいの取りに行きますか」
「んー、面倒だ。これだけでも充分呑めるだろう」
「そう、ですか」



[newpage]

「んーー」
 聞こえてくる唸り声、それに見つめてくる目に耐えられなくなって太宰は視線の方角を向いた。にこりと笑えばにっこりと笑い返される。
「……どうかしたのかい、ナオミちゃん?」
 そうじゃ、ないのだけどな。思いながら太宰は問いかけていた。にこにこと問い掛けられたナオミは笑っている。んと、二人の様子に皆の視線が集まりだしている。
「ちょっと気になることがありまして」
「気になること?」
「はい」
 じっと見つめてくるナオミは少しずつ太宰に近付いていた。ん? と太宰の首が傾く。本当になんなのだろうと思うのに周りも不思議そうに見つめていた。
「ナオミどうしたんだい」
「太宰さんになにか」
 問い掛ける幾人かの声。そちらに目を向けることもなくナオミは太宰を見つめ続けている。後ほんの少しもしたら手が届く距離まできていた
「ちょっとしたことなんですけど……」
 そう言うナオミの目は太宰の頭の先から爪先までもなめ回すように見つめ、そして腰の辺りに視線を定めていた。
「太宰さん、少しいいですか?」
 上目使いで問い掛けられる。が、何を問い掛けられているのかは分からなかった。うかがうような周りの目が今度は刺さる。早くどうにかしたいなと考えた太宰は問い掛けるのはやめた。何がかわからないけど取り敢えずいいよと口から出ていく。ぱあとナオミの顔が輝き、腕が大きく広げられた。
 嫌な予感が少しだけした。
「では、えい!」
 したと同時に走った衝撃。体の前方に感じるぬくもりに目を白黒させながら、太宰は見下ろした。見えるのは黒い頭に旋毛だ。ナオミと上がったの谷崎の悲鳴だった。ちょ、一瞬すっとんきょうな声が太宰から出掛けた。後ろに回った細い手がぎゅうと強く力を込める。
「やっぱり!」
 太宰を見上げるナオミはとても嬉しそうだ。太宰のそばから離れながらにこにこと笑っている。周りの戸惑いは見てみぬふりだ。
「えっと、どうかしたのかい」
「太宰さん、健康的になりましたのね」
「はい?」
 固まっている周りに一番私が固まりたいと思いながら、太宰はとっぴな行動を起こしたナオミに聞く。返ってきた言葉に今度こそ間抜けな声が漏れてしまった。
「どういうことですか」
「お腹回りが前より少々大きくなられていて」
 固まってしまった太宰の代わりに話を聞いていた敦がナオミに問いかけていた。答えたナオミにより周りの目は全部太宰に向いてしまう。お腹辺りに集まる視線に思わず太宰は手で隠していた。
「それは、太ったということかい」
 どうでも良いことではあるが、聞く太宰の声は少し震えていた。自分の見た目に興味はないが、使えなくなるようならそれは少しばかり惜しかったのだ。残念だと思っているのにまさかと一蹴する笑い声が聞こえる。
「太宰さんは心配になるほど細かったですから今ぐらいが丁度よいですわ。むしろもう少しふっくらしてもよい気がします」
 後もう一回りかふた回りぐらい。触った太宰の腰の感覚を思い出しているのかナオミの手が奇妙な動きをする。セクハラの手付きだなと思った太宰は谷崎をみた。もう少し教育を気を付けた方がよいと言うべきかな。太宰が考えるのに谷崎が浮かべているのは何故か笑みで。他の周りも笑っていた。
「言われてみたら最近の太宰さんなんだか健康的ですよね」
「前より顔色なんかもよくなっていますし」
「何だか元気になりましたよね」
 笑顔で次々と言われる。はい? 固まった太宰には言葉の意味がよく理解できなかった。え? と動きを止めるのににこにこ笑い続ける周り。疑問符が頭のなかを埋め尽くすのにはぁと言う盛大なため息が聞こえてきた。ぴん! と太宰の頭のなかで音がなる。やったーと思ったのはこの話をすぐにでも終わらせることが出きると思ったからだった。皆の視線が太宰からはなれてため息が聞こえた方に向いた。
 そこにいるのは次の書類に手を伸ばしている国木田である。
「無駄話をするのも良いが、仕事の手を止めるな、お前ら」
 あ、ごめんなさい。すみません。仕事熱心な国木田の言葉に素直な後輩たちはすぐに己がやっていた仕事をし始める。良かったと太宰は安心した気持ちで机に向かい直した。仕事をするつもりがあるかと言えばない。
 太宰は自分の体を密かに見下ろす。みんなが言うほど変化があったとは思えないのだが、何も変わったこともないし。考える太宰の思考は途中でとまった。一つ思い当たるものがあった。
 仕事をしながらも気になるのかちらちらと太宰に向けられる視線。ため息をついたのは太宰でなく国木田だった。
「そんなに気にすることでもないだろう。こいつが健康的になったのは当然の事なんだ」
「へ?」
「こいつは今社長の家で生活しているんだぞ。社長が傍にいながらこいつの自堕落な生活を見逃す筈がないだろう」
 どういうことと言いたげな声が聞こえてくるのに淡々と告げられる話。その間にも書類を作る音が聞こえていた。ぽんと誰かが手のひらを叩く音がする。そっかと明るい声が上がるのを太宰は何処か遠くから聞いていた。ああと項垂れたいのを何とか堪える。やっぱりそうなんだと思っていたのにならととても明るい声が耳につく。
「太宰さんはこのまま社長の家にいた方がいいですね」
 そうですね。それが良いですね。と聞こえてくる声。それにそうなんだよな。だが社長にあまり迷惑をかけさせるのは、嫌だがと苦悩混じりの声も混じっていて何とも言い難い気持ちに太宰はなった。頭を抱えてしまう。



 どうするべきか。
 太宰は目の前でにやにやと笑う乱歩を前に考え込んでいた。考え込みすぎて口に運ぶ料理から何の味も感じられない。この気まずさから逃れるには何か言った方が良いのか。でも言えばきっと……。太宰が考え込むのに何をしているのだ、お前はと福沢の方が乱歩に向けて問いかけてしまっていた。
 にやにやと笑っていた乱歩の笑みがより嫌なものに変わってしまった。
「面白い話してたってナオミちゃんからきいたからね」
 うぐっと太宰の喉がなる。後少しで口にいれていたものを詰まらせるところだった。福沢が首を傾けている。
「面白い話」
「そう。太宰が健康的になったって。確かに前よりずっと健康的になってるよね」
 にこにこ満面の笑みで同意を求める乱歩から太宰は目をそらした。そんなことしても乱歩が同意を求めた相手は太宰ではないから無意味と分かっているのに。福沢からの視線が突き刺さる。決して嫌なものではない。驚きから穏やかなものに変わる視線はどちらかと言うと良いものであるだろう。でもそんな目で見られるのが気恥ずかしく、またどうして良いのか分からなかった。
「そうだな。……良かった」
 安心した声が耳に届くのに太宰の頭は深く俯いてしまった。どうにかこの話を別の話に切り替えたい。そう思うが他の何か良い話は思い浮かばない。
 乱歩が未だ笑っているのが伝わってきて……。まだ何かを言うつもりだと思うのに言葉はでなかった。乱歩の声が聞こえる。
「太宰が健康的になったのはこの家で暮らしているからだって言われててさ、ずっとこの家にいた方が良いんじゃないかって話してたんだよね」
 そんな話までしなくとも、それはみんなの冗談で。言いたい言葉は色々出てくるがやはり言葉にならずもやもやと溢れる思いを太宰は食べることで飲み込んだ。やはり味はしなくて今日は厄日だと原因となったナオミを少し恨んでしまった。
 もう一口と口のなかに放り込むものを取ろうと少し顔を上げたとき、福沢と目があう。
 銀灰に穏やかな色を乗せていた福沢は太宰と目があったと思うと柔らかに目元を緩ませて。
「太宰が良いならそれもよいな」
 滑らかに耳に滑り込んできた言葉に箸からころりと転がり落ちていた。ぽかんと開いた口。呆然と見開いた目が福沢をみる。それ良いねと聞こえて、乱歩にも向けられる。へっと落ちる声。少し唇が震えていた。
「嫌ではないのですか」
「何がだ」
 僅かにかすれた声で太宰がとうのに問いかけが返ってくる。ん? と不思議そうに目が向けられるのにだってと理解できない太宰が口にする。
「ずっとって……たまには二人でのんびりしたいと思ったりしないのですか」
「? 夜はのんびり過ごしているだろう」
「そうでなくて……。与謝野さんだって帰ってくるじゃないですか」
「与謝野が帰ってくるのが何かあるのか?」
 幾つかとうのに福沢からは疑問符だけが飛び出していく。何を聞かれているのかが分からないとじっと見つめてくる目に太宰の口元がぐんにゃり歪んだ。どう言えば良いのかが太宰には分からなかった。えっと、そのといつになく歯切れの悪い音がでていく。
「……家族でのんびりしたいものじゃないんですか」
 やっとでていた言葉は途中で何度も引っ掛かっていた。一般的な家族についてなどあまりよくは分からないがでもそれが普通なのではと福沢たちを見る。乱歩の呆れた視線が肌に突き刺さった。はぁと聞こえてくるのはため息。何でそんな反応をされるのかと思えば、福沢の方は福沢の方で奇妙なものを見るように太宰を見ていた。に度される瞬き。
 ふぅとため息に似た吐息が落ちていく。
 あき、れてはいなさそうだが似たような目が太宰を見て、それから細められた。その口が紡ぐ音に今度は太宰が驚いて奇妙な顔をする番だった。
「お前も家族だろう。お前を子供のように思っていると言った筈だ」
「僕はお前のお兄ちゃんね。できの悪い弟持つとお兄ちゃんは大変で困るね!」
 ぱちくりとまばたきを繰り返す。
「え、でも与謝野さんとか」
「与謝野さんだって太宰が増えても気にはしないよ」
 ぽかんと開いた口が何かを紡ごうとしたが紡げずじっと二人を見ていた。変なことを聞くなよな。たくさ。お前人の話何も聞いてないんだからさ。乱歩の声が届く。そう言うなと福沢が乱歩をなだめていた。仕方ないのだと聞こえる。
 銀灰がじっと太宰を見つめた。
「お前が嫌だというなら無理強いをするつもりはない。だがずっと居たいとお前が望むならずっと居てくれてもよい。一人が良いのと言うのであれば寮にもどっても構わん。
 お前もまともな生活をできだしてきたしな。最後に料理の仕方でも少し教えよう」
 ぽかんと開いたままの口が時間をかけて閉じていた。言葉はなにも出ていかなかった。太宰の目がさ迷う
「出ていっても心配だからたまには様子を見に行くがな」




空気が固まるのを太宰は感じてにへりと笑みを作っていた。
「失敗しちゃいました」
 小首を傾けて可愛らしく言うのに二対の目が見てくる。俯きそうになるのを耐える太宰は自分を見つめる戸惑いの視線のなかに疑いが混じっていることを分かっていた。ため息が聞こえてくるような気がして笑みを作り直す
「失敗しないようまた教えてくださいね」
「あ、ああ」
 戸惑った声が答えるのに太宰は目の前の焦げた焼き魚を一口含む。じゃりじゃりとして吐きそうなほど甘い味が口のなかに広がっていく。喉奥に詰まる何かを飲み込むことで腹の奥に隠してしまった。


 じぃと見つめてくる目から太宰は離れようと腰を上げた。今日はもう部屋にもどって寝てしまおう。そう考えていたのにねぇと聞こえてきた声で動きは止まる。壊れたからくりのような動きで太宰は乱歩を見た。
 料理の仕方をここ数日教わってきて、今日始めて自分一人で作ることになった太宰が作ったのはまあ、……まずさに目をつぶれば食べられると言うものだった。味付けの塩と砂糖を間違えた上、大量にかけすぎ、さらに焦がしてしまっていて、正直太宰は食べたくなかった。それでも自分が作ってしまったものだから何とか食べれば、福沢も乱歩も同じように食べていて……。不満を言いそうな乱歩もなにも言わなかった。
 それがどうしてか分かっているから太宰はほほをひきつらせてしまう。
 お前さ、本当僕らの話聞かないよね。ため息と共に聞こえてくる言葉に太宰は閉ざした口のなかで舌を動かす。別に聞いていないわけではいないのだ。
「料理ができるようになったからって出ていかなくちゃいけない訳じゃないんだよ。
 お前はずっとここにいていいんだ。なのになんでわざわざ失敗したふりなんてするの。できようができなかろうがここにいて良いことは変わりないんだからな」
 乱歩の鋭い目が己を見る。蓬髪が揺れた。黒い髪の向こうに太宰の瞳は隠れ、薄いカーテンがかかった視界で太宰は乱歩を見る。閉ざした唇がへの字に歪んでいた。
「……わからないのです」
 小さな声が、ぽつりと落とされる。目を隠す蓬髪が揺れて迷い子のような褪赭の目が僅かに覗く。
「私がどうしたいのか。帰らないと、と思うんですが……。でも……」
 小さく紡がれる声は同じ部屋にいても油断すれば聞き逃してしまいそうなものだった。知っていて乱歩は深くため息をつく。太宰の肩が小さく跳ねる。
「ほんとお前バカだね。
 分からないってさ、そんなのもうここにいたいって言ってるようなもんだろ。おまえの帰らなきゃは僕らに迷惑をかけないようにとそれからまあ、裏で動くのにここで暮らしてたら支障をきたすから。だから帰らなきゃって思ってるのにそれでも帰りたくないって思うってことはここにいたいってことだろ」
 むぅと尖らされた唇が黒の隙間から見える。
「なら、ここにいれば良いだろ」

 
「乱歩はどうした?」
 ふるりと肩が震えた。聞こえてきた声に顔を上げた太宰はゆっくりと首を横に傾ける。部屋のなかを見渡すが乱歩の姿はそこになかった。部屋に戻ったのだろうかと襖の方にめをやる。
 ゆるゆると動く旋毛を福沢が見ていた。一歩、福沢の足が太宰の方に向かう。
「……太宰」
 名を呼んだのに太宰が顔を僅かに上げるがその目が見えることはなかった。太宰の目には福沢の足が写る。膝が写って太宰はまた少しだけ顔を上に向けた。銀色の髪が少しだけ見えた。
「本当にお前の好きなようにしてくれてよいのだ。ここにいるも寮に戻るもお前が望むようにしろ」
 低い声が穏やかに言葉を紡いでいく。その言葉よりも太宰は視界のなかに写る福沢の手の方が気になった。太宰のもとにゆっくりと伸ばされた細いわりに筋肉質な手は投げ出している太宰の手に振れる。それから、そっと握り締められるのを眺めていた。
「ただ一つだけ分かっていてほしいのは、出ていたからと言って私の手が離れたわけではないと言うことだ」
 何の反応も返さない手。握る手に力がこもる。
「私はずっとこの手を掴んでいる。お前が一人何処かに行こうとしてもそれを許したりはしない。何があっても私はお前の傍にいる。何処にもやりたくはないのだ」
 強くなった口調。別の手が太宰の頭に振れた。掴む手もふわふわと撫でて行く手もどちらも暖かい。
 蓬髪の隙間から覗く福沢の口元が小さく弧を描いていた。
「お前がどう捉えたか分からぬが私の言ったたまには二三日おきの事だからな」
「それは、頻繁にです」
 冗談めかした口調で福沢が話したのに隠れた褪赭は大きく見開いていた。唇が微かに震えて、出ていく音も揺れる。そうか? 音にする口は確信犯めいたものを乗せていた。視界のなかで手を握る手がさらに強くなっていた。
「お前の事が心配なのだ。お前はなにも望まないから。もっと望んでよいのだぞ。望みを口にしても良い。そしたら私が叶えてやる。
 望みはなんだ」
 頭を撫でていた手が太宰の前髪に振れた。垂れる髪を掻き分けて、曲線を描く頬を辿る。
 俯いていた顔を僅かな力で上げさせられた太宰が見たのは存外力をもって見つめる銀灰の瞳だった。
 口が小さく動いて、隙間を残し止まってしまう。
 大きな手が頬を撫でて行く。
「そうだな。ならお前は、ここにいたいか。それとも戻りたいか?」
 どちらがよい。薄い唇が形を作る。太宰の目が歪んだ。爪先が畳の上を滑った。
「ここに、いたいです」
「ならばいるとよい」
 掴んだ手が震えていた。

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