わんわん
探偵社は時々すごく忙しくなる。しかもその仕事の性質上、昼夜さえ関係なく忙しくなる。社員が少なくしかもまだ未成年の者も多いのもあって成年済みの負担はとんでもないものになる時が時としてあった。ある程度の仕事は受けなかったり、後回しはしたりと調整はしているのだが、それでも忙しい時は忙しく一週間まともに寝られないなんてこともあるのだ。
そしてそれはちょうど今日までの探偵社の話であった。
丁度一週間ほど前から重なりに重なった依頼で忙しくなり、休みが取れるよう配慮されている未成年組以外は殆ど仕事の合間に何とか眠っているようなそんな状態だった。なんとか落ち着いても喜ぶすきもないほどボロボロで何とか寝に帰るのがやっとというような有様であった。
そんな社員たちを見送った後、福沢は己も今にも倒れそうな状態ではてと首を傾けていた。見送っていた者の中に太宰の姿が見えなかったのだ。少し確認したい事があったため帰る社員をずっと見守っていたので間違いなかった。先に帰ったのかとも思ったが、最後の仕事が終了したと敦が連絡をしてきた時、社内にいるのを確認していた。太宰は遠隔での支援が役割だったから当然である。
それから出ていくところは見ていないにも関わらず社内には福沢以外誰もいなくなっていた。見逃したかとも思ったが福沢には疲れていたとはいえそう簡単には見逃さない自信があった。
おかしいと思いながら社内を歩く。医務室やトイレの中も覗いていく。ふと給油室の前で福沢は足を止めていた。何かがいる気配を感じて慎重に扉を開ける。だがそこには人の気配はなかった。
狭い部屋をそれでも慎重に見まわしてから、福沢はシンクの下の扉に手を伸ばした。鍋ややかん、それにいくつかの食べ物が入っている筈のそこ。
開けて目についたのは茶色の塊だった。
やかんなどではない。ふんわりとしたそれは生き物だった。ぱっちりと目が合うとさあと毛を逆立っている。すぐにそれはやんで今度はしおれ始めていた。くううんと小さな泣き声が聞こえてきた。
大きな目が福沢を見つめてくる。その目は褪赭の色をしていた。太宰と同じ色であった。
福沢は驚くことなくその犬に手を伸ばした。おいでというように目の前で両腕を広げるが、犬は驚いた顔して固まってしまい腕の中に入ってくることはなかった。
暫く犬と福沢、二人がにらめっこを続けた。
ふむと福沢が頷いた。頷いてどうするかと思えば福沢は動かない犬を無理やり抱き上げていた。ぎゅっと抱きしめてそれでは行こうかと歩き始める。犬はくうんと鳴いたものの抵抗することはなかった。おとなしく福沢の腕に抱かれていた。
この世にはポメガバースと言う体質がある。
大変奇妙な体質で精神や体に一定の負荷がかかると犬、それもポメラニアンに変身してしまうというものである。昔進化のどこかの過程で遺伝子の中にポメラニアンの遺伝子が入り込んだと何とかで、その遺伝子が強いものがなるそうであった
ポメラニアン化したものは自力で戻ることはできず、戻るには満足するまで誰かに甘やかしてもらう必要がある。
約千人に一人がなるという希少なものでもあった。
そして何故、今こんな話をするかというと太宰がそのポメガバースであるためだった。
限界まで働いた後、すぐにでも帰って寝ようとした太宰はだけど自分の体の異変を感じ取って給油室に逃げ込んでいた。多少の疲れであればお茶でも飲んで帰ろうとするだろうが、今日はみんな即家に帰る筈だという判断からであった。トイレや医務室に逃げ込むよりは確実だと思い逃げ込んですぐ太宰はポメラニアンに変化していた。
変化した当初太宰は大変驚いた。というのも太宰はポメラニアン化を何より忌み嫌っており、ポメラニアン化する前に体はほぼ強制的に休みモードに入るようになるのだ。睡眠をちゃんととり、嫌いな食事もとる。そうして全力で回避しようとするはずなのにその兆しが訪れなかった。睡眠はとれるような状態でなかったのもあるが、食べ物を食べるだけの時間はあったはずだ。それなのに忙しいからと取るのを疎かにしてしまった。
ポメラニアン化しそうになる一線を越えたら体は分かる筈だが、今回はそれに気づかなかったのだ。何故どうしてと給油室で怯えながら潜んでいた太宰。とにかくみんなが帰った後に外にでなくてはと思っていた。でも殆どの人が帰った後も人の気配が一人分だけ消えなかった。あろうことかその気配は動き回って、そして給油室の扉を開けた。慌ててシンクの下の扉に隠れた。
犬でありながら扉を開けれたのは太宰の器用さによるものか、咄嗟の馬鹿力に似たようなものなのかはよく分からなかった。帰ってくれとシンクの下、怯えていたらその扉まで開いた。
見えたのは福沢だった。福沢に抱っこされて太宰は福沢の家まで連れていかれてしまった。
そして福沢の家、なるほどなと太宰は犬の体で頷いていた。
つまり太宰がポメラニアン化になりそうと言う事を気付かなかったのは、今一度この姿で甘やかされてみたかったからなのだ。冷静に自分のことを分析してはあとため息をつきそうになる。
何をやっているんだと己に言いながら、ついでに何をやっているんだと福沢にも思っていた。
福沢の家の中を見渡す。家主の福沢はすまぬが夕飯を作ってくると言って厨房に行ってしまっていた。福沢の家の中は基本的には質素だ。あまり物がない。基本的、ある一つの種類を覗くと質素で左程物欲がないのだなと伺わせる部屋だった。
ただし、ある一つのもの、犬の遊び道具セットをいれて見ると物凄くにぎやかな部屋になってしまうのだった。
この家には今太宰以外の犬はいない。福沢の家で一番目立っているそれらすべて太宰のためのものだった。嘘偽りなく太宰のためのものだった。
半年前ぐらいだろうか。太宰はこの家に暫くの間いたことがあったのだ。それもポメラニアンの姿で。
その時太宰は福沢に己がポメガバースだと言う事を知られているとは思っていなかった。それもそのはずで太宰はその事をそれまで誰にも言ったことがなかったのだ。認めたくはないが一応育ての親のような森にすら言ったことはなかった。正真正銘太宰以外は誰も知らない事であるはずだった。
というのも人生一回目、それ以降半年前までは最後のポメラニアン化は最低最悪のものだった。
ポメラニアン化になった所で親に殺され捨てられ、何とか生きていたと思えば犬に追い掛け回されたり、子供に殺されかけたりとろくなものではなかった。どうやってそこから元に戻ったのか思い出せないほど最低だった記憶。おかげですっかりポメラニアン化が嫌いになって以後、絶対にポメラニアンになど変化しないようにと生きてきた。ならなければそうである何て誰にもばれない。
あの森にすらばれることなく生きてきて、他の人間にばれるとも思っていなかった。
だけどそれは間違いで福沢は太宰がポメガバースであることを知っていた。だからこそ家の傍で落ちていただけの太宰を拾って世話までしてくれたのだった。
どうやら一回目のポメラニアン化の時、太宰をポメラニアンから犬に戻してくれたのは福沢だったそうなのだ。太宰はその事を全く覚えてなかったが、福沢は覚えていて半年前も太宰に優しくしてくれポメラニアンから戻してくれたのだ。
その後、福沢はやたらと太宰に構ってくれていた。犬になるのは大変だろうとそうならないように気を使ってくれたのだ。食生活が疎かになりがちな太宰のために食事に誘ってくれたり、睡眠を気にしてくれたり、太宰の個人的な興味による仕事にも手伝ってくれたりもした。少し思うことはあるもののまあ悪くはなかった。
今回の繁忙期も太宰には何度か寝た方がいいんじゃないかと声を掛けてくれたのだけど、太宰は大丈夫ですよとそれはかわしていた。昼食の誘いなども気にしなくていいですからととにかく仕事をしたかった太宰は言っていたのだが……そのせいだろうか。
きっとそのせいなのだろう。
福沢は途中からいかにしてポメラニアン化を避けるではなく、ポメラニアン化した後どうやって甘やかすかにチェンジしてしまっていたらしかった。
何故わかるかって福沢の家の中に半年前にはなかった犬用の遊び道具が増えているからだ。ぬいぐるみのようなものにボール。何かの角っぽいものに太いなわのようなもの、その他にもなんかよく分からないものが置いてあり、さらにその奥、どう見てもペットが遊ぶ用の空間ができている。登って遊ぶ用のスロープとか用意されていた。
太宰は一度ポメラニアン化してしまうと戻るまで長くかかるのでその間のためなのだろうが、どうにもむずむずする。
こんな甘やかしてもいいのか。と思いながらも太宰はまあ、甘やかすと言うなら甘やかしてもらわないとなという気持ちにもなり始めていた。本来ならもう少しと言うかかなり抵抗があるだろうが、この姿の時はそれが少々薄くなるようだった。
甘やかしてほしいという気持ちが前面に出てくると言う事に今日少し太宰は気付きながら恐る恐るおもちゃの一つに近づいていく。犬としての本能がこれで遊んでみたいと言っていた。
とびかかる。丸いボールが転がる。ついついそれを追いかけてしまう。ころころと前足で転がしては追いかけ、時折口で噛んだ。しっかりとした噛み応えがあってそれだけでも遊びがいのあるおもちゃだった。
夢中になって追いかけてしまう中、太宰はある時はっと気づいて顔を上げていた。いつの間にかそこにいたのか福沢と目があう。じっと見下ろしていた福沢は太宰と目が合うとすぐに夕飯食べるかと太宰に皿を向けていた。犬用の皿の中にはもちろん犬のエサが入っている。
恥ずかしいが福沢は何かを言ってくる様子はない。太宰は素直に頷いて福沢が用意してくれた皿に口をつけていた。
福沢が用意してくれた夕飯は普通に美味しいものだった。犬だから犬の味覚になっているというのもそうなのだろうが、気のせいでなければ前の時のより随分おいしくなっているようだった。
餌についてなどよく知らないが何かしらの細工をしてあるように思えた。それを食べながら福沢の様子を見た。
福沢はどんぶり飯をかきこんでいる。そう言えば安くて速いから好きだと言うようなことを言っていたことをぼんやりと覚えている。多分うずまきで乱歩と福沢が一緒に食べていた時だ。太宰はその席には共にはいなかったが社長わりと忙しそうだもんなと思ったことを覚えている。
ただ今日は何もないのだし、のんびり食べたらいいのにと見てしまった。福沢はそんなつもりは欠片もないようですぐに食べ終えていた。
そしてじっと太宰を見てきていた。
太宰はまだ半分程度しか食べてないが、もう食べるつもりはなくなっていた。くううんと鼻を鳴らす。気づいたのだろうか福沢の手が太宰に伸びた。そしてふわふわと撫でてくる。撫でてくる手は優しいものだった。
太宰の小さな体を包み込むような大きな手。その手で体を触られるのは悪い気はしない。半年前のうちにすっかり覚えさせられてしまっている。太宰は少しその身を擦り付けてしまっていた。抱き上げられて膝の上でずっと撫でられる。
寝なくていいのだろうかと不安になるが福沢はまだそのつもりはないようだった。暫くの間は太宰の事を撫で続けていた。
その手があまりに気持ちよくて太宰の方がうとうとしてしまう。
人間の時であれば到底眠れないのだがこの姿の時はそうも言えなかった。眠りたくなってそれで、太宰の意識はそこで途絶えてしまった。
膝の上のぬくもりが重くなったのを感じて福沢は見過ぎると太宰は疲れてしまうかと思いあげていた視線を下ろしていた。すぴすぴと気持ちよく眠っている丸っこい塊の太宰の姿が見える。
思わず相貌を許しながらにしてもと福沢は声をこぼしていた。
「猫もいいがこれもいいな。私が癒すつもりだったのだが、これはかなり癒される」
ふわふわと撫でる手は止まりそうになかった。
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