手 前

「じゃあ、買い物にいこうか」
 朝、顔を見るやいなやそう言ってきた乱歩には? と福沢は首を傾けた。周りにいた探偵社の社員もえっと言う顔をする。いや、それよりもと国木田が声をあげるが僕の言葉に文句があるのと睨まれて口を閉ざしてしまった。
「買い物行こうか。買うのはえっと、服と下着に、お茶碗と箸。布団も必要だし、携帯もいるだろう。財布もいるかな」
 あげられていくものに大半の者は首を傾けた。何でそんなものをと不思議そうな目で見つめる。分かったのは福沢だけだ。福沢ははっと後ろを振り返る。もしやと考えたのに視界に写るのはにこにこと笑っている太宰の姿。その笑みが強張っていることに気付いてしまう。太宰と声が出たのに福沢をみた太宰はにっこりと笑う。何ですかと言いたげな笑み。
「すまないが私と太宰は今から買い物に出る。書類などは帰ってから見るから置いておいてくれ」
「僕もいく!」
 太宰を見ながら言った言葉に周りは戸惑った様子だった。太宰は笑みを深める。恐らくだが困惑しているのだろうと予想をつけた。デパートがいいかな。早くいこうよ。福沢達が来る前から用意していたのだろう。準備万端で外に出ていく乱歩に福沢も続くことにする。立ち止まっている太宰にいくぞと声をかけた。笑みを浮かべたまま太宰は困ったように肩を落とす。



「二人とも僕に感謝してよね。特に太宰は。社長がいなくなったってみんなが大騒ぎするのを僕が突然の仕事で太宰と一緒に出掛けたってごまかしてあげたんだから。敦達を騙すのは簡単だったけど国木田とかを騙すのは骨がいったんだよ。感謝の心を僕に示すべきだね」
「デパートで何か奢ればよいのだろう」
「流石福沢さんよく分かってる」
 ご機嫌で隣を歩く乱歩にため息をつきつつ福沢は後ろを歩く太宰をみた。眉を下げ困ったように笑う太宰はすみませんと口にする。それに乱歩はこれからはあんまり迷惑かけないでよ。買い物代だって福沢さんに出してもらうんだから全くさ。今度給料入ったら何か奢れよと言っていてうん? と福沢は疑問を抱いた。金を払うことについては何も問題はないのだが、そうではなくて……。もしやと探偵社を出る前の乱歩の台詞を思いだし福沢の目は半目になった。
「太宰まさか、お前……」
 睨むような呆れた目が見つめるのに太宰が浮かべるのは笑みだ。にこにこと笑い続けるのに福沢が無言で見つめる。数分後てへっと太宰の舌が出た。はぁと大きなため息が福沢から出る。
「給料日まで後半月はあるぞ。それまでどうせいか、いや、暫くは私の家で暮らしてもらうから大丈夫か」
「え?」
 太宰の目が大きく丸まる。やっとまともに表情が動いたのに福沢の口許がにっと上がっていた。
「お前はどうも生活能力と言うものがないようだからな。お前がまともに生活できるようになるまでは私の家で暮らしてもらう」
「私今までずっと一人暮らししていましたし、生活できていたと思いますが」
「カニ缶しかまともに食べてないような奴は生活できているとはいわん。洗濯のやり方も知らない。風呂に入っても髪も拭かん。片付けもせん。これの何処が生活できていたなのか」
 呆れと共に二週間の生活の中で分かった太宰の暮らしぶりを口にすれば、太宰は笑みを浮かべられなくなっていた。困ったように眉を寄せる。
「でも生きてはいられましたよ」
「生きてはな。だがそんな生活だといつ体を壊すか。もう少しお前は自身を大切にしろ」
 はぁと気の抜けたような声を太宰は出した。呆然とした目で福沢を見つめる姿からは理解したとはとてもではないが思えない。届かなかったか。だがそうだろう。思いながら福沢は太宰の手を掴んだ。褪赭の目が丸く広がる。
「まあ、良い。今はお前の分も私がお前を大切にするから。お前はゆっくり自身を愛せるようになればよい」
 柔らかな声で伝える。
 固まった顔。不思議そうに福沢を見つめてくる太宰の手を引いて福沢は歩いていく。あ、ずるいと乱歩が声をあげた。
「僕も福沢さんと手を繋ぐ」
「駄目だ。三人も手を繋いで歩いたら邪魔になるだろう」
「ちぇ。太宰お前本当僕に感謝しろよ。福沢さんを僕が貸してやるなんて滅多にないんだから」
「え? あぁ、ありがとうございます?」
「礼なぞ言わんでよい。私は乱歩のものなどではないからな。私が好きなようにするのに文句をつけるな」
 ぶうぶうと横で乱歩が不満を訴える。太宰は手を繋がれ斜め後ろを歩きながら奇妙な顔をしていた。掴んでいる手を離そうとしたいのか捕まれていない手が触れてくる。強い力で掴み直した。歩きづらくありませんか。問いかけてくるのには別にと返す。
「こうするのは嫌か」
 福沢が聞けば太宰は固まる。迷子のようにその目はさ迷う。福沢には嫌がっているようには見えなかった。どう答えたら良いのか考えているだけのように思える。
「お前が思う事を言えばよい」
 褪赭の目が瞬きを繰り返す。漏れ出る声。福沢を見つめ目を逸らした。
「えっと…………き、嫌いではないです」
 俯きながら言われた声はか細い。少し震えもしていた。だけどそれが無理矢理口にした言葉でないことは福沢にも良く分かった。俯く太宰の頬はわずかに赤くなっていて。
「ではこうしていようか」
 福沢がとうのに太宰からの答えは返ってこない。福沢の隣ではぁあと盛大なため息だけが聞こえる。



 しまった。
 冷蔵庫を開けた瞬間、福沢はその一言を浮かべた。暫し無言で冷蔵庫の中を眺め、ばたりと閉じてしまう。立ち上がった福沢からは深いため息が出ていく。
「乱歩、太宰。今日は食べに行くぞ」
 福沢は居間で待っている二人のもとに行くとそう告げた。待ってましたと乱歩は立ち上がる。太宰はどうしてですかと首を傾けていた。はぁとまた福沢からため息が出る。銀灰の目が乱歩を睨み上げた。
「乱歩分かっていたなら何故最初から言わんのだ」
「だって言ったら普通に買い物して終わりじゃん。僕は食べに行きたかったんだもんね」
 低い声に鋭い視線。普通ならチビりそうなものだが長年一緒にいる乱歩には効果はない。むしろどやと胸を張る始末。福沢の手が額を抑えた。長く出ていく息。視線が乱歩から外れる。言いたいことは多々あるもののこれ以上言っても己が疲れるだけだと身をもって知っているのだ。もうやめだと太宰の方を見た。
「ほら、太宰。お前も行くぞ」
「はぁ」
 まだ座り込んでいる太宰に手を差し出せば聞こえてくるのは現状を理解していない声。どうしたのですかと問い掛けられるのにどう答えるべきかと考え込んだ。その隙に乱歩が答えている。
「お前のせいだよ。お前が二週間も福沢さん連れていっちゃうから冷蔵庫の中のもの殆ど腐ってるんだ」
「それはお前のせいだ。お前の。お前もこの家で暮らしているんだから冷蔵庫の中のものぐらい消費しておけ」
「だって僕料理はできないもん。福沢さんがいない間は国木田とかの家でたべてたし」
「簡単な炒め物などならできるだろうが」
「めんどくさいし僕が作っても美味しくないじゃないか」
 それはすみませんでした。乱歩の言葉にそう言う問題も起きるのかと事態を把握した太宰が謝罪をしようとしていた。だがそれよりも早くに福沢が乱歩をしかりだしていて二人の会話にどうしていいのか戸惑ってしまう。呆然と二人を見つめるのにため息をつくのはまたも福沢だった。再び兎に角いくぞと手を差し出してくる。差し出された手を見つめてから太宰は立ち上がった。あまりお腹はすいていないから行きたくないのだけど。思ったものの言いはしなかった。
「太宰は何処か行きたい店があるか」
「僕はね」
「乱歩には聞いてない」
「ちょっと太宰にだけ優しくしすぎじゃない。僕にも優しくしてよ」
「人がいない間好き勝手していた奴に言われたくはない。菓子の食べかすも捨てずにそのままだろう。洗濯もしておらぬし。少しは家のこともしておけ」
「僕は名探偵だから推理をするだけでいいんだよ。それ以外のことは他の人がやることだ」
「そんなのではいつまで経っても一人暮らしなどできんぞ」
「僕はずっと福沢さんちに居座るからいいの」
 流れるようにされる二人の会話を太宰はぼんやりと聞いていた。靴を履き玄関を出た所で聞かれたのに私はどこでも。お二人が行きたい所へと返そうとしていたのに乱歩の方が先に声をあげて言えなかった。それから続く二人の話。今なら二人から離れても気付かれないのではないだろうか。そんなことを考える。どうせ店についても食べることもできないし、それにいまだに福沢の家に暮らすことになったことについて考えが纏まっていない。一日ぐらいは準備期間がほしい。
 考えながら太宰はゆっくりと足を動かしていた。二人で話す福沢と乱歩を見つめながら次の曲がり角で二人から離れようと。
「太宰」
 声と共にがしりと太宰の腕は福沢に掴まれてしまった。お前は何処に行きたいと再度問い掛けられる。
「仕方ないから今日はお前の意見を聞いてやるよ。明日は僕が食べたいものだからね。で、どこ」
「はぁ。……えっと何処でもいいんですが」
 問われ奇妙な声が出る。何か言ってはいけない気がしながらも太宰はそういってしまった。ほら! と乱歩が何故か声をあげる。じゃあ、言いかけたがならば近くで良いなと福沢は丁度近くにあった大衆食堂に入ってしまっている。ちょっとと乱歩が声をあげるが聞いていないふりをしていた。三人と告げて席に座るのに手を握られたままの太宰は自ずと福沢の隣となってしまう。たくさと、半目の乱歩が正面から太宰と福沢を睨んでいた。
「お前もここは好きだろう」
「好きだけど外食ってなったらいつもここじゃん。たまには別のところがいい」
「ここが一番近いし安い。それに早い。で、注文はどうするんだ。いつものでいいのか」
「えーー、オムライスもハンバーグもさんざん食べたからな。今日は別のがいい」
「たく迷惑かけおって」
「福沢さんが悪いんだもんね」
「お前は何が食べたい」
 二人が話し出すのをまたぼんやり聞いていた太宰は突然言われてへっと声をあげた。メニューに目を落とす太宰は顔には出さないものの困る。頼んだところでどれもこれも食べられる気がしないのだ。無理矢理にでも捩じ込んで後で吐き出す未来しか見えずどうしようかと悩む。ただメニューを見る顔はいつも通り笑っていた。おすすめはどれですかなんてとう。
「お勧めか。そうだなお前ならばこれなど好きなのではないか」
「そうだね。蟹好きだし。これにしなよ。僕はとね」
 でもと言う反論の声は言えずに終わってしまった。どうしたらいいのかと太宰は固まった笑顔のうちで考える。これが良いと言われたのはかに玉定食。かに玉だけであれば何とか飲み込むことはできそうだが定食となると厳しい。もっと別のものをと思うもののぱっとどれがいいのかがでてこなかった。考える内にもう福沢が店員を呼んでいて。
「かに玉定食とアジフライ定食を一つずつ」
「かに玉定食とアジフライ定食を一つずつですね。畏まりました」
 福沢が店員に注文を頼んだのにあれ? と太宰の目が瞬く。社長のぶんは頼まないのですか。問い掛けた言葉。何を言っているんだと乱歩が呆れた目を向けた。
「福沢さんが食べちゃったらお前の分残すことになるだろう」
 へっと間抜けな声が出る。どう言うことですか。問いかける声は本気で不思議がっていて。
「全部は食べられぬだろう。食べられる分だけ食べたらよい。残った分は私が頂くから」
 はぁと呆けた声が太宰からはでた。何を言われたのだろうと福沢を見つめている。
「え、それでしたら社長が食べたいものを頼んだ方が良かったのでは」
「お前が食べるのだからお前が食べたいものの方がよいだろう」
 ええと太宰の目が何度も瞬きをする。私より社長の方がと思うもののそれを口にすることは出来なかった。諦めなと乱歩が太宰に向けて言うのにまた呆けた声が出てしまう。
 暫くの間乱歩がずっと話していた。話していたのは太宰と福沢がいなかった二週間の間の話で福沢が熱心に聞くのに太宰は右から左へと聞き流していた。興味がないわけではないのだが聞こうと言う気持ちにはなれなかったのだ。
 乱歩が一通り話し終えたとき料理は丁度運ばれてきた。太宰の前におかれるのに太宰は眉を寄せ福沢を見る。
「まずは先に社長が」
「私はお前が食べてからでよい」
「でも……」
「良いからまず食べられるだけ食べなさい」
 私はそんなに食べないから。言おうとした言葉を福沢の言葉に遮られてしまう。強い目で見つめてこられるのに太宰は口を閉ざした。ではと一口を食べる。隣では乱歩がもう食べ始めていて口にいれた分を飲み込んだ太宰に美味しいだろうと聞いてきていた。もごもごと聞き取れなかったが恐らくそういっていたと思う。
「乱歩。ものを口にいれて喋るな」
「はーーい。で、美味しい」
「はい」
「そりゃあ、良かった」
 迷わず箸を進める乱歩。じっと見つめてくる福沢。太宰はどうしようかと取り敢えずもう一口を含んだ。飲み込んで福沢の方に皿を差し出そうとする。まだ駄目だと福沢の手がそれを止めた。
「まだ食べられるだろう」
「でも」
「いいから。食べられるだけ食べなさい」
 福沢に言われてもう一口二口だけ太宰は口にいれた。考えてもう一口。福沢のもとにもう一度皿を押した。今度は止められることはなかった。ただ受け取られることもなく半端な位置に皿が置かれることになる。どうすればと見つめる先福沢の手が箸に伸びる。太宰が使っていた箸を取ると皿の上のものつまんだ。食べるのかと思ったが、箸は太宰の口許に押し付けられた。
 まるまる目。えっと声が出る。二口と福沢がいった。
「後二口は食べられる筈だ。後二口だけ食べろ」
 あーんと低い声が口にする。似合わない光景を前に一瞬固まった太宰は言われるままに二口だけ食べた。何とか二口だけは喉を通り腹の中へと入っていく。
 ふっと福沢の口角が上がる。
「よいこだ。良く食べたな」
 低い声が優しげにささやく。褪赭が僅かに大きくなり震えた。




 暗い部屋のなかで太宰は起き上がった。家のなか動く人の気配がする。侵入者などではないのは分かっている。気にしなくとも大丈夫なものなのだ。だけどどうにも気になってしまった。


 夕食を食べ終えた後、太宰は福沢の家に帰って風呂にはいることになる。太宰の風呂と言うのは適当なものでシャワーを浴びるだけが殆ど。体を洗うのはごく稀にだった。湯になど浸かったこともない。だから風呂に入るときどうするべきなのか太宰は悩むことになる。福沢の家はちゃんと湯が張られていたのだ。少し悩んで体は洗ってからでた。そして洗面所に置かれていたタオルをみた。体は特になにもしないまま服を着て髪だけある程度拭いてから外にで?。呆れたように乱歩がため息をつき福沢は全くとしかたなさそうに呟く。
「髪を拭いて出てきたのは偉いが体も拭かぬか。ほらこい」
 福沢の手が太宰に向けられた。何をされるのか分かって太宰の動きは止まる。大丈夫ですよ。震える声が言うのに福沢は良いからとそれだけを言った。向けられたままの手。どうしてよいのか分からない太宰の足は勝手に福沢のもとにいっていた。頭にかけていたタオルを福沢の手が取る。船のなかでずっとそうされていたように福沢の手が太宰の髪を拭きはじめて。
「僕も僕も!!」
「分かっているから早く風呂に入ってこい」
「はーーい!」
 濡れているといって服から出ている部分、腕や首筋も福沢の手によって拭かれていく。濡れた上から包帯をしても意味はないぞ。首筋を拭きながら福沢はそんなことを言った。包帯を巻くのに意味などないと知っているだろうに。そう言う福沢を太宰は奇妙な目で見つめる。どうしたと細いわりに固い手が目許にふれて。いえと太宰から浅い声が出ていく。言いたいことはあるけれど喉の奥から言葉は出ていかなかった。
 その後乱歩の髪を拭き福沢も湯に入る。福沢が出た後は暫く居間にいた。十時頃になって寝ようかと言う話がでる。ここが太宰の部屋だからと案内されたのは客間ではなく乱歩の隣の部屋。乱歩の隣のもうひとつの部屋は福沢の部屋でその奥が与謝野の部屋。今は寮に住んでるけどたまに帰ってきてその時は福沢と二人で馬鹿じゃないのって程酒をのみ出すから夕食急いで食べたら部屋にこもる方が良いよとは乱歩の談。そうなのかと思いながら開けた部屋には何時のまにやら今日買った荷物が運び込まれていてすぐにでも眠れるようになっていた。
 おやすみと言って乱歩が自身の部屋に入る。福沢はゆっくり休めと太宰に告げた。
「もし眠れなかったら私の部屋にこい。添い寝でもしてやろう」
 目元を細め、穏やかな声で言われるのに太宰は何も返事を返せなかった。
 福沢がいなくなった後、太宰は布団のなかに入った。だが眠ることはできそうになく。眠れず何度も布団のなかで身動ぎを繰り返す。そんな時に気付いた人の気配。最初は気にしないでいようとしたが結局できずに起き出した。
 太宰は部屋から抜け出して人の気配がする厨へと足を運んだ。入り口に手をかけてやはり部屋に戻ろうかと迷う。どうするのか正解なのか考え答えを見つける前に扉の向こう側から声が聞こえた。
「どうした眠れぬのか」
 低い声は常より僅かに柔かであった。ぴくりと固まってしまう太宰の体。おいでと呼ばれるのに太宰の手は厨の扉を開けていた。そこには思っていた通り福沢がいる。
「眠れなかったか。何か飲むか。暖めた牛乳などは良く眠れると効くが生憎今はなくてな……。生姜湯などでよいか」
「はぁ。……社長はねないのですか」
 問い掛けられるのにどう答えていいのか分からず太宰は逆に問いかけていた。んと首を傾ける福沢は眠る準備を整えていた筈なのに何故か襷をつけ頭には三角巾を巻いている。
「ああ、片付けを夜の内にしておかねばと思ってな。昼のうちにしようとすると邪魔が入るから。後は冷蔵庫の中身を整理するだけだからもうすぐ眠るところだ」
「そうなんですね。言ってくれたら手伝いましたのに」
「よい。おまえはゆっくり休んでいろ。疲れただろう」
 それは貴方の方なのでは。言いたい言葉は音にならなかった。見つめてくる銀灰が音にすることを許さない。いつも強い意思を秘めている目は穏やかに細められ太宰を見つめていた。いまだかつて誰にも向けられたことのない眼差し。突端にどうしてよいか分からなくなる。
「何が飲みたい。すぐ作るが」
「……では生姜湯で」
 別によいです。そう言うはずが太宰は別の言葉をいっていた。分かったと穏やかな声が嬉しそうに笑う。
「居間で待っていてくれるか」
「はい」
 厨からでて居間の机の前に座り込んだ太宰はどうしようかなと再び考え込んだ。こんなつもりではなかったのにと。全部終わったら今度こそ。そのためにすべて捨てたのにまさか。
 太宰の手が己の手を見下ろした。震える左手が手首に巻かれた包帯を外していく。外れた包帯の隙間から覗く白い肌。うっすらとだがついた赤い跡が目につく。指先がその跡に触れる。思い出すのは握り締めてきた熱い手。
 離したくない。
 そう言った声を思い出した。何があっても離さないと言った声は強くて掴んできた手も痛いほど強かった。その言葉通り離してはもらえないのだろうと思えた。逃げてもきっと掴まえられる福沢には乱歩もいるから。
 だからと言うわけではないけれど。
 跡をなぞる。手の形をした跡。離さないでと言ったのは間違いなく太宰自身だった。だけど
「太宰。生姜湯ができたぞ」
 考え込んでいたとき後ろから声をかけられて太宰の肩はぴくりと跳ねた。褪赭の瞳が福沢を見上げる。慌てて腕を隠すがそれはすでに見られていた。すまなかったな。福沢から謝罪の音が出る。痛いか。問われるのには小さく首を振ることしかできない。
「それならよいが。痛くなればいつでも言え」
 優しい声がいい隣には福沢が座った。飲みなさいと差し出された生姜湯。ほかほかと湯気をたてるそれをぼんやりと眺める。どうして。太宰から小さな声が漏れた。
「どうして私に優しくしてくれるんですか。怒りもしないし、こうして一緒の家にまで住まわせる。私がいつまた問題起こすか分かりませんよ」
 問い掛ける声は静かで少しずつ小さくなっていく。長い睫毛が震えた。俯いてしまう頭。蓬髪が顔にかかり、福沢からは旋毛しか見えなくなる。
 少しの間を開けて福沢が口を開く。
「問題なぞいつ起こした」
 低い声にぴくりと頭が揺れた。福沢を見上げかけたがまたすぐに元に戻ってしまう。
「何時ってげんに二週間も貴方を監禁したではないですか」
「私はそう思っていないが」
 弱い太宰の声には戸惑いがこもっていた。答える声ははっきりとしていて、ますます戸惑いが強くなったように指先までも震え始めている
「貴方の意思なく船にのせたんですから監禁したのと一緒でしょう」
「だが私は許している」
 福沢の言葉に何かを言おうとしたのかでもと太宰から声がした。だけどそのさきの言葉は聞こえなかった。震える指先が言葉を探すように握りしめられる。ぽん。柔らかな音を立て福沢の手が太宰の頭を撫でる。福沢もまた言葉を探しながら太宰のきしんだ蓬髪をすいていく。
「太宰。言ったろ。お前をいくらでも甘やかしてやると。欲しがるだけ幾らでもお前に与えてやる。何も私は求めてない。仮に求めていることがあるとしたらそれはお前がこれから先安らかに生きていけることだけだ。だから私に対してそう難しく考えるな。身構えなくともよい」
 低い声が柔らかに太宰に向けて言葉を紡ぐ。結ばれた手を熱い手が握りしめた。福沢には冷たさが、太宰には暖かさが伝わる。どうして。また細い声で太宰が問い掛ける。福沢の目が微かに細められた。
「そうだな。子供のように思っているのだろうな」
 優しい声が答える。片手はずっと太宰の髪をすき続けていた。顔を隠していた髪をあげ、太宰の俯いてしまった顔を見た。迷い子のように揺れている目。頭を撫でる手は僅かに強くなっていた。
「お前のことを乱歩や与謝野と同じような私の子供のように思っているのだ。お前は嫌かもしれぬがな」
「子供……」
「ああ。だから私にいくらでも甘えてくれていい。子供を甘やかすのは親のつとめだからな。それに子供に甘えられると親は嬉しいものだ」
 俯いたままの頭を抱き締めながら福沢はゆっくりと力の入ってない体を己の元に引き寄せていた。肩に凭れさせながら頭を撫でる。太宰の指先に僅かに力が入った。口を閉ざしながら太宰の手は目の前の机に置かれていた湯飲みに伸びていく。まだ湯気の立つ湯飲み。ほんのりと暖かい。だが頭や別の手に触れている福沢の手の方が暖かく、そして、心地よかった。
 こくりと太宰の喉を液体が通りすぎていく。
「それを飲んだら今日はもう寝よう。お前も眠いだろう」
 蓬髪が縦に揺れる。指先は幾ら暖めても冷たいまま。
「眠れぬのなら今日は一緒に眠るか」
 子供を寝かしつけるための声で福沢がとう。抱き締められながら太宰はゆっくりと目を閉じた。口のなかに生姜湯の味が広がる。ん、と返事のような声が静かに落ちていた。

 どうしたら良いのか。
 暖かな温もりに包まれながら太宰はもう一度考えていた。
 甘えてくれてよいのだ。
 そう言った福沢の言葉に嘘はなかった。欲しがるだけ与えてくれると言ったその言葉にも。望めばよいと福沢は言った。だけど太宰は己が何を望んでいるのかさえもう分かっていない。それに甘えると言うことがどう言うことかすらも良くわかっていなかった。
 全部最後にするつもりだったから。
 船に乗った時、正直太宰は己の目的が果たされるなど欠片も思ってはいなかった。薬で眠らせ無理矢理船にのせて監禁した相手の言うことを幾ら元は仲間とはいえ聞いてもらえる何て甘い考えはできない。どうにかして逃げようとするんじゃないかと考えたからこそ鎖で繋いでいたのだし。全てが終わったら、いや、終わる前にはすでに白い目で見られるのだろう。
 そのつもりで太宰はいたのだ。
 斬られることこそないものの、嫌われ探偵社には不要と判断される。辞表届けを出さなくとも探偵社に己の居場所はなくなる。そして何一つ心を残すことなく太宰は……。
 そう言う予定を立ってていた。
 だから太宰にはこれからが分からない。
 これからどんな風に過ごしていけば良いのか。今まで通りでいいのか。そもそも今までがどんなものだったか。分からずに今日一日考えていたけれど答えはでず。その上で言われた子供と言う言葉に余計混乱してしまった。
 嫌、とかではなかったと思う。でもやっぱりどうしていいのか。
 乱歩みたいに甘えて我が儘を言っていいのだとして、でも太宰にはそれすらも分からなかった。船にいる間沢山のわがままを口にしてみたがそれはふりだった。被ってきた仮面を脱ぎながら、別の、わがままな子供はこう言うことを口にするのだろうと作った子供の仮面を被ったもの。それだけに過ぎずそれを脱いだ今甘えると言うのがどう言うことなのかすら理解できない。求めることも望みもわからなかった。
 跡の残る手に無意識に太宰の手が触れていた。
 掴まれた手はとても痛かった。あの時確かに太宰は何かを求めた。だが、それが何だったのか今の太宰にはわからなかった。





「そう言えば太宰さん最近寮に帰ってませんよね。また何かやっているんですか。いい加減にしないと国木田さんに怒られてしまいますよ」
「え、あーー、あーー」
 書類仕事の最中、突然問いかけられた問いに机の上で眠っていた太宰は奇妙な声を出してしまっていた。分かっているよ。大丈夫だからとでも言えばよかったのに言えずどうしようかと眉を寄せてしまう。きょとんと聞いてきた敦の目が瞬いていた。
「どうしたんですか。太宰さん」
「いや……」
 出ていくのは戸惑いの声。何と言えば良いのだろうかと考える。そのうち帰るよは違うし、気にしないでと言った所で気になるだろう。敦は太宰の隣の部屋、しかも耳がいいから家に帰っているかいないかはすぐに分かる。この場は気にしないでで逃れられてもそのうちまた気にされるだろう。一番正しいのは社長の家で暮らしているからと正直に話すことなのだろうがそうすると面倒なことになるのは目に見えている。今ここにいるのは敦と谷崎、それに事務員達だけだが数時間後には探偵社の全員に話が回ってどうしてそうなったか尋問されることになる。それにうまく答えられる自信は残念ながらない。太宰本人がどうしてこうなったのかいまだに誰かに教えてもらいたいぐらいなのだから。
 子供のように思っていると言われ、一応の納得、……納得したが、福沢の行動にはまだ疑問を多く持っているのだ。
「んーー、」
 太宰から苦悩の声が上がる。嘘八百を並べ立て自分の都合のよいように思い込ませるのは得意な筈なのに今回のことに限っては上手い言葉が出ていかなかった。そんな太宰に敦だけでなく、今探偵社にいる全員の視線が集まりだしていた。
「本当にどうしたんですか」
「まさか何か不味いことでもしているんですか」
 恐る恐る問い掛けてくる後輩たちの目は何をしているのだこの先輩は。と太宰が何か本気で恐ろしいことをしている。そう言う目で見ていた。怯えている目を前にはぁと太宰はため息をつく。
「不味いことはしてないけど……、暫く寮には帰らないよ。ちょっと用事があってね」
「用事ですか」
「そんな目で見ないでくれる。本当にそんなに変なことはしてないから」
「じゃあ、どうして帰ってこないんですか」
「それは……」
 問いかけられたのに答えられずにいればやっぱりと幾つもの目が太宰に向けられてしまう。残念なことにその目に対して言える言葉を太宰は用意できなかった。



「と言うことがあったんですよね。なので私そろそろ寮に戻っても良いですか。生活費ならどうにかできますから」
「駄目だ。生活費がどうにかできてもまともに生活せんだろうがお前は」
「努力しますよ」
「信用できん」
「絶対こいつなにもしないからね」
 二人に言い切られてしまうのに太宰はこれはどうしようもないなとため息をついた。つきながら福沢の元に然り気無く自分の皿を移動させる。その皿はすぐに太宰の元に戻ってきたが。もう少し食べろ。低い声、睨みあげてくる目に太宰は渋々もう一口を口に含んだ。
「でもでしたら今後どうすればいいんですか。暫くは聞かれないでしょうが。また何時か聞かれてしまいますよ」
 もぐもぐと食べながら太宰はとう。暫くといっても一週間程度だろうと太宰は見ていた。敦と逆隣は国木田の部屋だ。敦ほど耳がよくないからまだ気付いていないが、もう一週間もしたら気付く筈。敦や谷崎みたいに笑顔で流されてくれるほど国木田は甘くはない。どうにか良い言い訳を考えておかねばならない。それが面倒で寮に太宰は戻りたいのだが。
 じと目では福沢を見てしまうのに福沢は太宰の考えは良く分かっていないようだった。心底不思議そうに首を傾ける。
「本当の事を言えばよいだろう」
「嫌ですよ。面倒なことになるのは目に見えているんですから」
「面倒なこと」
 なんだそれはと聞きたそうな目を太宰は向けられる。またため息が出た。口を膨らませながらもう一口を食べる。不機嫌な太宰に珍しく乱歩が同意してくれた。
「まあ、確かにそうだよね。太宰が社長の家にとかってなると色々みんな聞いてきて面倒なことになるよね。一週間前の事隠して説明するって余計……。あ、そうだ」
 珍しい乱歩の同意に仲間を得た気持ちでそうでしょうそうでしょうと頷いていた太宰は、だけど途中から輝いた顔にあっと顔をしかめた。嫌な予感がした。
「ストーカー対策で社長の家に暮らしだしたことにしよう。お前もだいぶアイツら邪魔だったろ」
「ぁあ」
「ストーカーだと」
 乱歩の言葉に太宰は慌てて止めようと腕を伸ばしていたがそれは福沢によって止められていた。太宰からひきつった声が落ち、福沢からは地獄から聞こえてきたのではないかと思えるような声が落ちた。太宰を見てくる福沢の視線が痛い。
「そうそう。ストーカー。数年前から何人か太宰の周りに張り付いていたんだけど対処するのも面倒だからってこいつずっと放置してたんだよね。直接的な害はないけど部屋に盗聴器仕掛けたり、盗撮したりやったら分厚いラブレターやまあ、汚物送りつけられたりもしてたから、そのストーカー達をどうにかするためってことにしたら国木田とかも何も言わないんじゃないかな」
 どう言い訳しようと落ち込む太宰の耳に聞こえてくる意気揚々とした乱歩の声。その声が何かを話す度に向けられる目は鋭く恐ろしいものに変わっていく。
「太宰」
 地獄から聞こえた声に太宰は何とかはいと返事をした。できればしたくなかった。だがそんな選択を取ることができないほどその声は恐ろしかった。怒られるかと身構えるのに福沢は暫く何も言わなかった。そして聞こえてくる深いため息。
「取り敢えずストーカー対策でお前は私の家に泊まっていることにするぞ。それなら良いだろう」
「はぁ……」
 声からは怒りが僅かに消えていた。いや、消えてはいないが抑え込まれていた。なぜと戸惑いの浮かぶ目で太宰は福沢を見つめる。福沢の目はいまだ鋭いものだが何処か諦めのようなものが滲んでいて……。どうしてなのだろう。考えるのに福沢の手が伸びた。太宰の頭に触れ撫でてゆく。
 へっとますます戸惑った声が太宰からは出る。何故今この状況で撫でてくるのか。それがわからなかったのだ。
「どうせ意味はないだろうが、お前はもう少し自分を大切にしろ」
 幾分か穏やかになった声が太宰に聞こえる。太宰はそれに返事ができなかった。意味が分からなかったのだ。



[newpage]

 にゃんと聞こえてきた声に部屋でぼんやりと座り込んでいた太宰は顔をあげた。にゃんにゃー、先程までは何の音も聞こえてなかったのに一度耳についてしまえば沢山聞こえてくる。にゃーにゃー。ここに来てから何度か耳にした声だが今日はやたらと騒がしい。
 何かあったのだろうか。
 太宰はそんなことを何処か靄がかった思考のなかで思った。思いながらころんと布団の上に転がる。今日は非番の日だった。乱歩は出張でおらず、福沢もまた仕事でいない。福沢の家に一人残った太宰は何をしてよいのか分からず自室でぼんやりと何もせず過ごしていて。
 何かしようかとも考えはしたのだが、今現在は太宰が動くような事態も何も起きていなかった。情報だけでも得ていようかとも思ったものの福沢の家には情報を得るための機器がない。太宰の手元に携帯はあるもののそれは乱歩にお金を出すのは福沢さんだからと無理矢理選ばれた子供用のもの。電話とメール以外はできない。外にさえでれば幾らでもやりようはあるが、……そこまでする気にはなれなかったのだ。
 だから半日ほどはただ起きていた。何かを考えることもなく布団の上でひたすらに起きていた。
 そんなときに聞こえてきた猫の声。どうでも良いかと思いながらも太宰の体は動いていた。緩慢な動きではあるが立ち上がり鳴き声の聞こえる庭へと足を運ぶ。そこで太宰は小さくだが目を見開かせた。
 社長と驚いた声が出ていく。銀灰の瞳が太宰を見た。起きたのかと問い掛けてくる低い声。夕方になるまでは帰ってこないと思っていた人物がそこにはいた。
「仕事だったのでは」
 小さく問いを溢してしまってから太宰はしまったと顔を歪める。先に問い掛けられていたのを忘れてしまっていた。答えなければ。そう思う前に福沢の方が答えていて。
「仕事は午前だけで午後からは休みにしていたのだ。お前を一人にするのも心配だからな」
 はあ……。奇妙な声が太宰から出ていく。心配と小さな声が溢れ落ちていく。ことりと首を傾けたのに福沢が呆れた目で太宰を見ていた。じっと観察するようにみ、ため息をつく。
「朝は寝ていたから起こさなかったが、やはり朝食を食べなかったな。全くお前と言う奴は。机の上に用意しておいたし、部屋の前にも書き置きをしておいただろう。三食ちゃんと食べろと言っておるのに何故理解せん。
 ……お昼は何が食べたい」
 それから言われた言葉に太宰はあっと間抜けに口を開けた。そう言えばそうだったかもと。朝眠っていたと福沢は言っていたがうっすらと起きていた太宰は福沢が部屋の前に何かを置いてから出掛けるのにいなくなってから確認したのだ。メモには朝食は食べるように。用意してあると確かに書かれていた。後で食べようと思って忘れていた。
「すみません。……朝のぶんを食べますので別に昼は」
「お前は朝が一番食べぬからお握りしか用意してない。もう少し何か食べて貰わねば」
 はあとまた太宰から奇妙な声が落ちた。何度かまばたきを繰り返す。ぽかんと太宰の口があいて間抜けな顔で福沢を見つめた。とても不思議なことを思い付いた。そんなことはないと思うが……、そうではないかと思ってしまう。太宰からぼそりと小さな声が落ちた。
「もしかしてこの為に休みにしたのですか……」
 驚きながら太宰が問うのに福沢は何を驚くのかと逆に驚いて首を傾けてみせた。当然だろう。そんな風に。見開いていた目がさらに見開いて動きを止める。はぁと福沢がため息を落としていく。
「放っておいたらお前は夕食まで食べんだろう」
 呆れたような言葉。固まっていた太宰がきょとんと一つ瞬きしてそれから顔の筋肉をひきつらせながら笑う。
「そんなことは……」
「嘘をつけ」
 ありませんよとは自身でも言えなかったし、言おうとする前に福沢にも否定されていた。はぁと再び福沢はため息をつく。呆れた目が太宰を見るが思いの外それは優しい色をしていて。仕方ないなと溢れる声に怒りはない。
「さて昼食を作ってくるとするか」
「私も手伝いますよ」
「よい。それよりお前は服を着替えてこい。何時まで寝巻きの姿でいるつもりだ」
 立ち上がった福沢に慌てて太宰は言葉をかける。だがそれを否定されるのに己の姿を見下ろした。部屋のなかにいただけの太宰は着替えをすることすら忘れてしまっていて福沢のいう通り寝巻きのままだった。やってしまったなと肩が落ちる。
「……はい」
 か細い声が出た。太宰の傍を通る時、福沢の手が蓬髪を撫でていく。僅かに固まる体。傍を通りすぎた背を追いかけて足元でにゃと鳴き声があがった。振り返った福沢の顔は微かながらも穏やかな笑みが浮かんでいた。また後でな。軽くしゃがんで猫の頭も撫でる。猫はそれに満足したように庭に戻っていく。尻尾がぴんと立った猫の後ろ姿を何となく追い掛けた太宰は後になってゆっくりと首を傾けた。
 その頃には福沢の姿はすでになかった。


「御馳走様でした」
 皿の上に残るお握り。別の皿には焼き魚が半分よりは少し少なめに残り、和え物が後一口ぶんだけ残っていた。恐る恐る太宰の目が福沢を見る。箸置きの上に置いた箸からは手は離されず少しだけ先端が揺れた。福沢の視線はじっと太宰の皿の上を眺めていて。きゅっと引き締められている唇が形を変えた。
「うむ。良く食べたな」
 聞こえた声に太宰はほっと息つく。指先が箸から離れ床の上に落ちる。お腹一杯だとでもいうようにもう一つの手がお腹の上に置かれるのに福沢の綻んでいた口許がまた少しだけ険しさを覚えた。
「だが無理にとは言わぬが後もう少しは食べられるようになれ。それではまだ少なすぎるぞ」
 太宰が福沢をみて唇を尖らせる。こくりと縦に動く頭は頷きながらも拒否しているのが容易く分かるものだった。これ以上は無理だと無言で訴えるためか太宰の体は畳の上に転がる。ごろんと横を向く太宰に呆れた目を向けてしまいながらも叱ることはしなかった。
「昼は何か予定はあるか」
 太宰が残したものに箸をつけながら福沢が問いかけたのに太宰はん? と見上げた。何かあるのかと警戒してゆっくり首を横に振る。隠していた書類が見つかった雰囲気は昨日はなかった。今日気付かれたとも思えないのだが……。
 じっと見つめる太宰に何かやらかしているなと逆に気付いてしまいながら、今は良いかと福沢は追求することをあきらめた。言うつもりだったことを言う。
「夕方一度買い物に付き合ってもらえるか。夕食の買い出しをしたくてな」
「分かりました」
 逆立てていた毛が福沢の言葉と共に解かれた。何だそんなことかと思うもののそれでもげっという声はでていた。面倒だな。思ったことが正直に顔にでるが嫌だとは言わなかった。ごろりと太宰の姿が横に転がる。拗ねたように小さく丸まるのに柔らかな苦笑を福沢は浮かべた。
「それまではゆっくりしていろ」
「はい……」
 一瞬だけ福沢を見上げた太宰はすぐに目をそらした。気まずげに顔を隠す。福沢は太宰の食べ残しを食べ終え、食器を纏め立ち上がった。洗おうと厨にむかう。その姿を見送ってから太宰はむくりと起き上がった。はぁと太宰の口からため息が落ちていく。机の上に上体を預ける太宰は水音のする厨を見つめる。どうにもなぁ。そんな声が落ちていた。にゃあ。猫の声が聞こえる。そちらに目を向ければ数匹の猫が縁でごろごろと転がっているのが見える。猫たちが見つめているのは厨で福沢を待っているのかとまた太宰もそちらに目を向けた。はぁと一つのため息と共に太宰は目を閉じていた。
 眠っていたわけでもないのだが、少しぼんやりとしすぎていた。
 ことんとすぐ傍に何かが置かれる音に肩を跳ねさせた太宰はそんな己に心のなかで息を吐き出す。ほらと柔らかな声が降ってくるのに上を見上げた。洗い物が終わったのだろう。そこには福沢の姿。傍におかれたのは湯気をたてる湯飲みだった。反対側にも同じものがおかれ腰かけた福沢が口をつける。ならばこれは自分用かと太宰は湯飲みを見下ろした。触れた湯飲みは湯気をたてているわりには熱くなかった。口に含んでもさほど熱さは感じず丁度よく冷まされている。太宰の目がちらりと福沢を見た。何だかな。思いながらも無言で飲み込んだ。
 にゃー猫の声が聞こえる。福沢の視線が声に向かった。ふっと口の端が上がる。こらっと全然叱り声になっていない声が福沢から聞こえて。
「床が汚れるからなかには入るなと言っているだろう」
 畳の上に前足をのせた猫がたしたしと片手で地面を叩いていた。怒られてもどこふく風でにゃーにゃーと気ままになく。仕方ないと福沢が立ち上がった。畳に前足を乗せている猫を抱えあげ縁側へと座り込む。福沢の膝に乗った猫の尻尾がぴんと立ってはゆらゆらと揺れた。にゃあにゃあと福沢のもとに猫が集まる。
 何となく福沢の様子を目で追いかけていた太宰は幾度か瞬きをした。一歩ぶん太宰の体が福沢のもとに近付いた。背を伸ばしてまじまじと猫に触れている福沢をみた。武骨な指が小さな猫の顎の下にまわり触れている。ごろごろと喉がなる。
「猫が、好きなのですか……」
 その手元を覗き込もうとする太宰は気づけばかなりの距離を積つめていた。声をかけてしまうのに福沢は少し驚いた。興味を持つとも声をかけてくるとも思っていなかったのだ。
「太宰」
 目を向ければじっと猫のように見上げてくる目と目が合う。不思議そうに見開いている目は幾度か横に傾いた。
「そうだが……。知らなかったか」
「……知ってはいましたが実際に貴方が猫と一緒にいるのを見るのは初めてでしたので」
「……そうだったか」
 福沢の指に猫のざらりとした舌の感触が伝わった。止まっている指を動かせというように鳴く。太宰の言葉にはてと記憶を辿っていた福沢は意識こそしなかったものの猫の喉を撫でていく。そろそろ私たちもというように膝の回りの猫が頭を擦り付けた。
 何度かあったような気がするが太宰はいなかったか。考え込むのに太宰が口を開く。
「夏目先生と一緒にいるのは見たことありますが……、あれはなんと言うか別のものと思っていましたので……」
 躊躇うように言葉にする太宰は福沢のもとに集まる猫をじろじろと見る。夏目先生ではないですしねと呟かれるのにぐっと福沢の喉がなった。その話しはするな。そんな低い声が出そうになったのを堪えたものの手が額に触れるのを止めることは出来なかった。深いため息が溢れ落ちそうになる。
 別のものも何も本気で猫だと思って接していたが。
 んにゃ! 膝の上にいた猫の尻尾が膨れ上がり物凄い勢いで福沢から離れていた。その時鋭い爪が触れていた指先を切り裂き赤い血が吹き出したが痛みの声が上がることはない。はぁとため息のような安堵したような息が福沢から漏れた。痛みが僅かに福沢に冷静さを取り戻させそして思い出したくもない記憶を甦らさせた。
 太宰の位置からして己の表情が見えないことを確認して遠い目をした福沢はこれではいかんと太宰を見た。太宰は福沢を見ておらず福沢の周りの猫たちに視線を向けていた。距離を取っている猫たちに福沢は手を向ける。恐る恐る近づいた猫たちは最後の一歩は急につめてくる。また集まりだす猫たちは誰が福沢の膝の上に乗るのかで喧嘩を始めていて……。
「お前も触れてみるか」
 その中の一匹を抱えあげた福沢が聞くと太宰は驚いた声をあげた。何を言われたのかとぽかんと口を開ける。
「気になるのなら実際ふれてみるのが良い。触れて危険なものでもないからな」
「……はぁ」
「ほら、おいで」
 福沢の手が先程猫を呼んだように太宰に向けて手招きをした。手招きする手を見つめる太宰に猫の姿が重なる。じりじりと近づく太宰。ここに座れというように福沢の手が隣を叩いた。時間をかけて座り込んだ太宰だがその肩には妙な力が入っていた。
 にゃあ。一匹の猫が興味を抱いたのか太宰の膝を叩いた。てしてし。触れてくる感触に余計に体に力が入る。楽にしろ。そう声をかけながらも福沢は隣の膝に抱えていた猫をのせていて。暖かさと重みに太宰の口許が大きく歪んだ。泣き出しそうにも見えた歪みに福沢の動きが一瞬止まる。嫌だったか。だが。少しの間考え込んでから手が太宰の膝の上の猫に伸ばされた。置かれた時の体制のままごろんと横になる猫は撫でられるのににゃと声をあげる。
「撫でてみろ」
 促せば固まっていた太宰の体が壊れた人形のように動き出した。ぎこちない動きで膝の上の猫に爪の先が触れる。そのぐらいではなにも感じないだろうに大袈裟に肩は跳ねまた動かなくなった。福沢の手が白い手の近くで猫の毛を毛の流れに沿うように撫でていく。それに合わせるように毛先に僅かに埋もれた指先が猫の毛を解かす。少し解かしてはもとの位置にもどり、同じように解いていく指は隠れる範囲が徐々に深くなっていく。
「どうだ」
「暖かいですね」
 問い掛ければ太宰は猫に視線を向けたまま答えた。指先は毛のなかに隠れているものの触れているのは指先の僅かな面だけだった。
「……何ですか」
 じっと見つめ続ける福沢の視線がようやく気になったのか猫に向いていた太宰の視線が福沢に向いた。問いかけてくる声にふむと福沢は一度口を深く閉ざした。言ってもよいものか考える。
「意外だなと。お前はこう言うのにも慣れていると思っていた」
 ぱちりと太宰の目が何度か閉じた。ぽかんと開いた口が固く閉ざされる。褪赭の目が蓬髪に隠されてしまう。僅かに見えた瞳は暗い色を宿していた。
「慣れてなんていませんよ。……生き物にさわるのは苦手でしたから」
 影に隠れた口元が低くなった音を出す。ねこがするりと太宰の手元から逃げ出していた。福沢の目につむじが見えていた。
「……何ですか」
 ぽんと触れる感触に太宰の目が見開いた。ぽんぽんと連続で続くその感触を太宰は知っていた。たった数ヵ月の間に随分馴染んでにしまったもので……太宰はゆっくりと顔をあげた。福沢の腕が見える。太宰の頭を撫でる福沢の腕が。
「こうしてやりたいと思った。嫌か」
 問い掛ける低く穏やかな声に太宰は答えなかった。俯く。ただそれだけ。にぁとと戻ってきた猫が太宰の膝を肉球の先で叩いた。膝の上に乗った猫の小さな腕に太宰の指先が触れた。
 気まずさをまぎらわせるようにつんつんと何度も触れていく。福沢の手も何度も太宰の頭を撫でていて……。随分な間そうするのに太宰の手が止まってしまう。
「何時まで、するのですか」
 太宰の目が下をさ迷う。
「……その触って欲しそうですよ」
「そうだな」
 にぁあにぁあと二人の間で猫が鳴いていた。


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