暗い、一寸先すらなにも見えないぐらいに暗い。その闇の中に何かが蠢いていて。逃げようとしても足が動かず、震える体に冷たいものが絡み付いてくる。それが体を締め上げるのに悲鳴をあげる。痛い苦しい。悲鳴をあげるのに締め上げる冷たいなにかが開いた口に押し込まれる。ごぼりと口の中から食道を通り胃の中まで入り込む。声があげられず息をするのも苦しい。
 目の前が真っ暗になり、また鮮明に変わる。痛い痛いと叫んでも気絶することだけはない。口のなかから入った何かは胃の中で暴れ激痛をもたらす。やがて焼けつくような痛みと共に胃が避け腹の中から鋭い何かが姿をあらわす。
 ぼたぼたと腹をから流れ足を汚し床に落ちていく生温い液体。鉄の臭いが辺りに漂う。
 ぐったりとした体。顔がぐちゃぐちゃに濡れていた。ざっくりと体の中に入った何かが胃から口の間を切り裂いてでていく。叫ぶこともできない。熱くぬるついた液体が体を包む。体はひんやりと冷えていた。蠢く肉の感触。
 びちゃびゃと音が聞こえるのになにも見えない世界でその音が舌舐めずりの音だとすぐに分かってしまう。動けない体が震える。嫌だと再生しかけた喉が音を鳴らすがそれが通じることはない。見えない何かが近づいてきて。左手に痛みが走った。許容範囲を越えた痛みにそれが痛みだと気づくのに時間がかかった。肩に何かが刺さる。痛いと遅れて思う。ぱっきりとプラスチックがおれるような軽い音で骨がおれていく。磨り潰されていく見開かれた目に冷たいものが触れる。それが舌であることにきづくまもなく嘗め回される痛みに叫ぶ。ずりりと瞼と眼球の隙間から舌が入り込み抉りとっていく。腹はすでになかった。足には牙がたてられていて

 あああああああああああああああ!
 獣の咆哮のような声が聞こえる。あまりに大きなその声はその大きさに何処か遠くから聞こえてくるように思えるが存外近い所からであった。一体何処からぼんやりとした頭で考えうっすらと眼を開けた太宰はそれが己の口から出ているものであることに気付く。止めねばと思うのに止めることもできない。
 喉が痛い。心臓がばくばくと音を立てていた。
 だけどそんなことを忘れてしまいそうなほど体中が激痛に揉まれていた。痛い。痛い。痛いと何処もかしこもが悲鳴をあげて脳が溶けてしまいそうなほど痛く苦しかった。
 ああああああああああ!
 絶叫が耳に届く。長く止むことがないのではないかと思うほど続いた声が終わりを迎えたのは叫ぶ体力すらも尽きてからだった。それまでずっと喉が枯れても叫び続けていた。意思では止められなかった。
 ぐったりと弛緩した体。指一本動かす気力もないのに口からはあ、あと絶叫になりきれない声が幾度も落ちていく。震えることもできない体は冷たくなりながらも大量の汗をかいていた。
 恐い。痛い。
 そんな言葉が浮かんでは太宰のなかを満たしていくのに太宰は誰かの声を聞いた。低いその声は太宰が知っているもので、太宰が安心するものだった。その声の主を探してギョロりギョロリと目が動く。太宰。太宰の名を呼ぶ声。それと共に銀色が視界に入る。銀灰の目と目があって。
 太宰。
 呼び掛けてくる声は何故か掠れていて、その唇の端には噛みきったのか血が流れていた。ふっと自身の体が福沢に抱き締められていることに気付く。その力はとても強く、触れている箇所から温もりが伝わってきた。声が掠れているのは必死に太宰に呼び掛けていてくれたからだろうか。
 体中からわく恐怖が経ちきれることはないものの幸福感が太宰の中にわく。
「……福沢さん」
「ああ、ここにいるよ」
 求め手を伸ばそうとしたがそれはぴくりと動く程度だった。福沢の手が太宰の手を掴んで指を絡み合わせる。優しい声と優しい目。繋いだ手とは逆の手が太宰の頭や頬を撫でながら流れた汗を拭っていく。
「福沢さん、福沢さん」
「ああ。大丈夫。私がここにいる」
 確かめるように何度も名を呼んだ。その度福沢は答えてくれる。目で肌で耳で鼻で、感じられるすべてで福沢を感じ包まれながら、脳裏にはちかちかと夢の光景が繰り返し流れていた。何もない筈の体に激痛が走っている。
「痛い、痛いです。体中が千切れたように痛くて体全身を食べられて骨も全部食い散らかされるのに気を失うこともできなくて……
 痛い」
 言葉が支離滅裂になっているのがわかりながら上手く話すこともできなかった。痛みが強すぎてまともに考えられない。ただ安心したくて福沢に手を伸ばす。
「痛いよ」
 どうしようもできないことを分かっていてそんなことを幾度も口にした。助けてと声にはできないが思っていた。福沢の抱き締めている腕が震える。痛いほど強くなりながら低くなった声がすまぬと声を漏らした。なにもしてやれなくて。
「すまぬ。太宰」
 動けない体を動かして首を振った。痛くて苦しくて助けてと思ってしまうが別に何をしてくれなくとも良いのだ。傍にいてくれるだけで少し安心できる。
「福沢さん、ここにいて」
「ああ。ちゃんとここにいるよ」
 願いを口にするのに福沢の腕が太宰の頭を撫でていく。

 ぽんぽんと背を叩く感覚。起きてから随分と長い時間がたったが未だ太宰は福沢の腕の中にいた。
「まだ痛いか」
「はい……」
 心配そうに問いかけてくる声に太宰はこくりと頷く。尽きていた体力は少しだ戻ってきていた。これなら少しは動けそうかと抱き締めていた体を少しだけ福沢は起こす。一度起きようと声をかけ頷くのを確認するとその体を抱き上げて居間へと運んでいた。抱えあげた状況で座椅子を手繰り寄せ太宰を座らせる。ずるりとずれる体の下にありったけの座布団の敷き、整えてから厨に向かう。目で追いかける太宰に大丈夫と頭を撫でた。太宰から見えるよう襖は明けたままにした。
 鍋と牛乳を取り出して暖めていく。何時もより蜂蜜を多くしながら、冷たくなっていたことを思いだし、生姜もほんのすこしいれていた。コップに注いで太宰の元に持っていく。太宰は福沢を不安そうに見つめながら痛みから逃れようと小さく身を丸めていた。
 一度コップを置いて小さくなった太宰の体を抱き上げる。大丈夫とその頭を撫でた。ぽんぽんと叩いて少し安堵するのを感じてから太宰の手に暖かいカップを持たせた。熱いほどの温もりに太宰は眼を細めた。飲みなさいと優しい声に囁かれこくりと頷く。
「ありがとうございます」
 ゆっくりと湯気のたつコップに口をつける。甘い味が広がる。熱いものが口のなかを通り、喉から胃の中に落ちていく。冷えていた体が中から暖まっていく。外側からも抱き締められ密着する福沢の熱で暖められてほうと安堵したように息をつく。
「おいし」
 自然とでた声に抱き締める腕が強くなり福沢は無防備にさらされる首元に頭を刷り寄せた。今も辛そうではあるものの初めの頃よりは落ち着いてくれたようでほっと胸を撫で下ろす。冷えていた体にもだいぶ温もりは残っていた。張り付いた頭を撫でようと手を向けた時、福沢聞こえてきた太宰の声に動きを止めた。
「やっぱり思い出さない方がいいんでしょうか……」
「嫌になったか」
 ぴくりと指先が微かに揺れる。あれだけ恐がっていたのだからそれもそうだろうとは思うものの諦めてほしくはなかった。ぎゅっと唇を噛む。太宰は緩く首を振った。その目は迷うように下をむく。
「……そうじゃないけど、こんな日が続くと貴方に迷惑でしょう」
「そんなことはない。これぐらいの事を迷惑とは思わん」
「でも……」
 福沢の目が少し見開いた。魘されることは時々あったが今日は一段と酷かった。恐らく記憶を思い出していけば行くほど悪夢で魘される頻度も酷さも増すだろう。そうなれば太宰もそして、傍にいてくれる福沢もまた眠れない日々を送ることになる。それでは負担がかかると福沢のことを気遣ってくれる気持ちが嬉しかった。だから大丈夫だと言った。出来ることなど限られているがこれぐらいのことでも太宰のためになるなら福沢はそれをずっとし続けてやりたかった。迷う太宰の頬にてを送る。
「恐いか」
 聞くと太宰は少し眼をさ迷わせてこくりと頷いた。
「…………痛いんです。今も。とても痛くて」
 太宰の腕が体を抱える。体には特に傷などはない。古傷等はあるものの痛むようなものではない。それでも体全体が何かに噛まれたように噛み潰されたかのように傷んでいた。
「変ですよね。何をされた訳でもないのに」
 自嘲するように太宰が笑おうとするのをその口許を抑えて塞いだ。逆の手が太宰の頭を撫でていく。
「思い出した痛みに体が引き摺られているのだろう。そう言うことはあるものだ。変ではない。何もしてやれずすまない」
「そんな。傍にいてくれるだけで充分です。欲を言えば……このままずっと朝まで抱き締めていて欲しいです」
「それぐらいのことは欲とは言わん」
 きゅっと太宰の願いに抱き締める腕を強くしてぽんぽんと叩く。朝までずっとこうしていようと囁けば太宰は小さく笑った。朝までどれだか時間があると思っているのですか。少し明るくなった声が言うのに良いではないかと強くする。
「……痛い」
 抱き締めていると太宰がポツリと呟いた。その声は少し震えていて。
「痛いです」
 太宰の声が聞こえる。同じことを何度も繰り返しながら太宰は福沢の体にその身を擦り寄せていく。痛い。痛いと呟くのにぽんぽんと叩く。
「後何度こんな痛みを体験することになるのでしょう……。それが恐くて……」
「ああ」
 涙は出ていないのに泣いているのではないかと思うような声が太宰からはでて体を震わせないよう我慢しているのが伝わってきて我慢しなくてもいいのだと伝えるように手を頬や頭、腕へと這わせていく。
 ほうと息をついた太宰はとおいめをする
「でも思い出したいんです。
 みんなとの思い出をそれに……」
 きゅっと、太宰の手が福沢の手を握りしめた。握りしめてお守りのように自分の胸元にあてる。
「思い出さないと私……家族に会えないんです。良守と会うと記憶が刺激され思い出そうとするのが分かります。だからもし家族と再会してしまえばその時私は全部の記憶を思い出してしまう。急に記憶を思い出したりしたきっと」
 一時強く閉じられた瞳。その目が時間を置いてゆっくりと開いた。ゆらゆら揺れる褪赭の瞳は苦しげで。
「その方がいいんですかね。私みたいな人間そうなった方が……。幸い昔の私も感情豊かではありませんでしたし、多分……」
 昔の自分を太宰は思い出す。悲しいとも苦しいとも思わなかった。楽しいや幸せという感情はほんの少しだけあった。でもそれを自身で分かることができずいつも同じような顔をして過ごしていた。殆ど感情のない子供。そんな子供だったから。
 そうしたら早く会えるかなと思った。そんな太宰の頭を撫でていた手がやんだ。見上げると目元に皺を寄せた苦しそうな顔が太宰を見ていた。
「そんな筈ないだろう。そうなればご家族も悲しむ」
 低い声が咎めるように太宰に言う。
「……気付かないかも」
「そんなことはあり得ない。絶対に気付く」
 強い否定の言葉を返され太宰の目は震えた。そうだろうか、そうだと嬉しい。だけど思い悩むのに福沢の手が頬に触れて迷う目に自分が写るようそっと動かした。写る福沢の姿に太宰の心が震える。
「それにそんなことになれば私も悲しい。私を置いていくのか……」
 とても悲しげな顔。銀灰の目に涙が溜まっている。
「ごめんなさい」
 それまでとは違う意味で太宰の声が震えた。身を寄せれば抱き締めてくれる腕。この腕を太宰が求めるように福沢も太宰を求めていくれることが嬉しく求められる限り傍にいたいと思ってしまった。
「辛いかもしれない。それでも最後までずっと傍にいるから」
「……はい」
  優しい手が何度も太宰を撫でていく。太宰は触れていく手に身を寄せて安心できるまで眼を閉じた。


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