空の手

 福沢が目覚めるとそこは見知らぬ場所だった。目覚めたばかりでぼんやりとしていた頭が即座に覚醒する。パニックに陥りかけるのを福沢は自分を律することで抑え、冷静に周囲を観察することに努めた。

 福沢がいるのはどこかの子供部屋だろうか。随分と色鮮やかな内装をしている。カラフルな壁紙に床には色々な形をしたカーペットが敷かれ、猫の形をした机がある。その周りには鮮やかに色付けされた椅子が二脚並ぶ。可愛らしく幼い子供が遊んでいるのが似合うように思える見た目。だがそんな姿を思い浮かべることが出来ぬほどその部屋には物がなかった。
 あるのは先程述べた机と椅子。そして福沢が横たわるベッドだけだった。
 そのベッドの上で福沢はぐいと手首を動かす。起きたときから違和感は感じていた。その違和感の原因を確かめるべく動かしてみたら福沢は自らの両手に掛かる鎖を確認した。ベッドの左右の足にくくりつけられているそれは長くベッド上であれば自由に体を動かすことが可能だった。他には何もつけられていない。刀が取られている事以外は着ているものなどにも変わりはなかった。

 敵に捕まったのだとしても不可解すぎる状況に福沢は眉をひそめる。

 何が起きているのか把握するため、目覚める前の事を思い出そうと記憶を辿った。
 その日はいつも通りの日だった。軍警やら政府、企業からの依頼で事件等の多少物騒な事もありながらも、武装探偵社としては特に代わり映えすることがないある意味で平和な一日。特になんの問題もなく終わる一日。
 変わったことがあったとすると仕事の終わった後。今でも共に暮らす乱歩が出張でおらず一人で帰ろうとしていた福沢に、滅多に話すことのない人物が声を掛けてきたのだ。その人物はたまには共に酒などどうですと問いかけてきて、福沢は訝しく思いながらも相談したいことがあるやもしれぬと頷いた。その後、その人物につれられた酒場で酒を呑み……それ以降の記憶がない。
 思い出し福沢はまさかと呟いた。確かにその人物は何をするか分からぬ危うさのある人物ではあったが、此のようなことをするものではなかったはず。またもしそうだったとしても此のようなことをする理由が解らない。此のようなことをしても何の得もないはずだ。

 思考する福沢。そんな彼の耳に扉の開く音が聞こえた。すぐに確認すればそこには福沢が思っていた通りの人物がいる。その人物は福沢をみて嬉しそうに笑った。

「あ、社長。起きたのですね。良かった。一人でずっと退屈だったのですよ。起きたのなら早速遊んでもらわないと。何しようかな」

 にこにこと笑うのは福沢をここに閉じ込めた人物で間違いないだろう。だけども悪意と云ったものは欠片も感じなかった。楽しそうに笑うその笑顔は無邪気な子供そのものだ。状況に合わない上、今まで見た事のなかった表情を浮かべる相手に福沢は戸惑いを覚える。机の下から何やら箱を取り出している相手を驚愕の眼差しで見つめながら福沢は一つ息を呑んだ。

「太宰」

 堅い声で呼び掛ける。自然鋭くなる眼差し。はいと返事をした相手はそんな福沢をみても笑っていた。

「これは何の真似だ。今すぐこの枷をはずせ」

 問い掛けた相手太宰は軽く瞬きをする。んーと小首を傾げてそれから軽い口調で告げた。

「少し旅行をしてみたくなりまして一人じゃ詰まらないので社長にもご同行してもらうことにしたんです」
「……これを同行と言うのか」
「ふっふ。ご安心ください。軽い二週間の旅行ですから。二週間後には横浜の港に辿り着きますよ。それまでは何処の岸にも寄ることがないですけどね」
「港だと……」
「気づきませんでした。ここ船の中なんですよ。そして海の上です。だから何処にも逃げ場はありません。まあ、危害を加える気はありませんし、時期外れの夏休みだとでも思ってください。
 因みに助けが来ることもありませんから、その辺も理解してくださいね」

 太宰は始終笑顔であった。にこにこと笑いながら言葉を紡ぐ。その笑顔に福沢は何か違和感を覚える。だがそれが何か分からなかった。福沢が押し黙ったのをみて太宰は意識をそらす。
 先程取り出していた箱の中を漁り始めた。箱の中から次から次へと色々なものが飛び出してくる。
 それはお手玉だったり、けん玉だったり、独楽にトランプ、ウノ、人生ゲームにボールに積み木、ぬいぐるみにお人形のセット。おままごとのセットに子供用の太鼓。電車の模型……その他沢山。次から次へと出てくるのはどれもこれも子供が遊ぶような玩具であった。部屋の内装を思えばあってもおかしくはないが、太宰と福沢しかいない状況では些か奇妙に写る。それを取り出しながら太宰は唸る。

「うーーん。なかなか良いのがないな」

 呟く彼にふっと福沢は太宰がここに来た当初口にしていた言葉を思い出す。

「早速遊んでもらわないと」
 彼は間違いなくそう云った。まさかあれで遊ぶつもりなのかと思い太宰を見る。箱の中を漁る太宰は真剣な顔をしていた。色々取り出しながらあれも違うこれも違うと唸る。その顔が何かを見つけたのか輝きあっと声をあげた。

「これにしましょう!」

 太宰が手に取ったのは何冊かの絵本。可愛らしい動物の絵が描かれているそれは明らかに子供向けだ。福沢の顔が歪んだ。本気かと云うように太宰を見る。笑みを浮かべた太宰は福沢から数歩あいた距離に座り本を開いた。自分側に本を向けて太宰は読み上げ始める。


「何か詰まらないな……」

 そう云ったのは十分も経たない頃。二冊読み上げただけで、まだ読んでいない本が転がる。それを見下ろしながら太宰は唇を尖らせた。唸りながら箱の中を漁り、それから絵本を手にする。詰まらなそうな顔で見つめて開く太宰。福沢はそれを無言で見つめていた。

 ○

 福沢には今自らの顔つきが相当ヤバイことになっている自覚があった。常日頃から怖いと言われることの多い顔ではあるが、それさえも可愛いと思えるほどのものになっているだろう。今の顔をみれば子供所か共に仕事をしている探偵社の大半も怯え涙を流すだろう。そう云ったものになっている自覚があった。
 だが今共にいる太宰はそれでも泣かない少数派にいる人物であった。その少数派の中でも特に肝の座った部類で福沢の表情に対して何の変化も見せない。むしろ気づいていないのかと思うほどのマイペースを貫いていた。
 食べないんですかと云う言葉と共にばりばりと音が響く。福沢は音の出所である太宰を見、それから自分の手元にある皿をみた。そこには根本が切られただけのキャベツの姿がある。

 二日目の夜、福沢はついに根をあげる。

「太宰」
「何です」

 名を呼べば千切っただけのキャベツをむしゃむしやと食べながら太宰は返事をする。何も悪いことはしていないと云いたげな子供の笑顔をしている。

「この鎖をはずせ」

 きょとんと太宰は首をかしげた。何故ですと聞いてくる。夕食を作ると簡潔に答えると太宰はますます首をかしげた。不思議そうな顔をする。今、食べていると思いますが、ほら。と太宰が見せるのはキャベツの入った皿だ。福沢さんのぶんもちゃんとありますよねと云ってくるのに青筋が浮かぶ。何とか声を張り上げるのだけは抑えてこれは食事とは云わんと福沢は告げた。返ってくるのは何を云っているのだこの人はと云う顔だ。

 この何とも云えない不思議な関係が始まって福沢が知ったのは太宰の不健康な食生活である。
 一日目の夜。その日一日中絵本を読み上げていた太宰は夜になってようやっと本を置いた。そしてそろそろ寝ましょうかと一言。太宰が何をしたいのか掴みきれずそれを見極めるためにもと、取り敢えず好きにさせておこうと考えていた福沢もそれには待ったをかけた。何です。寝たくありませんかと太宰が云うのにそうではなく夕食はどうした。朝から何も食べてないだろう。飢え死にさせるつもりかと云った。すると太宰はポカンと口を空けた間抜けな顔をして、あ、そうでしたそう。気が向いた時にしか食べませんから忘れていましたが、社長は毎日食べる人でしたね。確か。と口にしたのだ。いや、待て、何だそれは。三食食べるとかならまだ分からないでもないが、毎日食べるとかそれは当たり前だろう。むしろ食べない方がおかしいだろうと心の中で太宰に突っ込みをいれた。口にはしなかった。
 じゃあ用意してきますねと太宰は部屋から出ていた。そのあと一人になった部屋で福沢は探偵社で過ごす太宰の今までの生活を振り返った。特に昼時の事だ。基本渦巻で取ることの多い探偵社社員だが、そういえば太宰は行かないことも多かった。行ってもコーヒーだけの日とかもあるようだし、誰かと昼を食べに行くのも週に一度か二度。もしやこれは本当に毎日食べていないのでは。むしろ二、三日に一回とかが基本になっているのではと考えた。頭が痛む思いだ。帰ったら太宰の食生活を正さねばと思うところに太宰は戻ってきた。随分早いのだなと驚いたのだが、太宰がその手に持つものをみてさらに福沢は驚いた。
 太宰は何故か那須と人参を一本ずつ持っていたのだ。何だと思う福沢に太宰は人参の方を差し出した。はいと。えっと戸惑う福沢に夕食ですと告げて太宰は那須をかじった。生のまま。はぁと固まる福沢の目の前で太宰は全て食べ尽くす。そして福沢をみて食べないんですかと聞いたのだ。調理はしないのか。情けないことに福沢の声は震えていた。目の前で起きた事が信じられなかった。それに対して太宰はああと答える。だって面倒じゃないですか。食べられない訳じゃないんですし別にいいでしょう。充分ですと。心の底からそう思っているのだと云う目で言われて、せめて切ってくれとだけ福沢は言葉にした。ええ――、じゃあ、明日からは。その日は生の皮すら剥かれていない人参を食べた。馬になったような気分であった。
 その次の食事は二日目の朝。昨日の事もあり福沢は朝から食事を求めた。でてきたのは大きく切られた大根である。当然のように皮は剥かれておらず、火にも通されていなかった。朝はお腹が空かないからいいやと食べない太宰が絵本を読み上げるなか黙々と食べた。昼はまた人参。切られていたが生は変わらず皮もついていた。昼もいいやと食べない太宰に一口だけでも食べさせて、残りは全部食べた。
 そして夜。我慢しようとしていた福沢だが我慢しきれなかった。
 まともなものを食べたい。何よりまともなものを食べさせなければならない。

「外せ」

 再度福沢が太宰に乞う。太宰は少しだけ唇を尖らせて迷う素振りをする。

「だって逃げません」
「逃げん。そもそも逃げれんだろう」
「そうですけど、私を捕まえてその鎖で捕まえておくこともできますし……」
「そう云ったこともせん。私は夕食を作りたいだけだ。終わればまた繋いでくれても構わん」
「う――ん。まあ、嘘ではなさそうですし、いいか。逃げないでくださいね」
「ああ」

 福沢が頷くと太宰はポケットの中から鍵を取り出して福沢に近づいた。がちゃりと枷をはずす。二日ぶりに自由になった手首を動かし福沢は早速太宰に厨房までの案内を頼んだ。ぱちぱちと太宰の目が瞬く。

「本当に夕食を作るんですね。もしかして野菜嫌いでしたか」

 それ以前の問題だと思いながらも口にはしない。
 案内された厨房で福沢はあんぐりと口を空けた大層間抜けな姿をさらした。は? と一言呟いたきり数分は黙りこんでしまう。何故か厨房の机の上に大量のカニ缶が積み上げられていたのだ。

「ああ、それですか。私が持ち込んだんですよ。二週間ぶんの食事にと。でもこんなのじゃ飢え死にしちまうぞと言って手伝いを頼んでいた輩が勝手に食品も積んでくれたのですよね。別にそれで充分生きていけるのに」

 そんなわけあって堪るか。福沢は口にはしないがそう思った。そして食品を積んでくれた誰かに感謝した。それと同時にせめて冷蔵庫と冷凍庫に入れるものは分けるように教えておいて欲しかったと思った。大体こんな感じですけどと冷蔵庫を開けて太宰が云うのに覗き込んでみれば野菜などと一緒に冷凍食品まで詰め込まれていた。いま、開けているのは冷凍庫じゃなく冷蔵庫である。冷凍食品など使わぬから食べ方は知らぬが、入れる場所が違うことは直ぐに分かる。微妙な顔をしてしまうのに太宰は気付かず、何作るんですかと呑気にとう。
 福沢は太宰の顔を見つめた。そして机に置いてあった蟹缶を見る。それから冷蔵庫。自分の手元にある太宰が作ったと言っていいのかも怪しい料理を見る。最後に太宰に目線を戻した。

「太宰。お前は普段家で何を食べている」
「へ? 家でですか?? 特には何も食べてませんが。食事は渦巻で取りますし、あ、でもたまに蟹缶なら食べますよ。酒のつまみに」

 にこにこと答えた太宰を見つめ、福沢はそうかとだけ呟いた。口には出さぬが帰ったら食生活の見直しのためにも数ヵ月は自分の家に暮らさせることを決定している。太宰の意思は問わない。その時に色々言おう。今は今日の夕食だと適当な食材を手に取り調理場に向かう。そこではたと気付いた。

「太宰。調味料は何処だ」
「調味料? さあ?」

 福沢は太宰の持ち込み品を見る。

「手伝ってくれたと云う輩は調味料までは買ってきてはくれなかったのか」
「……取り敢えずあったの全部冷蔵庫に詰め込んだのでもしかしたらあるのかも??」




「社長、何しますか」

 キラキラとした無邪気な笑顔が聞いてくるのに福沢は無言で返した。太宰を見つめ、箱の中を見つめ何を答えていいのか分からずに黙る。
 船上生活三日目。福沢の手には枷は掛けられていない。夕食を作り食べ、ついでに要らないと云う太宰にも食べさせ元居た部屋に戻った福沢は大人しく枷をかけられようとしたのだが、それを見た太宰はもういいやとあっさりと口にしたのだった。

「それより今日はもう遅いし寝ましょう。明日はたくさん遊んでくださいね」

 期待の籠った目で太宰は福沢を見つめ告げた。

「あ、ベッドは福沢さんが使ってください。私は床で寝ますので」

 そう云って隅で目を閉じるのに何かを言おうとして福沢は口を閉ざした。目を閉じている太宰に毛布をかけて自分は言われた通りベッドで横になった。そして翌日。朝早く起きる福沢に遊びますかと太宰は聞いた。それにダメだと福沢は返す。まずは朝食が先だと。ふーーんと興味無さげな太宰の分も作れば、えー、私要りませんよ。お腹すいてません。と嫌がられた。それでも無理矢理食べさせれば美味しいと笑い、自分で箸を持って五口ぐらいは食べた。その後はもうお腹一杯。無理食べられないと抗議してきて、そんなわけあるかと思ったがそれ以上は無理に食べさせることはしなかった。残った分は福沢が食べ、そして、洗い物をしてからの今、現在。
 太宰はキラキラな目をして福沢に玩具の沢山入った箱を押し付ける。

「何をしたいです?」

 問いかけられるが福沢の年でするようなものはない。いや、私はと言おうとも思うが口にはできず、お前がやりたいのをやれと無難な答えを口にする。太宰はへっと声をあげてそれから考える。箱の中に目を落としてじっと見つめ、手にしたのはけん玉だった。

「じゃあ、これを。まずは福沢さんから」

 はい。と手渡されるのに何か違和感を感じた。だけどそれを口にすることはなく福沢は手に持ったけん玉に目を落とす。腰を下げてひょいと手首を動かした。すとんとけん玉の先に赤い玉が乗る。おーー、と太宰が声をあげた。輝く目が福沢をみて凄い凄いと囃し立てる。もっともっとと云ってくるのに云われるままに福沢は手首を動かし玉の位置を変えていく。その度に太宰は声をあげて喜んだ。
 左下右上、上下左右、様々な順で玉が移動する。きゃきゃと響く声。福沢はその声に内心で首を傾げた。輝く目を訝しげに見つめる。まだもっとと云われるのに無言のまま手首を動かしながら福沢は思案した。


「次の遊びをしましょう」
「その前に昼食だ」
「えーー、朝食べたばかりじゃないですか」

 もう要りませんよ。それより遊びましょうと太宰が駄々を捏ねるのを無視して福沢は厨房へと向かう。歩きながらやっと終わったと息を吐き出していた。
 太宰と遊びはじめて八時間あまりだろうか。時計がないので正確な時間ではないが、大体それぐらいの間ずっとけん玉をし続けた。最初の一時間はずっと福沢がやらされ続け、私もやると言い出してからは交代で七時間近くずっとけん玉だ。何が楽しいのか太宰はにこにこ笑いながらやりつづけた。次はと云われるのにもう勘弁してくれと云いたくなる。また同じことが続くのかと思うと福沢とて嫌になる。どうにか次までの時間を引き延ばそうと料理をするのに時間をかけることにした。
 厨房についたら料理を始める前に適当に詰め込まれただけの冷蔵庫の中を整理をする。整理しながら買ってきてくれたと云う誰かに対して思うことがもう一つ増えた。消費期限の早いものは教えてやっていて欲しかったと。三日程度しか持たないかいわれ大根が大量にあるのを見付けてしまったのだ。誰かには何の責任もないのだが恨めしく思う。こうまで太宰が食に関して、と云うより生活に関して無関心と知らなかった己が悪いのだと思いながらも福沢はこれはとため息をついた。この量を今日の昼食と夕食で何とか始末をつけるのかと、頭が痛くなる思いで冷蔵庫を見つめた。

「早くしないんですか。遊びたいです」

 太宰が訴えてくる声がする。つまらなそうに厨房の椅子に腰かけている太宰をみて福沢はまたもため息をつきそうになった。それを堪えて食材を手にとる。


「やです。苦いから食べたくないです」

 さらりと言われた言葉に青筋が浮きそうになったのを福沢は気力で堪えた。

「私苦いの嫌いなんです」

 何て言いながら箸で緑の物体、大量に入ったかいわれ大根を取り除こうとする太宰の手をばしりと叩いた。目をぱちくりと開閉させる太宰。痛いとやや遅れて口にする。涙目になりかけているのによくやる奴だと思いながら福沢は甘い味付けにしてあるから平気だと告げた。また太宰の目がぱちくりと瞬きをする。不思議そうに料理の盛られた皿をみて一口つまむ。あ、本当だと呟く声を聞けば福沢は自分のぶんを食べるのに意識を向けた。社長も苦いの苦手なんですかと聞いてくる声にはそんな訳ないだろうと心の中で返した。

 昼食を食べた後はまた遊ぶことになる。今度はどれで遊びますと太宰が聞くのにお前がやりたいものをやれと前と同じことを云う。えーまたですかと、不満そうな声が太宰からでるがその次の瞬間にはどれにしようかなと楽しげに選び出している。色々あるものを見つめながら太宰は真剣な顔をして悩む。うーん、これにしようと太宰が手に取ったのはお手玉だった。はい、まずは社長からと手渡される。またかと思いながら福沢は云われるままにお手玉をする。
 三つあるので一度に三つとも使う。右手のお手玉を一つ飛ばして、届く前に左手のお手玉を飛ばす。左手で右から来たのを取れば、もう一つ右にあったのを飛ばして、来るのを取る。左手から飛ばして右から来たのを取り、右手のお手玉を飛ばす。同じ動きを何度も繰り返す。わぁーーと太宰が声をあげた。けん玉の時と同じように凄い凄いと口にする。でももう少し遅くお願いしますと云われた。
 ふぅと福沢が吐息を吐き出したのはやっとのことでお手玉が終った時。けん玉と同じで八時間近くやっていた。
 一日三食だなんて食べられませんと嫌がる太宰を連れて厨房に向かう。かいわれ大根を沢山いれたトマトソースのスパゲッティーを作った。太宰がうぇと声を出した。

「トマトに貝割れとか私大嫌いなんですけど。さらに食べたくなくなります」
 つーんと顔を背ける太宰。福沢は馬鹿なことは言わないで食べなさいと口にする。
「嫌です」
「太宰」
「嫌です」
「好き嫌いはするな」
「するなと言われても嫌いなものは嫌いなんです」

 太宰が口を尖らせる。その姿をみて福沢は堪えきれなかったため息を溢す。哀しい気持ちになりながら声を絞り出した。

「太宰。それなりに甘く作ってある。お前でも食べられる筈だから食べなさい」

 きょとんと太宰が首を傾げた。えっと云って皿を見る。首を傾げて福沢を見た。えーと口にしながら太宰の目は福沢と皿に盛られたスパゲッティーを交互に見やる。ほらと福沢は自然な動作で太宰の口元に自分の皿から取ったスパゲッティーを差し出した。早く食べなさいと云えば吃驚しているような太宰は口を開く。その中に押し込めば静かに咀嚼する。美味しいと太宰は云った。

「そうか。それは良かった。なら食べなさい」

 はーい。渋々と食べ始める太宰。十口も満たない程度でお腹一杯と言い出すのに二口だけ食べさせて、残りはまた福沢が食べた。洗い物が終わればじゃあ、寝ようかと太宰が云う。福沢は目を光らせた。

「その前に風呂だ風呂。もう三日も入ってないんだ。今日こそは入るぞ」
「えーー、面倒臭い。私もう眠いです」
「駄目だ。引き摺ってでも入らせるぞ」
「えーー」

 酷いと太宰が云うのに福沢は臭い始めているぞと告げる。えー、でもせめて明日でと言いながらも太宰は無理矢理部屋に戻ることはせずシャワー室の場所を案内していた。ほら、早く入ってこい。一人ずつしか入れないのにまずは太宰を促し先に入らせる。ざあと流すだけ流した太宰に部屋に戻っているようにと髪をちゃんと拭くよう告げてから入った。一応洗剤などがあることは確認してシャワーを浴びる。出たらタオルを二つ取り、一枚で体や髪を拭く。脱衣所の中にある洗濯機の中に放り込んで太宰の脱ぎ散らかしと自分の肌着も入れて洗濯してしまう。洗わなかった着物は畳んで帰るときに着ようと棚の上に。幸い衣服はちゃんと用意されていた。サイズが合わないそれは太宰ではなくきっと手伝わせたと云う誰かが用意してくれたものだろう。また一つ感謝した。
 残ったタオルを手に福沢は太宰の待つ部屋へと急ぐ。少し遅くなってしまったかと思いながら部屋の扉を開ければ、福沢の予想通りいや、予想以上に濡れたままの太宰が居た。着ている服の肩口の辺りさえびしょびしょに濡れている。一応云っておいたもののやはり聞き入れてはくれなかったかと思いながら福沢は太宰に近づく。近付いてくる福沢に不思議そうな顔をして太宰はなんですかと問い掛けた。福沢はそれに髪をちゃんと乾かしなさいと云う。返ってくるのはえーーと云う嫌そうな声だ。

「風邪を引くと困るだろう」
「別に引いてもいいですけど……」
「駄目だ。遊べなくなるぞ。遊びたいのだろう」
「……そうですけど、面倒です」
「わかっているから此方に来なさい」

 優しく告げればいや嫌そうにしながらも太宰は福沢のもとに近づく。福沢は太宰の濡れたままの髪にタオルをかけ、それから優しく拭いていた。きょとんとする太宰。見開いた目で見つめてくるのに福沢は仕方ないと云うように手を動かす。

「面倒なら私がやってやるから大人しくしていろ。いいな」

 太宰が瞬きを繰り返す。唇を尖らすようにして首を傾げるのを見ながら福沢は太宰の髪を乾かした。





「社長! 次は何をしますか」

 キラキラと輝く瞳が福沢を見た。すぐにそらされたその瞳は彼が手に持つ箱のなかに注がれる。問い掛けておきながらもどれにしようかなと選び出している太宰を見つめる福沢はふむとひとつ唸った。

 船上生活五日目の昼。なんとか太宰に昼食を食べさせこれからまた七時間程度一つのもので遊ぶことになる。

「社長……」

 いつまで経ってもお前が選べとお決まりになってしまった言葉を言わないからか、太宰が不思議そうに福沢を見つめる。その手には彼が今日遊ぶと決めたのであろう玩具、でんでん太鼓が握られていた。それは乳幼児用で七時間も遊べるような代物ではないだろうということは置いておき、福沢はこの三日間の太宰の様子を思い出す。この二日で遊んだのはけん玉におじゃみ。綾取りにルービックキューブ、それと今日の朝にヨーヨー。どれも太宰が決め、社長からと福沢に渡されてきた。
 その時の姿を思い出しながら福沢は試しに手を伸ばす。 
 沢山の玩具が入って散らばっている箱のなかから一つ独楽を取り出していた。手のひらサイズのそれを太宰に差し出す。

「今度はこれをしよう」
「えっ?」

 驚いた顔を太宰はした。ずっと太宰の選択に任せ続けていたから福沢が選ぶとは思っていなかったのだろう。戸惑いそれから笑みを浮かべる。

「分かりました。では、社「今度はお前からやってみろ」

 社長からと言おうとした太宰の声を遮って福沢は独楽を太宰に押し付けた。見開かれた目が福沢と独楽を見て、それから途方に暮れた顔をした。
 太宰は手の中の独楽を見つめる。

「社長から」
「いつも私からだからな。たまには太宰からやってもいいだろう」

 押し黙る太宰。
 困ったように彼の眉が寄せられた。じっと無言で立ち尽くす。数分ぐらいしただろうか。分かりました。と太宰は言った。しゃがみこんで上の部分を持つ。床に独楽の下がつくようにおいた。一拍二拍時間が過ぎて意を決したように太宰は息を飲んだ。指先で弾くように廻す。
 指先が離れたあとも独楽がくるくると回るのに太宰はホッとして笑った。
 どうですと言ってくるのを福沢は見つめる。くるくると回る独楽は一分もしないうちに勢いをなくしてコロンと転がる。何も言わずに見つめてくるだけの福沢に太宰の笑みは消え去り、視線が彼方此方を彷徨う。居心地が悪そうに肩を丸め小さくなるのに福沢は大きくため息をついた。
 太宰が抱えていた玩具の入っている箱を漁る。その中から一本の紐を探りだした。転がった独楽に手を伸ばす。太宰は福沢を呆然と眺めていた。独楽の上、芯棒に紐を巻き付けて、独楽を返す。下の芯棒にも紐をかけ二三回巻き付ける。そのまま坂になっている部分に紐を綺麗に巻き付けていき、紐を握り人差し指と親指で独楽を抑える。肩から遠くに飛ばすように独楽を投げれば、飛んだ独楽は地面に着地しくるくると回っていく。その独楽を太宰が見つめて、それから顔を歪めた。泣き出す一歩手前のような表情をする。
 そんな太宰の傍に膝をついて福沢はその頭を撫でた。細い吐息が歪んだ口許から出ていく。

「分かっていたんですね」

 小さく太宰が問いかけた。ああと福沢が返す。もしやとは思っていたと告げる。

「太宰。遊び方が分からぬのなら最初からそう言え。見て覚えようとするのもいいが、教えてもらった方が早い。それにきっともっと楽しいぞ」

 告げれば太宰はだってと云う。その先は言葉にしないけれど福沢には何となくでも分かっていた。だからその頭を撫でる手に力がこもる。

「他には何がわからん」
「……トランプでホーカーならできます」
「そうか。ならこれから他は私が教えてやろう。まずはこの独楽からだな。
 ほら、太宰。立ちなさい」

 平時よりずっと柔らかな声で問い掛けられて、少し間を開けてから太宰は答えた。返ってきたのは柔らかなままの声でむずむずと彼の口元が動く。立ち上がれば触れる大きくて暖かい手。後ろから抱き込むようにして教えてくれる福沢に太宰は綻ぶように笑みを浮かべた。



 真っ暗な部屋のなか福沢はゆっくりと起き上がった。仕事柄夜目の効く福沢は部屋のなかをじっと見つめる。部屋の隅で寝ている太宰が起きていないのを気配でも確認してそっと立ち上がった。
 気配を断ちゆっくりと太宰のもとに近づく。ベッドから二歩進んだところで立ち止まりさらに深く気配を消し、太宰へと意識を向ける。一歩にじり寄ろうとすればぴくりと太宰の肩が跳ねる。そこで福沢の足は止まる。じっと見つめる目は太宰の姿を観察し呼吸を覚える。それに合わせるように息をしながら、弛んだ所でほんの僅かの距離を前に出た。
 少しずつ太宰との距離を縮めていく。

 この良く分からぬ攻防が始まったのは昨日の夜からだった。昨日の夜、暁闇の頃目覚めた福沢は横たわったまま太宰に意識を向けた。聞こえてくる息遣いで太宰が起きていることが分かる。半刻おきぐらいの間隔で福沢は目覚めるのだがどの時においても太宰が寝ていることはなかった。たまたま起きるタイミングが重なっている訳ではない。太宰がずっと起き続けているのだ。
 一日目、二日目、さらに三日目もそうだった。
 部屋を暗くして隅で眠るふりをしながらも起きているのである。一日目、二日目、起きる度に太宰を探っていれば、太宰が寝ないのではなく眠れないことに気付く。一日目は福沢が起きて身じろぎをするだけで肩を跳ねさせ、二日目はもっと酷かった。数時間あまりはずっと緊張している状況で、落ち着いてきた頃に気配を探れば直ぐに警戒しだす。三日目は気配を探っても警戒はしなくなった。眠いのだろう。朝方近くになるとうとうとしている姿も見られた。
 そして、四日目の昨日。流石に四日も寝ていなかったのは辛かったのか福沢が起きてしばらくした頃にほんの少しだが眠りに落ちた。
 太宰が眠った事に気づくと福沢はゆっくりとベッドから起き上がった。
 それだけでも目覚めそうになるので下手な敵を相手にするよりもずっと慎重さを要した。太宰を起こさないように細心の注意を払って近付いていく。それによりベッドから二歩先まで進むことができた。今日はそれよりももう少し近付ければと思いながら福沢はまた一歩にじり寄る。



「上がり! 私の勝ちです!」

 やったーと太宰の明るい声が響く。もう一回! あ、でも別のもやりたいです。どうしましょうと眉を寄せた困った顔で言ってくるのに福沢は軽く笑みを浮かべた。

「まだまだ時間はあるのだ。やりたいだけやればいい。その後でまた別のをやればいいだろう」

 あっと太宰の目が大きく見開いた。えっと躊躇いがちに口を動かすが太宰がなにかを言う前に福沢は床に散らばるトランプを集めていた。板についている手捌きでトランプをまぜあわせていく。配り始めるのに太宰は口を閉ざして受け入れた。

 手元にある手札から揃ったものは捨てていく。

「これが終わったら別のをしましょう。他にトランプ遊びって何があるんですか」
「そうだな……、後は神経衰弱に豚の尻尾。どぼんそれから……」

 福沢がいくつかの言葉を並べていくのに太宰の目がらんらんと輝く。

「そんなにあるんですね! やるの楽しみです」
「そうか……。だがやったのは随分前のことだからうまく説明できるか。……多少間違っているかもしれん。間違っていても許してくれ」
「大丈夫ですよ。どうせ社長としかしませんから少し間違っていても問題ありませんよ」
「……そうか」

 それより楽しみだなと太宰が笑う。できましたよ。ほら。次は社長から引いてくださいとトランプを見せてくるのに福沢は無言で一枚を取り合った二枚を捨てた。次は私と弾んだ声で太宰の指がトランプに触れる。どれにしようかなーーと福沢を覗き込むように見てくる太宰にジョーカーはお前の元だろうとは思っても言わなかった。

 船上生活八日目。
 五日目に福沢にばれてからは太宰は一人で遊べるようなものではなく二人で遊ぶようなものを好むようになった。六日目はウノにべいごまをやり、七日目の遊びは人生ゲーム。昼からはずっとトランプをやり続けている。七並べ、はやぶさ、戦争、ゴーフィシュスナップとやり続けて今はババ抜きをしている所だった。
 ジョーカーを持つ太宰がニコニコ顔で福沢を見つめる。一枚を手に取った。


「あーー!負けた!! うーー」
 数分後今度は太宰の悔しげな声が響いた。悔しいと駄々を捏ねる太宰に福沢は微笑んで声をかけた。

「なんならもう一度やるか」
「いいんですか!」
「ああ、どうする」
 
 床に両手両足を投げ出していた太宰がんーと考える。やりたいけどなーと云いながら、いいやと直ぐに口にする。

「次やりましょう。次! 次は何をやりますか」

 起き上がった太宰の瞳はもう輝いており、とても楽しげに福沢を見つめる。

「そうだな……。では次は神経衰弱でもやるか」
「それはどうやってするんですか」
「これはトランプを裏返しに床に並べてだな順番に二枚ずつひっくり返していくんだ。数が揃わなければ元に戻し、数が揃ったらもう一度揃わなくなるまでひっくり返していくもので、揃ったカードは揃えたものの手持ちになるのだ」
「なるほど。揃った数をきそう遊戯ですね。楽しそうです
 所で福沢さんはこの遊戯得意ですか。勝ったことはあります?」
「いや。私はそう得意ではない。勝ってたことも……」

 床にトランプを並べていた福沢の手が止まった。にこにこと笑う太宰を見つめる。

「ないな」
「そうですか」

 じゃあ私も負けないように頑張らないとと太宰が云う。その表情にはいつも通りの笑みが浮かんでいた。


「やったー! 全勝しましたよ社長!! 凄いでしょ。褒めて褒めて」

 嬉しげに笑う太宰を凄いなと全敗した福沢が褒める。福沢の手は優しく太宰の頭を撫でた。きょっとんと目を瞬かせた太宰がにへらと頬を緩めた。

「頑張ったのでご褒美くださいな!」

 甘えた声をだして太宰は福沢におねだりした。見つめてくる目をみて福沢は何をしてほしいと問い掛ける。またきょとんと太宰の目が見開いた。ぱちぱちと瞬く。

「え、いいんですか」
「ああ。何か物が欲しいのなら帰ったあとにでも買ってやるぞ」
「いや、それは……いいんですけど。……え? 本当にいいんですか??」
「良いと云っているだろう。何をしてほしい」
「え……」

 太宰は本気では考えていなかったようで改めて考え出す。んーと唇を尖らせるのに何が良いと急かすように福沢は問い掛けた。

「え、えっと、あ! いや……」

 何が思い付いたと云うように声をあげたが直ぐにそれは消えた。またええと悩みだす太宰

「ん? 何だ。何かしてほしいことがあったか。云ってみなさい」
「え、いや」
「太宰」

 真っ直ぐに見つめてくる福沢の視線。太宰はうろたえ口をつぐんだ。威圧感を感じることの多いその目だが今感じるのは何か柔らかなもので……。

「あ、その……抱き締めて、ほしいです」

 今度きょとんとしたのは福沢だった。
 目を見開いて太宰を見つめる。驚いたのは言葉にもだが太宰の態度にもあった。少しうつむいた太宰はその頬をほんのりと赤く染めている。ぎゅっと引き結んだ口元がもじもじと動いていて

「あ、あのやっぱ「こうか」

 否定の言葉を口にしようとするのに完全な音になる前に福沢は動いていた。見た目よりもずっと細い体を抱き締める。ふぇと変な声が太宰からでた。目を白黒させて福沢を見ている

「え、えっと」
「こうしてほしいのだろう? もっとか」

 ぎゅとさらに力をいれて抱き締めれば太宰の頬はさらに赤く染まってうーと言葉をなくした。ぎゅーと抱き締め続けていると胸元に太宰は顔を埋めた。

「暖かいです」

 へっへと柔らかな笑みが懐に落ちた。



 夜、福沢はまた一歩足を慎重に進めていく。目の前では静かに寝息を立てる太宰の姿。息を殺して最後の一歩を踏み込んだ。すぐ傍に太宰の寝息がある。間近で見つめるそれにホッと息を吐いた。
 穏やかに眠る太宰は触れることのできる距離になっても目覚めることはなかった。眠る太宰の横に座り込む。一度息を殺してから太宰に手を伸ばす。その体に触れた。頭を撫でても柔らかな息が落ちた。


「ふぇ? ……え!ええ!! 社長なんで!」

 九日目の朝は太宰の悲鳴から始まった。

「な、何で社長が」

 顔を真っ赤にして叫び胸の中から抜け出そうとする太宰を福沢はぎゅっと腕のなかに閉じ込めた。

「もう少し寝なさい」
「え、いえ……」
「いいから……。人のぬくもりがあると案外眠れるものなのだぞ」

 太宰があっと言葉をなくす。寝なさいと福沢の声が促すのにはいと太宰は呟いた。福沢の腕のなかで太宰は眠っていく。


 十日目の夜

「今日も楽しかったですね! 明日は何をしますか」
「こら、太宰。動くな」
「だって!!」

 振り返った勢いで太宰についていた水滴が福沢の顔にかかった。大人しくしろと福沢が叱るが太宰の体は小刻みに揺れて、明日何をしますかと何度も口にする。

「何でもしたいことをすればいいから落ち着きなさい。髪が拭けぬだろう」
「明日も付き合ってくれますか!」
「ああ、ずっと付き合ってやるから」
「やったーー!」

 太宰が無邪気な笑みを浮かべる。それを見つめる福沢は目を細めた。

「ほら、拭き終えたぞ」
「ありがとうございます!」
「では眠るか」
「はい」

 福沢がベッドの方に歩む。太宰はそちらをみて立ち竦んでいた。少し迷って福沢の元に歩を進める。

「おいで」

 福沢が差し出す手を太宰ははにかみながら取った。ベッドのなかに二人で横たわる。肩を並べて眠るのに太宰は嬉しげに笑う。

「社長は暖かいですよね。眠気がすぐやって来ちゃいそうです」
「それならば早く寝なさい」
「えーー、でもそれも何か勿体ないんですよね。社長本当に暖かいですから眠らずに堪能していたいです」
「馬鹿なことを言うな。時間ならこの先いくらでもあるのだ。ゆっくりと寝なさい」
「…………はーーい」

 少し間をおいてから太宰が頷いた。


 寝息が聞こえだすまで待ってから福沢は太宰を抱き寄せた。包み込むように抱き締めて眠りにつく。




「二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし」

 十二日目の夜。ベッドの上で太宰が楽しそうに笑う。一日目、二日目に太宰がひたすら読んでいた絵本を今度は福沢が読んでいた。内容などとっくに覚えているだろうに初めて聞くみたいに楽しんで喜んでいた。

「次、次の読んでください」

 新しい本を手にして笑顔で押し付けてくる。福沢はため息をついた

「こら。もう眠る時間だろう。いい加減にしなさい」
「やです。や。今日は寝たくないです。朝まで起きてます」
「こら、太宰」
「だって社長と遊びたいんです」
「まだまだ遊べるだろう。だからちゃんと寝なさい。睡眠を取るのは大事なことなんだ」

 言い聞かせる福沢に太宰は唇を尖らす。

「んーー、もう仕方ないな。じゃあ、これはまた明日の夜に読んでくださいね」
「ああ、いいよ」

 だから今日はもう寝ようと福沢は太宰を抱き締めた。腕のなかで太宰がいきをはきだす。はーいと返事をしながら、太宰はそっと笑みを浮かべた。それは楽しげに浮かべ続けられていたものとは少し違っていて……。

「……後二日か」

 ぽそりと落とされたのは独り言で福沢でさえ後一歩で聞き逃すところだった。その声が届いた福沢は太宰の頭を撫でる。一度口を開いて閉ざし、それからまた開いた。

「満足したか」
「はい。凄く楽しかったです」

 問いかければ胸のなか太宰は明るい笑みを浮かべる。それをみてまた福沢は口を閉ざした。少し長く考えてから開く。

「知りたかったことは知れたか。何を得られた」

 腕のなかで太宰が福沢を見上げた。褪赭色の目が揺らぐ。

「やっぱり、気づいていたんですね」

 太宰が問いかけると福沢は黙って太宰を見た。見つめてくる目に太宰はそっと笑みを浮かべる。

「乱歩さんを見たとき私驚いたんですよね。こんな人いるんだって」

 色のない声で太宰が語りだす。福沢はその話を黙って聞いていた。

「あの頭脳もそうなんですけど、何より驚いたのはあんなに凄い人なのにこの世を何一つ絶望していなくて真っ直ぐでとても明るく……光のなかにいる。そんな風に生きていけたと言うことが何よりも不思議でそんな存在がいることが嘘みたいに思えたんです。
 だって普通無理でしょう。乱歩さんみたいな存在。普通存在できないでしょう
 この世は排他的で周りと違うものを排除しようとするのが普通で……。特に私たちみたいな存在は……」

 否定されるのが普通なんですよと太宰の細い声が告げる。私もと消え入りそうな声で太宰は口にする。

「私も……そうだった。
 初めは優しかったと思うんですよ。殆ど覚えていないんですけど。でも多分優しかったと思うんです。だけど私が三歳になる頃にはすでに歪み始めていて……。母は私を奇妙なものを見るような目で見つめてくるようになり、話すことも殆どなかったです。父も母をみて私と話すことをしなくなりました。成長するにしたがってますます私たちの溝は深くなり、五歳の頃には二人から殴られるようになりました。満足に食事なども与えられることがなくなって……それでもなんとか暮らしていたけど六歳の時に、母がノイローゼで倒れたんですよ。私のことを化物だ、化物だって言って。こんな子供は私の子じゃない。私は知らない産んでない。知らない子だってあの頃良く言われていました。
 母が倒れてから父も壊れ初めて……。私に振るわれる暴力は日に日に酷くなっていきました。ある日父は私のせいだって言って包丁を片手に私を殺そうとしてきたんです。あの時の父の言葉は今でも覚えています。
 お前のせいだ。お前が産まれたから何もかもおかしくなったんだ。お前なんて産まれなかったら良かったんだって……。
 そんなことを云われても生きたかったんですかね。

 気付いたら私の周りは血の海で、父が倒れていたんです。青白い顔で一目で死んでいると分かるような有り様でした。
 一部始終を見ていた母は私を見て泣いて喚いて殺される。殺されるって。家を飛び出した姿をみて、もうここにはいられない事だけは分かりました。
 だからあの家をでて、暫くは一人でさ迷いました。生きるために色んなことをしましたよ。探偵社の皆に云ったら卒倒しちゃうようなことも沢山やって……、そうやってさ迷っていた所をあの人に拾われたんです。
 その後は貴方も知っている通りマフィアに入って生きてきました。そこにしか私の居場所なんてなかった。そこでさえ私は異質で…。
 今は上手く取り繕うことを覚えたので何処でも生きていけますが、本当にあの頃は闇のなかでしか生きられなかったんです

 だから驚いただなんて言葉で言い表せないほどに驚いたんです。
 私と同じそれ以上でありながらも歪まずに生きていけたあの人の存在に。私から見たらあの人は奇跡です。乱歩さんのような存在はもう二度とあり得ない。それを作ったのはあの人の両親の思いであり、そして、それを受け継いだ貴方だ。
 だから、だから……」

 その声は震えて音にならなかった。
 ここまで何一つ感情を感じさせない淡々とした声で告げながらも、太宰はその先の言葉を紡げなかった。
 抑えてきたものが吹き出したかのように太宰の体が小刻みに震える。抱き止める福沢は少しでも太宰が安心できたら良いと願い抱き締める腕に力を込める。
 言葉にならなくとも福沢はその先を理解していた。
 だから太宰はかつての時間をやり直そうとしたのだと知っている。かつて昔、太宰が与えられることのなかった優しく大切な時間を取り戻そうとこの二週間の生活を始めたのだ。何も知らない子供のように無邪気に笑いはしゃぎ遊んで甘えた。子供が親に与えられる優しさを愛情を太宰は福沢で埋めようとしたのだ。

「私はちゃんとお前に与えてやれたか」
「はい。……すぎるほど沢山与えてもらえました」

 福沢の問いに言葉を繋げようと震えていた太宰が動きを止めた。やがてぽつりと返された。その答えに良かったと思う。だがまだ駄目だとも思った。もっと。まだもっと、与えてやらなくては。そうしなければと、強く思う。
 死にたがる太宰が生きていたいと思えるぐらいにたくさん。産まれたことさえ否定された子供が心から笑える日が来るように。福沢が与えることのできるもの全部を与えて、それ以上のものだって与えていかなければと。
 だが、太宰は……、

「後二日でと思うと残念です。もっと長くすれば良かった」

あっさりとそれから手を離す。残念だと云いながらもその手を離してしまう。

「この旅行が終わった後もいつでも私のもとに来ればよい。お前をいくらでも私は甘やかしてやる」
 
 告げても太宰はいつもの笑顔を浮かべる。他人から一線を引いた張り付けた薄い笑顔を。

「んーー、ありがたいお言葉ですがいいですよ。そこまでご迷惑はかけられませんから
 この二週間でもう充分です」

 本当にありがとうございました。後残り二日は私の我が儘に付き合ってください。
 福沢の腕のなかから抜け出してわらう太宰。そんな太宰を見つめて福沢は思わず口にしていた。

「辞職届けなら何があっても受理はせんぞ」

 えっと太宰の目が見開く。わざと作られたものじゃない。心底驚いてのものだった。

「……それもわかっていたんですか」

 凄いなと太宰は口にした。分からないはすがないだろうと福沢は思う。分からないはずがなかった。
 この十二日間、太宰は自らの弱いところを固い殻に被せて見せなかった脆い部分の多くをさらけ出していた。今まで普通の人として被っていた仮面すらも掃き捨てて福沢の前にいた。それは福沢なら良いと言う信頼によるものではない。愛情を与える者として選ばれはしたがそこまでの深い信頼を得られていないことを知っている。
 なら、何故か。
 答えは単純だ。
 もう二度と会わないからいいやと云う諦めによるものだ。この旅が終われば太宰は探偵社をやめて何処か遠くに行くつもりなのだ。もしかしたら今度こそ死ぬのかもしれない。太宰をこの世に留め続けた楔がなくなっているのを福沢は知っている。
 だからこそこんなことをしたのも知っている。

「太宰行くな。行ったとしても私はお前を追いかける。絶対に止めさせたりはしない」

 福沢が告げる。銀灰の目が太宰を射抜きごめんなさいと太宰は謝る。もう決めたんですと。

「太宰」
「これ以上は探偵社にはいられないんです。だって……」

 その先を太宰は言わない。目を細めてただ笑う。だけど福沢はその目で何を言いたいのか理解できた。太宰の目は諦めているものの目だった。何かを欲しいと望むのに、決して手に入らないからと諦めて手を伸ばさないものの目。

「欲しくなればいい。幾らでも欲しがれば云い。その分私は与えてやろう。お前が欲しがるだけ与えてやろう。」

 むしろそれ以上を与えたい。
 太宰の目が揺れた。苦しげに歪んでそれから震える。ぎゅと引き結ばれた唇は何も告げない。

「私だけじゃない。皆お前が欲しいと口にすれば与えてくれるはずだ。望めば誰かが与えてくれるんだ。少なくとも今のお前であれば手に入れることができる」

 無理ですよと福沢の言葉に太宰が返した。その声は細く小さかった。

「無理ですよ。だって手に入れたら失わなくてはならないじゃないですか。私もうそんなの疲れちゃったんです。それならいっそ何もない方がいい。だからもういいんです」

 太宰が笑う。張り付けた笑み。だけどその笑みの隙間から幼い子供が見えた。失って失って手を伸ばすことすらも止めてしまった幼い子供の泣き顔がみえた。福沢はその子供の手を掴んだ。
 細く美しくだけど固いその手は痛みだけの世界で生きるためだけに抗い続けた手。それ以外のすべてを失いながらも生きてきた手。何も掴めないと諦めてしまった臆病な手だ。
 その手を掴む手に力がこもる。痛いと太宰が声を出す。

「それはお前がちゃんと掴んでいないからだ。失いたくないと思うのならもっとちゃんと掴んでなくてはならん。何があっても話したくないとしがみついていないと大事なものはあっさり離れていくものなんだ。
 だけどしっかりと握りしめていればそう簡単に失ったりはせん。
 お前はもっと強く掴んで置かなければならなかったんだ」
 褪赭色の目が大きく揺れた。ぐらぐらと揺れては崩壊する

「そ、そんなの、出来るわけないじゃないですか。仮に出来たとしても……」
「出来る出来ないじゃない。失いたくないならやるんだ。そうしていれば何かが変わっていたかもしれない」
「無理です。絶対に無理だ。だって私にはその権利がない。なかったんだ」

 太宰が泣くように叫んだ。

「権利など知るか」

 福沢もまた叫んだ。

「あるのはそれを失いたいのか失いたくないのかだけだ」

 揺れる目と目がぶつかる。でも無理だと細い声が漏れた。掴んだ手に力が籠りもっと何かを言おうとして福沢は止まってしまった。自分の言葉が浮かぶ。

「太宰。失いたくないと願うのなら掴め。何をしても離さぬとその手で掴むんだ。じゃないとお前はずっと一人だ」

 揺れる目は細い声でそれでいいと云う。それがいいとそれならまだ痛く苦しくないと……。

 その目を見つめながら福沢は思う。ああ、そうなのだと思う。強く。何より強く掴んでおかないと大切なものは失ってしまうものなのだと。掴んでいなくてはいけないのだ。離してはいけないのだと思った。

「この話はまた後にしよう。今日はもう遅い。寝よう」

 何も言わぬ太宰に福沢は横になった。
 暫くして太宰も横になる。二人の間に言葉はなかった。




 十三日目と十四日目はまるで十二日目の夜に何もなかったかのように過ぎ去った。今までと変わらず二人で遊び、太宰は福沢に子供のように甘えた。これまで通りだった。

 そして十四日目の夜、零時。
 横濱の港に船がついた。いつもの着物に着替えた福沢は太宰と共に船から下りる。無言で降りていけばタラップの途中で太宰が立ち止まった。

「この二週間本当にありがとうございました。とても有意義な時間を過ごすことができました。
 今日はもう遅いので話はまた明日にしましょう。ここで別れましょう」


 笑みを張り付けた太宰が告げる。ああ、そうか。もう行くつもりなのかと福沢は思った。背後にある船に乗って何処か遠くに。
 探偵社の誰も追ってはこられないような場所に行くつもりなのかと。だから福沢は駄目だと言葉にする。太宰が困ったように笑った。

「受理せんと云ったはずだ」
「でも」

 無理なんですと紡ごうとするその前に福沢は開いていた距離を詰めた。ぎゅっと太宰の手を握り閉める。

「離さんぞ」

 えっと太宰が呆ける。
「私はお前が何を言おうとこの手を離したりはしない。お前が泣いて嫌がったのだとしても掴み続ける」

 強い声が云う。暗闇のなかで銀灰の目がくっきりと浮かび輝いていた。捕まれた手から太宰が逃れようとする。だけどその手は言葉通りぴくりとと動かない。

「そんな……」

 震える声が太宰からでた。

「そんなの……貴方になんの権利があって……、私の意思までねじ曲げる権利は貴方には「なくとも!
 なくともはなしたくないのだ」


 刺すような声が福沢からでた。迷子の子供の顔が歪む。

「そんなのわがままじゃないですか」
「そうだ。それでも失いたくないと本気で思うならこうやって掴まえておかなければならんのだ。権利がなくとと私はお前を失いたくないから掴むのだ。
 それとも権利をくれるか。お前のてを掴む権利を私にくれるか」

 福沢が太宰にすがった。権利が欲しいとねだった。与えられたりはしないと分かりながらと欲しいと訴えた。

「むりですよ」
「そうだろうな。だけど私はこの手を離したりはせんぞ。失いたくないから。
 太宰、私はお前が望むのなら幾らでも渡してやれるぞ」

 ポロリと太宰を掴む手に雫が落ちた。
 それは褪赭色の目から流れ落ちている。

「なら……」

 掠れた声が呟く。どうしたらいいのと問いかける。

「そうやって掴んでも手に入れられなかったら失ってしまったら私は何て言って諦めたらいいの。何て言って自分を慰めればいいの」

 絞り出すように言われた問いは福沢から言葉を奪う。がつんと胸に響いたのはそれが太宰の奥深くに押し込まれ隠された最後の本心だからだ。
 失うことになれた。手に入らないことにもなれた。痛みを覚えない方法も知った。
 求めないことだ。何一つ求めないこと。足掻かないこと。
 そうしたら手に入らなくとも失っても苦しまなくてすむ。手に入らなくて当然。失うのも当然。最初から私には縁のなかったもの。そもそも求めなかったのだから失うのは正しい流れだったのだと諦めることが出来るのだ。
 それができなくなることが太宰は何より怖かった。求めて求めて求めてそれで失ったらもう太宰は己を慰めることさえ出来なくなる。

 濡れた太宰の目が福沢を見た。ゆらゆら揺れる褪赭の色はもう嫌なのだと告げる。

「それは分からぬ」

 失う日は来ないとは言えない。どうしたら良いのかも答えてやれぬ。それでも福沢は言葉を紡ぐ。

「でも結局どちらもおなじなのだと私は思う。求めても求めなくとも失ったらどちらも苦しい。悲しい。その痛みに代わりはないように思う。失えば失った苦しみがずっと続き続けるだけなのだ。
 ならば、ただ黙って失うのを見ているよりも足掻いて欲しいと思う。諦めずに足掻いて欲しい。なくしたくないと口にして欲しいとその方が何かが変わる可能性があると思うのだ。

 もう何もいらないなどと云わないで欲しい。何かで云い。何かを求めて欲しい。

 太宰。

 本当にお前はこの世界をずっと一人で生きていきたいのか。何もないまま生きいきたいのか。
 望めば手にはいるのだ」

 ああと、細い吐息が闇の中に落ちる。ふるふると揺れる目は福沢を見つめて歪んで動かない。

 二人の間を沈黙が満たした。
 どちらも何も話さなかった。ただ強い目で太宰を福沢は見つめ続ける。射抜くその目が、骨が軋むほどに掴まれたその手が失いたくないのだと訴えてくる。

 永遠にも感じられるほどの時間が流れる。
 褪赭色の目が銀灰の目からそらされた。旋毛が福沢から見える

「………で」

 羽虫の羽の音みたいにか細い声が届いた。福沢の目が大きく見開いた。

「…さないで……、今は、おねがい、……離さないで」

 嗚咽まみれの声が空気を震わせ叫ぶのに福沢は耐えきれず掴んだ手を引き寄せた。子供の体を抱きその両腕で包み込む。

「離すものか。何があっても離したりせん」

 子供が腕の中で泣く。何度も手を開きながらその手は福沢を掴まない。それでも今はよいと福沢は声にした。何時か。何時かその手で何かを掴んでくれと抱きながら懇願する。





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