拾捌


 とんと大きさのわりに控えめな音で机の上に置かれた風呂敷を太宰はどきりとして見つめた。来るだろうとは思っていたもののまだ少しだけ覚悟が足りなくて。太宰の目の前で良守が下を向いて肩を震わせる。
「兄さん、……父さんがお弁当作ってくれたんだ」
少し掠れた弱々しい声が太宰に向けられる。何時も持ってきてくれるけど太宰が食べたのは最初の一回きりだった。それ以来は記憶の扉を開いてしまいそうで敬遠していた。
 ごくりと喉がなる音が太宰からでる。飲み込んだ唾が空っぽの胃のなかに落ちていく。そこは記憶の中の味をもとめるように音を鳴らしていて。
「それは、食べないとね」
 細い声が出た。言うのに勇気が言った。止めようかとも途中で思った。でも求める心には勝てなかった。良守の目が大きく見開いた。
「え?」
 呆けたような声が出て口がぱかりと開けられる。まるで謎の生物でも見たぐらいに驚く姿にずっと断ってきたものねと罪悪感めいたものがわく。
「折角作ってくれたんだから食べないと駄目だよね」
「え、いや、そんなことないけど、でも兄さんが食べたら父さんすげえ喜ぶと思う! めっちゃ喜ぶ!」
 固まっている良守にどう言えばいいのかうまい言葉が出てこないまま黄色い風呂敷に手を伸ばした。袋をあけると前に見た重箱がある。はっと我に帰った良守がえっえと混乱しながらも嬉しげな声をあげて。あけてあけてと重箱を前に押してきた。
 重箱の蓋が開けられる。三段にはやはり沢山詰め込まれていて美味しそうな匂いが漂う。
「いただきます」
 差し出された箸を受け取って重箱の中のものを睨み付ける。入っているおかずはどれも美味しそうで……。どれから食べようか悩んでしまう。でも黄色いものを見つけて真っ直ぐに箸はそちらに向かった。緊張で太宰の手が震えた。見つめる良守も緊張して呼吸を止めてしまっていた。
 奇妙なほどに静かな空間。
 黄色い卵焼きに箸が通る。ふわりとした感触。口に運ぶのに唾を飲み込む音がして……。
 大きな目が瞬きもせず太宰が食べるのを見守る。口の中に入り、噛み締められ喉を通って胃に落ちるまでを見つめて体が大きく身を乗り出している
「どう?」
 ぎゅっと一度強く目を瞑って問い掛けられる。一瞬の間だけ太宰からは何の反応もなかった。気に入らなかったかと心配するのに太宰の口元がふわりと綻んだ。嬉しそうにその顔を緩ませる。
「美味しいよ。やはり父さんの作るだし巻き玉子は美味しいね」
「父さんの得意料理だから! でも甘いやつも美味しいんだぞ」
 もう一個をぱくりと口に含む太宰。良守はそれに得意気な顔をみせる。
「ふふ、食べたいな」
「今度、今度入れてきてもらうから!」
「ありがと」
 キラキラとした目が今度の約束を取り付ける。ほぼ無意識のうちの行動。それに笑みを浮かべた太宰はまた次があることを喜んでいた。嬉しいと太宰の声が言う。箸が他の料理にも伸びていく。
「これも美味しいね」
 だろだろと良守の声がしてこれやこっちだって美味しいんだと太宰に沢山のものを進めてくる。進められるままに食べながら太宰は途中で箸を置いた。お腹が一杯でこれ以上はもう。
「ごめんね、もう食べられないや」
 謝るのに良守は強く首を振った。その顔は泣き出しそうになりながらも笑みを浮かべて幸せそうに太宰を見ていた。お重の中身は一段分ぐらいは減っていて……
「そんなん気にしなくて平気だぜ。父さんいつも人に作るとき作りすぎるんだ。人に作るの好きだから」
「……確かにそうだったね」
 良守の声がするのに太宰の記憶が刺激される。そんな人だったと父のことを思い出す。いつも誰かが来るときは多すぎるほどの量を作っていた。誰かの誕生日とか何かの祝い事とそう言う日も机がお皿で埋まるほどに作って兄弟でお腹がはち切れそうなほど食べていた。
 ああ、あれは何時だっただろうか。父の後ろ姿が思い出される。エプロンのリボン。慣れた手付きで調理をしていく父を見ながら太宰はことりと首を傾けていた。
「父さん」
 幼い声が父を呼ぶ。調理に夢中になっていた父はそれでも小さな声に太宰の方を向いた。向けられたのは笑顔だったはずだ。
「ん、なんだい。治守?」
 何かあったかい。目をあわせて問いかけてくる父にその横にある山のような料理を見た。
「作りすぎじゃない? 今日来るお客さんって一人だけだよね」
「そうかな? これぐらい必要じゃないかな?」
「でも……いつもの倍はあるよ」
「ええ、そうかな?」
 太宰の言葉に父は不思議そうに首を傾けてむしろもっといるんじゃないかと恐ろしいことを口にする。
「あんまり多いとお客さんも困るんじゃないかな……」
 口にはしたものの別に困るだなんて思っていなかったはずだ。ただ何時もお客が来たとき全部食べてもらえなかったとしょんぼり肩を落とす父を知っていたから言っただけ。そんな感じだったはず。
 父はでも沢山あったら嬉しいでしょとにっこりと笑って……。そう言うもんなのかと太宰は思った。でもやっぱりその日も父は肩を落としていたようなそんな記憶が……。それでも同じことを繰り返す父に太宰はどうしてか分からなかったけどきっと好きだったからなんだろうなと今なら思うことができる。
「兄さん?」
 呼び掛けてくる声にハッと太宰は我に返った。何でもないよとそう言って笑った。




 その日の夜、遅くに帰ってきた太宰は居間にいた福沢の前、立ち尽くしてしまっていた。
「福沢さん……」
 名前を呼ぶ声は小さくて今にも消えてしまいそうだ。揺れる目が見つめているのに福沢は優しく微笑んで太宰を見上げている。どうしたと聞く声はおだやかでおいでというようにその手は伸ばされている。
 少しずつ思い出していく記憶はそれとともに嫌な記憶も呼びおこしていく。恐怖を思い出していくのに今日の太宰はそれが駄目だった。自分の中うまく処理しきれなくて帰ってくるのにすら時間がかかってしまった。
 やっと帰ってきた今、太宰は猛烈に福沢の腕の中に行きたいとそう思う。だけどそれに躊躇してしまった。本当に言っていいのか悩んでしまったのに福沢はじっと見てくる。優しい眼でおいでと伸ばした手をもう一度伸ばし直してきた。
 あと太宰の目が開いた。父の話をしたからか父の姿を思い出してしまった。学校終わり、お帰りと家で出迎えてくれた父の姿。今と同じように広げられた手。その感触を思い出しかけたのにひやりとしたものが走る。ぱっくりと食われるようなそんなものを思い出して呼吸が荒くなりかけた。
 一度目を閉じて見えそうになった景色を背ける。呼吸を整えてから福沢を見た。あれからもう父の腕の中には帰ることができなくなった。
「何もないです。ごめんなさい」
「いや、良いが」
 ごまかすように笑った。そして今日は疲れてしまったのでもう寝ますねと今から出ていこうとする。夕飯は明日食べますと微笑むのに福沢がその背を見つめる。
 太宰と太宰の事を呼んだ。
 立ち止まる足が震えながらそれでも完璧に笑うのに太宰ともう一度だけ名前が呼ばれる。どうしましたと震える口が答えたのに福沢は立ち上がって太宰の元まで来ていた。
 ふわりとその手が太宰の頭に触れていく。
「福沢さん」
 驚いたように見上げてくる褪せた瞳に向かい福沢はそっと笑いかけた。
「甘えてくれてよい。どんな時でも私に甘えてくれ」
 優しい声が聞こえる。太宰の瞳はこれまでと違う意味で揺れる

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