拾拾弐
恐いのだよ。
そんな声が頭のなかでずっと木霊している。
兄がはじめて自分に言った感情の言葉。幼い頃も合わせて兄が自分から感情を表に出すのは初めてだった。幼い頃の兄はいつも穏やかな顔をして自分からは何かをしてくることはなかった。再開してからの兄もいつも笑みを浮かべながら自分からはなにもしてこない。自分の話をすることもなかった。
その兄が初めて良守に向けて吐いた言葉は痛いほどに苦しみが伝わってきて……。その言葉を忘れることが出来なかった。毎日のようにずっと繰り返されている。
はぁああと深いため息が良守の口から漏れ出た。
涙はでていなかったが泣いているような兄の姿が思い出される。
会いたいな。また会っていつか昔のように一緒に家族で食卓を畳んだりしてみたいと。もう会えなくなった今もその思いは時々沸き上がり良守を傷付ける。会えない。会ったら兄を傷付けると知ってしまったから。
それに会って嬉しかったよと言った兄。思い出したいと口にした姿は心から求めているようで……。傷付けるから会えない。でも会えないのもまた兄を苦しませるのではないかと思うと……。
ぶらんぶらんと足が揺れる。
はぁはぁ。背がひどく丸まっていた。真夜中の学校の校舎。家にいたらうじうじするなと繁守に追い出され良守は烏森学園に来ていた。何処に行こうと考えたとき自然とここに来ていた。昔兄と共にここに来ていたことを思い出していた。
良守、泣いちゃダメだよ。私が守るからね
ほら、良守、自分でやらないと。大丈夫。私がいるよ
術はねこうやって使うんだよ。
息をするように兄は結界術を使っていた。もう一人の兄である正守も凄い術者だったが子供の頃からそれを容易く越えるような術者で夜の仕事は怖かったけれど兄がいる日だけは恐怖を感じなかった。兄が傍にいてくれたから
ごんと何かが頭にぶつかってごろんと木の上から転がり落ちた。ぎゃあ! と叫び声があがる。
「なん!」
人が折角考え込んでたのに! とあげようとした声が視界に写り込んできた人物の姿にしぼんでゆく。長い黒髪がはらりと顔の上に落ちた。
「あんた何落ち込んでのよ。らしくないじゃない」
かけられた柔らかな声。心配していると黒い目が覗き込んでくる。
「時音……。何でお前」
突然の幼馴染みの登場に良守の目は何度も瞬いて時音と呼んだ女性を見つめる。
「たまたま通りがかったのよ」
「たまたまって……」
そんなわけないのは場所を考えればすぐに分かることだった。相手を見つめる。良守を心配するような目。そこには悲しげな色も混じっていてああ、そうかとわかった
「……父さんか」
「……。あんたが落ち込んでるから慰めてやってくれって電話が来てね」
だからと言いかけた声を時音は飲み込む。修史に言われたから来たのは確かだがそれだけでもなかった。
「落ち込むなんてあんたらしくないわよ」
もっと気の効いた言葉一つ言えたら良いのだが時音から出たのはそんな言葉だった。きゅっと良守の口元が強く閉じられる。ゆらゆら揺れる目はとても苦しんでいた。
「……」
「治守さんのことだよね」
口を閉ざす良守。その隣に時音は座っていた。何を言うかじっと考える。その間も良守は口を閉ざしていてぎゅっと膝を抱えてチいた。そんな姿に時音は昔のことを思い出した。それはまだ太宰が二人の傍に居た頃のことだ。
「話聞いたけどさ……。辛いよね。あんた治守さんのこと凄く好きだったし。兄さん兄さんって治守さんの後ろついて回っていたけ?」
時音の脳裏に浮かぶ良守と太宰の姿。学校へ行く兄の後ろをついていくまだ入学前だった良守の姿。振り返った太宰は良守を見て駄目だよと言っていた。何でだよと良守は頬を膨らませて太宰の腕を握っていた。無理に振り払われることのなかった手。そのまま繁守が気付くまで玄関でそうしていたこともあったそうだ。
そんなときのことを思い出すのに、良守はますます落ち込んでいた。泣きそうな顔をしている。
「……俺兄さんに凄い酷いことしちまった。俺が見つけなかったら兄さんは」
ぐずぐずと鼻を鳴らしていないのが不思議なほどに泣きそうな声。兄さんと良守が兄を呼ぶのに時音はその姿を見つめる。
「あんたは悪くないとは言わないけど、でもさあんただって会いたかったんでしょ。ずっと探してたじゃない」
「でも……」
慰めるための言葉が出ていく。そんな言葉でいいとは思っていないけど、でもこんな言葉しか出ていかない。兄がいなくなってから数年、良守からその名前を聞くことはなくなったけど、ずっと探していたことは知っていた。街を歩くとき、それとなくその姿を求めていたことを。だから悪いなんて言えるわけない。
「それに会えてよかったって言ってもらえたんでしょ。それってすごく良いことじゃない」
「……だけど思い出してもらえないんだ。思い出したら」
俯いていた良守の目が時音を見た。うんと頷きながらそれでもその目は涙で潤んでいく。決して涙はこぼさないけど、出ていく声は震えていた。ぎゅっと切なくなるようなその声に時音は視線をそらして空を見上げた。思い出すのは今までの日々だ。
烏森を守る長く続く戦い。ずっと戦い続ける指名の中でそれでも強くあれた。その理由を思い出す。
「…………誰かいないのかしらね」
「え?」
時音がぽつりとこぼすのに良守が時音を不思議そうに見ていた。どういうことを涙を一杯にためた目で首を傾ける。最近見ていなかった泣き虫な姿を見ながら時音は口を開ける。
「治守さんにもさ、支えてくれる人」
良守の目が見開いていた。
「支えて……」
繰り返す言葉にウントと木根は頷く。
「きっと私が想像しているよりずっとひどい目に遭ったんだと思うけど、それでももしかしたらそう言う人がいたら思い出す痛みを耐えることができるかもしれないでしょ」
「……」
あんたがいたからさ、私も。そんな言葉は飲み込んで話すのに良守の目はさらに見開いていて、皿のようになった。息を飲んで時音をじっと見て、それからゆっくりとその肩が下がっていく。
「俺……、兄さんの話殆ど聞いたことがなくて」
「あんただもんね。どうせ自分が言いたい話ばかりしてたんでしょ」
ぎゅっと尖る口元。もっと聞いておけばよかったと良守は肩を丸める。悲しそうにしながら太宰の姿を思い出していた。
「今の兄さんにも大切な人とかいんのかな」
「私には分かんないわよ。あったことないんだもん」
「そうだよな……」
良守が聞くのに時音はバッサリと答えていた。ますます落ち込みながら、でもと良守の目は時音を見ている。何処か明るさを取り戻しつつあった。
「もしさ、もしいたら……兄さんの支えになってくれかな」
「分かんないけど……きっとなってくれるんじゃないかしら。治守さんの大切な人なんだもの。きっと治守さんを大切にしてくれてる人よ」
今度の問いには笑って答えた。良守の目が輝く。ほっとしたように笑って、強く頷いて、それから少し俯いた後にまた話始めちえた。
「兄さんさ、あんまり話さないけどでも家族のこと口にするときすげえ懐かしそうな顔すんだよな」
「そりゃあもう十数年も前のことだもの。懐かしいでしょ」
「そんでさどっか幸せそうなんだよな……。最後にあった兄さん苦しそうだったけどでも家族の話をするときはやっぱどっか……」
幸せそうで。そんな風に言う良守も同じだった。悲しそうだけど幸せそうで、太宰がそうであったことを嬉しいと思っていた。良守の目から溜まっていた涙がこぼれていくけれどそれはもう弱弱しいものではなかった。
「辛いのかもしんねえけど、そんでも思い出したくないわけないよな。だって兄さん母さんや父さんのことすげえすきだったんだぜ。糞兄貴や糞爺のことだって」
「あんたのことも大好きだったでしょ」
時音の言葉にまた良守の顔に喜びが増えた。頷く。
「思い出すのが辛くとも思い出せないのもつれえよな。どっちが辛いと思う?」
「私には……分かんないけど、あんたは? あんたはどう思うの」
時音に良守は聞く。横に振られる首。そして問われ返されるのに、良守は考える。答えはすぐに出ていた。
「俺は……。
思い出したくない辛いこと沢山あったけどでもそれらを忘れたいとは思わないんだ。彼奴のこととか母さんのこととか辛かったけど忘れたくねえ。一緒に過ごした日をなくしたくねえ」
光をたたえた良守が言葉を紡いでいく。眩しいその姿を時音はそうとやさしく見ていた。良守が小さくだが笑みを浮かべる
「俺の痛みなんて兄さんの痛みに比べたらちっぽけかもだけど、でも……兄さんもそう思ってくれたらいいな」
「そうね」
時音が頷くのとほぼ同時に良守はその目にたまった涙をぬぐい取っていた。そして立ち上がり、力いっぱい地面を踏みしめた
「うっし! やるか」
呆然と立ち竦みながら仕事終わりで良かったとそんなことを何処かで思った。仕事の途中に自殺でもやらかすと国木田が五月蝿いから。自殺すると決まった訳じゃないけれど、でも今、痛いほど苦しい。
「何で……」
掠れた声が出た。記憶の奥底に押し込んで何とか忘れようとしていた記憶が蘇っては太宰に襲い掛かってくる。記憶のなかで笑う人々。おさもりと優しい声で己を呼ぶ大切な。霞のようにかすれているのにそれでも手を伸ばせばそこに幸せがあると分かる。だけど伸ばそうとするたびに暗いものまでも記憶のなかから甦ってきて……
鋭い牙が見えかけたのに必死に追いやった。記憶のなかで笑う影も打ち消していく。寂しさが襲うがそれでも……そうしないと……。
影を追いやって目の前の相手を見る。
幼い姿が沸き上がろうとするのを消す。黒い紙、兄さんと太宰を呼んだ……。
良守の大きな黒い目がまっすぐに太宰を見つめてくる。俺は……。泣き虫で泣いてばかりだった目が時折強い意思を見上げた。その記憶を思い出しそうになる。
苦しそうに一度顔を歪めながらそれでもその目は変わらずに……。
「兄さんが苦しい思いしてるの分かった。きっとすげえ辛い思いしてきたんだって……。会わない方がいいんだって思ったけど、でもそんでも俺はやっぱり兄さんに俺たちのこと思い出してほしい」
強い声が良守の願いを口にする。彼の願いでありそして
「だって、だって兄さん俺たちの事大好きだろ」
太宰の願いだ。叶えることができるなら叶えたい。だけど。ぎゅっと胸が痛くなって目頭が熱くなるようなそんな奇妙な感覚を感じた。泣きたいのだとそんなことを思うが泣くことはなかった。
殆ど記憶にはない。
でも思い出してしまった優しさ。頭を撫でてくれた大きな手。ねえと口にされる声。朧気でもそれでも好きだと思える、それは。
「……私は」
声が震えた。大好きで思い出したくてそれでも忘れたままでいると決めたのは太宰だ。己を守るために。壊れても良いかななんてそんな誘惑もあったけれど、でもそれをしたら悲しむ人が今の太宰には多すぎたから諦めたのだ。もう思い出したりしないそう呟こうとした。
「辛いかもしんねえ! でも、支えて傍にいてくれるやつがいたら少しは痛みも抑えられんじゃねえかって思うんだ。兄さんにそんな人が居てくれたらいい。居なくても俺が兄さん支えられるぐらいになるから」
言葉が聞こえてくる。震えながら言ってきた声はたくさん悩んだのが伝わってくるような声でそれでも胸に来るような強さがあって。
太宰の目が大きく見開かれた。
……ぱいだわ。あな…たしににて…から。
長い黒髪。表情の変わらない顔がだけど少しだけ心配そうに見つめてきていて……。ことあるごとに言われた言葉。覚えてない言葉。でもそれが大切なものであることを知っていて。
その言葉を知りたかった。あの人が自分になんていってくれたのか。
心配だわ。貴方、私に似ているから。
その言葉の前にいつも言われていた言葉。私周りになかなか馴染めないの。別にどうでもいいんだけど……、でもそれじゃ。母は不思議な人で変な人だった。私に良く似ていて……。だからいつも太宰を心配していた。
その母が言った言葉が太宰のなかでふっと甦った。
貴方を支えてくれる人を見つけなさい。そしたら大丈夫だから
ふわりと太宰の頭に触れ優しく撫でていく手が誰のものを思い出しているのか太宰も分からなくなった。ただ思い出す手はとても優しくて
「支えて……」
ぼそりと言葉が落ちる。
ああ、そうだ。そんな言葉だった。良守はあの言葉を知らないだろう。母親が口にしていたのはいつも二人だけの時だった。知らずに良守はその言葉を言ったのだろう。たまたま、いや、それぐらいその言葉が大切なものだからか……。
母の姿。そして……銀灰の少し長い髪。その姿が思い出される。
「それで何処まで苦しまないでいられるか分からないけどでも……」
良守の声が聞こえる。苦しまないのは無理だろう。でも……
「ふふ。そうか」
柔らかな声が太宰から落ちた。太宰と呼ぶ優しい声が聞こえてくる気がした。
「兄さん。俺、俺兄さん支えられるよう頑張るからだから」
ぼろぼろと涙が落ちていくのを眺める。一人でないことを今の太宰は知っていた。
「ああ、そうだった
「福沢さん」
帰ると同時に呼び掛けた背。長く待たせてしまった筈の彼は優しい笑みを浮かべてくれる。何だと柔らかな声が問いかけてきてくれるのに嬉しくなって抱きついていく。膝の上に座り込むと福沢は穏やかな目を向けてくる。
「どうした」
優しい声。ぎゅううと抱きつく腕に力が込められた。太宰の背にも腕が回されて抱き締めてきてくれる。
「何にもないです」
ぽんぽんと柔らかな手。
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