旦那様
 かつて呼ばれていた名前で呼ばれ福沢は一瞬答えるのが遅れていた。昔の光景が流れていて、今と結びつくのに時間がかかったのだ。慌てて何だと横を向いて答える。横を向けばそこには不安そうな顔をして見詰めてくる太宰がいた。空の器が太宰の前に置かれていた。
 食べ終わったのだろう。そしてどうしたらいいか。その答えを福沢に求めている。食べ終わったのか。福沢が聞いた。太宰の首は小さく縦に振られる。
 ならば洗いに行こう。お前はここで待っていろと告ければ、あっと太宰は声を出して福沢を見つめた。うるうると潤んだ瞳が見上げてくる。うげっと聞こえた声は聞こえなかったふりをして大丈夫。すぐに戻ってくるからと伝えた。それでも太宰の目は不安そうだった。泣きそうで、あのと事務員の一人が声を掛けてきた。
 良かったら私が片付けてきましょうかと福沢に聞く。太宰の目がぱっと輝き福沢を見る。福沢がそれではと言うのを待っていて、ためらいながらもお願いできるかと言っていた。はい。喜んでと事務員の一人は食器を運んでいく。太宰の目は福沢からそらされることがない。ついでに周りの目も二人からそらされていなかった。
 全員自分たちの席について仕事をしているふりをしているのだが、その手は止まっており興味深そうに二人を見ている。あの国木田までそうなので怒ることができるものなど誰もいなかった。
 まったく仕事になっておらず、今日は早めに閉めてしまうかと思いながら太宰を見る。じっと見つめてくる太宰はどうしていいのか分かっていないのだろう。所在なさげに手を動かしている。
 太宰が貯めている仕事もある。今ならば福沢が言えば大人しくしてくれるだろうが、太宰とは言え幼くなっている状況でさせるのはいかがなものかと思う。できるだろうが、そういう問題ではなくて……。
 大人しくしておけと言うぐらいしかなかった。
 今はここに居ろと告げれば、太宰はこくりと頷く。ううとうめき声のようなものが聞こえてきていた。そっとそちらを見ると遠い目をした国木田やその他事務員の姿が目に映る。
 普段の太宰と違い過ぎて飲み込めきれないことを分かりながら、福沢は私にとってはこれが太宰だったのだがなと考えていた。
 出会ったばかりのころは今の太宰よりもずっと大人しくて口一つまともに聞くことはなかった。福沢が何度も対話を求めてやっと話すようになってくれたのだ。その事を思い出して福沢はそっとため息をついていた。
じっと太宰が福沢を見てくる。
 どうしたと言っても太宰が答えることはなかった。暇かと聞いたら少しだけ目を泳がせる。そして福沢をじっと見つめてくる。
「暇か、暇じゃないかだ」
 太宰のくちがとがった。むうと口元を尖らせながらしばらくして暇だと告げた。福沢はそうだろうなと頷く。最初の方は状況を判断するので一生懸命だっただろうが、福沢が来てからは安心して考える気をなくしてしまってるようだった。ただそこにいるだけなのにやることもなくて暇を持て余している。
「何か、本を読むか。あそこにある本ならばお前が読んでもいいやつだ」
 福沢が指さしたのは事務所の中にあるだなだった。本来なら書類や事務所の事務用品が入っている筈の棚は本棚の代わりにされている。しているのは乱歩だが、福沢は良いだろうと判断していた。ちょっと声が上がるが一つ睨んで黙らせる。ぶつぶつと何かを言っているものの直接抗議してくることはなかった。そちらに一度だけ視線を寄せながら太宰は良いのと聞いてきていた。ああと福沢が頷くのに立ち上がって棚に近づいていく。その際真っ直ぐに行くルートではなく人を避けるルートを使っていた。
 そんな太宰を見てみんなそれとなく距離を取る。棚に辿り着いた太宰は暫く本を見てから、あれと首を傾けていた。不思議そうに棚を見つめてから福沢を見てくる。みんなそんな太宰の動きに注目していた。福沢はことりと首を傾けて何でも好きなものを選べと伝えた。頷く太宰は、棚を見て、そして棚の中から本を取り出し始めた。一冊だけでなくに三冊取って近くの机の上に置いていく。不可思議な動きに周りが不思議そうにしている中、あっと福沢は思っていた。ああという乱歩の声も聞こえてくる。
 思い出すのは前に太宰に聞いた。ためている書類を隠すのに乱歩さんの机や棚は丁度良いんですよねと言う話。周りはもちろん乱歩さん本人も机に殆ど触りませんし、乱歩さんは気付いても面倒くさがって見ないふりをしますから。そう言っていた太宰は福沢の前でもにこやかと笑っていた。ちゃんと必要な時にはしますよ。じらしてじらして焦らせるためにしていないだけですから。まあ、面倒なのもありますけど。
 そう言っていたのを思い出しながら太宰の動きを見守る。太宰は時折福沢を見てきては良いのかどうか確かめていた。何も言わないということはいいのだろうと判断してどんどん本を出していく。そして全部出した後、棚の奥に手を入れていた。がっこという何かが外れる音、そして太宰が大きな板を取り出してくる。なにいいと国木田の声が響き渡った。
 太宰が起きたら色々と後悔するのだろうと思っていたが、恐らくこれを一番後悔するなと思いながら見る。太宰は驚いた後、福沢を見てきていた。福沢は好きなようにしろと伝えるように太宰を見ているり太宰の手は外した板の上に張り付けてあるポケットに入っているものを取り出していた。じっと立ったままよむ。
 ことりと首を傾けて福沢を見てくる。これと言いたげな姿。福沢は国木田を見た。太宰の目が福沢の視線を追いかける。そして国木田と目があっていた。ぴくりと固まる太宰。それを見せろと国木田が言っていた。その口元が引き攣っている。何であるのかもう既に分かっているのだろう。どう見ても怒っている様子。太宰は怯えているようだった。
 それでも渡しに行った。さっと国木田が目を通す。福沢はそろそろかと立ち上がる。わなわなと震える国木田の肩。暫くすると何かが切れるような音が聞こえた気がした。お前と言う奴はと国木田が太宰を見て怒鳴る。
 そしてその怒りのままに太宰の肩を掴もうとした。その前に福沢が立つ。国木田の手を掴んで落ち着けと告げた。
 驚いたような国木田。ですがと告げてくるが福沢は後ろにいる太宰を見た。福沢背のを見てほっとした太宰は、今はその背にしがみついていた。どう見ても正常ではない。ぐっと国木田は歯を噛みしめている。
「戻ったらいくらでも怒ってやらせればいい。だから今はその怒りを収めてくれ。昔の太宰は怒られることに敏感で臆病だったのだ。あまり今の太宰を不安にさせないでやってくれ」
 福沢が告げる。国木田はぐっと奥歯を噛みしめた。吸ってはいてと深呼吸を数回してから頷く頭。席に戻っていくのを見届けてから、太宰が小声で僕何かしちゃったと聞いてきていた。何でもないと答えてから二人で片づけようかと太宰が出した板と本を見る。板は部屋の隅に置いて、本を入れ直しっていた。
 作業が終われば本の一冊を手に元居た席に戻る。隣り合って座った後、太宰が本を開くことはなかった。
眠そうに眼をしばしばとさせている。精神は子供と言え、体は大人のまま。昔のようにお昼寝を必要としていることはないだろうが、何分突然のことで混乱して精神的にたくさん疲労してしまったのだろう。
 福沢は一旦眠ると良いと太宰に言っていた。こくりと頷いた太宰は福沢に頭を寄せて眠りにつく。
 すうすうと寝息が聞こえてきた。はあとあっちこっちから吐息が吐き出されていた。心臓に悪いと聞こえてくる声。
 これが後一週間は続くのか。大丈夫だろうかと福沢は少し心配した。

 
 だがさすが探偵社のみんなと言うべきか、三日後にはみんな今の状況に慣れてしまっていた。
これ食べますか、探偵社のアルバム見ますか。等と事務員は暇な時に太宰に声を掛けたりしていた。太宰は声を掛けられるたびに福沢の腕に隠れ、それから恐る恐る顔を出しては相手を見て福沢を見上げていた。
福沢がどうしたいと聞くのに、太宰はじっと見上げることが多かった。お前が決めることだ。福沢がそう言った後に答えを決める。それは幼い頃の太宰の癖だった。
 幼い頃の太宰はよほど抑圧された生活をしていたのか、自分の気持ちを表に出すことが苦手、それ以前に自分が今、どう思っているのかを把握することができないでいたのだ。
 だから福沢に答えを求めてくることが多かった。
 どうしていいのか、だけでなく、どう思っているのか、どう感じているのか。そんなことまで福沢に求めようとしてきたのに、いつもお前がどうしたいかなのだと福沢は促していた。
 福沢が言えば、太宰はそれを何とか考えようとしたけど、答えが見つからないことも多かった。今はぱっと見そんなことなさそうだけど、時折迷っている事をかつてを知っていた福沢は知っていた。
 四日目になると太宰の方も周りに福沢以外の人がいることに慣れてきた。
 婚約者として福沢の元に来る前はともかく、来てからは福沢の家の中、閉じこもって過ごしていた太宰は、人に会うこともなく太宰にとっては久しぶりに見る人に戸惑っていたが、その戸惑いも少なくなり、自分から話ができるようになっていた。
 それでも福沢の傍から離れることはなかった。
 記憶を失ってから太宰はずっと福沢の傍に張り付いていた。福沢も太宰の様子に合わせてずっと傍に居られるよう、外に行く用事などは一週間分すべてキャンセルしていた。
 五日目、慣れない光景にノイローゼを起こしかけていた国木田もようよう慣れてきた。
 太宰と福沢を見る度にうっと顔を歪ませているもののそれ以外は特になく、遅れていた仕事のスピードも元に戻りだしていた。ついでに元に戻ったら彼奴にも遅れた分の仕事をふんだんにやらせてやる。待っていろよこの唐変木とその方面のやる気も元に戻っていた。
 六日目、子供がやたらと不安を言葉にするようになった。
 ずっと一緒に居られますよね。記憶が戻ってもずっと傍に居てくれますよね。そのうち一緒に夫婦になれますよねとやたらとそんな話を口にしていた。
 それに福沢は必ず当然だ。離れることはないと答えていたがそれでも不安げな様子が消えることはなかった。
 七日目、急に具合が悪くなり出した太宰。福沢が医務室に付き添い寝かせると、夕方になるまで目覚めなかった。目覚めた太宰は今の記憶を思い出して元の太宰に戻っていた。
 記憶喪失になっていた頃の記憶は朧気でほとんど何も覚えていないと言う事だった。太宰がそう言えば、誰もその間にあったことを話すことはできなかった。




[ 58/312 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -