「旦那様」
 ふわりと呼ばれるのにそちらを見る。にこにこと笑っている子供が一人。旦那様。そう言って笑い小さな手を私に伸ばしてくる。その手を取ろうと手を伸ばす。
 抱き上げた体は軽く小さい。
 ぎゅっと抱きしめてくる腕はぷくぷくとしていた。
「旦那さま。ずっと一緒ですよ。ずっとずっと」
 幼い声が願うように口にする。答えは決まっていた。


 階段を駆け上がる。心臓のあたりがぎゅうと握りしめられたように苦しくなって息がつらくなる。足元がおぼつかなくなりながらも最後の一段をのぼった。
 はぁはぁと出ていく息は荒く早い。呼吸をするたびにきんと胸が冷たく傷んだ。
 タクシーに乗っていた時にかかってきた電話。
 まだ三十分はかかるところから全速力で走ってきた体からは大量の汗が流れ落ちていく。
 深呼吸をしてからドアノブを握りしめた。
 力任せに開いてしまいそうなのを抑えてドアを開ける。社長と驚いた声が聞こえた。
「まだ「太宰が襲われたと聞いたが」
「あ、はい。それで敵につかまり救出はできたんですが、」
 予定よりもずっと早い帰りに目を見開いた事務員。ぽかんと口を開けている。構わず福沢は聞いていた。話す途中事務員が悲鳴を上げた。聞こえた言葉に一瞬殺気立ってしまったのだ。
 人一人殺してしまいそうな目で睨んでしまいそうになりながら、どうにか抑え込んで人が集まっている気配がする場所に歩を進めていた。
 ドアノブを掴む。事務員が話の続きをと声をかけていた。
「何か薬を飲まされたみたいで、記憶を忘れて、精神が子供のころに戻っているみたいなんです。犯人は掴まえ一時的なもの、一週間もすれば戻ると分かっているそうなんですが、ただ副作用などで脳に大きな影響を与えることもあると……」
「何」
 開いた扉。
 その中を見る前に福沢は動きを止めていた。聞こえた言葉に事務員の方を見て口を開ける。
 見開いた眼。
「何か起きた時のために太宰さんの傍には与謝野先生がいますが」
「否、それはいい。それより太宰は今何年前に戻っている」
「旦那様!」
 問いかけが完全に言葉になる前に別の声が鼓膜に届いていた。
 大きな声に二人の目がそちらを見る。そこには探偵社の社員に囲まれた太宰がいる。褪せた目を大きく見開いて太宰は福沢を見つめていた。
 はぁとその隣にいる国木田が声をこぼす
 その声と同じタイミングで太宰はほっと頬の筋肉を緩めて笑った。旦那様と囲まれている中から真っ直ぐに福沢に向かって駆け寄ってくる。
 固まっていた福沢はその手が自分に向かい伸びているのに腕を開いた。
 すっぽりと太宰の体が福沢の腕の中に飛び込んできた。ぎゅうと腕が回される。
「旦那様」
 至近距離で福沢を見上げた太宰が笑う。
「旦那様」
 同じ言葉を言われ、福沢は太宰を見ていた。瞳孔が見開いて、浅い息が何度も繰り返されている。動揺しているのに国木田がコラっと声を上げた。
 硬直した空気の中、彼は太宰の肩に手を置き、社長に迷惑をかけるなと怒鳴る。太宰の肩が跳ね、その顔が青ざめた。
「離して!」
 掴んだ手を恐ろしいもののように見つめ太宰は福沢に縋りつく。振り払おうとした手は途中で止まりながら福沢を掴んだ。嫌だと聞こえてくる声にはっとした福沢は国木田の手を掴んでいた。
「社長」
 どうしてと青い目が福沢を見る。福沢はその問いには答えなかった。ただ国木田の手を太宰からどかして、別の手で蓬髪を撫でていく。そこから覗く褪赭の瞳を見つめる。
「旦那様」
 太宰の唇がまた同じ形を作った。それは福沢の事を呼んでいて、福沢の手はより優しくなって太宰を撫でる。
「大丈夫だ。治」
 福沢が一度も呼んだことのない呼び方で太宰を呼んだ。ふわふわと頭を撫で続ける。太宰は福沢の体にそのすべてを預ける。
「こいつはお前に危害を加えるものではない。私の仲間でお前の仲間でもある。信じてやってくれ」
 福沢を見上げた目が国木田を見る。そしてその周りを見た。
「仲間」
「そうだ。何処まで話は聞いている」
「敵につかまって薬を飲まされたって。それで記憶障害を起こして、精神だけが昔に戻っているんだって。今の僕は二十二歳で武装探偵社ってところで働いていたって聞いてる。ここにいる人たちは全員そこの社員だって」
 太宰の声がどんどん小さくなっていく。背に回っていた手が福沢の首に回って抱き上げられようとしてくる。応えるように膝に手をまわして抱き上げる福沢。
 二人の様子に周りは目を白黒させていた。
 どういうことだと二人を見つめてはお互いを見て指をさしあう。なぜか声は出していない。その状態でパニックになっているのを見ながら福沢は腕の中の太宰に見詰める。
「その通りだ」
「……なら」
 一度太宰の目が閉じる。その姿で数秒固まった後に開けた目には涙がたまっていた。零れだすことはない。薄っすらとたまったしずくの中に福沢が映っている。
「僕たち、ずっと一緒にいられたんですね。旦那様は十年後も僕と一緒にいてくる。ずっと一緒」
 震える声が聞こえた。
 福沢の手が震えた。震える吐息が出そうになるのを抑えて福沢は太宰を見る。旦那様と腕の中で幸せそうに笑っているのに目をそらしそうになった。
 太宰が聞いてきたのは福沢がずっと恐れていた言葉であった。
 吐き出してしまいそうな嗚咽を口にしまい込みながら福沢は震える腕で力強く太宰を抱きしめる。震えに気付かなくなるほど強く抱きしめても旦那様と太宰は笑った。
 太宰が福沢を見てくる。
 その目はゆらりと揺れ今にも泣きだしそうだった。
「ずっと一緒。これからもずっと一緒ですよね」
 太宰の声が口にする。その言葉を聞いて福沢の口が震えながら開いた。
「ああ、ずっと一緒だよ。お前と私はずっと一緒。……婚約者なのだからな」
 ふわりと太宰の口元が綻んで笑う。
 それと同時に周囲から様々な音が聞こえてきた。がしゃんとものが落ちる音にばたんと誰かが倒れる音。しぃと福沢の口が動くのを見て周りはみな凍ったように固まった。
「旦那様?」
「何でもない。それよりお腹は空いていないか。何も食べていないだろう」
「……旦那様」
 福沢は太宰に問う。問われた太宰は福沢を見て、そして福沢を呼んだ。福沢の目が軽く見開いてそれからため息をついた。
「すいたのか。すいてないのか」
 少しきつくなった声が太宰に問う。太宰はんとお腹を見た。
「すきました」
「よし。それならばこれから何か作ろう。それまで一人でいい子にできるか」
「はい」
 太宰が頷く。ぎゅっと一度抱きしめてから福沢は太宰を床に下ろした。周りのみんなに目を向ける。でるぞと目だけで合図すればこくこくと頷く彼らはまるで壊れた人形のようだった。おとなしく椅子に座りなおした太宰がそんなみんなを不思議そうに見ている。


「どう」
 いうことだいと。与謝野がそう聞こうとしたのを福沢は手で止める。部屋から出てすぐの場所でしまった扉を見ながらもう少しだけ待ってくれと伝えた。
「この距離だと太宰に聞こえる可能性がある」
 小さな声で福沢はみんなに伝える。その目はとても真剣で嫌だということはできなかった。太宰に言ったとおりにご飯を作るつもりだろう社内にある給湯室に福沢は向かう。
 全員は入れないので中には福沢と与謝野、乱歩の三人が入った。
 与謝野と乱歩はじぃと福沢を睨んでいる。
「驚かせてすまなかった。
 何から話せばいいか分からないのだが、とにかく私と太宰はあれが幼い、……まだ五つのころから出会っていた。
 言いながら福沢の手は棚を漁り食べられるものを探す。食べ盛りも多いため何かしらすぐに食べられるものは用意していた。
「あれは恐らく覚えていないが、政府のごたごたに巻き込まれてあの子供は女子のふりをして婚約者として私の元に来た。すぐに男であることは分かっただ、事情が事情で太宰はずっと私の婚約者でいてもらった。太宰が十五になったら結婚する約束をしていて、
太宰が私を旦那様と呼ぶのはそれが理由だ」
 言葉の途中に福沢はラーメンの袋を取り出していた。
 じぃと棚を睨んでからそれを手にして立ち上がる。鍋に火をいれ湯を沸かし始める。
「色々あって途中離れてしまったのだが、今の太宰にはそのことは伝えないでくれ」
 沸騰したお湯に麺を入れながら福沢が言う。ぽっかんと大体のものの口が開いていた。はいと答える声は何処か間抜けでまだ話を飲み込めていない。婚約者と誰かが何度もつぶやいていた。
 それよりと乱歩が口を開いた。
 ねぇと福沢を見つめる目は険しい。その顔と同じように与謝野も福沢を見ていた。
「まさかとは思うけど……、太宰を好きだなんて言わないよね」
はぁと盛大にあくいくつもの口。
 さらに混乱に陥る周り。ちらりと横眼で見てから福沢は乱歩と与謝野から目をそらした。ぷつぷつと泡立っている麺をざるにあげて器に盛る。新しく水を入れ火にかける。無言でいればねぇと乱歩が苛立ったように声を上げた。
 横目でみた福沢は困ったように笑う。
「連れ去られてしまったが、それまであの子は私の婚約者だった。私はそれを解消したつもりはない。あの子を一生愛すると、あの子をずっと守ると私はかつて誓ったのだ」

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