その日の夜、夕飯を食べてからぼんやりとしていた私の近くに福沢さんが来ていた。少しいいかと声を掛けこられ、私は小さく頷くだけの返事をしていた。近くに座った福沢さんは私に何かあったのかと聞いてくる。昨日のこともあったので仕方ないとは思うが、いつもと今日は様子が違ったからと伺うように聞いてくる。
 一度唇を噛みしめた後、嫌になったかとまで聞いてこられていた。もう私と夫婦でいることすら嫌になったか。それならと言う福沢さんを見つめる。
 聞き分けのよく聞こえる言葉だが、その割にその眉間には深い皴が刻まれていた。嫌だとはっきりと書かれている。
 私は暫く何も言わなかった。
 近くにいる福沢さんはじっと見てくるだけ。それ以外は何も言ってこなかった。何かを言うのを恐れるように私を見てきている。私は暫くして口を開いた。開きたくはなかったけど、いつまでもこうしていては話にもならないことを気付だって。
「そんなことはないですけど」
 言った後口を閉じる。福沢さんは驚くように目を見開き、それからほっとするように息を吐き出していた。良かったと言いながらそれでも不安そうに私を見てくる。
「何か悩みがあるのか。心配事があれば言ってくれ、お前を心配しているんだ」
 福沢さんが私に問いかけてくる。私は何でもないですよと答えた。それでも私を見てくる。私のことをきにしているようだった。
 そこに自分勝手な思いは確かにある。一度気付いてしまったことを気付かないほど馬鹿にはなれない。それが少し嫌に思うけど、ただ不快と感じるほどでもなかった。自分勝手なくせにそれでも一番は私の事を考えているようだった。本当に大丈夫なのかと見つめてこられ、私はなんだか抵抗するのも疲れて白旗を上げることにした。与謝野さんがと言った。
 与謝野と福沢さんは首を傾ける
「与謝野さんが言ったんです。私は社長に負けたんだと。あんたが社長を好きになったんじゃない、社長があんたを好きにさせたんだって。
 私、こう見えて負けず嫌いな自覚があるので正直とても腹が立っているんですが、どうですかこの私に勝った気分は。福沢さんは知らないでしょうが、私に勝つというのはとてもすごい事と何ですよ。多くの人が挑んではあっさり負けていきましたから
 中には大勢で数の力で勝とうとしてきた者もいたのに、そんな相手が勝ってなかった私にこんなあっさり勝ってしまうなんて、気持ちよいでしょう」
 ふんと鼻を鳴らして笑う。福沢さんの目が見開いて私を見てきていた。薄く開いた口。えっと零れていた声。呆然と見つめてこられ、私は顔をそらしながらちらちらと見ていた。
 なんと言ってくるのかと思っていたら、それはと驚いたようなそんな声が聞こえてきた。何かを聞きたがっていたが、聞くことはなく閉じる。聞いたら最後嫌がられると考えたなら私の事をそれなりに知られていると言う事だから、嫌だなと思ったけど、実際そうのようだった。
 そうだなと唾を飲み込んだ福沢さんがゆっくりと口を開いてきた。
「勝ち負けで考えたことはないからあまり分からないが、でも嬉しいのは確かだ。好いているものに好きになってもらえる。これほど嬉しいことはこの世にないからな
 お前が私を好きになってくれたというのなら、私は今一番の幸せ者だ」
 社長の雰囲気はとても穏やかなものだった。幸せだと空気に書いてあるようなそんな感じ。感情が豊かそうには見えないくせしてずるいぐらい伝わってくる。
 直視なんてできないからそっぽを向いて言葉を紡いだ。
「本当に好きかなんてわかりませんけどね。
 私は人を好きかどうかなんて判断したことがないので。貴方のことを何かしら特別に思っているのは確かですが、もしかしたら好きとはまた違うものかもしれません。それでも貴方は良いのですか」
 かわいげなんて欠片もない言葉にそれでも福沢さんは笑っていた。ふっと優しく、そして幸せそうに。
「そんなこと今は良い。お前にとってそれが不快に感じるものでなければいい。できればおだやかに思えるものであってほしい、そう願うだけ。何か特別に思ってもらえているというだけで今はとても嬉しい」
 これからもよければ妻として私の傍に居てもらえないか。私の傍で過ごして、時に笑って、安らな姿でいてもらいたい
 そんな風に言われると私は嫌だなんて言えなかった。何を言っているのかさっぱり理解できないけど、それを気味が悪いとも思わなかった。
 ただ福沢さんが願うように、福沢さんの傍に居たらきっとこんな私でも穏やかに生きていくことができるんだろうなとそんな風に思った。


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