ほうと吐き出した息。ぼんやりと天井を見上げるのに背後から人の気配がしていた。
「疲れたか」
 上から見下ろしてくるのは福沢さんであった。いえと答えるが福沢さんはふっと口角を上げていた。ちょっと目を話していたら見過ごしてしまいそうな些細な変化だ。恐らくは微笑んだのだろう。すこし柔らかな雰囲気になったように思う。今日はお疲れ様と低い声が聞こえてくる。私はそれに首を傾けた。
「まだ終わっていませんよ」
「久しぶりに家の外で活動してお前も疲れただろう。今日はもうよい。私が終わるまでゆっくりと休んでいてくれ。お前のおかげでだいぶ事務仕事も片付いたようでやることもなさそうだしな」
 ちらりと福沢さんの視線が事務員たちの方を見ていた。私もそちらを見る。探偵社に何人かいる事務員たちは全員手持ち無沙汰に自分の席に座っていた。手元にコーヒーカップを置きながらのんびりとしているようだ。さすが社長の奥さん。仕事の効率が凄くて感動してしまいました。まさかあんなにすぐに終わらせてしまうだなんて。私たちの分の仕事まであっという間に終わらせてしまうのでちょっと悔しいです。口々に言っている姿に嘘は見られなかった。
 全員純粋に私のことを凄いと思っているようだ。単純だなと思いながら私は福沢さんを見上げる。上がっていた口角の形が少し変わっていた。下がっているとはいいがたいがそれでも少し下に行っているだろうか。目じりが少し下がってへの字になっているような気もする。
 困っているという感じだろうか。
「折角お前に働いてもらおうかと思ったがこれでは事務員の仕事がなくなってしまいそうだな。お前にやってもらう明日の仕事もなくなってしまったし……。
 ふむ。調査員の仕事などであれば、お前ももう少し楽しませてやれそうだが……。でも、あまりそうはしたくないか」
 困ったなと言うように福沢さんが呟いていた。ああと思いながら周りを見る。のんびりとした雰囲気。残っていた仕事はなくなり、新しい仕事が来るか、調査員たちから報告書が上がるか、追加資料を求められるかがなければやることがなくなっていた。全員暇そうなのに対して、社内には仕事をしている調査員は一人しかいなかった。
 パソコンにかじりついている姿はどう見ても仕事をしにきている風には見えない風貌の男は確か花袋という名前であるはず。凄腕のハッカーで彼の異能は素晴らしいと思う。野心がない事が救いか。でも私は惜しいと思ってしまう。
 残り三人いるが全員仕事に出ているようだった。
 昨日も幾度か帰ってきて事務所にいることもあったが、ほとんどは事務所のそとに出ていて忙しそうにしていた。特に金髪の彼、国木田だったかはとても忙しそうに走り回っていた。じっと事務所の中を見てからもう一度福沢さんを見た。
「私、こう見えて一応武術も学んでおりますので戦えますよ」
「……そうか」
 事務員は事務方だけの仕事で特に荒事を行う必要はないが、調査員ともなれば荒事は付きまとうだろう。福沢さんが私を調査員に回せないのはそう言う事があったりするのだろうかと思って言ってみていた。だけど私の話を聞いても福沢さんは険しい顔をするだけ。やはり意味はなかったかと私は福沢さんから視線をそらした。事務仕事をしているよりは、福沢さんも言っていたように調査員の仕事をした方が楽しそうだと思っていた。
 自由になれるはずもないのでこのようなものだろうと諦める。
 どうでもいいと思おうとしたが福沢さんの手が私の頭を撫でてきていた。へっと思って上を見上げる。上を見れば険しい顔をした福沢さんと目があった。何かを考えこむかのようにあごに手をあてている
「お前がやる気があるのならやりたいことをやらせて上げるのが一番だとは分かっているのだがな……。調査員の仕事は少し考えさせてくれ。あまりやらせたくはない。
 他には会議とか共に来るのは好きか?」
「はあ」
 何とも言えない声が私から出ていた。なんだか思っていた反応と違う。首を傾けてしまう。どう言う事だろうと見詰めてしまうが、福沢さんは一人考えている。
「好みそうだし、それでもいいかとも思ってみたが、できるなら控えたいな。
 暫くは事務仕事を頼む。……その一度落ち着いたらお前にも調査員の仕事をしてもらおう。きっとそちらの方がお前の才能をいかせるのだろうしな」
 福沢さんの肩が少し下がった。すまないと謝ってくるのをみあげて私は首を傾けた。何を謝られているのだろうと思った。私がここで何もできない事はほとんど分かっていたようなものだ。だって私が働いたところで探偵社の得になるようなことは一切ない。寧ろ不利益をもたらしかねない存在だ。
 そんな私がまともに働かせてもらえるわけがないのだ。それにしてはやらせてもらえることの量は多かったけど、所詮は事務方と言う事だろう。もしかしたら甘く見られているだけかもしれない。
 暇が潰せるだけでもよかったので深くは気にしないことにしていた。
 だから分からなくて福沢さんを見上げる。福沢さんはまた後でなと言って社長室に戻ってしまった。事務の仕事も終わって、社長の仕事も殆ど終わっているが、まだ少しだけ残っている。それを片付けに行ったのだろう。見送った後私は天井を見上げる。
 もう一人で帰ってしまいたいような気持ちになっていたが、一応福沢さんを待っていた方がいいだろう。仕方ないから大人しくしている。周りの目が少しだけ気になっていた。
 暇になった事務員たちがちらちらと私の方を見ていた。社長の奥さんと言う事もあって気になっているのが伝わってくる。気づかないふりをして目を閉じてもいいのだが、これから共に働くことを考えるとよくしていた方がいいのだろう。事務員たちの方を見て何かという。
 はっとしたように見開く事務員達。ごまかすように微笑んでから無言になる。こちらを気にしてくる目。じっと相手を見る。暫くしてから事務員たちの口が開いていた。
「その社長に愛されているなと思うとつい見てしまいまして。すみません
 はいみたいな声が私から出てしまっていた。何を言われたのだと思う。そうなんですよと答えた事務員以外の人たちも私に言っていた。なんのことかさっぱり分からなかった。愛されているってどうして。そんな夫婦としては変なことを聞いてしまう。
 幸いと言うか、なんと言うか照れているだけと思われて可愛いですなんて言われてしまった。
「凄く社長に愛されていて正直羨ましいです。あんなに愛されているなんて」
「はあ」
「調査員の仕事につかせたくないのも調査員の仕事だと危険が多くて危ない事をさせたくないと思われているからですし、会議に連れていきたくないのは可愛いお嫁さんを外に見せたくないからなんですよ」
 何を言われているのだろうと事務員の人を見る。にこにこと笑っている彼女たちには悪いがちっとも理解できなかった。分かる話をしてほしいと助けを求めてあたりを見るけど誰もいない。
 一人いるにはいるが所在なさげにパソコンをいじっているだけだった。
「それに今でもすごく心配されているようですしね」
 またはあという声が私から出た。そりゃあ得体のしれない相手を自分のテリトリーに入れていたらそうなるだろうと思ったが、それとはまた違う意味のようだった。
「本当は社長ずっと前から治さんに探偵社に来てもらいたかったんですよ。仕事上恨みを買っていることもありますから、家に一人でいたら誰かに狙われるんじゃないかって心配されていて、お昼などはできるだけ帰るようにしていたんです。
だからどうにか探偵社に来てもらえないかって悩んでいたんです。
 やっと来てもらえて凄く安心されたようだったんですけど、今は今でどうやって治さんに安心して仕事をしてもらえるか悩んでいるようですし、本当に愛されていますよね」
 首を傾けてしまっていた。穏やかに笑いながら事務員の一人が教えてくれる。あんなに愛されて羨ましいです。私も社長みたいな素敵な人と結婚したいと聞こえてくるいくつもの声。ぽかんと口を間抜けに開けてその話を聞いてしまった。どういうことだとさらに首は傾いていく。
 事務員の話が全く理解できず、飲み込むこともできなかった。
 不思議なほど家に帰ってくるとは思っていた。だけどその理由がそんなものだったとは考えたこともなかった。私の見張りをしているのだろうかと思ったことはあったけど、そうでなくて私を守るためだったなんて。
 それも本当かどうかは分からないが、でもたまに周りをうろついているなと思った妙な奴らが、福沢さんが帰って来た時に片付けられていることがあった。あ、片づけていたんだ程度にしか考えておらずどうでもいいやとすら思っていたのだが……。
 そうしていたなら心配するような相手でないことも気付いている筈なのにどうしてなのだろうかと再び考えてしまった。
 どうかしましたかと事務員に聞かれる。曖昧に笑う。何でもないですなんて言って、あたりを見た。面白いものは何もない。話の展開を変えられそうなものもないのに、お茶をいれてくると私は立ち上がっていた。これ以上彼女たちの話を聞きたくはなかった。
 理解できない事ばかりで頭が変になりそうだった。給湯室にいきながら、私は社長室の扉をちらりと見た。前から訳の分からない人だと思っていた福沢さんがさらに訳の分からない人に思えた。


「どうかしたか」
 そう問いかけられたのは帰りの道であった。探偵社の仕事が終わり帰る道。当然というべきなのか何なのか福沢さんと一緒に歩いていた。福沢さんの二歩後ろを歩きながらついていく。福沢さんは数歩進んでは私の方を見てきていた。そんな福沢さんの背中をじっと見ていた。
 どうしてだろうと考えながら見て歩いていて、だからか福沢さんが途中で問いかけてきたのだった。
 あーーと私は声を出す。聞いてしまおうかという思いと聞いたところでなという思いでどうするべきか悩む。どうせ聞いてもまた分からないことを言われるだけなのだろう。
 じっと見てしまう。福沢さんも私をじっと見てきていた。
 行き交う人々がいつの間にか立ち止まっている私たちを邪魔そうに見てくる。福沢さんが気付いて、こっちへと隅の方に歩いていた。隅に立ちどまれば私も隣に立つ。
 どうししたと福沢さんが再び聞いてきた。
「何か仕事で気になることでもあったか。それとも聞きたい事でもできたか。気になることがあるのであれば何でも聞いてきてくれ。私が答えられることであればなんでも答えるから」
 じっと見つめては言われる。私ははあと言うような声を出して福沢さんを見た。福沢さんはじっと私を見ている。私の事を気にしてきている瞳。暫くして私は聞くことにした。
「社長って私の事を心配してくれているのですか」
「それはもちろんしているが、どうしてそんなことを」
 なんと聞けばいいのかちょっと言葉が出てこなくて迷った末に聞いた。福沢さんは不思議そうにしていてた。当たり前のことのように答えた後に首を傾けている。じっと眉間に小さく寄る皴。
「……事務員の方と今日お話ししていたんですが、そのようなことを言っていまして。
 貴方が仕事の日もお昼家に帰ってきていたりしたのは私が襲われていないか心配だったからだとか、探偵社に招いたのもそれが理由だとか。そんなことを。愛されているとも言われたんですがよく分からないなと思いまして」
 じっと見ながら話した。福沢さんは途中でその目を少し見開いていた。手で顔を抑えるがその頬が少しだけ赤くなっている。あやつらめと少しぼやいている。それをみてあ、本当なんだと気付いてしまった。余計に分からなくなる。次に聞こうと思っていた言葉をどうしたらいいのだろうかと考える。まあ、いいかと思った。折角なのだから聞いてしまえと福沢さんを見る。
「でもそれは私を心配なんじゃなくて、私が何を起こすか分からなくて心配なのではありませんか。なんだか違うなって思ってしまって……」
 口にしたのに福沢さんは驚いたように私を見た。赤くなった顔を隠していた手が離れてじっと私を見てくる。何を言っているのだと言いたげな顔をして私を見た後に、でもそう思うのも仕方ないと考え直したのか、真面目な顔でじっと見つめてきた。開く口が何というのかを私はもう既に知っていた。
「そんなことはない。
 こんなことを言えばお前は私に信じられないというだろうが、私はもう既にお前のことを信じている。お前が私や探偵社に危害を及ぼすようなことをするとは一切考えていない。
 お前はそんなことはしない」
 思っていた言葉が聞こえたけど、その声は思っていたよりもずっと強い内容であった。はあと出ていく声。分かっていたけど何でと思ってしまう。どうしてですかと聞いてしまった。私が妻だからですかと言っても福沢さんは首を振った。
「そんなことでは信じない。では何故と言われたら難しいが、でもずっとお前を見てきて分かった。お前にはそんなつもりはないのだと。信じているという言い方がまずかったかもしれないな。そうではなく私はお前を知っている。
 お前はそんなことをしないと知っているんだ」
 するつもりなどないだろうと福沢さんが私に聞いた。ちょっと嫌な気持ちになったけど、でも頷く以外なかった。実際そんなことをするつもりはみじんもなかった。気持ちもなければやる意味もなくて、振られるまでここにいられたらそれでよかった。
 見つめる福沢さんは当たって嬉しそうな顔ではなく、どちらかというと悲しそうな顔をしていた。
 それが何故か分からないけど聞こうとも思わなかった。
 ただどうしてですかと聞いた。どうしてと。福沢さんの銀灰の目が私を見つめてくる。何がだと問われるのに私はだってと言った。
「だって私元ポートマフィアですよ。何でそんなことを信じられるんですか」
 知っているでしょうと言うのに福沢さんは驚く様子一つもなく私を見ていた。


 幼い頃、行く場所もなく生きる意味も持たずただ死にたがっていた私を拾ったのは胡散臭い医者の男だった。森鴎外という今はマフィアの首領である男。死にたがっていた処を生かされた私はその男に誘われてマフィアになった。そこでなら見つかるものもあるかもしれないと思ったのだけど、数年そこにいた私はああ、ないやと見切りをつけてしまった。
 色褪せた世界で私を楽しませてくれるものなど殆どなく期待して生きるのも嫌になった。こんな場所に居たって何も起きない。もうどうでもいいやと思ってマフィアを抜けることを決めた。
 女として利用されようとしていることに気付いたからでもあった。その頃すでに森さんはマフィアのボスであったが、それですべて掌握できるほどポートマフィアも簡単な場所ではなく、簡単にどうこうできない上の相手が私を利用しようと企んでいた。マフィアの得となる相手と結婚させて、そして優秀な人材をさらに増やすため私を種馬にしようとしていた。
 頭もよく異能も特殊な私は腹が立つことにそう言うのにもってこいな人材であったのだ。
 でも私は子供などは生みたくなかった。私の血が混じった子供など悪魔以外の何物でもなくそんなものをもう増やしたくはなかった。上層部何て殺してやってもよかったけれど、とはいえ森さんだっていつかは同じことを考えるはずだった。
 まだ私の事を尊重ではなかったか。私がポートマフィアで前線で戦っていた方がいいと思ってくれていたから、結婚して子供を産ませようなんてことはしてこなかったけど、いつかもう必要ないと判断したら森さんはいともたやすく私をどこぞの男に押し付けただろう。
 だから私はポートマフィアを止めることにした。
 逃げてもよかったけど、それでは追いかけられる。逃げ続けられる自信がないわけではなかったけど、面倒に感じた私はマフィアが得になる人物の元に養子として押しかけることにした。
 その人物は業界とつながる為のパイプを探していた。その役を果たせる娘になることで恩を売り、マフィアとの関係も深くさせた。ただこれから嫁がせることになる子供がマフィアでは困ることもある。上層部と義両親との話し合いの結果、私はいともたやすくマフィアから抜け出すことができた。
 私には今後一切手を出さないという約束も取り付けられている。私があの家を追い出されたらすぐに意味がなくなるような約束だが、でも上層部の多くは私にあれ以上力をつけさせたくなかっただけだったのでマフィアさえあと腐れもなく抜けてしまえば特に問題になることはなかった。
 結婚することは変わりなかったが、義両親は私が子供を作ることは望んでいなかった。あくまでもパイプが欲しいだけで他は何も望まれていない。さっさと望まれるパイプを作って出ていこうと思ったのだった。


「知っている。それでお前も狙ってくるものもいた。
 だから……お前がマフィアとして潜入してきているわけでもないのは分かっている。それ故という訳でもないが、そうでなければ何かしでかす理由はなくなるだろう。それに探偵社は社員こそ少ないものの優秀なものが多い。マフィアとて下手に手を打つことはできない。お前がマフィアから隠れているのであればここは潰さずにいた方が都合がよいだろう」
 驚くことがなかった福沢さんはそんなことを言ってきていた。まあ、それもそうなのかと思いながら福沢さんを見る。これで分かってくれぬかと福沢さんが言うのにまあ、と私は頷いていた。
 良かったと少しだけ口角を上げる福沢さん。その手が伸びて、あっと思った時には私の頭の上にあった。髪に触れ、上から下へと降りていく手は撫でるという行為だ。何故そんなことをされたのか分からずに見つめる。
 福沢さんは何も言ってこなかった。静かな目で見つめてくるだけ。何も言ってこないが何処となく穏やかな雰囲気があるのに私は口を開いていた。
「私の事愛しているんですか」
 愛されていますよね。事務員の言葉が思い出される。何を馬鹿なことを言っているのだろうと思っていたけど、少し目を見開いた福沢さんはみるみるうちに顔を赤くして、そしてそっと微笑んでいた。


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