手の中

「何、乱歩さんは剥れているんだい」
 与謝野が聞いたのに返ってきたのはさぁ? と云う答えだった。
 乱歩の前に座っている太宰と福沢が揃って首を傾けているのに、乱歩が二人のせいだろうと怒鳴っていた。きゃんきゃんと喚いているのを福沢が鬱陶しそうに見ている。
「だからなんだと聞いているだろう。理由も云わずにわめきたてるな」
 ちっと舌打ちが聞こえてくるのに乱歩の勢いは激しくなった。やっているねと思いながら乱歩の隣に座った与謝野ははて? と首を傾けた。なにか違和感あるなと部屋の中を見て、喚いている乱歩を見る。
 それから福沢と太宰を見て、ああと声がでていた
「あんたらちゃんとすすんでいるんだねぇ」
 しみじみと呟く。少しだけ遠い目をしてしまっていた。
「はい?」
 夕食をちびちびと食べていた太宰が首を傾ける。ぴしりと乱歩の動きが泊まった。福沢は何のことだと瞬きをしている。
「いやーー、だいぶ仲良くなったは違うだろうけど、仲良くなったんだねーーと」
 与謝野は二人を見ている。
 丁度夕食時だったのだろう。三人テーブルを囲んでいたのに、長辺に福沢と太宰が並んでいる。その前に乱歩とさっき座った与謝野が並ぶ。与謝野の記憶が正しければ前に与謝野がきたときは福沢の隣には誰もいなかった。
 年長である福沢が長辺を一人のびのびと遣っているのが常で、与謝野がきたときは空いている福沢の隣に座ったのだった。
「これぞ恋人の正しい距離だね。前におじゃまむしはいるけど」
 うんうんと頷くのに誰がおじゃまむしだよとすぐに乱歩から声が上がっていた。自覚あるんじゃないかと云えば乱歩は違うから。勝手に付き合いだした二人が悪いんだろう。家の中でもいちゃいちゃしやがってと喚いている。
 やはり相当機嫌が悪いようなのに、与謝野は何となくだがどうして機嫌が悪いのか分かってきていた。
「なんだいあんたら。乱歩さんの前でそんなにいゃいちゃしてるのかい。どんなことをしているんだい」
「は?」
「別にいちゃいちゃ何てしていませんよ」
 はぁとあきれた目で見てしまうのに二人は首を傾ける。
 太宰が何のことですかと問いかけるのに与謝野はため息をつく。自覚なしかと呟き乱歩を見る。口を尖らせた乱歩は肉まんと呟いた。
「あ」
「肉まんを食べたんだよ。そしたら」
「にくまん? あーー、今日帰りに食べましたね。それで機嫌が悪かったんですか? なんで」
「ああ、お前は肉まんとあんまん二つも食べていただろうが」
 首を傾け直す太宰。福沢の声はさらに低くなっていたが、乱歩は違うとすかさず叫んでいた。そうじゃなくて、そうじゃなくてとなんでか泣いている。
「こいつら僕の前で二人で一個を食べてたんだよ。割るとかすりゃあ良いのにそのまま一つ二人で食べててさ、ふざけんなって思わない。そう云うのは人がいない時にしろ!
 百歩譲って僕の前じゃなくて後ろですることじゃない」
 最後まで云った乱歩に与謝野が遠い目をする。なるほどねとでていく声。だが云われて二人は首を傾けている。
「それのどこが悪いのだ」
 福沢が云うのにあっと乱歩から彼に似合わない低い声がでた。
「悪いに決まっているだろう。悪すぎるよ」
「? どうしてですか」
「いちゃいちゃしてるの何て見たくないからだよ。そう云うのを見せつけられる僕の気持ちを考えろ。迷惑だろ。二人もいつも見てるんだから分かるでしょ。
 肉まんなんて一人で食べろよな」
 乱歩が叫ぶのにんーーと太宰は首を捻り唇をつきだす。
「だって肉まん一つ食べたら夕飯食べられなくなっちゃいますよ」
「一つまるごと食べたら太宰は夕食を食べられなくなるだろう」
「なら食べなければ良いだけの話だろう」
 息ぴったりに云われたのに乱歩は叫んでいた。与謝野は大変だねとけらけらと笑っている。
「他人事見たいに云わないでくれる。与謝野さんにだって関係ある話だろう」
「まだ私は二人が仲良くしていたらそれで良いんじゃないかと思っているからあんまり関係ないんだよね。ほどほどにしなよとは思うけど、乱歩さんだって過剰反応じゃないかとも思うしね。そんなに嫌ならでていけば良いんじゃないかい?
 そろそろ良い頃合いじゃないかい。」
「なんで僕がでていかないといけないんだよ。僕は一生ここに居座ってやろうと決めてるの」
「そのうち福沢さんに切れられるんじゃないかい。なにか諦めたみたいだったけど。でも太宰がいるようになったからね」
「知らないよ。居座ってやる」
 乱歩がうわーーんと泣き真似をする。与謝野は相変わらず楽しそうにしているのに、福沢と太宰は二人不思議そうに見ていた。
「ほら」
 福沢の手が太宰に食べ物を差し出した。げっと太宰の顔が歪んだ。
「今、食べ終わったんですけど」
 太宰が云うが太宰の皿にはまだ半分以上残っていた。
「駄目だ。あと一口だけ食べろ。ほら」
「もう仕方ないな。アーーン」
 ぱくりと太宰が差し出されたものを食べた。うわっと与謝野から声がでていく。
「ね、これを毎日やっているんだよ。過剰反応にもなるよ」
「いや、でもね」
 見つめてくる視線を鬱陶しそうしながら福沢は食べ終わった皿を片付けはじめる。私も手伝いますよと太宰も乱歩の前にある皿を片付けていた。
「乱歩さんは良いのかい」
「しないよ。二人がいちゃいちゃしてるところ何て見たくないからね」
 ふんと乱歩が云うのに与謝野はなるほどといって二人を見送る。何をいっているのだこいつはと云うような顔を福沢がしている。
「いやーー、あの二人本当仲良くなったね。正直うまくやっているのか不安だったところあるけど良かったじゃないか」
「僕はちっともよくないけどね」
 二人がそんな話をしていた。


「乱歩寝るなら部屋に行け」
 ユサユサと乱歩の肩を福沢が揺する。二人が片付けを終えて、居間に戻ってきた時、その手のなかには酒があった。げっと顔を歪め逃げ腰になった乱歩とは違い。与謝野は待ってましたと云わんばかりに輝いて、二人ではなくその手の中にあるものを見ていた。
 そして始まった酒盛り。
 いつものペースで飲んでいく三人に巻き込まれて乱歩も少々飲んでいた。
 そのお陰で一時間たった頃には、そう強いわけではない乱歩の死体が出来上がっていた。畳の横に横たわっている乱歩の肩を福沢が揺すって起こそうとしている。だが伸びている乱歩は起きそうにない。飲ませ過ぎるからと太宰は福沢をあきれて見ている。
 起きろ、乱歩に云う福沢の手が乱歩の肩を叩いている。
 それからすぐにその手は乱歩から離れて酒を飲んだ。起きないと悟りため息をつく。酒は飲まなくてもよかったな。太宰はそう思った。
「与謝野、どさくさに紛れて寝ようとするな。寝てもお前ははこんでやらんぞ」
「何で」
「寝れば運んでもらえると思っているのが丸分かりだからだ。そんなやつの面倒までみん
 眠いなら寝にいけ」
 いつのまにやら乱歩のように横になっていた与謝野に福沢が云う。めざといなと太宰は感心していた。乱歩を福沢が荷物のように担ぎ上げる。仕方ないなと与謝野が立ち上がり酒を飲む。いくのかと思っていた福沢も酒を飲んでいた。
 それから二人部屋をでていくのを見送った太宰は、だからなんで酒を飲むのかなと思っていた。
 太宰の手もグラスに酒を注いで口許に運んでいる。
 飲み込んでふわぁとあくびを落とす。が、さほど眠いわけでもなかった。静かになった部屋でちびちびと飲んでいくと福沢が部屋に戻ってくる。
「お帰りなさい」
「ああ」
 太宰の隣に座った福沢が酒を一口飲んだ。
「お前はまだここにいるのか」
「はい。まだ眠くありませんしね。もう少しここでのんびりしています」
「そうか」
 笑った福沢が太宰の頭を撫でていく。太宰は福沢の手を見上げるが何かを云うことはなかった。舐めるように一口酒を含む。
「乱歩さん、ちゃんと布団にいれてきましたか。じゃないと明日怒られてしまいますよ」
「安心しろ。ちゃんと布団の上に寝かしてきている。寒いと思えば自分で布団を被るだろう」
「ちゃんとじゃないじゃないですか」
 くすくすと乱歩が笑うのにそうかと福沢は首を傾ける。そうですよと太宰は穏やかな声をだした。
 二人の間の会話が一度やむ。
 静かな空気が流れている。二人はしばし何も云わずにただ隣り合って座っていた。そう云えばと太宰が声をだしたのは半刻ほどの時間がたってからだった。
「どうも私たち恋人として仲良しな印象がついているようなのですが、どう思いますか?」
「どうと云われても……、良く分からないが良いことではないか。恋人であることはたしか。仲良く思われているのなら良いぐらいだろう」
 太宰の目は酒を見ていた。グラスのなかに入った酒は 電灯の光とガラスの縁を水面に写している。
「そうなんですがね、でもそんな仲良しという感じでは実際のところはないじゃないでしょうか。何だか実態とは違うことを思われているのって、こうざわざわしたりしませんか」
「ふむ。まあ、分からぬ感覚ではないが、さほど実態と離れているとは思わぬし良いのではないか。
 確かに与謝野が云うようないちゃいちゃなどはしていないが、なかは良いだろう」
「んーー。そうなんでしょうけども。……でも恋人のようなと云われたら違うんじゃないかと思ってしまいまして……。恋人という役柄はつけましたけど、でもいまでもそれであっているかはまだ分からないんですよね。
 貴方が好きなんだなってことは何となく分かってきたんですけど、でもそれは他の気持ちと何が違うんでしょうか。私は探偵社の事をそれなりに好ましく思っているおもいます。その気持ちとどう違うのでしょうか。恋人という名前をつけるほどのものなのかそれが私には分からないのですよね。
 だから、与謝野さんになかがよいと云われてなんだか微妙な気持ちになってしまって」
 太宰のては途中でグラスを掴んでいた。太宰の目が福沢を見る。
「社長は」
 その口が聞く。
「社長はどうですか。この関係、どう思っていますか」
 太宰が問いかけてくるのに福沢は持っていた酒をおいた。
「どうかな。私はこの関係を嬉しいと思っている。最初はいまいち理解できなかったがこうしてお前と二人の時間を過ごすようになって与謝野の云っていたことも分かるようになってきた。確かに与謝野のいう通りだった。」
 太宰の目が軽く見開いたのはなにも福沢の言葉のせいだけではなかった。
 見れば福沢の手が太宰の手を掴んでいる。話の途中で掴まれた手を太宰は見ておらず、ぎゅっと握られる。その手をそのままにしてじゃあとまた聞いていた。
「社長は私のことが好きなんですか」
「ああ、そうだ。乱歩のことをたまに邪魔に思うぐらいには好きだな」
「……? 何ですか、それは」
 太宰の首が傾いた。ポカンと開く唇。ふふと滅多になく笑い福沢は握るてに力を込める。
「いずれお前も分かるさ」
「それは私が貴方を好きということでしょうか。」
「さあな」
 銀灰色の目を太宰はジィと見る。だがその目が答えることはない。ふふと息を吐いて太宰の目はグラスに移行した。持っていたものを飲み干してしまう。
「太宰」
「何ですか」
一拍置いて福沢が話しかけた
「今度二人で出掛けないか」
「二人でですか? また急ですね」
「どこでも良いぞ」
「与謝野や乱歩さんと一緒じゃなくてもいいのですか?」
「お前と二人きりがいいのだ」
 太宰の動きが一度止まった。開こうとしていた口を閉じ、じぃと壁を見る形で固まっていたのにゆっくりと動き出す。太宰の手がテーブルにあったお酒をとった。それをグラスに注いでいく。
「つまりそれはデートということでしょうか」
 こぽこぽと注がれる透明な液体。コップの縁、ぎりぎりの所まで注ぐ。
「そう云う云い方もあるのだったか」
 なるほどと太宰が頷く。
「嫌か」
「嫌ではありませんけど、ただ……、
 否、やはりなにもないです。いきましょうか」
 太宰の首がゆっくりと動いていた。その光景をじっと見つめ福沢は良かったと小さく声をこぼした。



「あれ? 社長は」
 太宰がそう云ったのは散々国木田に怒られた後だった。もう分かったよ、ちゃんとやるからといって書類を手にした太宰は逃げるように社長室の扉を開けてそこで目を見開いている。
 きょろきょろと辺りを見渡すのに国木田が呆れた声で答えた。
「社長は仕事で出掛けているぞ。それよりいきなり社長室のドアを開けるやつがいるか。その書類だって未完成だろう」
「残念。これは面倒で持っていかなかっただけで、もう数日前には完成していたのだよ」
「そんなこと威張るな」
 太宰の背を国木田の手が叩くのにわざとらしく太宰は痛がる。一頻りそんなことをしてから太宰はそれよりと国木田に聞く。
「社長はどこにいたのだい? 外にでるような仕事なんてなかった筈だけど」
「ああ、急に依頼がきてな。敦と共にその依頼に出向いたのだ」
「社長がわざわざ?」
 太宰が首を捻る。そんなに大事な依頼だったのだろうか。一体どんな内容だったのか。考え込むのに国木田がため息をつきながら答えた。その米神は震えていた。
「仕方ないだろう。人が足りなかったのだ。乱歩さんや与謝野先生、谷崎など他のものは全員仕事で出払っているし俺ももうすぐ別件で出掛けなければいけない。どこかの唐変木は朝から行方不明、どこかをぶらぶらふらついておったしな」
「なるほどね」
「おいなにかいうことはないのか、何処かの唐変木」
「で、社長どこに云ったの」
「ああ」
 国木田から低い声がでる。眉間にはついに深い皺も刻まれてしまった。それは彼の怒りを如実に伝えていた。無理もないだろう。
 チクチクと指した嫌みが太宰には全く通じていないどころか、書類をそこら辺に片付けた太宰はどこかに出掛けようとしている所なのだ
「社長の居場所は」
「それよりどこにいくつもりだ」
「どこにって社長のところだけど」
「はぁ?」
 拳を震わせて聞くのに太宰は何でそんな分かりきったことを聞くのかと首を傾けていた。国木田からはすっとんきょうな声がでていく。
「何で社長のところに。ちょっとまって」
「少し気になることがあるのだよ。それでどこ」
「どこって、……だが」
 太宰の目はいつもと全く違うものだった。怖いぐらいに真剣になっているのに国木田は息を飲み込んで太宰を見た。その口から福沢の向かった場所がでていく。


「さあて、社長がいるのはこの辺りかな
 それで二人は……」
 太宰が辺りを見回す。その声は軽いものだったが目付きは険しかった。褪せた目が一つ一つ気になる場所を見ていく。明らかに戦闘が起きている形式があった。そしてまたそれは続いているのだろう。音は聞こえてきている。その音がする方向に進む太宰の足は知らずに早足になっていた。
 太宰の声が聞こえてきた。
 焦ったような声に太宰の足は一度動きを止めてしまった。ひっとかすれた声がでていくのに太宰は動き出すことができなかった。



「社長の様子は」
 与謝野が部屋からでてくる。周りにいた何人もが顔を上げて駆け寄っていた。国木田が声を上げて聞くのに与謝野は大丈夫だよと笑って答える。
「今のところはだけどね。
 怪我もなく何にも変わった所がない。今現状で私が云えるとしたら大丈夫だけになるが、社長を襲ったのは異能者なんだろう。今はなにも問題がないように見えても後から何かあるかも
 目が覚めてくれないことには何とも……。寝ているだけだからなにもなければすぐにでも目を覚ましてはくれると思うけどね」
「そうですか」
 みんなの様子はどんよりと暗くなる。
「異能者の検討とかはついたのかい」
「まだ。今敦が云った男の特徴を伝えて調べてもらっています」
「そうか」
「すみません。僕のせいで」
 重苦しい空気のなかで敦が謝る。泣きそうになっているのに何を云っているんだと与謝野と国木田が云っていた。
「お前のせいではない」
「でも……」
「大丈夫だよ。恐らくそれほど深刻なものじゃない」
「え」
 みんながみんなうつむいているのにそれを云ったのは太宰だった。えっと全員の視線が太宰に集まり、開いていた口が閉じた。
 ひぃというような声が聞こえた気がした。気にしなくていいと云ったのは太宰なのに、太宰の声はとてもそうとは思えないもので殺意すら漂っていた。
 しばらくその姿を見た。
 みんなから音が途切れてしまう。誰もなにも云えないような空気。その中で最初口を開いたのは国木田だった。
「太宰。何を知っているんだ」
 太宰の目が国木田を見てそれからふっと微笑む。ああと聞こえる低い声。何にもないよと太宰は何にもないわけない目をして呟いた。
「何にもないわけないだろうおい」
「大丈夫。何にもない。恐らく社長が目覚めてもみんなが困るようなことはなにもないさ」
みんなはね
 最後に太宰が呟いた言葉だけはだれにも聞かれることがなかった。みんなどこか様子のおかしい太宰をじっと見てしまった。


 ぴぽぱぽぴ
 携帯の音は場に似つかわしくない軽い音を立てる。
 高く間抜けな音を聴きながら太宰は自分が押した番号を見下ろした発信ボタンを押そうとして止める。
 少し身を乗り出して扉の向こうを見ればみんなが一つの扉の前に立っている。そこから抜け出してきた太宰はためいきをついた。
「恐らく大丈夫。みんなには一つも意味がないようなことだ。あの人が今さら探偵社を壊そうとするとは思えない。メリットがない。だとすれば……」
 呟きながら太宰は携帯を見る。
 そこに書かれた数字は太宰の前の上司のものだ。糞と低い声が吐き出された。太宰の指がもう一度携帯のボタンにかかる。押そうとしてそれは途中で止まる。息を吐きだした太宰は今日の朝の事を思い出していた。
 今朝、郵便受けにこれ見よがしには云っていた一通の手紙。黒い封筒は見覚えがあるものだった。その封を開け、中を見たから太宰はその日の予定を変更することになってしまったのだ。
 そして向かった先は手紙に描かれていた場所。
 そこで二三のやり取りをして来たのだが、それがなければ太宰は依頼が来たときには探偵社にいて、仕事は太宰が行く事になったはずだ。
「あの情報は今回の件の対価だったというわけか。何かあるとは思っていたけど」
 ふうと太宰はため息をついて携帯を閉じた。
 結局太宰は連絡を取ることはしなかった。ざわざわとみんながざわめきだしている。活気がほんの少しだけではあるが戻ったように感じられるのに太宰は冷たい目をむける。
 探偵社を敵に回すことのメリットは今のところない。そうしようとする方が損害は多くなるはずだ。となるとやはり
 一度呟いたことを呟き直して太宰ははぁと息をつく。その目は酷く暗い。
「何かあれば私関連か」
 社長。大丈夫ですか。辛いのであればまだ。社長。
 たくさんの声が聞こえてくる。声のする方向に向かう足は小さく震えていた。「大丈夫だ」と今まで寝ていた福沢の声が聞こえてくる。
 その声はしっかりとしていて離れたところから見ても体がふらついているような様子はない。
「心配かけたな。すまない」
何処からどう見ても何時も通りで、数時間意識を失っていたともおもえないような姿だった。
 じぃとそんな福沢を遠くから太宰は確認する。
 変わりない姿にみんな安心していて何もなかったんだ良かったと笑っているような状態だった。
「変なところはないかい? 違和感とかあったらすぐに教えてくれよ」
「い、……特にはない。大丈夫だ」
 与謝野が聞くのにも福沢はそう答えて、みんな素直に安心していた。ほぅと入っていた体の力が抜けていている。何人かが床に座り込んでいた。穏やかになり始めるのに太宰は一人否と思っていた。
 何にもない筈がなく、また何にもなくなかった。
 先程から太宰はずっとヒリヒリとしたものを感じている。
 目にはみえない何かが皮膚を刺激してくるような感覚。みんなを見ながら太宰はまさかと思う。
 中心にいる福沢は心配をかけてしまった社員一人一人を見ていくのに、時折太宰を見ていた。その太宰を見る一瞬だけ福沢の目は鋭く険しいものに変わる。
 恐ろしさすらも感じるものになるのに、太宰は何が起きているのか既に分かり始めていた。
 そっかと声が落ちた。それはあまりに小さく誰にも聞こえることがない。
「こういうことか」
 今度は音にすら出さず呟いて太宰は握りしめたままだった携帯を睨み付けていた。激しい感情がその表情に現れたけどそれはすぐに消えていた。次には凪いだ湖畔のように静かになる。
 ただ静かにみんなを見ていると福沢と目があった。変わらず鋭いものがほんのわずかに見開かれる。それでも太宰は少し離れたところで立っていた。
 口角が少しだけあがる。
 形は間違いなく笑みなのに笑みと云えるようなものではなかった。
 自分の立っている場所を太宰は見下ろして、それから踵を返すかどうか悩んだ。
 真実を知る気にはまだなれなかった。それでも前にいくべきか。考え込んで太宰は一歩だけ足を動かしていた。福沢がじぃと見てくる。
 みんなの視線もまた太宰に集まり出した。
「太宰さん。社長なにもなかった見たいです」
 敦が安堵した様子で無邪気に笑う。太宰はとてもではないがそっかなんて笑って答えることはできなかった。
 一歩一歩慎重に進んで、皆の輪のなかにはいる。福沢までの距離は後数歩にはなったが、それを積める気にはなれなかった。
 じぃと福沢の目は太宰を見つめ続けていて、みんなの反応を見て目を丸くしていた。太宰と呼ばれる度に福沢の眉間に皺が増えていた。
 どうしたんだいと福沢の様子に気づいた与謝野が聞く。
 それによって周りもその事に気付いて声をかけてきた。どうしたのかと聞かれる度、福沢は困ったような云いづらそうな顔をした。声をかけてきた人を順々に写しながらその目は最後に太宰を見る。
 睨むようにじっと見てからそれから口を開いた。
「すまぬが、貴殿は何方だろうか。何故ここにいるか聞いても良いか」
 数分の間、太宰からみえる景色はなにも動かなかった。
 福沢の口だけが動き、閉じる。じっと見つめてくる目は太宰をちゃんと見ていて、周りは少し心配そうなまま、暫くそのままで数分たった。
 あっとその口が開いた。大きく目も見開き始めてははと乾いた笑い声が落ちる。福沢を見て、太宰を見る。なんでと声が落ちていくのを太宰はただ笑って見ていた。
 予想通りで驚きはない。
 やっぱりかと思うだけでにこにこと笑う。
「太宰治と云います。以後お見知りおきを」
「……あ、ああ」
 まるで初めて会ったかのようにその口は言葉を紡ぐ。福沢が驚いたように太宰を見て、それから左右を見る。その口からでたのは酷く戸惑っている声だった。それでいて何処かほっともしていて細い息を吐き出している。
 それは知人ではなかったのかと云う安心であるように思えた。
 ほうと太宰は息を吐く。そしてその口で嘘ですよと云っていた。
「初めましてではありませんよ。一応私もここの社員ですから。社長とは何度か会ったことがあります。
 どうやら社長が受けたと云う異能は一部分だけ記憶を失うと云うものであったようですね」
 福沢の目が見開いて太宰を見、それからみんなを見る。周りにいる殆どが息を飲んで、福沢と太宰を見ていた。
 その様子に福沢の口が薄く開く。ほと開きかけた口に本当だよと乱歩が答えている。
 そいつが云っていることは本当だ。太宰は探偵社の社員で二年前から働いている。何度か会ってるは嘘だけどね。毎日顔を会わせているのに何が何度かだよ。何度かもなにもないだろ。
 乱歩の言葉は苛ついていた。
「そういった方が云いかなって。その方がダメージは少ないでしょう」
「ふざけんなよ」
「ごめんなさい」
 驚愕しはくはくと口を開ける福沢を脇に置いて乱歩は太宰を睨んだ。乱歩に睨まれた太宰は穏やかに笑う。
 太宰と乱歩の間に与謝野が横から声をかけてくる。
「あんた。大丈夫かい」
「大丈夫ですよ。社長は無事だったんです。こんなことはなんと云うことではありませんとも。
 本当にこの程度で良かったです」
「この程度って……。あんたは」
 与謝野が何かを云いずらそうに口を開こうとする。それに太宰はにっこりときれいに笑った。それは暫く見なかった美しい笑みだった。
「この程度ですよ」



「諦めよう」
 はぁと誰かが口にした。あまりにあっさりと提案した太宰は怖くなるほど朗らかで明るい笑みを浮かべている。
「だから諦めよう」
 社長もそれでよいですよね。ふわり。笑みのまま太宰の目が福沢を見る。褪赭の目をじっと見つめる銀灰には戸惑いが浮かんでいた。
「待て。太宰。諦めるってお前はそれで」
「良いんだよ。こうすることが正解だ」
 国木田が太宰を止めようと口を開けるのに太宰はその言葉も遮っていた。
「相手はも外つ国に逃げた後なのだろう。
 そうであるなら追いかけるのは得策とは云えない。外つ国の軍警組織とは残念ながら助けを求められるような関係ではないからね。
 土地勘もない広い場所から犯人を見つけるのは困難だ。まして戦闘にでもなったらどうする。この国ならば捜査だと理解し許してもらえるが、外つ国ではそうはいかないよ。まあ、今からでも協力してもらえるよう手をまわしてみることはできるけど……。
 だけどそこまでする必要があるかい?
 記憶を忘れたといえば大ごとのようにも思えるが、社長が忘れてしまったのは私の記憶だけなのだろう。
 ほかの、自分の名前や経歴、探偵社のこと、みんなのことはすべて覚えているんだ。それならばいいんじゃないかい。これから暮らしていくのに誰も不便はしないだろう。わざわざ高いリスクをとる必要はないよ。
  今回の件はこれ以上深追いするのはやめて、このままにしておこう。
 社長もそれでいいですよね。特に記憶がなくても困ることなどありませんよね」
 太宰の言葉の途中、与謝野が立ち上がっていた。誰もに含まれることのなかった太宰自身に苛立ちを覚え、ふざけるんじゃないよ。そう云おうとしたのに太宰はその言葉を云わせずに福沢に聞いていた。
 にこりと完璧なまでの笑みを浮かべる太宰を福沢は見つめる。
「私に不便はない」
 太宰の笑みが深まった。
「だが貴殿はそれでいいのか」
 銀灰の目が見つめてくるのに太宰は一瞬であるが固まった。動きを止めて福沢を見て、そして穏やかに笑いなおす。
「はい。私と貴方はただの上司と部下です。私のことを忘れられても特に問題はありません」
 笑いながら云う太宰にそうかと福沢はうなづいていた。
 太宰をじっと見てからではとその口が動く。待ってと与謝野が口を開こうとした。
「太宰さん!」
 それよりも早くに動いたのは敦だった。
 立ち上がって太宰の名前を呼ぶ。その目が太宰を睨みつけるのにも太宰は笑っていた。
「大丈夫だよ。敦君。君が責任を感じることはない」
 太宰が口にするのに敦はそんなんじゃないと思っていた。
「そんなんじゃないんです。ただ」
 云いながら敦は太宰の下に近づいていき、そして太宰の手を握りしめた。太宰より小さな手が手首をつかむのに太宰は息を飲んだ。
 その手とは違う感触を思い出した。
 痛いほどに握りしめてきた手。
 その手と同じように敦が握っている。
「ふ、……敦君」
 思わず別の人の名前を呼びそうになりながら、太宰は敦を呼ぶ。太宰を見上げてくる瞳は泣きそうになりながら強い色をしていた。
「こうしてやってくれって社長に云われたんです。太宰さんに自分の代わりにって」
 見つめる敦。太宰の目がその前で大きくなっていた。泣くと敦は思った。だけどその目は涙を流さず、それでも悲しそうに顔をゆがめる。
 それは一瞬の変化で太宰の顔はすぐに笑みを浮かべようとしていた。
 だから敦は太宰の手を強く握りしめなおす。白い手に赤い跡が残っているのが見えた。


「しゃっ!」
 駆け寄った敦は突然襲ってきた痛みに悲鳴を上げた。骨まで折れそうなほどに社長が敦の手を握りしめていた。
「頼む」
 今にも意識を失いそうな状態で福沢はそう口にした。切羽詰まった掠れた声。制御もできずに大きなものになっていた。
「私の代わりにこうしてやってくれ」
「え、こうしてて、だれに」
 頼まれるのに敦はすぐには頷けなかった。倒れる前にと急いでいるのだろう言葉は大事なことが抜け落ちていた。
「だ……。頼んだぞ」
 それを伝えようとした声は意識を失いかけ小さなものになってしまい、敦には聞き取ることができなかった。
 ただ最後に福沢の手の力は強くなった。痛みに耐えながら敦は気を失っていく福沢を見た。
 あの時の伝云が誰へのものだったのかわかっていなかった。後で乱歩に聞こうと思っていた。彼ならわかるだろうと。
 だけど乱歩に聞かなくとも今敦は分かった気がした。あの時、託された相手は太宰であるのだと。こうすることに何の意味があるのかはわからないけれど、こうしなければいけない気がして敦は太宰の手を強く握りしめる。
 福沢にされたように強く。
 笑おうとしていた太宰が今度は途方に暮れた子供のような顔をして手を見下ろしていた。
「離すな。握りしめておけ。決して離してはならぬ」
 握られた手を見て太宰はそんな風に福沢に云われた気がした。それは何度も福沢が太宰に伝えてきた言葉だ。諦めることに慣れきってしまった太宰のために福沢が伝えてくれた。
 福沢の手を覚えてしまった太宰は思い出す。
 思い出すのに涙などでない癖に泣きたくなった。
 本当に? 本当にと太宰は思う。本当に望めば手に入るのか。戻ってくるのか。それでも戻って来なかったら。
 太宰の目は福沢を見た。目の前にいる敦ではなく福沢を見つめるのに福沢は小さく目を見開いた。少しあたりを見渡してから、どうしたと聞いてきた。
 その声はいつもよりずっと力がない。福沢が太宰を見る目はいつものものとは何もかもが違っていた。
 知らない人を見る目。
 警戒されている。
 分かるのに余計太宰はその目をゆがめた。福沢さん。そう呼ぼうとして呼べずに口を閉ざす。そんな太宰に福沢が目を細めた。
 じぃと太宰を見つめて何かを考えこむ。太宰は何を考えこんでいるのだろうかと見つめる。何かを云いたいそう思うけれどそのなにかは太宰の中で形になってはくれなかった。
 福沢の口が開いた。
「お前はどうしたいんだ」
「え?」
 戸惑った声が太宰から出る。
「本当にあきらめていいのか。私に思い出してほしいのではないのか」
 福沢が太宰に聞いた。
 周りは太宰の言葉を息をひそめて待つ。何かに祈るように鏡花が手を胸の前で握りしめていた。敦の手はいまだ太宰の手を握りしめていた。掴まれた手を太宰が見つめる。
 私は……。
 言葉が出ていく。
 だがそれは完全な音にはならなかった。太宰の中でまだ思いは形になろうとしない。恐れている。
「今回の件はすべてお前が望むようにしたらいい。お前の決定に従おう。だからお前はどうしたい。本当のことを云って見てくれ」
 福沢を見てまた太宰は敦の手を見た。その手が握りしめる手何も云わず敦は太宰の手を強く握りしめる。
 こうしてくれ。
 最後の瞬間そういった福沢の心が伝わるように。あの時の福沢が望んだことが叶うように。
「思い……。思い出してほしい。でも、……本当にいいんですか。貴方の大切なものが傷つくかもしれない。乱歩さんや与謝野さんが傷ついて貴方は後悔するかもしれない。それでも……」
「ああ。だってもうお前が傷ついているだろう」
 福沢の言葉に太宰は次の言葉を紡げなくなった。
 ぱくぱくと口を開く。
 色褪せた瞳が福沢だけを見ている。
「お前はどうしたい」
 福沢が太宰に聞く。

「思い出してほしい。貴方に忘れられたままなのは耐えられない」



「ほら、太宰。何をそんなところに突っ立っているんだい。座りなよ」
「でも……」
「良いからさ」
 乱歩に促されるのに太宰は一歩足を動かして部屋の隅から机の前に移動していた。暫く机を見下ろしてから乱歩の隣に座る。乱歩がはぁとため息をついた。
 仕事終わり、太宰は記憶のない福沢を混乱させないようにと、いまはまだ寮にある自分の部屋に戻ろうとしていた。それを止めたのは乱歩と与謝野でちゃんと家に帰りなと太宰が連れてこられるのを福沢は驚いた目で見ていた。
「一緒に暮らしているのか」
 聞いてきた声には信じられないと云う響きが込められていた。だが乱歩はあっさりと頷いていた。家族みたいなものだよと云われるのにそれにも心底驚いていて、太宰をまじまじと見た。太宰はその視線にいたたまれなくなりさらに逃げたくなったが、逃げられないまま。福沢が夕食を作りに行った今でも居心地悪そうにしていた。
「お前は何時も通りにしていたら良いんだよ。悪いのはまあ、どっかに逃げた異能者だろう」
「はぁ」
「大丈夫だから」
 乱歩の言葉に太宰はそうですかと小さな声を出す。何か云わなくちゃと思っていたのだが、なにも云えず太宰はほぅと息を吐く。
 福沢がいる厨を見つめてしまう。
 

 えっとでた声は小さかった。でもそれほど大きくない部屋のなかでは二人とも聞き取ってしまう。乱歩が不機嫌そうな顔をしながらスープを飲んでいる。
「どうかしたか」
「あ、いえ、何でもないです」
 素で戸惑っていた太宰は慌てて笑みを浮かべた。大丈夫と云われるのに福沢はそうかと皿の上の料理を食べる。そうしながらも見つめてくる目は戸惑っているようで太宰の一挙一動に注目しながらどうしたら良いのかと考え込んでいた。
 その視線を感じながら太宰は福沢が作ってくれたご飯を一口食べる。
 首を傾けそうになるのを何とか堪えながら太宰はじぃと皿を見つめる。もう一口食べた太宰はああと口から声を出していた。その後すぐに福沢へ向けて笑う。何でもないですよと口にするのに福沢はそうかとまた頷く。
 奇妙に緊迫した空気逃れる家のなか、三人無言のままご飯を食べ続けていた。


「私もう眠りに行きますね」
  太宰が云って立ち上がったのはご飯を食べ終えてすぐだった。
 食べ終えた皿を置いてすぐに居間からでていくのに福沢は声をかけようとしたが、乱歩によって膝を蹴られてなにも云えなかった。太宰がいなくなった後に乱歩が強いため息を吐く。
「デリカシーのない行動はやめてよね」
「は、私はただ風呂にはいれと」
「はぁああああ」
「何なんだ」
 話の途中、もう一度深いため息を吐く乱歩に福沢は戸惑う。ただでさえ分からないことだらけで頭のなかは混乱して上手く纏まらない。乱歩の態度はさらにそれを纏まらなくさせる。
 何が悪いと云うのだと福沢は乱歩を見る。
 乱歩はため息をこれ見よがしに吐き続け、福沢を非難の目で見続けてもいた。
「忘れちゃっただけの福沢さんは分からないかもだけどね、福沢さんに忘れられてあいつかなり落ち込んでいるんだからね。そっとして置いてあげるのも大事なんだよ」
「それは……」
「連れてきたのは間違いだったかな? ……いや、でもこうしてちゃんと分からせて置かないとあいつ何しでかしてくるか分かんないからな。福沢さんの為にも少しはこっちで太宰が掴めるようにしてあげないと」
 ぶつぶつと独り云になった言葉を話す乱歩は福沢をじいと見つめた。乱歩の思う通りなのだろうと頭では分かっているのだが、だからと云ってどうしたら良いのか等はさっぱりと分からないのだ。
 乱歩のように深くため息を吐くのに部屋にはやたらと重苦しい空気が流れる。
「乱歩」
「何」
「今日の私の料理は何かおかしかっただろうか。何時も通りの味だと思ったのだが、……だが、あの太宰とか云う男とお前の様子は……」
 福沢が首を捻り空になった皿を見つめる。目元に皺を寄せて睨んでいるようなものになっている。がしがしと乱歩は乱暴な手付きで頭を掻いた。
「あーー、まあ、いつもの味だったよ。太宰と暮らし出す前までのね」
「は」
「あいつはなかなかなご飯を食べなかったからね。
 好き嫌いとかはなかったんだけど……、食事すること自体が嫌いでさ。そんなあいつに食べさせようとして福沢さんの味付け、あいつ好みのものに変化していたから。それが違ったから悲しかったんだよ。
 福沢さんがどれだけ自分に優しかったのかとか、その福沢さんが今はいないことを凄く感じちゃったから寂しくなったんだろうね」
 暫く無言の時間が流れた。乱歩の言葉に福沢は固まりじっと乱歩を見る。
 それから少しして太宰が消えた襖を見た。



               

 くすくすと一人の男がずっと笑っていた。伸ばした髪を無造作に束ねた男はとても楽しそうで、その様子を部屋のなかにいる何人かが呆れたような目で男を見ていた。
「リンタロー、気持ち悪いーー」
「ええーー、酷いな」
 一番近くの女の子が云うのに男、森は相貌を崩す。にこにこと笑うのにはぁと一人ため息を吐いていた。
「今度は何の悪巧みをしているのじゃ。鴎外殿。小耳にはさんだ話では傭兵を使って探偵社の社長を襲ったそうじゃがどういうつもりかえ。まさか探偵社と抗争でもするつもりか」
「そんなつもりはないよ。ただ太宰君が戻ってきてくれないかなと思って、そのためにね。上手くいけば太宰君は戻ってきてくれるし、いかなくとも……、
 まあ、それはそれでと云うところだね。
 さて、どうなるかな。戻ってきてくれたら嬉しいのだけどね」

              


 ことりと立てた物音。
 気付かぬかとも思った音にぼんやりと月を見上げていた太宰が顔を上げた。福沢はその眉間に皺を一つ深めていた。
「眠れぬのか」
 でた声は案外静かなものだった。落ち着いており普段のものとそう変わりはない。ともしたら険しい声をだしてしまいそうだと思っていた福沢は少しだけ安心する。
 そんな福沢の前で太宰はそっと微笑んでいた。
「ふ、社長。……社長こそ眠れないのですか?
 すみません」
 福沢の名前を呼ぼうとしたのか。一度開いた口を閉ざして別の呼び方を口にする。
 出会ってからずっとその呼び方で呼ばれていたので、その呼び方が馴れているのだろうと福沢は思っていたがそうではなかったらしい。それにまた一つ皺が少し弱まる。謝られたことに対しても少し。
 じぃと目の前の男を見る。
 とても美しい顔をしている。
 美醜に疎い福沢にすら思わせる男は、その顔に見惚れるほどの笑みを浮かべながらも所在なさげにしていた。
「何故謝る」
 問いには答えず福沢は聞いた。太宰の褪せた目が下に落ちる。俯く横顔。さらりと蓬髪が溢れてその横顔は隠れてしまう。何となくその下辺りを眺めた。
 誰と飲むつもりだったのかぐい飲みが二つばかりと瓶が一つ置いてある。ただ開けている気配はなかった。
 まるで誰かを待っていたかのようだ。
「不審なものがいたら安心して眠れないでしょう」
 蓬髪はその口許すら隠しているが、声はちゃんと聞こえていた。
 共に暮らしている太宰がそう云うのに少しばかり福沢の胸がざわつく。そんなことを口にするのは痛いだろうにどうして云ってくれたのだろう。云わせてしまったことにやはり来ない方が良かったかと太宰を見る。
 だけど何となく隣から感じた気配。
 それが移動して暫くの間立ち尽くしていたのにどうしても気になってしまったのだった。
 福沢は太宰の隣に座る。
 のろのろと移動した体は何を思いここにいたのか。
 それを知ろうとするように太宰が見上げていた空を見上げた。
 今日の夜は何とも云えない空だ。曇ってはいないが晴れて月や星がよく見えるとも云いがたい。月が見えないのは雲に隠れているからだろう。そう思っていたらひょっこりと姿を表す。まだ欠片だけ見えている月は綺麗だ。銀色に輝いている。
 綺麗だが月見日和ではないな。
 思いながら見つめるのに視線を感じて福沢は下を向く。太宰が福沢を見ていた。
「そのでていきましょうか。寮の部屋もありますし、……落ち着けないでしょう。」
 なにか云いたげに開いた口は一度閉じた後そんなことを口にした。福沢を見ていた目が何かから隠れるように逃げていた。
「その必要はない」
 小さい声がでる。俯いた頭を見る。形のよいつむじが見える。つやつやとた髪。少しでた月に照らされて輪ができていた。
 ぴくりと太宰の肩が跳ねている。見上げようとした目は逃げていく。
「その、ここで暮らしていたのだろう。なら、今まで通り暮らせ。記憶をなくしたのは私のミスだ。お前をそれで追い出すようなことはできない。
 ただでさえ負担を掛けてしまっているようだしな」
「負担なんてありませんよ。忘れられたぐらいどうってことないです。それで社を辞めろとか云う話にはなりませんしね。そうなってしまえば困りますが、そうならなければ本当にどうってことないです。大丈夫。
 気にしたりもしませんよ。
 むしろ負担になっているのは社長の方でしょう。今までの私が担当した仕事などの全部確認が必要ですし、どんな業務を割り振って良いのかも分からずに戸惑っているでしょう」
 福沢が云ったのに太宰はにこにことした声で云っていた。俯いているので本当に笑っているのかはわからない。でも声だけならば朗らかで明るいものだった。社長の方が大変でしょうとその声が云ってくる。
 旋毛を見ていた福沢はそこから目をそらしていた。
 どこまで本心でどこまで嘘なのか読めない。
 その顔が見れたら分かるのだろうか。考えながら脇に用意された二人ぶんのとっくりを見る。
「別に大変なことなどはない。
 否、書類など見返して確認するのにはその分時間が掛かるし、こうして記憶にないものが生活のなかにまでいるのはそれなりに不安にはなるが、与謝野や乱歩が冗談で云っているとは思えない。そう云う奴らでないのはよく分かっている。だからお前が家族であると云うのであればそんな大切な者を忘れてしまったことこそ悪く思っている。
 少し混乱しているがちゃんと家族としてやっていければと思っている」
 福沢の言葉に嘘は良いですよと太宰は緩く笑っていた。それに息を飲んだ福沢はそれから考えながらゆっくりと話していく。チラリと見る太宰の姿は変わらぬまま。
 変わらぬままの姿でそうされても困ってしまうのですがとそんなことを云っていた。えっと溢れていく声。俯いたままの太宰はなにも云わず座っている。
 きっと気付いていないのだろうなと福沢はその姿に思った。
 何を云って良いのか分からない。また空を見上げた。
 一度姿を表していた月はまた別の雲に隠れている途中。やはり月見日和とは云えなかった。そもそもそのために来たのではないだろう。
「……酒を飲んでも良いか」
 暫くして福沢はそう聞いた。えっと太宰が少し動いた。
 福沢を見上げてそれから視線を下に落とす。どうぞと聞こえてきた声は相も変わらず小さかった。
 置かれていた酒に手をのばす。太宰が持ってきたのだろう。それはやはり封がまだ切られていなかった。福沢の手で開けて徳利二つに注いでいく。
「お前も飲め」
「……はい」
 小さく見える肩を見下ろしながら福沢は酒を飲んでいく。
 酒は良いものだった。福沢の好きな味だ。もう一杯飲みながら太宰を見る。太宰は徳利に触れているものの飲んではいなかった。ペースを落として飲みながら太宰が飲むのを待つ。数分後に太宰は一口を含んでいた。ゆっくりと時間を掛けて飲んでいく。
 細い吐息が落ちていた。
「毎日こんなことをしていたのか」
 太宰が飲んだのを見届けて福沢は問いかける。
 太宰はすぐには答えなかった。その前に一口を含む。聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「何で、」
「お前が誰かを待っているように思えたから。あれがこんな時間まで飲む筈もないしな」
 また福沢は一口含む。うまい。例えば何処か別の時、記憶さえある所で飲めば旨く、その味を堪能出来たのだろう。記憶さえちゃんとあれば酒だけでも充分幸せだったのではと考える。
 だからなのか。それとも酒の意味もあるのか。
「そうですね。相手は何時も、それぐらいしか」
 太宰の手の中でお猪口が揺れていた。ぐるぐると回っているのは行き場のない太宰の心の現れのようにも思えてしまった。もう一口飲みながらやはり特別な意味があったのかと思う。福沢にはそれが分からない。
 けれど
「聞いて良いか」
 太宰に向けて良いながら福沢は乱歩と与謝野がデリカシーがないと叫んでくる幻覚を見ていた。だから駄目なんだ。と乱歩が強く詰る。
 太宰はなんですと短く答えていた。
「私と貴殿、何か特別な関係だったのだろう。家族ではなくもっと他の」
 言葉の途中、福沢はその目を見開いた。太宰の顔は分からない。ただその手から太宰が持っていた杯が落ちていく。
 あっと云う声すらも聞こえてこなかったのに福沢は慌ててそれに手を伸ばしていた。温くなったものが手にかかる。寸前でキャッチした杯。拾ったものの掴もうと力を込めてしまったため、それで割れた気がする。
 だがそんなことはその瞬間気にならなかった。
 福沢は今、太宰よりも下の位置にいる。
 そこから太宰を見上げていて、太宰の顔がちゃんと見えていた。
 髪で隠されて見えなかった顔が今は隠れるものもなく写っている。その事に驚く。太宰の顔は福沢が予測していたものとはどれとも違っていた。笑ってもいないし、泣いてもいなかった。
 一云で云うと無であろうか。
 その顔に何も映すことなくジィと地面を見ていた。
 福沢に焦点が合い、初めて思い出したように笑おうとした。それはとても歪なものになって消えていく。また無に戻る顔。
 ふと息を吐いて、また笑う。今度は完璧なものだった。
「すみません。手を汚してしまいましたね。それに足の方も。タオルを持ってきます」
 その顔で太宰はそんなことを告げる。立ち上がろうとする太宰に福沢は自分の状況を思い出していた。酒で手は濡れている。咄嗟に地面に降り立ったから足も素足のままだった。着物も少し汚れている
「いや、これぐらいならばよい。気にするな」
 着物に濡れた手を押し付け、そして乾いた手で足裏と着物の汚れを払った。
 そのまま家のなかに上がり、また太宰の隣に座る。後で着替えたら良いだろう。そう思っていた。それより今は太宰に時間を与えたくなかった。そしたら折角掴み描けたなにかが消えてしまう気がした。太宰を見たら何故か太宰は驚いた顔をして福沢を見ていた。
 完璧な笑みは何処えやら。ぽかんと口を開けている
「……どうした」
「……否、貴方のそんながさつな姿はじめて見たので。いつもはちゃんと」
 問えば太宰は素直に答えた。よほど驚いていたのだろう。だけどその口はすぐに閉じていえと云っていた。
 何でもないですと答えるのに云ってくれぬかと福沢は云う。
「今の私にはお前が分からないから思ったことがあるなら云って欲しい。それでお前に前と同じよう接してやれるかは分からぬが、努力はしたい」
「お気遣いは無用ですよ。前のようになど忘れてしまった時点で無理でしょう。
 今まで過ごした時間が私たちを作ったのです。それがなければ貴方は私を同じようには見えない。私は何が貴方を動かしたのかも分かっていないのですから
 だから元の私たちの関係など気にする必要はありません。
 私達は私達として過ごしていきましょう。
 貴方が気になるのならここをでていても構いません。どうせたわいもないことですから」
 相も変わらず太宰が浮かべているのは完璧な笑みで美しくて本心だと思わせる。
 なにも云えなくなるけど、だけどと福沢は思う。
 一瞬見たあの顔。そしてそこから笑おうとしていたあの瞬間。あれこそがきっと目の前の存在の真実なのだと。
 忘れたままで良いなどとは欠片も思っていないのだ。
 何故か気付けば福沢の手は太宰に伸びていた。ゆっくりとその頬に伸び、触れようとしているのに、太宰の体が驚いて固まる
 その目はじぃと福沢の手を見ていた。ひゅっ息を飲まれるのに福沢はその手を止める。
 何をしようとしたのだろうか。
 少し驚き自分の手を見た。そして太宰の姿を見る。
 その顔は今はもう笑っていない。口許にはまだ笑みの形が残っているが、笑うのは止めて瞳が所在なさげに辺りをさ迷っていた。
「笑いたいわけでないのなら笑わない方がよい。疲れるし、自分の感情に嘘をついていたら何が本当の事なのか分からなくなる。
 ……だからその。笑わなくてよい。大丈夫と云わなくてもよい。
 分かってはいないかもしれない。だけど大丈夫ではないのは何となくだが伝わってくる。
 その本当にすまなかった。お前の事をわすれてしまって。
 よければ教えてくれないか。私とお前の関係。それがどれだけ大切なものだったのかちゃんと知っておきたい」
 太宰の目が見開く。少しだけ開く口。その目は細められる。笑おうともう一度しながら笑えずに口を閉ざした太宰はそんなことはと口にする。
「例えばこの手はお前の頬に触れたりしたのだろうか」
 福沢の声が太宰に問いかける。伸びたままの手は距離が空いた場所でその頬を撫でようと上下する。太宰の目は福沢ではなくその手を見ている。
「そうですね」
 ずいぶん時間が経ってから太宰の口は開いた。頷かれるのにそうかと福沢も頷く。
「それは仲間としてではきっとなかったのだろうな」
 福沢の手を太宰は見ている。すりりとそれにすり寄るように頬を寄せる姿はまるで子供のようであった。
 その顔はもう無になっている。
 そうですねと太宰は云う。
「貴方はそうではなかったようです。それよりもっと深く、私の事を大切に思い、愛してくれていたそうです」
 その声は震えていた。一瞬泣きそうになってそのすぐ後は元に戻っている。
 そうかと福沢の声も震える。太宰を見る。
 お前はとその口からでていた。だけどそれは音にはなれぬまま福沢の耳にさえ聞こえることはなかった。それでも太宰は気付いたのだろう。
 私はと口を開く。
「分からなかったんです。今まで貴方の事は普通に好きだと思っていました。何が特別なのかすらも分からなかったんです。だけど乱歩さんも与謝野さんも私に貴方の事が好きだろうと云ってきました。貴方もいつか分かると云っていました。
 恋人として付き合っていたらきっといつか自覚する日がくると確信していました。
 ……今回の件で自覚しました。
 貴方が好きです。仲間としてでも、家族としてでもなく特別に貴方が好きです」
 太宰がはくはくと口を開いていく。こぼれていく声。
 気持ちが溢れている姿を見て福沢は頷く。すまぬと云いそうになってそうではないと口を閉ざす。
「こんな気持ちなど知りたくなかったのに何で今気付いてしまったのでしょう」
 太宰の声が揺れて響く。



 こんこんとノックの音が聞こえてくるのに顔を上げた福沢は少しだけ口元をへのじに曲げた。誰がきたのかは何となく分かっている。
 嫌な相手などではない。ただどうしてやれば良いのかがまだ分かっていなかった。
「入れ」
 少し迷いながら口にする。その声は急ぎめになっていた。そうしないとすぐに去ってしまうと思ったのだ。
 はいとか細い声が聞こえて部屋の扉が開く。見えたのは予想通り太宰の姿だった。
「社長」
 太宰が笑いながら福沢を呼ぶ。その笑みは綺麗に作ろうとして引きつっていた。福沢は太宰をじいと見つめる。
「どうした」
 聞こえる声は少しだけ震えていた。何を云ってやれるのか。考え込むのに太宰も同じように考え込んでいた。俯きこんで口を尖らせている。もう一度どうしたときいた。聞くだけでは駄目かと福沢は一つ立ち上がっていた。
 太宰のもとに福沢が近づく。
 太宰の肩が少しだけ跳ね、福沢を見上げた。その口がもう一度福沢を呼ぶ。良いんですか。問われるのに首を傾ける。太宰はもう一度同じことを聞く。
「何のことだ」
 二度目に聞かれ何を云いたいか分かり始めながら福沢は太宰に聞いていた。
 太宰の体が揺れ、俯いていた顔が福沢を見上げる。それからすぐに俯き直して、太宰はこれから外つ国に行きますが、何が起こるか分かりません。それでも良いのですかともう一度福沢に聞いてきていた。
「本当に良いのですか。貴方の仲間が傷付くかもしれないのに忘れているのは私のことだけなのです。他は全部覚えていて日常にも業務にも支障などない。それならこのままにしたほうが」
 じいと太宰を見下ろす福沢はその手が震えていることに気づいた。震えながら開いたり閉じたりを繰り返している。
 おそらく無意識のうちにだろう。福沢はそんな太宰の手を握りしめていた。ぎゅっと細い手を掴むのに太宰が驚いた風に福沢を見上げた。
 えっと開く口。
 褪せた目が見開くのに福沢はその目をじぃと見つめ返す。
 ぎゅっと力を込め直すとその目はますます大きく見開いて泣きそうになった。
 泣くのかと福沢は一瞬身構える。だけどその目に涙が溢れることはなかった。太宰の目はすぐに静けさを取り戻して福沢の手を見る。
「前に敦がこうしていた時は何のことか全く分からなかったが、今は少しは分かる気がするな。こ
 の手はこうして握りしめておけと云うことだろう。
 大切なものは手放すな。ちゃんとその手で掴もうとしろとそう云う意味の手だ」
 静けさを取り戻していた瞳が福沢の言葉にまた見開いていく。何でと震える口。
「何で……。記憶を」
「思い出していない。だがそれでも何となく分かる。そう云うことだろう」
 太宰の手を握りしめながら福沢は音を紡ぐ。細い手を優しい眼差しで見つめた後、福沢は太宰を見てその目を丸くしていた。
「……どうした」
 太宰は泣き出しそうな顔で福沢を見つめていた。口許を歪めて福沢の手をみている。
「いえ、貴方は貴方なんだなって。私を忘れてしまってもそれは変わらないんだなって当然ですけど。でも悲しいですね」
 太宰から小さな声が落ちていく。
 どう反応して良いのかまた分からなくなりながら福沢は太宰のもう一つの手をつかむ。その手を太宰の手を掴んでいるもう一つの己の手に被せた。
「これは」
 太宰が不思議そうに見つめてくるのを福沢はじぃと睨み付ける。じっとじっとその鋭き眼差しで見つめるのに太宰の口がまた小さく開いた。それから閉じていた。
 太宰の手に少しだけ力がこもる。
 福沢に支えられていた手は福沢の手が離れてからも福沢の腕にとどまる。福沢の目はまだじいと太宰を見ている。太宰の手がゆっくりと福沢の手を握りしめていた。
「太宰。離すな。諦めなくて良い。
 確かにこれから先何が怒るかは予測が難しいことだ。だけど敦と国木田、それにお前ならば無事目的を達成することが出きるだろう。
 記憶を忘れてしまった私がこんなことを云うのもおかしな話かもしれないが、私はお前のことを信じている。
 だからお前はこの手を掴み続けていろ。そのためにけ。
 私にお前のことを思い出させてくれ。共に過ごしお前のことを少しずつ分かってきたと思うがそれでは足りない。私は全て知りたい。お前について、私が忘れてしまった全てのことを知りたい。
 だから思い出させてくれ。頼んだ」

    ◯

はぁあと暗い部屋の中、長いため息が響く。ぐでんと男が机の上に上半身を預けていた。冷たい目が男を見る
「だらしないぞ。鴎外殿。先日は随分楽しげだった筈だが、失敗したのかえ」
「そうなんだよ。どうにも失敗した見たいでね。はは。まあ、こうなる可能性もあるだろうと分かっていたから仕方ないのだけど、太宰君には戻ってきて欲しかったな。
 一番は福沢殿が探偵社か名探偵辺りの事を忘れてくれるのがよかったんだけど、あーー、憎らしいね」
「まあよいではないか。私は少し嬉しいぞ」


        ◯

 ほうと息を吐き出す太宰を隣にいた敦は見上げた。どうしたんですか。何て聞くのも馬鹿馬鹿しくて、敦は太宰に大丈夫ですよと云った。
「大丈夫です。異能者も捕まえて社長にかけた異能も解かせたんですから、帰れば元通り。社長も太宰さんのこと。全て思い出してくれていますよ」
「……そうだと良いんだけど」
 太宰の目が港の方向を向いている。船はまもなく沖に到着する。
 そしたら探偵社までは車ですぐだ。すぐに答えが分かってしまう。もしそれで福沢が……。
 考えてしまいそうになるのに太宰は首を振った。大丈夫。そんなはずはない。ちゃんと掴むことができた。
 そう考えるのに沸き上がるのは悪い予感ばかりだった。
 早く帰りたい。もう嫌だ。そう思ってしまう。
 どんどん塞ぎ混んでいく太宰に敦はどうしようと辺りを見た。何か声をかけてあげなくちゃと思うものの良い案はでないし、今の太宰に何を云っても無駄なような気がした。
 それでもと辺りを見ていた敦の目が大きく見開く。え、と出てきた声。
 太宰の名前をたまらず呼んで、その肩に腕を伸ばした。その時、敦以外の声が太宰を呼んだ。
 それは遠くからのもので海の上に反響する。
 その声に驚いたように顔を上げた太宰はその口を大きく見開いていて、その顔をグシャグシャに歪める。
 褪赭の瞳、その中に小さく福沢の姿が写っている。
 もう後少し。
 見える距離に接近した港の上、そこに福沢がたっていた。
 太宰が気付いたのに気付いて福沢の口が遠くから見ても分かるほどにはっきりと変わっていた。
「福沢さん!」
 太宰が福沢の名前を呼んでいた。ほらと笑っていた敦の目がまたもや見開く。太宰さんと焦った声で太宰を呼ぶのに待てと福沢も焦った声を出していた。
 後少し
 後少しだけれど、それまでは決して近付けないもどかしい距離。
 太宰はそれを無理矢理に縮めようとしていた。
 柵の上から身を乗り出してそして下に飛び降りていく。
 太宰さんと敦の声が響く。この馬鹿! と福沢の声も聞こえていた。次に聞こえたのは水の音で思わずめを閉じた敦が恐る恐る目を開けたら、船と岸の隙間に太宰が福沢に抱えられて浮いていた
「この馬鹿、こんなことし!」
 激しい怒りの声はだけど最後まで声にならなかった。太宰が抱きついてその首筋に額を擦り付ける太宰の手が福沢の着物を強く握りしめてきた。
「社長」
「何だ」
「私のこと……」
 首筋に聞こえてくる声はとても小さい。福沢はそんな太宰に声をかける。
「思い出した。全て思い出した。お前は探偵社の誇るべき社員で、私の家族、……そして私の恋人だ。
 私はお前が誰より大切だ。お前を愛している」
 太宰から吐息が落ちて泣くように声を上げる。震える背を抱き締めながら、福沢の体もまた震えていた。























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