そこは都内にある何の変哲もない。ビジネスホテルだった。
うん、いいよね。このままで行こうかと撮影スタッフ達が相談している中、俺は他の役者たちの後ろでそのやり取りをぼんやりと見ていた。ふいにズボンに振動を感じる。
件名に飯食ったか?と入ったメールには今まさに撮影している映画はいつになるのか、観に行くのが楽しみだ。と書いてある。俺は表情には出ていなかったが多分、心の中じゃ小さく笑っていたと思う。
「羽島さん?」
共演の女優に不安そうに声をかけられる。無表情でいるせいか、時折周りからは無意味に心配される。それでも平時では微笑すら浮かべることが出来ない。
「もう、俺の出番でしたか?」
だから自分が話しかける時は出来るだけゆっくりと口を聞くようにしている。せめて物腰くらいは穏やかに、誰かを怖がらせたりしないように。
「ええ、そろそろですよ」
最近CMに引っ張りだこの新人女優は安心したように笑い、それからメイクさんに呼ばれてそちらに向かった。ワンピースの背中をみながら、猛烈に疲弊していることに気がつく。兄貴といるならこんなことないのに。知らずに出た溜息のままにメールを返す。
『今回のホラーだよ。ダメじゃなかったっけ?』
ダメじゃねぇよ、とムキになって送り返してくるだろう。その顔を想像しながら、ふと先ほどからスタッフが集まっている部屋の真中に目をやる。
何の変哲もないビジネスホテル。異質をわざわざ連ねるとしたら、あの黒いピエロの絵画くらいだろうか。

そうだ。あの黒いピエロだ。
先ほど受けたメールには、あの日に見た絵画を写している画像が添付されている。いつまでも機種変をかけていない兄の携帯、荒い画質。
あのホラー映画は去年の今ごろに上映された。主演していた自分が言うのも何だが、そこそこに面白かったし、ホラー作品として優良な部類に入ると思った。それでも俺の背筋が泡立つなんてことはなかった。
元気にしているか?普段通りの少し心配性な兄貴からのメッセージ。何故、こんなにも嫌な汗が出るのか、その時はわからなかった。
兄貴からの連絡が途絶えて二週間経った。二週間くらいで、大袈裟なと他の人たちには言われそうだが、俺と兄貴は平素が余りおしゃべりが得意じゃないせいかメールでは多弁だった。朝飯には何を食べただの、昼間に見かけた猫の写真だの、きっと他の男兄弟を持つ人たちなら薄ら寒く感じるだろうやり取りを俺たちはする。変わっているかもしれないが、俺は悪くないと思っている。毎日に近いくらいのやり取りが突然に切れた。兄貴はよく物を壊すが、それでも携帯だったならば何かしらの連絡をしてくる筈。
おかしい。何か、得体の知れない怪物がすぐそばに迫っているような、そんな場面なら何度か演じたことがあるが、ついぞ現実感はその時はやってこなかった。
携帯には、今まで仕事が忙しく返信できなかった旨と特殊な案件でホテルに寝泊まりをしているというメールがある。なかなか、いい部屋だろう?語りかけてくる兄貴の顔が上手く思い浮かばない。のっぺらぼうになった顔、口元だけがにやりと笑う。
あの絵。あの不気味な絵画。ホラー映画の監督がそのままにして置こうと言った、ピエロの黒く塗りつぶされた顔。大きな歪んだ唇だけが笑っている、不快な絵。

ここにある絵は花瓶に花を活けたものだった。水色の花瓶に、様々な色の小さな花が微妙な色合いで描かれている。余り絵などに詳しくはないが、繊細なタッチとでも言うのだろうか。
絵を眺めていたら、ウエイトレスがメニューを持ってきた。手渡しながら彼女が一瞬だけ戸惑ったような顔をする。
「アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
注文をすれば彼女はすぐに笑顔を浮かべお辞儀をしてから去って行く。
ばれただろうか?私生活では気配を消して生きている、というよりは気配は元より薄い。外で羽島幽平として指差された経験はほとんどない。少しだけ気掛かりだった。こんな場面を週刊誌に見られては印象が良くないだろう。しかし、待ち合わせ場所を指定したのは自分だ。
「お待たせしましたか?」
男は想像よりも遥かに下手に、それでいて親し気な笑みをして向かいに腰掛けた。
「すいません。前の約束が長引いてしまって、あ、僕はホットで」
謝りながら近づいて来るウエイトレスに飲み物を頼む。白い掌。人差し指にはリング。遠目では何度か見たことがある。折原臨也の特徴に酷似している。
「あれ、もしかして相当、待たせちゃいました……?」
俺が怒りで黙っていると思ったのか男は参ったな、というような表情をしている。
「いいえ、着いたばかりですよ」
「そうでしたか」
あからさまに安堵したように息をつく。表情豊かな目の前の男。やはり結びつかない。聞いていた折原臨也像はもっと酷薄としている。
臨也は運ばれてきたコーヒーを一口飲みながら上目遣いで尋ねてきた。
「それで、私に依頼したいこととは?」
「折原さん、あなたは年上なんだから敬語を使う必要なんてないですよ」
臨也は瞬くと、肩を窮屈そうに疎める。
「仕方がない。あの羽島幽平さんの言うことだ」
「単刀直入に聞きますが、折原さんは兄の行方を知っているでしょう?」
コーヒーカップに伸ばされた指先が中途半端に止まる。
「何で、」
「僕も芸能界なんて世界にぼんやりといるわけじゃないんですよ、折原さん」
絶句したような相手。本当に俺が調べた内容に驚いているみたいだった。
あの撮影に使われたホテルの一室。今は誰が借りているのか。それくらい、ちょっとしたコネクションを使えば聞き出せた。
「年単位で契約をされたのだと伺いましたが」
「まいったな」
お手上げをするように片手を上げて、彼は米神のあたりをその手で撫でる。
「兄貴はあそこにいるんでしょう」
向かいにある建物に目線をやれば、折原臨也は観念したように頷き、「シズちゃんは君に何も話してないのかい?」困ったように眉根を寄せて息をついた。
「ねえ、幽君。俺が聞いてるような人物の通りだったら、生きてるのって不思議だと思わないかい?あ、いや、君のお兄さんを人殺しにしたいわけじゃなくってね……」
情報屋は困ったような表情のまま続ける。
「君の立場ならよくわかるでしょ?ちょっと飲みに行っただけなのに熱愛だとか騒がれちゃったりとかさ、身に覚えない?」
黙っていると相手は返事を促すでもなくコーヒーを啜る。
「噂ってさ。大体が仰々しくなっちゃうんだよね。俺たちが仲が悪いってのも、少し喧嘩した程度が尾ひれ腹びれがついただけさ」
しみじみと語る折原臨也からはビジネスライクな口調からくだけたものに変わっていたが、にわかには信じられない。数ヶ月に一度、制服を焦がしてくる高校生が他にいただろうか、詳しくは聞いていないし、この手の話は昔から話したがらなかったが。無言で前を見据えていたら「ダメか」と苦笑が漏れた。
「俳優の君に下手な芝居は通用しないか」
先ほどからコロコロと変わっていた表情が嘘みたいに消えた。いや、微笑は浮かべてはいるが仮面のような冷たい笑顔。演技をしているわけではないのに仮面のような素顔とはどうしたことだろう。自分にないものを見ようとして、人の表情を分析してしまうのは悪い癖だ。
「内緒にしてくれって頼まれてたのは本当さ。金の無心なんて家族には知られたくはないよね」
「兄が、あなたに?」
訝しげに尋ねれば、相手はその言葉の中の機敏を感じ取ったのかくすりと小さく笑った。
「親しい人間より、疎遠な間柄の方が言いやすいことってあるだろう。街中で知らない人に肩がぶつかったら舌打ち出来るけど、それが知り合いだったら普通は謝るじゃないか。ま、これは極端な例えだけど。金を貸す代わりに簡単な仕事をシズちゃんに頼んだのさ」
「いくらですか?俺が代わりに支払います」
「そうなるだろうとは思ったんだよねえ。で、俺は依頼の期間を儲けてるわけ。十日で十万とか、二十日で三十万とかさ。何も説明せずに解雇して納得するかな、君のお兄さん」
「俺から話します」
「君に知られたとなると、俺の身も危ないんだけど」
「それも俺から伝えます。あなたには危害を加えないと」
「うん、幽君がそう言うとすごく頼もしい」
向かいの喫茶店を出る時に飲み物代を支払おうとしたら手で制された。曲がりなりにも依頼人からはもらえないと律儀なことを言った。
「兄はそんなに金に困っていたんですか?」
「いや、家賃の支払いが間に合わなかったみたいだよ。派手に壊しちゃったんだよね、ネオン看板。それが給料と同額だった。シズちゃんが言うには俺のせいで壊したらしいから、俺だって仕方なしに貸す理由もあったのさ」
何とはなしに話しながら、受付の女性からキーをもらっている。昨年に訪れた時と何ら代わり映えはしない。都内のありきたりなビジネスホテル。廊下に置かれた観葉植物を横目に、先を歩くファーコートに着いて行く。エレベーターに乗り、指輪をした指先が六階を軽やかに押した。
「兄にはどんな仕事を振ったんですか?」
エレベーターの駆動音しかしない狭い密室の沈黙に耐えられなかったように尋ねた。
「あれ?言ってなかった?」
答える前にエレベーターが小気味良い音をたてながら扉を開けた。タイミングを失ったように彼は下りて、「部屋、ここだから。見ればわかるよ」カードキーを掲げながら振り向かずに言った。

カードキーを入口横に通す。解錠の音が静かな廊下に響いた。
俺は歓迎するように扉を開き、客人を招き入れる。その立ち姿はぼんやりとしている時の奴に似ていたかもしれなかったが、やはり、何を考えているのかさっぱりわからない表情を彼はしている。
「どうぞ?」
声をかけてようやく電池が切れかけた玩具のように動き出す、その背中を見て、彼が驚嘆をする時にはどんな表情が出来るのか。未だ、俺には予想がつかない。
「シズちゃん、入るよ」
開けてすぐ、その物体は待ち構えている。ゆっくりと俺は室内に歩み入る。扉を後ろ手に閉めると室内から聞こえてくる音が際立った。蝿が飛び回っているような不快な連続音。部屋にはセミダブルのベッドと、当たり障りないソファとそれと向かい合うありきたりな液晶テレビが並ぶ。一点だけ、俺が好きなところを上げるとすれば採光が良い大きな窓だろうか。午後の穏やかな白い日差しの中でそれは一層、淫靡に見えた。
窓の前には椅子がある。椅子に括り付けられた男は目隠しをしている。布は真っ赤なシルクにしようと前から決めていた。シャツだけを羽織った裸の胸が忙しなく上下する。荒い呼吸音。湿った呼気に、さっきからひっきりなしに流れている電動音が混ざる。
「お客さんだよ、シズちゃん」
先程から微動だにしていない目の前の肩に触る。びくと体を震わせて振り向いた彼の表情はやはり何も変わらない。何も。
兄が後ろの穴にヴァイブレータ突っ込まれて身悶えてるのを見ても、何も。

切っ掛けとは些細なことだ。いつ何時、不運というのは誰の足元にでもやってくる。ただし、平和島静雄という男がそれらに囚われることは今までなかった。緻密な計算をしたでもなく、裏から手を回しに回したわけでもなく、俺がそこに居合わせたのは幸運としか言い表せない。
何、してるの?声をかけたら、ばっ、と音がするくらいの勢いで振り返った。夜の暗い路地裏。雨が降った後だった。氷のような水溜りに白い月明かりが冷たく刺さっている。彼の弟にはなかった驚愕。失意。絶望。ああ、わかった。静雄は弟の分まで感情を吸い取ったんだ。俺はにっこりと相手に向かって笑いかける。静雄は凍りついた表情のまま、倒れた男にまたがろうとしていた。
喧嘩して気絶した相手を犯そうとしていただなんて、にわかには信じられない。しかも、それがあの平和島静雄となると尚更だったが。少し話をしよう、と提案した俺に静雄は黙ってついて来た。
俯いたまま、体の一部がどこか死んでしまったような静雄から聞き出した真相。ああやって他人を沈めて、男の物を尻に入れようとしたのは始めてだったとのこと。いつものように絡まれて引き倒した相手が気絶しながらも勃起をしているのを見ていたら、衝動が湧き上がった。静雄の言葉では「わけ、わかんねぇうちに、」目を臥せて懺悔するような態度。俺は静雄を糾弾することも、蔑むことも、憐憫の目でみることもしなかった。代わりに俺は慈愛すら込めて微笑んだ。他の誰が断罪しようとも俺だけは許すことにした。

「ねえ、君は許せる?」
魂が入っていないような瞳をした人形のように美しい静雄の弟。この惨事にもぼんやりとしている彼の肩を抱き、カーテンの側に二人で向き直る。
静雄は頭を少し後ろに倒し、たまに身じろぎをするように体を揺らした。頭が左右に揺れるたび目元を隠しているシルクの両端がシャツの肩にしゅると触れた。口の端を流れる涎が顎を伝い、胸元へと滑り落ちてくる。M字に開かれた両足は、椅子の後ろで垂れ下がり、両手それぞれと手錠で括られている。さらに太腿を縛り付けた荒縄が、椅子に絡まっている。こういう植物がどこかにあるんじゃないかな。無様に雁字搦めになった木の根。残念ながら花は咲きそうにない。プランターにこれがあったら俺は大事に育てられるだろうか。はて、と考えていたら横から息を吸う音がした。
静雄の足の間にある電動の玩具が、ずるりと外れて落っこちた。耳障りな振動音をさせたままぬらぬらと卑猥に輝く。下に引いてあるマットレスに黒いシミのような跡をつけてペニスを象った蛍光色のヴァイブは転がり、やがて動きを止めた。電池が切れたのかもしれない。突然に静まり返った室内には、獣みたいな息遣いがよく響いた。
シャツの前で性器を立ち上がらせ、滑稽なくらいに脚を開いた静雄の真ん中で赤い粘膜が誘うように蠢いている。幽君が下を向いたのを見届けてから俺は床に落ちた真っ黄色なヴァイブを拾って静雄に近づく。
「シズちゃん、どうしよう。これ、もう使えないみたいだよ」
残念そうに言ったつもりだったが、カーテンの隙間に映る白い顔は笑っている。薄っぺらな印象の笑みを、後ろにいる弟も、目隠しをする兄も咎めることはない。
「ねえ、どうしよう」
俺の言葉にようやく気がついたように静雄はゆっくりと顔を上げた。赤い布を隔ててもその表情は容易く想像出来た。
高校の時、一度だけ静雄とセックスしたことがある。なんて言いくるめてそんなことになったのか覚えていないが、静雄は抵抗しなかった。俺は奴を痛めつけることなく優しく抱いた。そして、次の日、俺はナイフを突き出した。何もなかったかのように、甘い時間を過ごしたことなど嘘のように。その時の静雄の顔が今でも忘れられない。俺たちの間で、あの出来事は禁忌となった。目隠しに覆われたものもきっと同じ、あの時みたいに傷ついたような顔をしているだろう。
「……し……く、れ」
真っ赤な目隠しの下で、静雄の唇が震えるように何事かを呟く。
「なんだい?」
優しく言いながら、静雄の体内から落ちたぬめったヴァイブの先をにひたひたと当てた。くっ、と悔しそうに奥歯を噛んでいた静雄だったが「言ってごらんよ、言い方によっちゃ叶えないでもない」
一瞬思い悩んだような間があり、静雄は少し俯き加減になりながら、ようやく口を開いた。

背中からありがとうございました、と受付嬢の声がかかったが振り向きもせずに自動ドアをくぐり抜け、通りを歩く。次第に早歩きになっていって、とうとう走り出した俺はどこかの公園の公衆便所にいた。肩を上下させた、表情のない男が鏡に写る。荒い息を吐き出しても自分の表情は微動だにしない。兄は、あんなにも乱れていたというのに。
どこかで何かが強く叩きつけられる音がした。目前の鏡を自分の拳で割ろうとしたらしい。手の甲が痺れるように痛かったが、それよりも問題がある。
あのメールは一体、誰が送ってきたのか?あの男が送ってきたのだろうか、それなら容易に想像がつく。が、俺が一言でも発すれば目論見は消える。単に、見せびらかしたいなどという一時の悪趣味の為に兄を一生揺さぶれるような話を手放すだろうか。あの男が。喫茶店で相対した時の爽やかな笑顔にそぐわない沼のような暗い目を垣間見たような気がする。
では、兄が助けを求めるためにメールを送ったのだろうか。きっとそうに違いない。それでいいじゃないかと言う自分に、それならば何故、声を張り上げなかったと詰め寄る自分がいる。
兄さん、と一声でも出せばきっと兄は、兄はーーーー真っ赤な目隠しの下でうっとり微笑んだのではないだろうか。まるで、見せびらかすことが出来て幸せだと言うように。
そんな予想をする自分が一番恐ろしい、恐ろしいのに鏡に写る俺の顔の筋肉はぴくりとも動かない。でも問題はそこだけじゃない。
一番の問題は実の兄の姿をみて昂らせている、俺だ。
鏡にはやはり、何を考えているのかわからない青年がぼんやりとこちらを見ていた。

「帰っちゃったよ、君の王子様」
ベッドの上に倒れた静雄は屍体のように眠っている。青ざめた肌は人形のようで弟の面影をみせた。額に張り付いた前髪をはらいながら、その冷たい頬を撫でる。微かに聞こえてくる寝息に安堵する自分を感じて、俺は怯えたように手を離す。
「君は、あのホラー映画。最後まで観れたの?ほら、あの絵が出てくるシーン。特に怖かったじゃない」
薄い恥毛に白濁が付着している。それを眺めながら、俺はだれも応えない会話を続ける。
「あのピエロの絵さ、」
黒い道化師が跳躍をするように、荒いタッチで描かれた、不気味な絵画。ビジネスホテルにはそぐわない薄気味悪いものだ。でも、嫌いにはなれなかった。
「あのピエロはさ、踊ってるんじゃなくて、踊ってやってるんだって。俺は思うよ」
壁にかかった黒いピエロが裂けた口を歪めて、にやり笑った気がした。


ピエロは、踊る







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