静雄は大して物のない部屋で、唯一と言って良い家具――ちゃぶ台の前で腕を組んでいる。そして、その上に乗っている物体を睨みつけるように眺めている。
 その物体、白くつるつるとしていて先は細く下の部分は丸みを帯びている。
 色が違えば、弁当に入ってる魚型の醤油入れみてぇだな。
 なんてのんきな事を静雄は思ったりした。
 しかし、先程から微動だにせずこの物体を見つめ続け早くも一時間は過ぎている。
 男なら度胸が肝心だ。
 昔気質な静雄だったが、それゆえに戸惑いが増す。
 静雄は今日、会社帰りに薬局に寄ってそれを買い、その際若い女の子のレジには決して並ばず、そそくさと逃げるように帰った。そして封を解いて説明書を広げ、湯を沸かし、今に至る。
 ずっと座ったまま小さな白いボディを見据え続け、とうとうため息をついた。
 事の発端はこう、とても単純と言えば単純。複雑と言えば複雑だ。
 静雄には最近できた恋人がいる。最近とは言っても知り合ってから七、八年は経つ。あの当時を思い出すと何故こうなってしまったのか、からきしわからないまま静雄は折原臨也と一緒のベッドにいた。

 熱病にかかったような体のほてりが嘘みたいに引いて、達した直後のだるさが体にのしかかる。
「シズちゃん、」
 しかし、静雄の上にいたのは倦怠感だけではなかった。
 臨也はまだ整わない息をしながら静雄の汗で湿った金髪に触れる。
「ねぇ、気持ちよかった?」
「どけよ」
 面倒くさそうに言ったが臨也は全く堪えていない様でにこにこと嬉しそうに上に乗ったまま顔を眺めてくる。
「シズちゃん可愛かったよ。シズちゃんシズちゃんシズちゃん、」
 今でも気に入らないアダ名を連呼しながら静雄の裸の胸に顔を埋めてぐりぐりと動かし始める。静雄はその頭を煩そうに押さえつけた。
「ぐる、ぽぉーぱー」
 多分、苦しーよーと言っているだろう相手を無視して手の平に力を加える。
「うるせぇ、そのまま死ね」
 臨也とこういう関係になってしばらく経つ。こういう、とは所謂男女の真似事のような、未だ信じられないような。未だ実は慣れていないような。
 静雄は異性はもちろん、臨也以外とは誰とも付き合った試しがない。その為、そういう甘ったるい雰囲気というか、そういう関係同志たる態度というか、ぶっちゃけると恋人らしく振舞う事が気恥ずかしくて堪らなかった。
 以前とのやり取りから脱却出来ずにいる静雄とは逆に臨也は変わった。とにかく終始でれふにゃとしている。
 それでも池袋で出会えば前のようにナイフを取り出すのだったが、それは周りを欺くフリであって路地裏に入った途端キスなぞをしようと迫ってくる始末だった。静雄はもちろん十センチ低い頭を小突いたのだったが。
「ぶぶほ、ほんほに、ひぃんひゃうよっ」
 シーツの上でバタバタと足を動かす臨也に、静雄はようやく手を離した。
「あー、死ぬかと思った」
「あーあー、仕留め損ねたぜ」
 圧迫されたことにより顔を赤くしていた臨也だったが静雄のそんな一言でさえ嬉しいと言いたそうに笑っている。
「シズちゃんシズちゃんシズちゃんシズちゃん」
「なんだよ、うっとおしいなっ!」
 静雄の身体に抱きついたままでいる臨也を引っぺ剥がそうとするも、難なく避けられる。
「シズちゃん、大好きだよ」
 耳元でわざわざ囁く。
「うっ、うぜぇな」
 不遜な態度にも臨也はにこにこと笑い、それから静雄の尻を撫でてきた。
「次はこっちでしよう、ね」
 ね、の部分で耳元に生暖かい息を吹き込まれる。
「気持ちが、悪りぃい!」
 静雄が大振り過ぎるストレートを放てば、臨也は避けそのまま床へと落ちていく。笑顔のまま。
 へらへら笑いながら床に転がる臨也を、シャツを着ながら眺める。
 正直こういう臨也は嫌い

 ではなかった。

 いや嫌いではないというより、むしろ普通に好きなんじゃないか? 好きっていうか、まあ、かなり好き?
という事は大好き?
 いやいやいやそんなことねぇから別にすすすす、すっ、じゃねぇし!
 めこんっ! いささか軽い音を奏でながら静雄の拳が畳を貫く。
 百面相と身振り手振りを繰り返す静雄が一人で自分の部屋にいたのは幸いだった。
 かちりと、ちゃぶ台の上の安っぽい目覚まし時計が天井を指差す。今日が昨日になって、明日がまた近付いた。
 静雄は時計をじっと眺めていたが、意を決したように立ち上がる。
 
 そして目の前の、所謂カンチョウを掴んだ。

「おっはよーさん」
 上司である田中トムはその髪型もあいまってか南国のような明るさを醸し出している。
 ウクレレとか超似合いそうですよね、と前に言ってみたらアロハ検定は二級まで取得しているとの事。目を輝かせた静雄だったが、今日はそんな元気はない。
「うはようございます」
「なんだその顔、スゲークマじゃねーかよ」
 寝不足か? 尋ねてくるトムにああ、はあまあと曖昧に答えながら一応は用意されているデスクに座る。ドレッドの上司はその斜め前に設置された机から心配そうに静雄を見ていたが、やがて思いついたように手を叩いた。
「あれか、最近出来たコレが寝かせてくれないとか」
 コレ、と言いながら小指をたてにやにや笑うトムに静雄は、まあそうっすねと気のない返事をする。トムは一層からかいの色を濃くした笑みを浮かべたというのに、静雄は頬づえをついてぼうっとした。
 何でプラスチックつうのは、あんなヤワなんだ。
 静雄の頭を占めるのは昨晩の壮絶な戦いの筈だったが、戦いになる前に敵は砕け散っていった。
 自分の腕力をわかっていないわけじゃない。最近では余程の事がない限り暴走はしない。加減というものを覚えてきた気がしていた。
 でも、ダメだった。
 ズボンを脱いで横になり、大体の位置に近付けるまでは良かった。その先、これから、もしかしたら恋人に捧げるかもしれない奥まった部分に近付くにつれ脳裏に過るのは、その恋人が高笑いしている場面だった。
 こんなことしてた、なんてあいつに知られたら。
 知らず指先に力が入る。柔らかい容器は簡単に破裂した。
 パァン!
「んあ、」
 本当に聞こえてきた破裂音に我に返る。
「おい、大丈夫か?」
 トムが目の前で手拍子をしたらしい。
 慌てて立ち上がる静雄にトムは訝しげな目を向ける。
「だ、大丈夫っす。人より丈夫なのが取り柄なんすから俺は。じゃ、行きます?」
 扉を指差す静雄をトムは微妙な顔で見つめている。
「そうだなぁ。うん、なあ静雄。今日は社内で書類整理日和だなっつったのよ、さっき俺は」
「へっ? あ、ああ、す、すんません。この山になってる」
 書類を、と机に向き直った静雄がその山のどこかに体をぶつけて紙が雪崩のように崩れ落ちる。
「うお、や、やべっ」
 床に散らばった大量の書類を捕まえようとする。だが、革靴はその書類の上を綺麗に滑った。
 ずべん! の後にゴキャン! という音が聞こえてきたがトムは微妙な表情のままそれらを遠くから眺めていた。
「悩み事があったらすぐ相談しろよー。これ俺と静雄の約束ヨー」
「す、すいま、せん」
 集めた書類をぺらぺらと捲りながら似ていないモノマネを披露する上司。静雄は先ほど転んだタイミングでダメにした椅子を何とか元に戻そうとしている。
「で、どうしたんよ?」
 トムは書類から顔を上げぬまま尋ねる。
 静雄は背もたれがなくなった椅子をいつまでも弄るのは止め、言うか言わまいか少し考えたが、他に頼る当てもない。それにもしかしたら話すことで何か良いヒラメキがあるかもしれない。
「わかった。話を整理しよう」
 相談し終わった後、トムは赤ペンのキャップ先で自身のコメカミを押しながら言った。
「今日、恋人の誕生日なんだよな?」
 トムが確認するようにこちらを見る度、静雄はこくりと頷く。
「その恋人は静雄よりちょっと稼ぎがいい、と。それで普通の物は渡せない。だから、その代わりに、お前、が、布団の中で、頑張る、と。だから俺の今までの武勇伝を聞きたいと、そういうことだな」
 武勇伝のところは特に尋ねてはいなかったがこくりと大きく頷く静雄に、トムはにこっと笑み肩に手を置いた。

「ダメだ」
 その顔は初めて見る険しさをしている。
「ええっ!」
「そんなんダメに決まってるべぇえ!」
「えっ、いやでも、い、いざ、あいつは」
「とにかく静雄には多少のレクチャーが必要みてぇだな」
 馬鹿みたいに正直に話してしまったことで面倒見の良い先輩に火をつけてしまったらしい。
「いやいや、あいつにはそれが一番いいんですって」
「よし、そうと決まれば仕事なんかやってられねぇな! 行くぜ静雄」
 もごもごと口を動かす静雄を無視してトムは腕まくりをする。上司は常より俄然張り切って見えた。
 トムは人と上手く関わられないでいる静雄を近くで見続け、お節介にならない距離で励ましたりしていた。言い過ぎかもしれないが、恋人が出来たことを自分のことのように喜んでくれた。そんなトムの気持ちは有難い。だから静雄は引き摺られるようについて行くしかなかった。
 
 店内には抑えられたボリュームのクラッシックが流れ、赤と緑のクリスマスカラーの椅子が色違いに並べられている。そんな品の良い店、そこに借金の取り立てを生業としている男が二人。
「パフェ、すか」
「女の子つったらスイーツだろ。しかもここは果物が花びらの形してるんだぜ」
「綺麗ですし、美味いですけど」
 あいつ甘いもんはなぁ。
 静雄はパフェにスプーンを突っ込みながら思い出す。

 あれは何時だったろうか。付き合って日も浅い頃だった気がする。
 殺すとか、殺してみろとかそんな口ばかり聞いていた二人が同じ部屋にいて、並んでソファに座りただ傍にいた。
ちらりと横を見れば臨也もこちらを見ていて、同時にパッと他所を向く。
 ――気まずい。
 何を喋ればいいのかもよく解らず沈黙だけが続いた。
 そんな時。
「……あ、そうだ。ねえ、ケーキがあるんだけど。食べる?」
「お、おう」
 おずおずと話しかけてきた臨也が安堵したように笑ったのを静雄はよく覚えている。
「お前、食べねぇの」
 頂き物だと言う宝石のようなケーキたちをぎっしり皿に盛られ、どれから食べようなんて悩んでいた静雄だったが、臨也はコーヒーを前にそれを見ているだけだった。
「んー、あんまり甘い物食べないから」
 そういえば高校の時からバレンタインにはしこたまチョコをもらっていた癖にそれらを食していたところは見たことがない。家に帰ってから食べていたのかもしれないが静雄の記憶には菓子などに喜ぶ臨也はいない。居たのは、あの貰ったチョコを掲げて嫌味な笑みを載せていた臨也だった。
 しかし、それが隣でコーヒーなどを啜っている。
「どうしたの、食べていいんだよ」
 すっかり臨也を見つめていたことに気がつき、静雄は頭を振り回すようにケーキに向き直る。それからかきこむ様にそれを口に入れた。
 確かに美味かったが、隣から注がれる視線が気になってそれどころじゃない。
「な、にっ、見てんだ、よっ」
 威嚇するような声を張り上げたが、自信がない。頬が熱かった。きっと顔が赤いに違いない。
「うん? シズちゃんが遠慮してるから俺も食べようかなって。それに、ついてる。ここ」
 そう言った臨也の顔が近づいて静雄の口の端をぺろりと舐めた。そして、二人は初めて

「キスを交わす」
「えっ?」
 前を向くとトムが静雄をじぃと見つめていた。
「な、ななな、何で知って」
「つうわけよ、静雄。すげぇべ、俺の考えたプラン」
 チーズが挟まった薄いパンのようなものを口に入れながらトムは静雄に向けて得意な顔をしている。どうやら全く関係のない話をされていたようだ。静雄はとりあえずうんうんと頷いた。

 ■

 折原臨也は上機嫌だった。
 詳しく説明すると上機嫌なのは今しがた始まったわけではなく、最近ほとんどであったのだがその最近とは恋人が出来てからと特定していいだろう。
 臨也は静雄とそういう関係になってからというもの毎日浮かれてる。
 今日も携帯に映した静雄のベストショットを眺めていたら「判子押すのに何分かかってるのよ」と秘書に文句を言われる体たらく。彼女もするその悪い癖を見咎めていたのは臨也の方だったというのに。
 だって、シズちゃん可愛いから仕方ないんだもん。
 こんな具合で頭にお花畑が咲いている臨也は反省などする訳もなく、ちょっと用足しと秘書に伝え(波江は元から皺ばかり寄せている眉間を雑巾のように振り絞る)、池袋にスキップするように降り立った。
 その時まで折原臨也は上機嫌、だった。
 いやいやいや、いやいやいや、いやいやいや、シズちゃんに限ってねえ? うわ、き、う、うわ、うわわわ、き、距離ちかっ!
 ナイフを飛ばしたいのを我慢しつつ電柱を握りしめぎりぎりと歯軋りをする。
 こんな姿を信者に見られたら一体どうなるか? そんなことすぐに考えつく賢く、寧ろズル賢く抜け目のない臨也だったが静雄の事となると話は別らしい。
 駅ビルから出て来た二人を視界にがっつり捉え、その後ろを追跡する。
 静雄とトムは並んで歩きながら談笑をし、たまにトムが静雄の肩を小突いたりしている。
 恋人が臨也にはあまり見せない笑みを持っているのは知っている。静雄は本当に楽しい時、あどけなくて飾らない笑顔をする。隠れてそれをずっと見てきた。あの頃の臨也の前でそんな顔をする筈がなかったから。
 じゃあ今なら、あの表情は自分だけのものになったと言えるのか?
 そんな自信ははっきり言ってない。
 恋人といってもその年数に比較したら友達や先輩、それに仕事仲間の方がよっぽど距離が近いんじゃないか。
 臨也はそんな焦燥をひた隠し、今までへらへらと笑ってきた。そろそろ腐り切った嫉妬が膿となって滴り落ちそうだ。
 反吐が出そう。
 臨也は苦々しく、誰でもない自分を笑う。
 恋人になったからといって所有物になるわけでもないのに。
 静雄に焦がれ過ぎる自分を疎ましく思いながら、それでも目が離せないのは仕方がないのかもしれない。
 学生の時から何年もこうやって見つめ続けてきたのだから。
 悩みつつも尾行の足を緩めない臨也。その数メートル先をドレッドと金髪はゆっくり歩いている。
 二人は先ほどいた東口から逆方向に出て西池袋公園を通り過ぎた。駅前程ではないが買い物客でそこそこ賑わう通り、そのビルの一階に二人は堂々と入っていく。
 臨也はビルとビルの隙間から呆然と眺めた。
 その看板には、ブライダルリングと描いてある。

 □
 
「将来を見据えて見学ってのもいいだろ」
「うす」
 トムが企画するデートコースを実践している静雄は相手があの臨也だと言うことはもちろん出来ず、とりあえずエターナルリングとは指輪にびっしり細かいダイヤがついたヤツと学んできた。
「しっかし、高かったな。給料三ヶ月分なんて嘘っぱちだぜ」
「そうっすね」
 ジュエリーショップを冷やかすだけ冷やかして店を出れば結構な時間になっていた。
 指輪か。あいつがつけてんのってやっぱ相当高けぇんだろうな。
 静雄は臨也が人差し指に嵌めているリングを思い出す。

「それ何で両方の指につけてんだよ」
 それ、と指差され臨也は携帯をいじっていた手を止めた。
「指輪のこと?」
 例によって例のごとく臨也の家で何をするでもなく過ごしていた時だ。少しは二人で居る空間に不自然さが消えてきたように思ったある日。
 静雄は結構思い切って質問してみた。もしかして特別な意味を持っているんじゃないか? もしかして以前付き合っていた相手に拭えない未練があるのではないか?
 そんな女々しい考えを見透かされては嫌なので逆にぶっきらぼうに聞いてみたが、内心では指輪を眺める臨也に冷や冷やしていた。
「特に意味はないよ。ただ何となく」
「ふぅん、そうか」
 そっけなく言いながら、あっさりし過ぎな態度に誤魔化されてるんじゃないか、本当は違うんじゃないのかと問い詰めたくなる。
 そんな自分をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てたくなった。
「あ、そうか。シズちゃんはこういうのつける奴、あんまり好きじゃなさそうだもんね」
「いや、別に」
 しかめっ面をしていたらしい静雄に、明後日な勘違いをした臨也が指輪を外し始める。
「そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
 だからと言って本当の理由がほいほい言える可愛げなどはなかったが。
「いや、そうじゃないんだ」
 臨也は仕事机から静雄のいるソファにやってくると指輪を外した両手で静雄の顔をぺたぺたと触り始める。
「ちょ、なにす」
「だって今まで指輪つけたまま君に触ってたってことは、この指輪の下にあった面積はシズちゃんを知らないってことだろ。急いで吸収しなくちゃ」
 時たまこんな可愛げのあることを臨也は真面目な顔をして言うから驚く。
「何で笑ってるの?」
「お前、面白いな」
 呆れ半分で笑っている静雄の額に臨也の額がこつんとあたる。
「俺、シズちゃんの笑顔をもっと見たいな」
「これじゃ近過ぎだろ」
 睫毛が触れ合う距離で臨也が笑うと湿った呼気が頬を湿らせた。
 それから、二人は

「君の瞳に乾杯」
「そ、そんな台詞はなかったですけどっ」
 照れながら手を振る静雄にトムは持ち上げていたジョッキを下ろした。
「そうか? 俺の予定なら二人はここでこうなる筈なんだけどなぁ」
 うーん、と唸るトムに静雄はまた話を聞いていなかったと察する。
 ブライダルリングで夢を膨らませた後は、洒落た居酒屋で腹を膨らませんだ! と上司は豪語する。
 ハワイアン居酒屋なるものは店内が木目調の椅子やテーブルで温かい雰囲気で、ところどころ飾られた独特な花や、サーフィンのボードなんかが南国の海を夢想させる。メニューにはトロピカルなカクテルが並び、個室では若い女の子たちが盛り上がっているようだった。
「静雄。パンケーキあるぞパンケーキ」
 ハワイ検定を取得している上司にはまさにぴったりな店だと思う。
 あの壁にある花飾りとかつけたら超似合いそうだ。
 無言で相槌を打ちながらそんなことを考える。
 しかし、臨也が陽射しのきつい砂浜で日に焼け笑っている姿はどうしても想像しにくい。
「お、バースデーサプライズみたいだな」
 賑やかな声のする個室方面にプレートを持ったアロハシャツの店員が向かう。ロウソク代わりの小さな花火が横を通り過ぎていった。
「静雄はサプライズとかやんねぇの?」
「自分は、」
 その瞬間に自分が目論んでいたサプライズを思い出す。
 臨也との約束は今日の夜になる。それまで時間があったのでちょっと一杯なんて言う上司について行った。今朝は朝飯に用意した大好きなプリンも悩みながら食した為、少し突ついた程度だ。それで腹ごしらえなんてしていた。
 それじゃ問題は何も解決していない。
「どうすっかな……」
 例のあれは余っていたが、再度挑戦する気にはとてもなれない。
 そのまま黙り込んだ静雄にトムはこんな事を言い出した。
「ディスカウントショップとかでも結構面白いもんあるぜ。みてくか? あ、トイレットペーパー切れそうだったんだ。俺も寄ってくかな」

 ■

 ――その数時間前、

 臨也はジュエリーショップを出た静雄たちの後をこっそりばれない様に追いかける。
 指輪みた後はオシャレな居酒屋ってわけか。まるきりデートコースじゃないか。
 親指の爪をぎりぎり噛みながら店先を睨む。
 俺とはデートなんかしない癖に!
 そんな不満が静雄にあることを臨也は初めて気がついた。
 しないんじゃない、出来ない。
 どこか遠い場所にいって誰にも見られないようにこっそりするのもいい。でも、ここなじみ深い池袋で臨也と静雄がハワイアン居酒屋に入って寛げるだろうか。答えが否なことは十分にわかっている。出来ないこと。だからこそ憧憬は増す。しかし、それを静雄にぶつけるのは間違いだ。
 そんなことわかり切っているのに苛々しているのは嫉妬なんだろう。あの田中トムへの。
 誰よりも人間が好きでその観察を怠らない臨也は自分の感情ですらつぶさに分析出来る。分析したからといって割り切るかは別だが。
 親指の爪が心を映したかのようにひりひりと痛み出した時だった。大学生くらいの女の子たちが数人、臨也の前を通り過ぎる。
「あ、ほら。あのお店」
「感じよさそうだね」
 そのグループは店の前に円を描くように群れ何やら相談をしている。こういう時、空気のように耳をそばだてるのは癖みたいなものだ。
「でも、いきなり行ってバースデー用のワンプレートなんか用意してくれるかな?」
「まあ、なんとかなるって。とりあえず聞いてみようよ」
 どうやら仲間内の誕生日を祝うつもりらしい。楽観的な一人に心配顔をした数人が引き摺られるように店に入っていく。
 誕生日?
 はたと臨也は我に返る。そういえば明日は自分の誕生日だということを今の今まですっかり忘れていた。
 そうか、だから。
 臨也は静雄からのメールを思い出す。滅多にないことだ、あの静雄から送られてくることなんて。そこには、夜行ってもいいか? なんて慎ましいメッセージが。
 それに終電を逃すように遅い時間を指定したのは自分だ。まあ、案の定待ちきれなくなってこうやって池袋にきてしまったけど。
 でも、静雄が自分の誕生日を覚えているなんて思ってもみなかった。もう、それだけで立派なプレゼントなんじゃないか? 見方によっては失礼なことを考えながら、ある仮定が思い浮かぶ。
 シズちゃんは、もしかしてサプライズについて上司に相談したんじゃないか? それで相手がどこかの女だと勘違いしたドレッドがこの茶番を思いついたのだとしたら?
 臨也の口元にいつもの余裕ぶった笑みが戻りはじめる。
 なんだ。心配して損しちゃったよ。
 自分への呆れ混じりのようなため息をついて首を振る。
 全く。シズちゃんのこととなると視野が狭くなるな。お、やっと出てきた。
「早く行きましょうよ、トムさん」
 勢い良く開いた木製のドアから店員の挨拶にまぎれ静雄の急かすような声が聞こえる。少し頬を赤くしてるところをみると飲酒をしてきたのかもしれない。
「わかった、わかったから」
 静雄に押されるように飛び出してきたドレッドは苦笑しつつもちょっと楽しそうだ。
 忌々しい。
 臨也は張り付いた笑顔のままそんなことを胸中で吐いて、でもどうせこれから静雄のプレゼント選びに付き合わされるのだろう? と得意満面に笑む。
「早くしなきゃダメなんですってばー」
 ぐいぐいとドレッドを押す静雄は上機嫌に見えた。
 シズちゃんったら、俺の為にあんなにはしゃいじゃって可愛いんだから。
 あまり見ない恋人の姿に臨也は頬を緩める。

 しかし、その数秒後に自分の耳を疑うことになるのだったが。
「早くトムさんち、行きましょう!」

 □

「早くトムさんち、行きましょう!」
 スキップしたくなるような気分で静雄は上司の肩をぐいぐいと押す。
 トムさんちのトイレはあれが付いてる!
 天啓のように思い出した静雄は居酒屋にて腹痛を訴えた。
「いたいいたい、いたい。まじ、すげぇ、はらがいてえっす」
 その棒読みをどこまで信じたかわからないが静雄を気遣う上司に、慣れない店ではちょっと、なんて言ってみた。「ワックでしょっちゅう使ってたのに?」と驚いていたが人の良い上司はやはり了承してくれた。
「おいおい、何でそんなに嬉しそうなんだよ」
 建前を忘れていた静雄を、少し困ったようにトムはたしなめたがここからそう遠くない自宅へと連れて行ってくれる。
「ありがとうございます、トムさん! 御礼は体で返します。使った後はピカピカに掃除しますから」
 そんなやり取りを誰かに聞かれてるとも知らずに。

 ■

 か、体で返すってナニを?
 聞き間違いだと思いたい。だけどドレッドの周りをデカイ犬のように戯れる静雄は相変わらず高いテンションを維持している。
 ただの先輩の家に行くにして、あんなにはしゃぐことがあるだろうか?
 臨也の観察眼がおかしいと告げている。ちなみに足の方はそんなこと考えるより早く二人を追っていた。

 □

「うちに来るの久しぶりじゃねぇか」
ベージュ色した外壁にハイツなんたらと描かれた表札。どこにでもある集団住宅だったがトムの家は静雄のものより数段レベルが上だ。
 だって、うちは未だに和式なんだぜ?
「お邪魔しまっす」
 飛び込むように室内に入った静雄に、便所、右だからなと声がかかる。
「もうさっそく入るのかよ、ぎりぎりだったんだな」
 トムのひとり言は玄関扉に吸収され、その先にある耳の中に吸い込まれていく。

 ■
 
 もうさっそく入れるって何を? むしろナニを?
 扉にぺたりと頭をつけて盗み聞きする有様を他の住民がみかけたらびっくりしただろう。神経過敏な人物だったら通報されるなんてこともあり得るかもしれない。幸いにもこの臨也を発見する者は誰もいなかった。問題は、誰かに見られてはマズイなんて考えに及ばなくなっている臨也の思考回路にあったが。
 あのシズちゃんが、そんなこと、するわけ、
 次の言葉が出てこない。ちらつくのは上司に向かって嬉しそうに笑う表情。
 ぐにゃりと淀んだ思考を振り払うように、臨也は頭を振り扉の向こうに耳を澄ませる。
 何も聞こえない奇妙な程に静まり返った室内は、


 突然の大声に崩れ去ることになる。

 □
 
 某有名キャラクター、白い猫が赤いリボンをしているトイレマットは確かトムと少しばかり一緒に住んでいた彼女の持ち物だったはず。そんなことを考えながら座った人の家のトイレ。あの風貌な割りに潔癖なところのあるトム、その小綺麗な密室にて、静雄は悲鳴を上げる。
「と、止まらねぇ」
 ボタンには「止」と描いてあるはずなのにそれは全く静雄の人差し指に反応しない。
 確かに、ちょっと浮かれていた。安心してつい力加減を間違えてしまったのだろうか。
「ど、どうすりゃいいんだ」
 焦ってボタンを連打する。
 グシュンッ、そんな潰れた音が人差し指の下から終了の合図をする。
「う、嘘だろ」
「おーい、どうした?」
 扉の向こうからいつでも覇気がない上司の声が聞こえる。
「トムさん、すいません、じ、実は」

 ■

 何やら扉の向こうが騒がしくなったようだ。
 臨也は先ほどから変わらぬ体制で耳を扉につけたまま様子を伺う。くぐもった声が慌てているように聞こえた。
ドレッドが「そのままで」とか言っているのに静雄が叫ぶように声を張り上げる。
「む、むむむむ無理っす! もう我慢できない。俺動きますから」
「こらこら、ダメだってピューって出ちゃうから。そのままケツで抑えてて!」
 積み重なった嫉妬と類稀なる想像力がなせる技。臨也の脳内で鮮やかに再生される映像。
 ドレッドの上ではあられもない姿をしている静雄がいた。

 ぶつん。

 どこかで馴染みのある音がした。臨也が静雄と対峙した時によく聞いていた音。そう、堪忍袋の緒がブチ切れたあの音。

 *

「こら静雄! ウォシュレットの水が出ちゃうからダメだって言ってるべ!」
 飼い犬の粗相を叱る様にトムは扉に向かって声をかける。
 がちゃがちゃと動き出したノブをトムが抑えたところで勝敗は決しているとわかっている。それなのにその場から離れなかったのは玄関から何かがブチ破られたような音がしたからだった。
「べ、弁償しますからトムさん。うあっ!」
「げっ、」
 だから出てきた静雄が水浸しになった床で足を滑らせトムの上に被さってくるのに、反応が遅れた。
「や、やっぱり」
 震えたような声に廊下側に目をやる。そこには驚愕の表情をしたあの折原臨也が立っている。
 何で、折原臨也が?
「何で、臨也がここに?」
 その疑問は上に乗っかってる後輩から放たれた。ついでに背後では噴水のように水が放たれている。
 ――さらば、敷金。
 心の中で泣いたトムは、おさらばするのはこの世になるかもしれないなんて気がつきもしない。
「殺して、やる」
「えっ?」
 物騒な言葉に振り向くと、臨也は体の真ん中で白く輝く何かを握りしめている。
 それを見てもここでドンパチ始められたら敷金どころじゃねぇぞ! 位にしか思ってなかった。
「し、静雄ちょっと」
 呆けたようになっている静雄をどかそうとするが、後輩はびくともしない。
 風を切るような音がすぐ側でした。

 □
 
「危ねえっ!」
 普段なら自分に向かってくる筈の刃が違うところを狙っている、それを察知した静雄は寸でのところでナイフを掴み粉砕する。
「庇うなよ、シズちゃん!」
「庇うに決まってるだろ!」
「うっ、や、やっぱり」
 臨也は自分がナイフで刺されたようによろめくと「待てよ!」静雄の制止も聞かず部屋を飛び出して行った。
「折原臨也、なんか泣いてなかったか……。気のせいか?」
「わっ、すすいません。トムさん」
 下敷きになっていた上司から起き上がる。
「あの、すいませんついでに、あいつ追いかけても、いいすか」
「へ? それはお前の仕事みたいなもんだろ」
 何を今更と言わんばかりのトムに必ず弁償しますからと言い残し、静雄は駆け出した。

 ■
 
 シズちゃんの嘘つき、クソビッチ野郎ぉおお!
 臨也は心の中で悪態をつきながら夜の街を疾走する。大粒の涙をこぼしていたが、街行く人間がそれに気がつくことはない。パルクールに鍛えられた俊足は路地を蹴ってビルを飛び越える。
 初めてだって言ってた癖に!
 思い出すのはつい最近、臨也の下でそっぽを向いて頬を赤らめていた静雄。

「いいの、かな。こんなこと君にして」
「いいっつってんだろ! いちいち聞くなよ」
「だってシズちゃん、初めてなんだろ」
「それがどうした。あ? バカにしてんのかよ」
「そうじゃなくてさ、最後まで出来ないなって」
「何だよ? したくねぇって言うのかよ?」
「まさか」
 不機嫌になった恋人がベッドから降りようとするのを腕を伸ばして引き止める。
「君にいきなり無理させたくない。でも俺、自信ないんだ。途中で止められるか。わからない」
 腕の中でぎゅうと抱きしめた金髪が暫くしてから呟く。
「無理すればいいじゃねぇかよ。別に俺なら平気だし……」
 益々顔を赤くする静雄を可愛いと思いながら、だからやっばり最後までは出来なかった。
 静雄には万全にして挑みたいからなんて言ったけど、本当は傷つけたくないだけかもしれない。
 昔だったらあんなにナイフを刺していたというのに。臨也は静雄と付き合いだして臆病な自分を知ることになる。

 ――なんていう繊細な配慮は要らなかったわけだけどね!
 臨也は思い出を振り切るように闇夜を飛ぶ。繁華街を通り越し少しばかり風景がさみしくなってきた頃だった。
「いぃいいざぁあやぁああくぅううん」
 地鳴りのような低い声が足元から聞こえた。
「おい、そんな屋根の上に居ねぇで降りてこいよ。住んでる人に迷惑だろうが」
「何しにきたの?」
 臨也は地面に着地すると同時にポケットから予備のナイフを取り出す。いつもだったら標識の一閃が飛んで来てもおかしくない状況で静雄は臨也に話しかけてきた。
「てめぇこそ、何でトムさんちなんかに来たんだ?」
「この期に及んでまだその態度? はっ、君の無神経さ加減には呆れるよ」
「何の事だよ? てめぇこそ何で俺の上司にナイフ投げんだよ」
「俺のっ、って言った!」
「ああ? 俺の上司はトムさんだろうが。それの何がおかしいんだよ?」
 困惑した顔をする静雄に乾いた笑いをこぼす。
「いいよ、もう。おかしいのは、きっと君の本性すら見抜けなかった俺の方さ」
「さっきから何を言ってる? さっぱり意味がわかんねぇ」
 心底不思議そうに首を傾げる静雄に殺意を通り越して哀しみが襲ってくる。
 こんなにも軽く見られていたなんて。
 涙を流す代わりに悲鳴の様に叫ぶ。

 □
 
「あのドレッドと浮気してた癖にっ!」
 全く持って予想外の糾弾に静雄は面食らう事となる。
「えっ? 俺とトムさんが?」
「そうだよ! 何だよそのトボけた顔は、あっ! もしかして浮気はお前の方とかそういうあれか、ちくしょう!」
「おいおいおい、落ち着け。ここ外だぞ」
 取り乱した臨也を宥めようとするがきっと睨みつけられた。
「落ち着いていられるか。ブライダルリングなんか選びに行きやがって」
「お前、尾けてたのか!」
「ああ、そうだよ。君の不貞を調べてやろうと思ってね」
 歪んだ顔で嘲笑う臨也を見るのは久しぶりな気がした。静雄もついぞ感じる事のなかった怒りがふつふつと腹の底から湧いてきた。
「ふざけたマネしてくれるじゃねぇか。それも俺が浮気してるだって?」
「そうだよ! あんな、くんずほぐれつしてた癖に言い訳とかしてるんじゃないよ!」
「うるせぇ! 俺はな、てめぇの為にっ、」
 静雄は言いかけて口をつぐむ。
「なに、まさか? 俺の為に刺激を用意してくれたとでも言いたいわけ?」
 鼻で笑うその態度に静雄は臨也の胸倉を掴んだ。
 人の気もしらねぇで!
 拳を握りしめ上空に振り上げる。
「やれよ、化け物」
 不適に笑う臨也、その顔のど真ん中


 を避けるように後ろにあった電柱に静雄の拳が音をたててめり込んだ。
「誤解だ」
「何だって?」
 臨也は電柱がめきめきと倒れ砂埃を撒き散らす中、目を細めて聞き返す。
「だから、誤解だって言ってんだろ!」
「はあ? なら理由を説明してよ」
「それは、だな。その……出来ねぇけど……」
「はぁああ? 何だよそれ。納得できるわけないだろ!」
「うるせぇえ! とにかく誤解ったら誤解なんだよ!」
「信じられるわけないだろ!」
「お前、俺のこと信じてなかったのかよ!」
「信じてたさ! でも現実を目にしたら信じられなくなるだろ!」
「だから一体何をみたんだ!」
「だから君とドレッドのナニだよ!」
「ああ? 何を言ってるかさっぱりだ! 一体てめぇは何を、」

「あのー」

「「ああ?」」
 二人して不機嫌に後ろを振り返る。
 制服を着たお巡りさんがそこには居た。
「近所迷惑ですよ。あとこの電柱」
「「すいませんでした、さようなら!」」
 声を合わせて二人は走り出した。

 ■
 
「ついてくんな!」
「シズちゃんこそ!」
 言い合いを続けながら二人は走る。
「女々しくついて来て言い訳でもする気かい」
 臨也の方が一歩先に足を踏み出せば、負けじと静雄も追いつこうとする。
「しつけぇ野郎だ。だから、誤解だって言ってんだろうが!」
「おおっと、行き止まりだ」
「うおっ」
 しゃがんだ臨也につまずいて静雄は頭からコンクリ塀に突っ込んでいく。もちろんわざと誘導した臨也は塀から突き出た尻に舌を出した。
「てめぇええ」
 ブロック塀の欠片をなぎ倒し、静雄が怒りに満ちた顔で臨也に向かう。
「待ちなよ。周りをよくみてご覧」
 静雄が開けた大穴の向こうはチェーン店の飲み屋が広がっていて大通りに繋がっている。コンクリが崩れた音は酔っ払いの歓声にかき消されたらしい。
「だからっ、何だってんだよっ」
 んなこと関係ねぇ! とばかりに腕を振り上げる静雄に臨也は携帯を取り出す。
「ここで暴れてるって通報してもいいんだけど、君の本意じゃないだろ。三分程前のことを覚えていられないなんて鳥の方がよっぽど利口だよね」
「ぐだぐだうっせぇええ! 何が言いてぇんだよ」
「君が誤解だって言うなら信じようじゃないか」
「へ?」
 鬼のような形相をしていたのが一瞬の内にマヌケな顔に変わる。
「ただし、」
 臨也はそのマヌケ面の鼻先に指を突きつけた。
「ここで俺にキスしてくれたらねー!」
「どっちが女々しいんだよ!」
「さあさあ、キスしたら許すって言ってるんだ。こんなにお手軽なことないだろ」
 自分の唇を指差しながら体を左右に揺らす臨也を静雄は顔を赤くして悔しそうに睨んでいる。
 静雄が外でそういうことをしたがらないのは百も承知している。ちなみに静雄からキスをされるなんて、槍の雨というか、隕石が落ちて地球が滅びそうな現象はこれまでにない。
 言うならばこれは賭けみたいなもの。天秤に載せた静雄の羞恥心より自分は優っているのか。
 そんな下らないことを試さねばならない程、臨也はショックを受けていた。
「ぐっ」
 歯噛みをする静雄は怒りではなく別の意味で頬を染めている。
 裏路地とはいえ人通りが少なくないここではいつ誰かに見られてもおかしくない。ハイヒールの足音が遠くからすれば静雄はぎくと身じろぎした。
「やっぱ出来ないんでしょー? そうだよね、いつだって何かを差し出すのは俺ばっかだ。君は俺のことなんか全然好きじゃ」「黙れ」
 凍てついた声に前を向く。静雄は今までに見たことのない表情で怒りを露わにしている。
 そして、思わず黙り込んだ臨也を認めるとふうと小さく息をついた。
「するから。つぶれよ、目」
「え?」
「するって言ってんだよ。キス」
 肩を掴み、臨也の背丈に合わせて屈む。
 若干、寄り目になった静雄の目が臨也の唇を捉えている。真っ赤になった静雄の耳たぶ。
 臨也はそっと目を閉じる。一分か、一秒がとんでもなく長く感じた。
 熱が迫ってくる。
 その瞬間、

 鳩尾に鈍い衝撃が走った。

 □
 
「よう、起きたか」
 静雄のうちの座布団に寝かされていた臨也は最初目を見開いて天井を見ていたが、呼び掛けている静雄に気がつくとみるみる顔を青くした。
「うううう嘘だろぉお、キスするって言って腹にグーパンとかどこのDV男だよ! 信じられないもうあり得ない別れてやる出るとこ出てやるふざけんな、うあっ」
 煩く騒ぎ出した臨也の胸倉を掴んで、その唇に自分の唇を押し付ける。むー! とかむぐー! とか相手は最初言っていたがキスが深くなるにつれて大人しくなった。
 引いた糸を舌で舐めとりながら静雄は口を離す。
「はっ、満足したかよ」
 臨也は座布団の上で硬直したように静雄を見ていた。
「さ、さいてーだよっ、もう何なんだよ!」
 臨也は突然怒り出したかと思ったら「何でシズちゃんかっこ良くて可愛いんだよ! 許しちゃうでしょ! ダメなの! 俺よりかっこ良くなっちゃダメー! もう明日地球が滅びたらどうすんだよ!」訳のわからないことを言って駄々をこね始めた。
 臨也がじたばたと暴れ、涙し、ぐすぐすと鼻を啜るまでの間、静雄はタバコをふかして待った。
「落ち着いたかよ」
 ようやく静かになって座布団の上に丸まる物体に話しかける。
「……ああ、それに比べて俺はなんてかっこ悪いんだ。最悪な誕生日だ、もう死にたい」
「そうだよ。お前、誕生日だろ。だからトムさんに相談したんだよ」
 芋虫のようになっていた臨也は驚いたように顔を上げる。
「本当に、本当に足滑らせただけ?」
「本当に、本当に、ほんとぉにぃいい、足滑らせただけだってさっきから何度も言ってるだろ! しつけぇな!」
 事の顛末を話し終えたら臨也はすっかりしょげていた。
「全部、俺の勘違いだったのか……」
「お前がナイフ投げるの久しぶりに見たぜ」
「俺も。シズちゃんの切れそうな米神の血管久しぶりにみたよ」
 静雄が笑えば、臨也も笑った。
「そういえば君と口喧嘩なんかしたの始めてだ。俺たち、前の方が言いたいこと言い合ってたのかもね。これからはちゃんと話し合おう。それとも、こんな嫉妬深い男はもう嫌いかい?」
「何でわざわざ聞くんだよ」
「一応聞いておかなきゃかなって」
「しょうがねぇ野郎だ。じゃあキスしろよ。そしたら教えてやる」
「誰だよ。シズちゃんにそういう事教えたの」
 臨也の三日月みたいに笑う瞳に、座布団の上に散らばった金髪が映っている。
 二人は軽いキスをして布団も敷かずに畳に転がった。
 臨也の手が静雄のシャツから、ズボン、靴下まで丁寧にあっという間に脱がしていって縞パンのトランクスに指がかかる。
「今日はさ、てめぇの誕生日だから」
「うん、」
 臨也が聞いていないようなどこか浮かれたような顔で静雄の太腿をさする。
「お、俺のっ」
 静雄が覚悟を決めたように起き上がる。
 その時、肩にぶつかったちゃぶ台が嘘のように壊れていった。
 あのカンチョウを載せたままのちゃぶ台が。

 コロンッ、

 静雄の衝撃を無視して、そんな軽やかさで臨也の膝近くに落っこちる。
 時間が止まったようなしばらくの間。それを無言で眺める臨也に静雄は固唾を飲む。
「シズちゃん、君って奴は」
 ようやく顔を上げた臨也が悲しそうにも呆れたようにも見える顔をした。
 あ、殺さなきゃ。
 静雄の中で瞬時に答えが出た。

「ちゃんと言ってくれなきゃ。具合悪いならさ」
「え?」
 その言葉に静雄は狙いを定めていた臨也の左胸から目線を上げた。
「お腹、具合悪かったんだろ? だからあんなに焦ってトイレ借りたんだね」
「う、お、おう。まあ」
 心配そうにこちらを伺う臨也に思わず返答してしまう。
「もうダメだよ。俺の誕生日だからってそんな気を遣わなくてもいいのに。今日は無理しちゃダメ」
「いや、そ、そうだけど、そうじゃ、なくて」
「え? そうじゃないの?」
「いやっ、そうだけど!」
 そうじゃねぇええ!
 言いたくても言えない。真実など言えるわけがない。
 せっかく臨也の為に頑張ったのに、せっかくの誕生日なのに、それにさっき言いたい事は言い合おうって約束したのに、臨也はかっこ悪いとこも平気で見せてくれるのにそれなのに俺はっ
 静雄は葛藤する。自分の自尊心と臨也への想いに。パンツ一丁で正座をしたままぶるぶる震えた。
「ねえ、ちょっとシズちゃん、だ、大丈夫? 泣くほど痛いの?」
「うっ、痛くな、い! こ、これはちがくて!」
 涙を引っ込めようとすればする程に鼻を啜る音が大きくなる。
「大丈夫だって、こういう事が出来ないからって俺は残念だなんて思わないよ」

 ■
 
 そう言って抱きしめて頭をよしよしと撫でれば静雄は子供のように聞いてきた。
「ほ、本当にか?」
「本当、本当。俺の誕生日を覚えてくれてるだけで十分プレゼントだよ。それより無茶をする君を見ている方が辛いよ」
「そ、そうか」
 静雄は少し安心したような表情をする。
「それとも何かプレゼントをくれる気だったのかな? さっき何か言いかけてたけど」
「そ、それはっ!」
 涙でぐしゅぐしゅとしていた静雄だったが瞬間湯沸かし器のように顔を赤くすると辺りをキョロキョロ見回して崩れたちゃぶ台を指差す。その下にある傾いだ容器。
「お、俺の、食べかけのプリンでも食ってろ!」
「さ、最高のプレゼントじゃないか!」
 臨也は茹でタコみたいになった静雄の横顔を見ながら喜色の表情を浮かべる。
 ――後悔しているような。安堵しているような、そんな静雄の顔を。
 ドレッドのうちにトイレを借りたと聞いた時からもしやと思っていた。決定打のこれを目にして臨也の想像というピースは現実というパズルを完成させた。それにあんなに動揺する静雄に気がつかないわけがない。
 意外だったが許容範囲だ。いや寧ろ――予想以上の成果。
 臨也は静雄の見ていないところで黒い微笑をする。
 自分のせいで静雄が変わりつつあるという事実は背筋をゾクゾクとさせた。
 臨也はうっとりと囁く。
「シズちゃん、こういう事は万全にして挑みたいんだ、俺は。前から言ってるだろ」
 臨也は嫉妬深い男で、自分の知らない静雄がいるのは許せないと常日頃思っている。今日は実によくそれを実感できた素晴らしい日だった。
 水臭いなあ。シズちゃん。心配しなくても

 下準備までしっかり俺がしてあげるのにね。

「お腹痛いなら撫でてあげようか?」
「いらねぇよ、ぜってぇ他のところ触るだろ」
「うん、そうだけど」
「じゃ、無し」
「えー」
 へらへらと笑う臨也の腹の下にいつもの調子に戻った静雄が気がつく筈もなかった。危機がすぐそばで微笑んでいることなど。
 
 *

 そして、ここにもう一人気づけない男が、

「ク○シアンおせぇな」
 トムは自分で出来る最大限の対策をした上で未だ衰えることのない水勢にぼやいた。
 静雄は無事に彼女のお祝いに間に合ったんだろうか? まさか、あのまんま折原臨也とやり合ってたりしねぇよな。
 意味合いは違うがヤり合っていた二人を責めるよりも心配する。よくも悪くも人の良いトムが臨也に羨望と嫉妬と殺意を抱かれてるなんて気がつく筈もない。
「あ、そーだ。次は自分で直せるように給水工事装置主任技術者の資格取るべ!」
 またひとつ静雄を魅了しそうな資格取得を決意して、その静雄に壊されたトイレをため息をついて眺めた。





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