「勘定、お願いね」
「階段、踏みはずさねぇで下さいよ」
 最後の客が立ち上がってふらふらと歩き出すのを見送る。最近、結婚したマスターに先に帰るように促し片付けを引き受ける。
 バーテンなんて職業に就いてかれこれ五年は経つ。さほど酒が得意でもないのに、これだけ続いたのはひとえに周りの人間が良かったのだろうと毎日感謝を忘れない。
 カウンターに山盛りとなった灰皿を掴み裏のゴミ箱に捨てる。最後に店先に出ているネオン看板をしまい掃き掃除をしたら終了だ。そう思って看板を抱えたら視界の隅で何かが動いた。
「来ちゃった、シズちゃん」
 その何かは学ランを着て、青あざをつけた顔を綻ばせた。
「また、喧嘩か。毎度毎度凝りねぇ奴だな」
 言いながら氷をサランラップで包んでカウンターに放り投げる。つめてっ、と悲鳴が上がったが静雄は無視してタバコに火をつけた。
「いーじゃん、別に喧嘩くらい。シズちゃんなんかしょっちゅうだったじゃん」
 氷で目のあたりを抑えながら臨也は悪戯小僧のように笑う。静雄は綺麗にしたばかりの灰皿に灰を落としながら眉間に皺を寄せた。
「そりゃ昔の話だろ、そんなの真似してどうすんだよ」
「標識振り回すシズちゃんかっこよかったなあ」
 うっとりと、やや演技がかった声でしゃべる臨也に静雄は舌打ちをした。
「冷やしたらとっとと帰れよ」
「ねえ、カクテル作ってよー」
「お前なんかオレンジジュースで十分なんだよ、それにもう店じまいだ」
「ええー」
 拗ねたように頬を膨らます。それが似合うのだから驚きだ。静雄はめんどくさそうに頭を掻いて再び舌打ちをする。
「飯食わせてやっから、食ったら帰れよな」
 わぁい、やった! 高校に上がったばかりだという臨也はやや幼く見える動作で両手を上げた。
 臨也とは幼少の頃からの知り合いだ。静雄がまだ中学三年生で臨也は幼稚園だったはずだ。近所のゴールデンレトリバーに爆竹を巻いているお坊ちゃん幼稚園の制服を静雄はよく覚えている。鉄拳をくれたはずが、どうしてこうなったか懐かれてしまい、今に至る。
 裏口の鍵を閉めて、静雄は上着を脇に抱えた。さあ帰ろう、と足を進めたのに付いてくる影に歩みを止める。
「氷もやった、飯もやった、あと他に何が必要なんだよ」
「シズちゃんち、泊めてよお」
「お前一人暮らしだろ、帰れよ」
 吐き捨てるように言っても臨也は胸の前で手を合わせて上目遣いでこちらを見つめてくる。
「ひとりでいるの、さみしいよぉ」
「お前、まさか」家知られたくねぇのか。
 小声で呟くと臨也は真顔で首肯した。

「喧嘩する相手は選べよ。ヤクザとでもやり合ってんのか」
「そんな、大袈裟なもんじゃないけど」
 臨也は静雄から部屋着を借りて体に合わないスウェットの袖を捲る。
「俺だって毎日お前のこと構えねぇぞ」
「そんなこと言っても、結局泊めてくれるし」シズちゃん、だいすきー! 絡めてくる腕を振りほどく。
「甘えんなよ、高校生だろ」
「俺まだ十五歳児だからさあ」
「風呂入ってくる」
「なら一緒に入ろうよ、背中流すよ」
「バーカ」
 肩を小突いても臨也は平気な顔をして歯を見せて笑う。こういう兄弟のようなやり取りを喜んでいる自分を知っている、だから甘いのは本当は静雄自身なんだとわかっている。
「臨也ー、でたぞー?」
 風呂からでて待ちぼうけしているだろう臨也に呼びかける。なかなか反応がないので見にいったらやっぱり、
「寝てる」
 ソファの上で丸まっている寝姿に猫のようだと呆れながら、足元に落ちているくしゃくしゃの毛布をかける。
「ん、シズちゃん」
 気がついたのかと見やれば後に健やかな寝息が聞こえる。青あざが臨也の端正な顔を台無しにしているのが少し気掛かりではあるが、そこまで干渉する気は今のところはない。大人がすることは遠くから見守って、助けを求めてきたら差し出すくらいでちょうどいい。まるで親のような気持ちになりながやひとしきり臨也の寝顔を見てから、静雄もやがて布団に入った。

 月曜の夜は客足が早い。ネオン看板のコンセントを引き抜くのもいつもより一時間は余裕がある。早く帰るのも考えものだ、独り身はやることがないっす。とマスターにからかいも込めて言ったつもりが「あっ!」と大声が跳ね返る。
「やられた」
 裏に行ったマスターは小さな倉庫の鍵を開けたままにしていたらしい。不注意と言えば、そうなのだが、中に置いてあった酒瓶はその場に割捨てられていた。
「普通、持って帰ったりするんじゃないですかね」
 ガラスの破片を指でつまむ。不幸中の幸いか、高級酒のたぐいは店中にしまってあるので難は逃れた。
「知らん。酔っぱらいの考えることなんてわかんねーよ」
 酔っぱらいのせいと決めつけたマスターは厳しい顔をして箒を持っている。静雄はそれを珍しいな、と思いながら倉庫に散ったガラス片を同じく箒で履く。裸電球に照らされたガラスの欠片は誰かの悪意のようにぎらぎらと輝いて見えた。

 それから、だ。月曜以外も客が遠のいたと感じるようになったのは。静雄はよくよくネットには疎いのだが、常連が見つけてきたサイトでは聞いたこともないこの店に関する噂が真実として横行していた。
「粟楠会に一部献金してるなんて、俺知りませんでした」
 ビールサーバに繋ぐ樽を肩に担ぎながら聞く静雄に「俺も」とマスターが返す。誰もいなくなったフロアで二人はため息をつく。
「なあ、このサイトの運営者なんかうちに恨みでもあるんかね」
 マスターは携帯をスクロールしながら独り言のように呟く。携帯の小さな画面に並ぶ文字が苦手な静雄も自分が働く場所を誹謗中傷しているサイトには目を通した。
「さあ、」わっかんねぇす。と首を傾げようとする。
「平和島静雄は怪力を持つ化け物」
 突然マスターの口から出た言葉に静雄は硬直する。
「だってよ、アメコミでも好きなんかな」
 吹き出した相手がサイトの噂を読み上げているだけだと気がつく。
「そうかもしれませんね」
 無難な返事をしながらも静雄の手元で磨き上げたばかりのグラスがみしり、と嫌な音をたてた。

 静雄があり得ない力を持つことは今いる周りの人間には気がつかれないでいる。それは静雄が年齢を重ねて丸くなったのと、息を潜めるように静かに過ごしているせいかもしれなかった。人とは違うといつも違和感を感じながら、それでも人との交わりを手放せない。現状を壊そうとしてくる外敵に睨みを効かせるようにボロアパートの錆びた階段を見上げると、自分ちの扉の前で闇が蠢いた。
「来ちゃった」
 臨也はこのくそ寒い中、学ランに赤シャツという出で立ちで静雄を待ち受けていたらしい。
「シズちゃん、遅いよ」
 氷のような手が静雄の手を引っ張る。真実を知っても平気でいる人間は今のところ、家族と、片手で数えられるかくらいの数人くらいだ。もちろん、そこに臨也も含まれる。本当なら何故ここにいるのか言及した上で、終電がまだ間に合うのだから帰らせたはずだ。
「まあ、入れよ」
 それなのに自ら臨也を引き入れたのは、きっと自分の弱さなのだろう。臨也は嬉しそうに笑った。
「へえ、シズちゃんとこのバーを陥れようとする奴がいるんだ」
 臨也はさほど興味がなさそうに夕飯代わりにポテトチップスをはんでいる。
「俺が昔やり合った奴かもしれねぇ」
「シズちゃん、高校卒業以来暴れてないもんね。最近見てないから、なんかあれは夢だったみたいに遠い記憶」
「あれは悪夢だ。もう力は使いたくない」
 そう言って折りたたみの携帯を仕舞うと立ち上がった静雄の後を臨也がついてくる。
「お茶飲むだろ、うちコーヒーねぇけどココアで」「シズちゃん」
 静雄の問いかけを遮るように言って臨也は静雄の真後ろで真剣な顔をしていた。
「俺、別にシズちゃんのこと恐くないから」
「何、急にそんなこと、」
 熱っぽい視線で見上げてくる臨也にたじろぎながらガスコンロのスイッチを回す。
「知ってるよ、お前が俺をバカにしてるのくらい」
 雰囲気を変えたくてわざとらしく笑い声を上げる静雄に、臨也の手が絡みつく。スイッチを回しきれなかった手がヤカンの注ぎ口に当たって、中の水が零れる。
「臨也、ヤカンが」
「ちゃんと、聞いてよっ」
 焦れたような声が耳のすぐそばで聞こえる。背後から抱きすくめられていると気がついて頬が熱くなった。
「お湯、わかせねぇだろ」
「シズちゃん」
 聞いてよ、泣きそうな声で頭を背中に押しつけられる。
「俺はシズちゃんが怪力を持ってても、他人に嫌われてても、俺は平気だよ。俺、シズちゃんのこと好きだから」
 好きだよ、繰り返す告白にひどく歓喜している自分の他にとうとうやってきてしまった、と落胆している自分がいる。静雄はそんな風に大人になってしまった自分に苦笑した。
「何で、笑うの?」
 恐る恐る聞いてくる臨也はよく見ると必死に握ってくる手まで震えていて、静雄は申し訳なく思う。
「ごめんな」
 背後の気配が息を飲むのが伝わってくる。あの綺麗な目を見開いているのかと思うと罪悪感がじわりと胸に滲んだ。
「でも、それ臨也の勘違いだからさ。好きだとか男の俺に思うのはきっと、何か別の感情と取り違えてる」
「違わないよ! 俺はっ」
「それに俺、お前のこと弟としか思ってない」
 わざとぴしゃりと言い切る。空気を切るような息が相手の気持ちをひどく傷つけたと告げてくる。しかし、それでいい。
「俺だけだったんだ。なんだ、俺、バカみたいじゃん」
 いつも自信たっぷりにしている臨也が泣きそうな声でぽつりと漏らす。すぐに玄関を開け放つ音が聞こえたが、静雄は追いかけない。ヤカンから零れる水が靴下を濡らしたが、しばらく動けずにシンクを見つめていた。

 臨也が何となくそんな目で静雄を見ていると気がついたのはいつだったか。夏の暑い日に一緒にアイスを食べていた時とか、クリスマスに誰か過ごす奴はいないのかと尋ねられた時とか、そういう些細なことの積み重ねで鈍い静雄にも察しがついていた。しかし、それにはあえて蓋をして全く気がつかないフリを貫き通していた。最近、臨也が家に来る頻度が高くなっているのも不味いなと思いつつ、招き入れていたのは自分だ。加えて弱っていた自分を見せつけたのも、自身が呼んだ失態には違いない。もっと早く突き放すことが出来たら、いや傷つけないで上手く立ち回ることが出来たら良かったのに。後悔の念に苛まれつつも臨也に告白なんかさせてしまったのはわかっていて切り離さなかった自分の驕りのような気がして反吐が出そうだった。
「何、開店早々ため息ついてんだよぉ」
 沼に沈んだような静雄の意識を呼び覚ましたのはカウンターに座った見知った顔で、瞬時に背筋がぴんっと立った。
「トムさん、来てくれたんですね。何しますか? 辛口のジンジャーエールがあるからモスコミュールとかどうすか」
「すっかりバーテンらしくなったなあ」
 しみじみとしかし口元に笑みを携えて昔なじみの先輩はにやにやと笑った。
「最近、客が入ってねえって聞いてな」
 一体どうやってそんな情報を仕入れてくるのか、トムの仕事柄そんなことも不便ではないのかもしれないが。静雄は一応誰にも聞かれないように声を潜めてお通しを差し出す。
「俺が以前にぶん殴った奴かもしれません」
「ほぉん、いすぎてわかんねぇな」
 中学からの付き合いで静雄の前でもそんなことが言えるトムは貴重な存在だ。ふと臨也のことをまた思い出し、鉛を背負ったような気持ちになる。
「俺、どこにいても誰か傷つけちまうからな」
「でもよ、昔の因縁にしちゃあ、ちと遅すぎはしないか?」
「でもまあ、相手にしたら安定してる今のがやりやすいんじゃないですか」
「そうか? 俺だったら、お前が周りに信頼される前にやるけどな。その方がてっとり早いべ」
「そう言われたらそんな気がしてきましたね」
「だべ? お前のことだからデカイ図体の割りにくよくよしてんのわかるけど、それこそ相手の思うツボだと思うぜ。今だってどっかでお前のこと見てるかもよ?」
「えっ?」
 耳打ちをしてくるトムに驚きながらも店内を見回す。
「スマーイル、笑ってないともっとつけ込まれるぞ。ほら、笑顔」
 この中に犯人がいるかもしれないという疑惑を持ちながら、静雄はぎこちない笑みを無理やりに作った。

 客を疑うなんて思ってもみなかった。しかし、トムに言われた相手が近くにいるということはもっともであるような気がして静雄はいつもより早く家を出てこうして店先が見える路地に張っている。何日か前に扉に貼られていた紙片には『ネズミ入りのカクテルがお勧め』と書いてあり、マスターが苦虫を噛み潰したような顔で紙を丸めていた。 嫌がらせが自分ではなく他にいくことは許せない。ひっ捕まえてぶん殴ってやろうと静雄は意を決した。
 待つこと数時間、寒い中煙草の残骸が足元に転がる。今日はハズレだったのかと、これを最後に立ち上がろうと煙草に火をつけたところだった。
「こらぁ、てめぇ、何してやがる!」
「ひぃえ」
 茶髪の男がゴミ袋のような物を片手に顔を隠す。どうやら生ゴミが入っているだろうそれを店先にばらまくつもりだったらしい。
「今までのことは全部てめぇか!」
 拳を振り上げる静雄にカーキ色のコートを着た男はぶるぶると震えた。若い、まだ学生じゃないのか? そんな幼さを残す顔で問い詰める静雄に何度も小さな声で謝る。
「お前がやったって正直に言えば、一発殴るくれぇで勘弁してやる」
 腕まくりをする静雄に少年の歯ががちがちと鳴る。
「優しくなっちゃったねぇ」
 ふいに後ろから聞こえた声に振り返る。
「昔なら気絶しても構わずぶん殴っていただろうに」
 臨也がガードレールに凭れて無表情でこちらを見ていた。
 
「今までのこと全部俺が仕組んだんだ、実行犯は別だけどね」
 そう告げる臨也がずいぶんあっさりとしていたので実は誰かに脅されてそんなことを言っているのではないかとすら思えた。
「最初は、そう、不用意に開けられてた貯蔵庫の酒瓶を全部ひっくり返した」
 しかし、余りにも楽しそうに笑う臨也が嘘を言ってはいない。
「なんで、そんなことを」
 粘膜が張り付いたような喉から掠れた声が出た。
「なんで?」
 臨也は開店前のカウンターに腰掛けてバカにしたように静雄を見遣った。
「シズちゃんが、なかなか俺のものにならないからさ」
 飴玉でも舐めるくらいな気安さで臨也は告げる。
「どうしたら、振り向いてくれるかなって一生懸命考えて、どうしたら俺だけがシズちゃんを受け入れてるってわかってくれるかなぁって考えて。そしたら、こうするのが一番いいかな、って思ってさ」
 むくれたようにしゃべる臨也は全くの普段通りで、それが余計に恐ろしい。
「お前、自分のしたことわかってんのか?」
 もしかしたら店が潰れて結婚したばかりであるマスターを無職にしてしまう可能性もある。そんなこと頭の良い臨也ならすぐにわかりそうなものなのに。
「俺ね。ここの店長さん、嫌い。だってぇ、俺のシズちゃんと半日以上一緒に過ごせるなんて罪深いでしょ。あと、あのドレッドもシズちゃんと距離近過ぎなんだよねぇ。いい加減にしろっての」
「見てたのか……」
 子供がだだをこねているように体を揺さぶる臨也に米神から汗が垂れた。
「お前の為なら、他人が犠牲になっても構わないっていうのか?」
「えー、違うよう」
 無邪気に顔を近づけてくる臨也から遠ざかるように後ずさりする。臨也は一瞬きょとんとしたが、次ににぃいと嫌な笑顔をした。
「俺と、シズちゃんの為なら仕方ないじゃない。ね?」
 伸ばしてきた手から逃れようにカウンターから離れる。客席のソファに座り、落ち着けと自分に言い聞かせる。目の前のグラスに入った水を飲み干してから臨也に向き直る。
「お前は間違ってる」
 静雄の言葉に臨也はせせら笑いを返す。
「へえ、なら殴ってみなよ。俺のこと」
 冷たい眼差しで見下ろす臨也に、説教をしているのは自分なのに追い込まれたような気持ちになる。
「殴れないんでしょ? 生温いんだよ、シズちゃんのヤサシサってやつはさあ。中途半端にわかり切ったような口聞くの、やめなよ。ちゃんと知ってんだよ、今までだって自分の庇護のために俺を構ってたことくらい」
「違うっ」
 声を張り上げる静雄に対して臨也の態度はますます冷たく強張っていくように見えた。
「違うの? 俺のこと弟みたいだって言ってた癖に」
「それは、」
 傷ついたような顔をする臨也に歩み寄ろうとする。俯き加減だった臨也が顔を上げると、憎悪を孕んだ目が静雄を射抜いた。
「意味ないんだよ! 俺と同じように思ってくれないなら。こんな苦しいの、もう嫌なんだよ……」
 語尾は泣き声になっていた。はっとして臨也を見る。五歳の臨也がそこで泣いているような気がしたから。
 ――でも、そこにいたのは見たこともない悪魔だった。
「動けないんでしょ? 不用意に水なんて飲むから」
 膝をついた静雄に悪魔は笑いかける。
「俺のこと、弟みたいなんて言ったこと後悔させてあげる」
 霞む視界に笑い声だけが鮮明に聞こえる。臨也の歪んだ口角を最後に静雄の意識はぶつりと途絶えた。
 
 







おけましておめでとうございます!今年も良いイザシズ年にしましょう!張り切って年の差パロを書いたのですが、雰囲気をどうにか感じてくださいませ。


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