「ノミ蟲、おはよう」
 同じ布団で寝ていた俺に彼は微笑みかける。そして、目をこすりながら起き上がろうとしたのでその腕を掴んだ。
「駄目だって、俺仕事行かなきゃならねぇの」
 優しい声で囁かれ、頭をひと撫でされる。立ち上がった彼はタンクトップにトランクスという姿で洗面所の方に歩き出す。その後についていき歯磨きをする彼を眺めた。それから、大して生えてもいないのに剃刀を顎に当て「伸ばした方が似合うか」と話しかけてきたので首を横に振る。
「あ〜クリーニング出し忘れたな」
 黒いスラックスを履き上半身は裸のまま部屋の隅にある衣装ケースを漁る彼、いつものベスト、ワイシャツそれからリボンタイを取り出す。
「後で出しといてくれ」
 靴下を履きながら笑いかけてくる彼に欠伸をひとつ。
「冗談だ、冗談」
 玄関で靴べらを持った彼は俺にウインクをする。
「じゃあな、いい子で留守番してろよ。ノミ蟲」
 ノブを掴んだ彼は「あ、そうだ」と呟いてから振り返った。
「今日はキャットフードの特売日だから、楽しみに待ってろよ!」
 俺はにゃあと大きく鳴いてみせた。 
 
 吾輩は〜、なんてことは言わなくても俺は猫だ。黒猫。飼い主は平和島静雄という。俺は彼が好きだ、大好きだ。シズちゃんラブ! 恩返しがしたいと常日頃から思っている。でも猫の俺に出来ることなんて、このボロアパートに住むネズミを捕ってくることくらいなのだけど……この前それをしたところ「可哀相だろ」と動物好きの彼を落ち込ませてしまった。
 ふう、鼻で息をついて窓枠から外を見下ろす。人間の男女が手をつなぎ歩いている。ふいに女が転びそうになったところを隣の男が支えた。声は聞こえないが、女が嬉しそうに笑い口を開くのが見える。
 ありがとう、俺も彼にあんな風に言わせることが出来たら、きっと幸せな気持ちになるだろうな。俺がもし、人間だったら彼をあんな風に支えることが出来るのかもしれない。俺が人間だったら――
 とりとめのない事を考えていたら一日があっという間に終わってしまった。窓の外には大きな月が浮かんでいる。もうそろそろ彼が帰ってくる時間だと思い、窓枠に肉球をかける。いつでも俺が出られるようにここには鍵がかかっていない。
 彼を迎えに行こう、俺の為にビニール袋をたくさん抱えた彼を。出来ればその荷物を持ってあげたいのだけれども。俺が人間だったらなあ。何度か引っ掻いてやっと開いた窓の隙間から飛び出す。お月さまに照らされた道を走り出した。

「おかえり、シズちゃん」
 帰り道に突然知らない男に話しかけられ俺はとまどっていた。確かに俺は静雄だから、そう呼ばれる可能性もないとは言いきれないが今までそのように親しげに話しかけてきた相手はいない。
「あの……誰かと間違っちゃいませんか?」
「どうしたの? 君はシズちゃんでしょ! 平和島静雄って名前」
 目の前の男は、フォー付きの黒コートに黒いズボンと全身まっ黒けだ。白い顔に笑顔をのせて俺に話しかけてくる。
「失礼ですけど、どこかで会いましたっけ俺ら?」
 そう言えば男は赤い目を大きく見開き、それから頬を膨らませた。
「どうしてそんなこと言うんだよ! その袋だって俺の為に買ってきてくれたんじゃないの?」
 俺が両手に持っている缶のぎっしり詰まったそれを指さし男は睨んでくる。
「いや、これはうちの猫にだな……」
 言いながら、この男は頭がかわいそうなんだと気がついた。じーっと袋の中身を見つめてくる相手を撒くために振り返って走り出した。
「あ、待ってよシズちゃん!」
 少し遠回りになるがこれ以上厄介事は御免だ、今日だって何回か自動販売機やら、標識を壊したんだ。俺だって逃げることはある。トムさんには劣るかもしれねぇが足だってそこらの奴より早い筈だ。あんなほそっちい、いかにもひ弱な相手なんざついてこれねぇだろ。そう考えながら角を曲がって路地裏に入る、ここまで来れば大丈夫だろ。息をついて走りを弱めた時だった。
「やっと追いついた」
 聞こえた声にぎょっとして上を見れば、ビルの上から男が笑っていた。
「もお、ひどいよ〜急に走り出すんだもの」
 結構な高さから臆さずに男はすたっという小気味いい音をさせ、俺の後ろに着地した。
「ななななんだっ、てめぇは! ノミみてぇに跳ねやがって!」
「いや、だからノミ蟲なんだけど。シズちゃん本当にどうしちゃったの?」
 首を傾げながら近付いてくる男に俺は後ずさりをする。背中に何かが当り金属音が破裂した。どうやらゴミ箱を倒したらしい。
「ああっ! この場所! 俺とシズちゃんが初めて会った場所じゃないか。懐かしいな〜。ねえ、覚えてるでしょ?」
 顔を覗き込んでくる男にぶるぶると首を振ると残念そうな顔をして肩を落とした。
「そっか、俺は忘れてないよ。君が俺を助けてくれたこと。ゴミ箱の中にいた半死半生の俺をみてシズちゃんは助けてくれたじゃないか。子猫だった俺は親とはぐれて病気にかかってた。それを病院に連れて行ってくれたのが君じゃないか。その後何度もお見舞いにきてくれたよね? 飼い主を探してるって毎日言いにきてくれた。そうしたら退院の日に君が、飼い主が見つかったけどがっかりしないでくれって俺を抱きかかえた。すっごく嬉しかったの覚えてる。でも、その後に君がつけてくれた名前には少しがっかりしたけど……」
「お前、まさかノミ蟲?」
「さっきからそう言ってるじゃないか! ていうかさ、なんか俺たちさっきからすごい話が通じてる? 会話してるみたいで不思議なんだけど?」
「会話してる……だってお前は人間……」
「え! 人間!?」
 自分のことをノミ蟲だという男は自分の体を見回した。すごおい、とか本当だ! とかはしゃぎながらくるくると回る相手に俺は頭を捻っていた。
「……今日俺が履いていた下着は?」
「水玉、下地は白の模様はピンク」
「今朝お前に何かしてくれって頼んだよな?」
「クリーニング! 今度から手伝えるよ」
「本当にノミ蟲なのか!?」
「だからさっきから言ってるでしょ、もお! あ、その袋片方持ってあげるね」
 男は俺の脇からビニール袋をさっと奪うと片手で俺の手を握った。
「早く帰ろう、シズちゃんの好きな格闘技特集始まっちゃうよ」
「あ……そうだな。ありがとな」
 なんだか、まだ少し腑に落ちないけど。自称ノミ蟲があんまり嬉しそうに笑ったのでその手を繋いだまま家路についた。
 



君のため







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