くぐもった声が聞こえる。学校の引き扉についた覗きガラス。気づかれないようにそっと息を殺す。最初は何をしているのかよくわからなかった。男の下敷きになっていた細い足、白い靴下に上履きを履いた足裏が頼りなげに揺れる。
 ――ああ気持ちが悪い。
 吐き気を催して口元を抑える。でも目が離せない。痩せた太股が乱暴に押さえつけられる。男が動いたその時に、相手の顔がちらりと見えた。

 規則的に鳴る電子音に手を伸ばす。
 それから下半身に感じた湿り気に慌てて布団を捲り上げた。春には小学六年になる。おねしょは不味い。
 シーツは無事だった。パジャマのズボンを下ろして中をみる。
「あ……」
 知らずに声が漏れる。母さんが起きるには少し時間があると確認し、汚れた下着を片手に階段を下りた。
「臨也、あなた随分早起きなのね」
「今日は小テストがあるから」
 寝ぼけ眼の母さんは流石は我が息子っ、と抑揚をつけながら上機嫌でフライパンを動かす。皿に盛られた双子の目玉焼きは少し味付けが濃かった。

「折原おっす」
「おはよう」
 通学路で寒さに鼻を赤くしたクラスメイトが振り向く。
「休み明けテストとかありえなくね」
「ありえないよ、頭がおかしいとしか思えない」
「またまた、折原よゆうでしょ、よゆー」
 ランドセルを小突かれたので仕返しに肩をぶつける。
「まね、君とは出来が違うから」
「うわウゼー」
「なあに、今日のテストの話」
 横から顔を出すピンク色のマフラーに男友達は赤い頬をさらに赤らめた。
「女子はひっこんでろよお、女子は」
 突然腰を落として威嚇するようなポーズを取る相手に女の子は首を傾げる。
「なにあれ?」
「昨日はほらお笑い番組があったからね」
「ああ、あのコンビつまらなかった」
 その言葉に気を悪くしたのかクラスメイトが唇を尖らせ何か言おうとした時だった。
「やばいって……こいつ!」
 角を曲がったところで学ランを着た男が二人騒いでいる。
 ――正確にはもうひとりいた。右腕にギブスをつけて、片手に標識を持ち年上であろう二人組を睨みつけている少年。
「平和島だ……」
「やだ、こわい」
 女の子が俺の腕を掴む。隣にいるクラスメイトがちらとそれを見た。
「誰か大人を呼んだ方がよくない?」
「折原まじめ! 厄介なことになる前に遠回りしようぜ」
「テストはじまっちゃうし、学校ついてから先生に報告しようよ」
 周りに背中を押されるようにしてその場を離れる。去り際に一度振り返ったら彼と目があった気がした。

 平和島静雄、彼が不良に絡まれても誰も助けない。いや、助けはいらない。だって彼は
「化物!」
 遠ざかっても聞こえる悲鳴。彼がいる方向からガードレールが打ち上がる。
「すごいね」
「前向いて歩けよ」
 引き摺られながら彼のあの細い足を思い出す、女の子に腕を掴まれるよりずっと胸が疼いた。

 俺と平和島静雄は全く話をしたことがない。小学1年からずっと別の組だったし、何しろ彼はある意味有名人で気安く話しかけることは出来なかった。昼休みにぼんやりと外を眺めていたら、教室の後ろで揉めている声が聞こえる。
「ちょっと! ゴミ箱いっぱいじゃない、先週の当番アンタでしょ」
「へ? そうだっけ」
「今週から俺だから行ってくるよ、じきに掃除の時間だし」
「折原君悪いわ」
「折原君悪いわ、素敵! 私を抱いて!」
「ふざけないでよ」
 言い合いを続ける二人を後目にゴミ袋をしばって後ろ出口から飛び出す。
 校庭を横切った人物は学校の裏手にあるダストシュートに向かったようだ。普段は用務員がそこを管理しているが、今は昼休みだ。生徒が勝手にゴミを捨てていいことになっている。
「片手じゃ難しくない?」
 扉の前で半透明の袋を持っている人影、赤いトレーナーの上に包帯を吊り下げている。
「お前今朝の……」
「あの後大丈夫だった平和島君?一応先生には伝えておいたのだけど」
「やっぱお前らか、余計なことしやがって」
 迷惑そうに顔をしかめる彼は片手じゃ重たい筈の扉を難なく開けた。
「余計って?」
「親に電話するってよ」
 変な心配かけたくねぇんだよ、ぶつぶつ呟く彼はこちらを見もしない。
「それは……あの、ごめん」
「いや、まあ普通はそれでいいんだけどよ。なんつうか……俺だから?」
 目線を下に向けて頭を掻く彼は噂で聞くような化物には到底見えない。ぶっきらぼうな口調を除けばすごく大人しそうな男の子、教室の隅っこで読書をしていそうな雰囲気すら漂う。
「お前もゴミ捨てんじゃねぇの」
 横顔をじっと見つめていたらふいに目があった。
「あ、うん」
「何お前、いじめられっ子? 昼休みにゴミ捨てとか」
「誤解だよ、ちょっとゴミが溜まってたから」
 ふぅ〜ん、興味なさげに聞いていた彼は俺が袋を投げ入れると扉から手を離しさっさっと立ち去ろうとする。
「君は何で昼休みに?」
「他に人がいると邪魔くせぇからな、それに並ぶの面倒だしよ」
 後ろ姿を引き留めたい、そう思った。
「それで掃除の時間は保健室に行くの」
 振り向いた彼の顔が忘れられない。目を見開いてひどく狼狽えた表情、先程とは別人みたいな顔。
「見ちゃったんだ、俺」
 笑いかけたつもりだったのに、相手は青い顔でゆるく首を振った。

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