『灰かぶり』
硝子の靴さえ残さず、あなたは帰って行くのですね。
私ではないほかのひとを選んだあなた。
それでもいい。それでも構わない。だから明日もまた来てほしい。
そう願う私はなんて浅ましい。
灰にまみれたように醜い心の私は、一体どうしたらいいのだろう?
「そろそろ行く」
そう言われて時計を見やる。もうすぐ短針と長針が重なる時間。あなたが帰る時間。そう考えると切なくて、いつからか彼といるときは視界に時計を入れないようにしていた。
「――…お気をつけて」
「んな顔するんじゃねえよ」
私の頬をそっと撫でる優しい手。その指に光る銀色の環を見たくなくて目を逸らした。
「また来る」
「……はい」
"いつですか?"という言葉を呑み込んで無理矢理口角を上げた。
いけないってことくらい分かってる。だけど離れたら私は叩きつけられた硝子のように粉々に砕けてしまう。
私は結局夜の部屋で独り、涙を流すしかなかった。
「……あ」
いつものように彼の去った部屋でぼんやりとしていると、ナイトテーブルの上に銀色の環を見つけた。おそるおそる手に取ると思っていた通りのものだった。
「大きい…」
自分の薬指にそっと嵌めるとゆるゆるで少し手を動かしただけですぐに落ちてしまった。だけど拾うこともせず、床に転がるそれをじっと見詰める。
彼の忘れ物。いつも決まって十二時に帰って行く彼の、落とし物。そこでふと昔聞いた御伽噺を思い出した。
嗚呼、これが硝子の靴だったら今すぐにでも迎えに行くのに。
そういえばこのお話にはいろいろな説がある。
意地悪な姉たちは鳥に目を抉られたとか。舞踏会は一夜だけじゃなかったとか。硝子の靴は落としたんじゃなくて、王子様が階段にニスを塗ってわざと残させたんだとか。
だったら、私もニスを塗ってしまえればいいのに。
だけどそんなことが出来るなら疾うにやっている。
結局は私は灰かぶり。ううん、灰の下に綺麗な女の子なんていない。もしかしたら灰そのものなのかもしれない。
貴方はシンデレラ。十二時の金が鳴るまで私という灰を被る。灰の私に魔法をかけて、そして束の間の夢を見る。灰はそのうち灰であることを忘れて、夢を現だと思ってしまう。
だけど、夢は覚めるものだから。私はいつもそれを恐れている。
携帯の着信音に、嬉しくなって手を伸ばす。別に音を指定しているわけじゃない。だけど貴方からの電話はすぐに分かる。
「はい、土方さん?」
解けかけた魔法は上書きされて、また私を夢へと誘う。
「……指輪…ですか?いえ…じゃあ、探しておきますね」
私は床に落ちたままの指環を引き出しにしまった。たぶんこれがあればまた彼はここへ来てくれるだろう。
それだけのことが嬉しくて、私は頬を緩める。
やっぱり灰は灰だ。白紙のようにまっさらな心など燃え尽きてしまった。
私はずっと灰でいよう。灰かぶりの傍で、ずっと。