冷たい。
頬を伝う雫。これはこの雨なのか。それとも自身の涙なのか。そんなことはどうでもよかった。
ただ、私の心を、思考を、すべてを洗い流してほしい。
ざあぁぁ。
だんだんと雨足が強くなる。
でも、屋内に入ろうとは思わない。
痛いほどに打ち付ける雨でさえ今の私には心地よくて、ずっと身を委ねていたくなる。
「千鶴」
咎めるような、それでいて優しい声。それを耳にした途端に私の心はひどくざわついて、胸が早鐘を打った。
嗚呼、貴方はいつだって私を惑わせて、そして逃さない。
だけど、駄目なんです。
私は貴方の傍にはいられない。いてはいけない。
「……千鶴」
もう一度声が聞こえたけれど、私は彼に背を向けたまま俯いた。
その刹那、雲間から月が顔を覗かせた。
雨が降っているせいで気が付かなかったが、そういえば今日は満月だった。
私はそっと顔を上げ、空を仰ぐ。それと同時に雲が月を隠した。まるで私には見せたくないと言わんばかりに。
偶然だったのだと思う。
俺は夜の巡察を終え、いつものように自室へと戻るところだった。
そのとき、ふと中庭に目が留まったのだ。俺は夜目が利く。容易にその正体は分かった。
俺は雨に構うことなく小さな背に歩み寄った。
髪も着物も水分を含み身体に貼り付いて、彼女の華奢な線を浮かび上がらせる。
「千鶴」
聞こえてはいるはずだが、返事はない。
しかしこのまま放っておいては風邪をひきかねない。俺はもう一度彼女の名を呼んだ。
それでも千鶴が振り返ることはなく、仕舞いには俯いてしまった。
その刹那、雲間から一筋の光が差し込んだ。
彼女の濡れた髪が首筋から描く線と、月光に照らされ輝く雨が奇跡的で、俺は目を奪われる。
ゆるりと千鶴が顔を上げたと同時に、月は再び雲に隠された。まるで彼女の美しさに嫉妬したかのように。
「……っ斎藤さん?」
身体が勝手に動く。気が付いたら俺は千鶴の肩を掴み正面を向かせ、その勢いのまま彼女を掻き抱いていた。
千鶴が腕から逃れようと身動いだが、それを力で押さえつけた。
「斎藤さん、離してくださいっ」
「……」
「…っお願いだから離し…ん……」
それ以上の拒絶の言葉を聞きたくなくて、俺はその唇を塞いだ。
深く、深く、口づける。
そうしているうちに千鶴から力が抜けていくのが分かった。
「……離さない」
口づけを終え、千鶴を抱き直す。今度は抵抗されなかったことに安堵する。
「……駄目です」
千鶴が小さな声で答えた。それは今にも消えてしまいそうで、俺は彼女を抱く腕に力を込める。
「……何故?」
「――私と一緒にいては、斎藤さんが…………」
嗚呼、彼女は何も分かっていない。
もう、手遅れなのだ。
俺の心はあんたという波に流され溺れてしまっているのだから。
「構わない」
「……えっ?」
千鶴が弾かれたように顔を上げる。
穢れなどないその瞳。そこに映る自分の顔はどんなに浅ましいことか。
「俺と、共に―……」
それでも、引き返せない。自分を貶めることになっても。彼女を穢すことになっても。この気持ちに気付かなかった頃になど戻れないのだ。
俺が耳元で囁くと千鶴はこくんと頷き、そっと俺の背に腕を回した。
やっと、手に入れた。
俺の顔に自嘲気味な笑みが浮かぶ。
雨足は強くなるばかりで止む気配はない。でも、それでいいのだろう。
もうふたりには溺れて堕ちるほかに道などないのだから。
光の雨が降る夜に
fin.