第一話
眠れぬ夢を見る夢








 目を開けばそこにあるのは美しい花園。見覚えのある淡紅色の花びらは、ひとつひとつ存在を主張するように咲き誇る。これは、なんの花だろう。とてもよく似た花を私は知っているけれど、それはお話の中に登場する花で、現実に咲いているのを私は見たことがないはずだ。なのにどうしてこんなにも見覚えがあるの。ああ、もしかして、これは夢? だから液晶の向こうにあるはずの花が、庭が、屋敷が、目の前にあるの? なんだ、だったらもう少し夢の世界を満喫しよう。こんな形でしかここには来られない。この花は見られない。彼らには、会えない。視界に入った萎れた花を見て、思い出すのは悲しい運命を背負った薄紫の少女の姿。

「きみは……?」

 掛けられた声に気づき振り向けば、特徴的な赤みを帯びた茶色の髪。汚れのない真っ白な服に身を包んだその人は、背後に薄い紫の少女を引き連れて、怪訝そうに私を見ていた。あまりにも現実感を伴うその声に、姿に、私は果たしてこれが本当に夢なのか、なんだかわからなくなってしまった。こんなにリアルな反応、まるで"ホントウ"みたい。高く結ったツインテールを揺らしながら、少女が私の目の前まで歩み寄ってくるけれど、私はなにも言うことができない。なにを言えばいいのかわからない。夢ならそろそろ、覚める頃なんじゃない? そうしていつもと変わらない日常に戻るんだ。だってそうじゃなきゃ、彼らとは出会えない。私が彼らと会うことができるのは、液晶という名の境界線を隔てた狭い箱の中でだけ。こうして目の前に"居る"なんて、ありえないこと。

「あなた、だれ?」

少女が首を傾げて私の顔を見上げる。なにか言わなきゃと思ってようやく開けた口から出てきた言葉は、いかにも不審者丸出しな、どうしようもない言葉だった。

「この夢はいつ覚めますか?」

 ああ、ほら、彼が訝しげな視線を送ってくる。彼女が素直にわからないと首を横に振る。ソフィ、こっちに来るんだ。優しさのこもっていないテノールが少女を呼び寄せれば、小首を傾げながらも素直に踵を返す。私、完全に怪しまれていますよね。

「きみは誰だ? うちになにか用か?」
「あ、いえ……。私、どうしてここに居るのか、自分でもわからなくて……」

 このままじゃいけない、そう思って必死に紡いだ言葉は、誰が聞いても怪しい言葉。これが現実ならば、不審者として通報されているのだろうか。ああもう、恐い。

「それは、どういう意味だ?」
「あの、目が覚めたら、ここに立っていて……。私、自分の部屋で寝ていたはずなんですけど。だから、夢なのかなって、思って……」

 こんなにも不審な私の、こんなにも不審な言葉を、彼らはとても真剣な表情で聞いてくれている。そうか、と重く言った青年は、少女にちらりと目を向けて、また真っ直ぐに私の目を見る。その意味がよくわからなくて、私は少しだけ戸惑ってしまうけれど、彼はにこりと笑って私に歩み寄ってきた。それに倣うように、少女もまた、私の目の前で立ち止まる。

「さっきは無下な態度をとってすまなかった。俺は、アスベル・ラント。こっちはソフィだ。きみはラントでは見ない顔だから、つい訝しんでしまった。本当にすまない」
「あ、いえ……! 私の方こそ、なんか、ごめんなさい」

 先程の素気無い態度とは打って変わって、アスベルは優しく微笑んでくれる。それがなんだか嬉しくて、私も自然と笑みがこぼれるけれど、にやついていると思われるのが恥ずかしいからうつむいてしまう。こんなんだから、人とのコミュニケーションがうまくとれないんだ。わかってはいても、長年染み付いた癖はそう簡単には直ってくれない。自分では心を開いているつもりなのに、それをうまく表現できないから、相手にはなかなか伝わらない。それがつらくて、悲しくて、もどかしくて。だから人との係わり合いは苦手だ。

「ねえ、あなたの名前は?」

 ああ、いけない。つい感傷に浸ってしまった。こんなことを彼ら相手に考えたって、仕方がない。どうせこれは夢。深く係わり合う前に、きっと覚めてしまう。小首を傾げて尋ねてきたソフィを一瞥して、私は纏わり付く感傷を振り払うように顔を上げた。しっかりと彼女の目を見ながら口を開く。感情のこもっていないかのような無表情。だけどそこに立派な感情が宿っていることを、私はちゃんと知っている。その抱えた悲しみも苦しみも、理解はできないけど、知ってはいる。

「私は、みょうじなまえといいます」
「みょうじ……なまえ?」
「なんだか変わった名前だな。みょうじと呼べばいいのか?」
「あ、いえ。名前はなまえです。みょうじは……そうですね、ファミリーネームって言ったらわかるのかな……」

 そう言うとアスベルは、ああなるほど、と頷いてくれた。ソフィは相変わらず首を傾げていたけれど、俺にとってのラントみたいなものだ、とアスベルが言えば、同じように頷いてくれた。さすがに保護者は教え方をよくわかっているなあ。

「じゃあなまえって呼ぶね」

 ソフィがそう言って、微笑んでくれたから、私は今まで考えていた屈託した思いをかなぐり捨てることができそうな気がした。本当に不思議な笑顔。見ているだけで癒されて、元気になれて、彼女が大好きになる。もともと大好きだったなんて、彼らには絶対に言えないけれど。ひとり考えていると、ソフィが私の側にある萎れた花を見て、しゃがむ。

「……お花、枯れてる」

 それを聞いてアスベルもその隣にしゃがみ込む。クロソフィの花を見たあとに、ソフィの方を向いて、とても残酷な一言を放った。

「寿命みたいだな。仕方ない」
「仕方ない……」

 なにか、言ってあげなくちゃ。でも、私になにが言えるというの? だって私は、彼らとはなんの繋がりもないただの他人。違う世界であなたたちを見ていましたなんて、そんな気持ちの悪いこと言えない。信じてもらえるとも思ってない。きっと今度こそ怪しい奴だと認識されて、彼らとはお別れになるんだろう。どうせ目が覚めれば、永遠の別れだけど。私がひとり根暗に物事を考えている間にも、アスベルとソフィの会話は続いていく。来年もまた花を咲かせると、笑うアスベルにソフィが呼び掛けたとき、屋敷の扉がガタリと重い音を立てて開いた。そちらに目を向ければ、彼の母親であるケリー様と、執事のフレデリックさんが佇んでいた。仁王立ちしているケリー様は眼を少しだけ吊り上げて、アスベルを見遣ってその重い口を開く。

「アスベル。今日こそは、ちゃんと話を聞いてもらいますよ」
「母さん」

 振り返ったアスベルも母親の姿を認め、少しだけうつむいてうんざりとした顔をしているのが、近くに居てわかった。ケリー様とフレデリックさんが静かな足取りでこちらに来るから、思わず立ち竦みそうになりアスベルの服の袖を小さく掴んでしまう。それに気づいたアスベルが私を見て、少しだけ微笑んでくれた。それを見たケリー様が、不思議そうに私に目を向け、次にアスベルを見た。

「そちらの娘さんは?」
「彼女はなまえです。さっき出会ったばかりなんですが……どうにも、自分がどうやってここに来たのかわからないらしくて」
「まあ……それは、記憶喪失ということ?」
「おそらくそうなんじゃないかと思うんですが……。でも彼女は自分の名前も覚えていますし、常識に欠けているような言動もありません」

 そうか、私は記憶喪失だと思われていたのか。もしかしてアスベルは、ソフィと私を重ねていたのかな。だから優しい笑みを見せてくれたのだろうか。なにもわからない私を、安心させるように。横から腕を軽く引っ張られて、そちらに顔を向ける。ソフィが大きな深い紫の瞳に不安の色を滲ませて、私を見上げていた。

「記憶喪失って、全部忘れて、思い出せなくなることでしょう?」
「そう、だね。……うん、そうだよ」

 全部、というわけではないかもしれないが、そういう記憶喪失もあると聞いたことがある。私の場合、どうやっていつの間にここに来たのかわからないだけで、記憶喪失とはなんだか違う気がする。これは、だって、夢のはず。夢の、はずなのに……。いよいよわからなくなってきた。だってあまりにも、すべてが現実味を帯びていて、これが私の作り出した幻想だとは思えないよ。もう少しいろんな所を見て回れば、わかってくるのかなあ。

「なまえは記憶喪失なの? 昔のこと、思い出せないの?」
「えっと、それは……」

 どうしよう。なんて答えればいいのだろう。ちらりとアスベルに目を向けても、どうやらいつの間にかお見合いの話に戻っているようで、こちらに構う余裕はないようだ。どうしよう。正直に話すべきか、記憶喪失ということにしておくべきか。どうしようどうしようと悩んでいると、遠くの方からこちらに向かって駆けて来る足音が微かに聞こえた。――きっとあれは、バリーさんだ。

「アスベル様!」

 血相を変えて走って来たバリーさんに、何事かとアスベルたちは目を向ける。バリーさんは荒い息遣いをそのままに、身振り手振りを含ませて東の街道に出現した魔物(モンスター)討伐の援軍要請を求めている。それを聞いてアスベルはすぐに行くと承諾し、ソフィを見遣った。視線を受けたソフィは力強く頷いて、すぐに駆け出した。私はどうすることもできなくて、駆け出そうとするアスベルを見ていることしかできなかった。その視線に気づいたのか、アスベルが振り返って私を見る。

「危険だから、なまえはここに居てくれ。すぐに戻る」
「あ、はい……」

 私の力無い返事を聞いてすぐに駆け出したアスベルを見送って、思わずため息をひとつ。ケリー様が屋敷に戻る際に、よければお入りになって、と声を掛けてくださったけれど、私はどうにもこの場から動く気分にはなれなくて、丁重にお断りした。少しも嫌な顔をせずに、風邪を引かないようにと言ってくださったケリー様は、本当に優しい。その暖かみに触れて、ますますこれが夢だとは思えなくなる。なにせ腕をつねればすごく痛いし、時折吹きすさぶ風の冷たさだって十分感じるのだから。まさか、これは夢じゃない? これが現実なのだとしたら、残る可能性はただひとつ。小説の中だけで起こるような摩訶不思議な事象。所謂、異世界へのトリップ。

「うそ……」

 たどり着いた結論に、思わず信じられないと言葉が洩れる。たったひとり広い庭で立ち尽くす私のつぶやきなんて、誰にも届かない。彼らが戻ってきたら、私は、なんて言えばいいんだろう。そして覚えのある展開。彼らの少なからずの未来を知っている身として、なにができるんだろう。私は、どうして、こんな……。

『おまえは世界に捨てられ、フォドラに選ばれた存在。世界に不要と見做された、フォドラの加護を受けるただひとりの人間』

 突然、時が止まったかのように景色が灰色に染まった。次いで聞こえる無機的な声。これは、リトルクイーン? 私が世界に、捨てられた?

『哀れな人間。世界がなくてはおまえは生きられない。だからフォドラはおまえを拾い、エフィネアへ送った』
「どういうこと……? どうして……」
『フォドラは今や、人間が生きられる世界ではない。だがいずれ、必ずフォドラは再生する。そのときが来たら、フォドラの意思に従い、おまえを迎えにくる』

 姿の見えない声の主を探そうと辺りを見回すけれど、どこにも彼女の姿はない。次第に灰色に染まっていた景色が元の色を取り戻し、もうこの場にリトルクイーンは居ないのだと思い知る。

「世界に、捨てられた……。フォドラに、拾われた……?」

 私がこの世界に来たのは、元居た世界が私を捨てたから? ならばどうして、フォドラは私を助けてくれたの? 人を憎んでいるはず、なのに。わからないよ。全然わからない。だけど少しだけ、わかったこともある。これは夢なんかじゃないということと、私はきっと、もう帰れないんだろうなということ。無意識のようにため息がこぼれる。少し頭を冷やそうと、しゃがみ込んでクロソフィの花を見つめる。枯れて萎れた姿が悲しくて、私はゆっくり目を閉じた。




眠れぬ夢を見る夢


(目を開いたとき、広がる景色が見慣れた自分の部屋だったなら、私はきっと笑えてた)




- - - - - - - - - -




Back