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奇妙な夢のおはなし
*甘くない








 ここはどこだろう。見覚えのない景色に、ただひとり僕だけが佇んでいる。暗い、暗い、渡り廊下。僕はたしか、いつものように任務を終えて、兄さんとクロと晩御飯を食べて、それから眠りに就いたんだ。――ああ、そうか。これは夢だ。そう自覚した途端、ぐにゃりと景色が歪んだ。けれどもそれは本当に一瞬で、再び薄暗い渡り廊下に戻ってしまう。さて、どうしようか。夢だとわかったはいいが、どうにも目覚める気配がない。このまま目が覚めるときを待つのでも構わないのだが、どうせなら少し探索でもしてみようか。ひた、ひた、ひた、ひた。裸足のまま渡り廊下をゆっくりと歩く。先は真っ暗闇で、何も見えない。裸足から伝わるはずの廊下の冷たさも、感じない。気味が悪いような、どこか懐かしいような、不思議な感覚。ひた、ひた、ひた、ひた。どのくらい歩いたのだろう。いつまで経っても変わらない暗闇の中に、ぽっかりと人影が浮かぶ。夢だと自覚しているからか、特に警戒心を持つこともなく、その人影に向けて足を運ぶ。――もし人影の正体が兄さんだったら、思わず笑ってしまうだろう。僕の頭の中はどれだけ兄さん一色なんだと。幼い頃は兄さんに守られ、今では兄さんを守り、そのために強くもなった。神父さんとの約束を、果たすために。そんなことを考えていると、はっきりと目視できる位置にまで人影が迫っていた。そこで思わず、足を止める。よく見知った懐かしいカソックに、十字架。僕と兄さんの頭を何度となく撫でてくれた、無骨な手。その人影は、神父さんによく似ていた。おそらく男性であるはずのその人には、不気味なことに顔がない。まるでのっぺらぼうのように、何ひとつない。だから神父さんに"似ている"としか認識できない。夢魔の類かとも思ったが、その人はこちらを向いてじっと佇んでいるだけだった。何をしてくるでもなく、ただそこに居るだけ。けれどもひとつ違和感を覚えるのは、どうにも"それ"はこちらを見て、笑っている気がするということ。顔のない男が、暗闇を背負って僕を見つめている。凹凸のない顔に当然表情はないのに、なぜだか笑っている気配がする。そう思った途端、金縛りに遭ったように体が動かなくなった。声も出ない。男は相変わらず佇んでいる。だけど不思議と、恐ろしさは感じなかった。むしろ沸き上がる感情は、泣きたくなるほどの懐かしさ。今すぐ駆け寄って泣き縋りたい衝動が、僕の心をひどく揺さぶる。顔はないけれど、やはりこの人は神父さんなのだろう。何せこれは夢だ。僕の記憶が作り出した、都合のいい空想。ならば神父さんが出てきたって、何等不思議ではない。けれども今まで一度だって神父さんの夢を見たことはないのに、なぜ今になって夢に見たのだろう。普段通りの生活で、普段通りの僕なのに。

「……ゆきお」

 今までずっと佇んでいるだけだった男が、懐かしい声色を孕んで僕の名を紡いだ。間違いない、神父さんの声だ。しかし顔のない男には、当然声を出すための口もない。頭に直接響く声。それでも僕にはわかる。敬愛する養父と同じ声で確かに僕の名を呼ぶのは、目の前に佇むのっぺらぼうなのだと。神父さん。神父さん。返事をしたいのに、どうしたって声が出ない。腕を伸ばしたいのに、なにしたって体が動かない。もどかしさに唇を噛み締めたくても、口を開くことすら出来やしない。ああ、ああ、僕の夢なのに。なぜ思い通りにならないんだ。

「……すまねえな、ゆきお。ちっと我慢してくれや」

 じわり、涙が浮かぶ。どうしようもなく叫びたくて、泣き喚きたい気持ちをぐっと堪える。そんなことをしなくても声なんて出ないけれど、なぜだか堪えなければいけない気がした。――僕はもう、昔の泣き虫な僕とは違うのだから。

「……ゆきお。なあ、ゆきお。いい加減気づいてやれよ」

 目の前の男が少しだけ呆れたように笑った気がした。その声に思わず神父さんの顔を思い出す。否、思い出そうとした。あれ? 神父さんって、どんな顔してたっけ。思い出せない。あれ。おかしい。なんでだろう。どんなに頭をフル回転させても、神父さんの顔だけがぼやけて、はっきりしない。こわい。こわい。――こわい!

「……ゆきお。おびえんな。おまえなら大丈夫、気づけるさ」

 宥めるような声が頭に響いて、はっと我に返る。けれども心臓の鼓動はまるで早鐘のようで、酷く苦しい。見えない何かに胸がぎゅうっと締め付けられているようで、息ができない。苦しいよ、神父さん。助けてよ、兄さん。もうひとり、僕にとって掛け替えのない誰かがいたような気がしたけれど、思い出せない。たしか、女性だったような気はする。誰だっけ。

「……ちゃんと気づいてやれよ? おまえのためにも、あのこのためにも」

 そう言ってすうっと、顔のない男は消えていく。待って、行かないでよ、神父さん、僕をひとりにしないで。とうとう溢れ出した涙を拭うことも出来ず、僕はただ真っ暗な渡り廊下に取り残される。もうここには誰もいない。本当のひとりぼっち。心なしか、先程よりも暗闇が迫ってきているようだ。だけどそれすらもう、どうでもいい。僕はひとりなんだ。どうせひとりなら、こんな場所に居たくはない。暗闇だかなんだか知らないが、どこへでも連れていけばいい。どうせ体は動かないのだから。僕は、もう、このまま――。

「ゆきおくん」

 神父さんじゃない。澄んだ女性の声。君は誰?

「ゆきおくん」

 その声はひどく優しくて、少しだけ乾いていた僕の涙が、また堰を切って流れだす。見えない誰かが、僕に手を差し延べてくれている。その手を掴みたくて、動かない体に目一杯力を入れてみると、すんなりと腕は上がった。先程まではどうしたって動かなかったのに、彼女の声を聞いた途端、強張っていた体がすっと軽くなったような気がした。不思議だ。

「ゆきおくん。ゆきおくん。だいじょうぶだよ。わたしがいるよ」

 そうだ。いつだって君は僕を支えてくれた。僕の心を守ってくれた。ようやく思い出せた。僕の愛しい人。大切な君を、なぜ僕は忘れていたのだろう。――なまえさん。彼女の名を、顔を、思い出した瞬間、何か暖かいものが僕の体をふわりと包み込んだ。きっとこの暖かさそのものが、なまえさんなのだろう。ああ、もう、忘れないよ。

「――っ、雪男くん!」

 木枯らしが樹々を揺らす音がひどくうるさく、耳障りだ。うっすらと瞼を開けば、見慣れた天井に、僕の顔を覗き込むように覆いかぶさったなまえさんの、今にも泣き出しそうな顔が見えた。よかった。なまえさんにはちゃんと顔がある。

「なまえさん……」

 愛しい人の名をつぶやいた自分の声は、ひどく掠れていて驚いた。じっとなまえさんを見つめれば、彼女の目からはぼろぼろと大きな雫が零れだして、僕の頬を濡らしていく。涙って暖かいんだなあ。

「よかった、雪男くん……! すごくうなされてたから、私……っ!」

 目覚めた僕を見て安堵に顔を綻ばせるなまえさんが、なんだかとても愛しくて。僕はゆっくり上半身を起こすと、つられて体を起こしたなまえさんに、子供みたいに強く抱き着いた。なまえさんは驚いて上擦った声を上げたけれど、それすらも愛しい。ちらりと兄の寝具を見遣れば、からっぽの布団は眠りに就く前のまま整頓されていて、そういえばと思い出す。兄さんは夕飯を食べたあと志摩くんたちに呼ばれて、季節外れの花火をやりに出掛けたのだ。僕もお誘いを受けたが、気が乗らなかったので丁重にお断りした。志摩くんのことだから塾生全員に声を掛けたのだろう。なまえさんは行かなかったのだろうか。ああ、なんにしろ、なまえさんにこうして触れるのは本当に久しぶりだ。僕はどれだけ、なまえさん不足なのだろう。

「志摩くんに花火に誘われてね、行ったの。雪男くんも居るかなって思って」

 今だに抱き着く僕の背中を優しくあやすように撫でながら、ぽつりぽつりとなまえさんは事の経緯を話し出した。

「そうしたら雪男くん、来ないって聞いて。でもどうしても雪男くんに会いたくて、話したくて……。迷惑かとも思ったけど、来ちゃったんだ」

 そしてひどくうなされている僕を見つけたと、彼女は悲痛な面持ちでそう言った。ありがとう、そう意味を込めて抱き締める力を強くする。――やはり夢だったあの顔のない男は、本当に神父さんだったのだろうか。今となっては知る術はない。けれども男が言っていた、『気づいてやれ』という言葉。今ならなんだかよくわかる。おそらく僕は、あのまま闇に捕われていたら"悪魔堕ち"していたのだろう。ひとりでもよかった。ひとりが怖かった。もしもなまえさんが僕を見つけてくれなければ、誰もいないあの場所で、僕はひっそりと堕ちていったのだろう。なんとなく、そんな気がする。あの男はきっと神父さんで、僕を悪魔堕ちさせないために、夢という形で現れてくれたに違いない。普段なら馬鹿げた妄想だと一蹴してしまうような考えも、今だけは確信することができる。『気づいてやれ』。自分が悪魔堕ちしそうなことに気づけ。自分を心配して、想ってくれている人の存在に気づけ。自分の本当の気持ちに気づけ。神父さんの言葉はきっと、いろんな意味を含んでいたのだと思う。それを一言で纏めてしまうなんて、神父さんらしいな。思わず笑みが零れる。

「雪男くん?」

 突然笑い出した僕に、小首を傾げるなまえさん。彼女の肩口に埋めていた顔を上げると、ぽかんとした表情と目が合う。それにまた吹き出せば、なまえさんは顔を真っ赤にして僕の背中を軽く叩いた。そんなの、痛くないよ。

「もうっ、結局なんだったの?」
「ふふ、内緒だよ」

 今度は大丈夫。だって僕が堕ちそうになったら、必ず君が引き上げてくれるから。けれどもそう言うと君はひどく心配するから、今は話さないことにするよ。ああ、うん、大丈夫。なぜだか今はもう、大好きな神父さんの顔もはっきりと思い出せるから。きっともう、顔のない男は現れない。




奇妙な夢のおはなし



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どんなに大切でも、僕らは昨日を忘れていく。

推奨BGM@
Pink〜奇妙な夢 / Mr.Children

11/11/9 加筆修正