吐く血に君は混ざらない
*狂気








 僕が彼女と知り合ったのは、ちょうど半年前だ。みょうじなまえさん。素敵な名前を持つ女性。名前は素敵だけれど、特別美人でもなければ、不細工というわけでもない。普通の女性。地味な彼女の唯一の特徴といえば、やたらと暗いこと。初めて会ったときから彼女は、内科では診てもらえない病気を抱えていた。親にも、医者にも、僕にすら、治せない病気。

「けほっげほっ……うっお゙え……っ!」

 ああ、また吐いてるのか。なまえさんがトイレに篭って約数分。トイレから苦しげなえづき声が聞こえてくる。胃の中のものを少しも残さないように入念に嘔吐を繰り返す彼女に、僕は少しも動揺することなく水とティッシュを用意する。この作業はもう、何回目だろうか。最早わからなくなるくらい、彼女は毎日毎日手にタコを作って吐き続けている。なんでも太るのが恐いらしい。なまえさんはとても細いのに、僕にはわけがわからない。けれどそれを言うと彼女は更に病んでしまうから、胸中に留めておく。

「なまえさん。水とティッシュ、持ってきたよ」

 こんっこんっ、とトイレの扉を二回ほどノックする。すると徐に扉が開き、中から腕が伸びてくる。その今にも折れてしまいそうなか細い腕にティッシュを持たせ、次に水を持たせた。

「……ありがとう」

 消え入りそうなくらい弱々しい声で、感謝の言葉を告げられる。それに一言返して、僕は扉の隙間に腕を伸ばした。手探りでなまえさんの頭を見つけだし、ごわごわの髪を優しく撫でてやる。そうしてやると彼女は怖ず怖ずと扉を開けてくれることを、僕は知っているから。キィッと耳障りな音を立てて、トイレの扉が大きく開放される。ようやく顔を見せてくれたね。ありがとうの意味を込めて、僕は涙と涎でぐちゃぐちゃななまえさんの頬にひとつ口づけを落とす。すると普段は決して笑わない彼女の口許に、笑みが浮かぶのだ。僕はこの瞬間が好きで堪らない。いつだって能面のような彼女の顔を、破顔させることができるのは、この世で僕ひとりでいい。そう思うほどに、僕はなまえさんが好きだ。病気だからとか、そんなことは何の障害にもならない。少なくとも、僕にとっては。なまえさんをゆっくり立たせて、僕らはようやく部屋に戻る。ああ、なまえさんは本当に僕が居なくちゃ何にもできないんだ。やっぱり僕が必要なんだ。僕が彼女を守って、支えてあげなくちゃいけないんだ。必要とされていることに、思わず心が躍る。なまえさんは何に対してもやる気なんて皆無なのに、変なところで一生懸命だからすぐ人に騙される。人に怯えているくせに、自分じゃ何にも断れないからすぐ人に流される。だから僕が必要なんだ。僕が守ってあげるんだ。ねえ、だからさ、なまえさん。病気を治そうとなんて、しないでよ。治ってしまったら君は、僕から離れていくんだろう? そうしたら今度は、僕が血を吐くよ。そうすれば優しい君は僕を置いてはいけないだろう。

「雪男くん、貴方は私と似ているね」

 いつか彼女が言った言葉が、頭の中で木霊した。




吐くに君は混ざらない

(本当に病んでいるのはだぁれ?)



- - - - - - - - - -
推奨BGM@
吐く血 / Syrup16g

11/11/9 加筆修正




Back