熱っぽいので冷たい手を所望しています
*「あなたは夢の見過ぎです」の続き









 秋晴れが酷く心地好くて、思わず天を仰いで目を細める。暑くもなく、寒くもない。ちょうどいいと思える気温。冷たい風が頬をさしたと思えば、暖かい日差しがぽうっと体を温める。ああ、秋冬だいすき! 陽気な気分は足取りを軽くして、隣を歩く制服姿の雪男くんをどんどん離していく。それを見て彼がくすくすと笑うから、私は急に恥ずかしくなって、思わず歩く速度を緩めてしまう。

「ふふ、すみません。あんまり御機嫌な様子だったので、なんだか微笑ましくて」

 穏やかな微笑みでそう言われ、頬が紅潮するのを感じる。今の季節がお好きなんですか、と問われ頷けば、雪男くんは僕も好きですと笑みを深くする。まるで自分が好きだと言われているような錯覚に陥り、もう頭は真っ白だ。そうっと自分の頬に手を当てれば、思った通り、ひどく熱い。けれどそれは仕方ない、私は元来男性に免疫がないうえ、彼は見目麗しい美男なのだから。こうなるのはきっと当然なのだろう。……メイビー。

「あ、なまえさん。このデパートですか?」

 一人わたわたと慌てる私を気にした風でもなく、雪男くんは目先の大きな百貨店を見遣る。それにひとつ頷いて、私は大きな手動ドアを力いっぱい押した。これが意外と重い。中へ入れば外の気温に合わせてか、ほんのりと暖かい。そこでふと思う。私は長袖だが、雪男くんは半袖の制服姿だ。もう季節は10月の半ば。ちょうど衣更えの時期。半袖で出歩くには、外はあまりに肌寒い。

「雪男くん、ちょっと服を見てもいいですか?」
「服ですか? もちろん、いいですよ」

 私の言葉に快く了承をくれた雪男くんにお礼を告げて、私は彼の腕を緩く掴む。そのまま百貨店の一角にあるメンズ服の専門店に向けて歩き出せば、たちまち雪男くんは不思議そうに小首を傾げた。

「なまえさん、こっちには男性用の服しか……」
「はい。雪男くんは男性でしょう?」
「ええまあ、そうですけど……って、僕のですか!?」

 はい、そうですよ。至極当然のようにそう答えれば、雪男くんは急に足を止めた。彼の腕を掴みながら前を歩いていた私は、それに思わずつんのめる。なんだろうと振り返れば、心底困ったという顔をした半袖姿の雪男くん。相変わらず肌寒そうだ。ぼんやりとそんなことを考えていると、雪男くんが「気を使わないでください。寒いのはわりと平気ですから」とかなんとかほざいている。ふざけちゃ駄目だよ雪男くん。平気なのは今だけで、これからもっともっと寒くなる。そんなときに半袖姿なんて、見ているこちらが寒々しくて嫌になるというもの。うちには当然、男物の服など一着もない。例の黒いロングコートは却下だ。あまりにも目立つ。あのコート自体が奥村雪男という人物の一種の身分証明に成り兼ねないほど、とにかく目立つ。なんて、今よりも寒くなる季節まで一緒にいることを、当然のように想像している自分に嫌気がさす。雪男くんは早く帰りたいだろうに、私はまるでずっと一緒にいたいようだ。あー自己嫌悪。

「なまえさん?」
「え、あっ……」

 心配そうに私の顔を覗き込む雪男くんの呼び掛けに、我に返る。いけない。今はそんなことを考えているときではない。とにかく雪男くんを説得しなければ。

「大丈夫ですか? なんだかぼんやりしていたみたいですけど……」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます。それより雪男くん、服見に行きましょうよ」
「あ、いえ。ですからそれは……」
「ここのお店安いって聞いたことありますし、今はセール中ですよ! 二、三着くらいなら買っても全然問題ないですから、行きましょう?」

 ね? と優しく語りかければ、雪男くんは少し悩み、そのあと小さく頭を下げた。ありがとうございます、ときちんと感謝の言葉付きで。それに満足した私は、今だに掴んでいた彼の腕を引っ張り歩き出すと、メンズ服を片っ端から見て回った。雪男くんは申し訳なさそうにしながらもどこか嬉しそうで、それを見て私までが嬉しくなる。喜びはなんて素敵な魔法なのだろう。彼が笑っていれば、もうなんでもいいや。そんな気さえしてくる。不思議だ。

「――ふう、たくさん買いましたね」
「はい! 服に、生活用品に、食材もついでに買っちゃいましたから」
「すみません、僕のために……。お金は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。給料入ったばかりでしたから、問題なしです!」

 そんな会話を挟みながら、二人で安いアパートに向けての帰路につく。途中バイト先で共に働くパートのおばさんに会い、雪男くんとの関係を誤解されたが、それは明日バイトに行ったときに違うと言えばいいか。けれど唯一不安なのが、あのおばさんは何かと口が軽いということ。誤解を解く前にべらべらと話されたらたまったものじゃない。うぅん、不安だ。

「あ、そういえば。私、明日はバイトがあるんですけど、その間留守を頼めますか?」
「はい、もちろんです。何時までなんですか?」
「9時から18時までです。帰るのは、多分19時頃になると思います」

 わかりました、任せてください。にこりと笑ってそう言ってくれた雪男くんはなんだか頼もしくて、胸がどきりと高鳴る。本当に格好いいなあ。こんな人が彼氏で、私の帰りを待っていてくれたら、おかえりと言ってくれたら、抱き締めてくれたら、私はきっと今以上に頑張れるんだろうな、なんて。妄想もいいところだと自分で自分に嘲笑してやりたくなる。元来酷い妄想癖があるが、雪男くんに会ってから、尚更ひどくなった気がする。なぜだろう。やはり住む次元の違う人を前にして、気分が高揚しているのだろうか。きっとそうだ。だからいちいち胸が高鳴るのも、そのせいなんだ。ひとりこっそりと頷いて、アパートの錆びた階段を登っていく。

「すみませんでした。荷物持ってもらっちゃって……」

 鍵を開けて部屋へと入れば、見慣れた居室に買ってきたばかりの荷物を置いていく。雪男くんもそれに倣い、ぱんぱんに太ったビニールをテーブルの上に置いた。男として当然のことです、なんて言って疲れた素振りを一切見せない彼は、本当に紳士的でなんだか困ってしまう。いや、別に、変な意味ではなく。

「それより……敬語、やめませんか」

 困ったように眉尻を下げた、彼の特徴的な笑い方。結構難しくて、やろうとしてもなかなかうまく出来ずただ顔を顰めているだけになってしまう。雪男くんは器用だなあ。きっと彼の双子の兄には難しいだろう。彼は笑うか困るかのどちらかだけが顔に出そうだ。それはそれできっと母性本能とやらがくすぐられるのだろうが。

「あの、聞いてます?」
「えっ? ああ、はい。聞いて……ます」
「聞いてなかったんですね」

 雪男くんの厳しい指摘に、思わず眉尻を下げて笑う。あ、できた。今できたよ。なるほど意識してやるものじゃないのか。胸中で歓喜していると、雪男くんが満面の笑顔で私の顔を見つめていることに気づく。本来ならば頬を紅潮させるところなのだろうが、数時間という短い時間ながら彼と一緒に居てわかったことがある。雪男くんは腹を立てたりして機嫌が悪くなると、笑顔で人を威圧する傾向にある。漫画やアニメで見るのとは全然違う。正直こわい。つまりこれは、非常にまずい顔なのだ。とりあえず謝ろう。何かあればすぐに謝る癖は直した方がいいと言われるが、如何せん、波風なんて立てたくない。

「あ、あの、すみません……」
「なまえさん、敬語、やめませんか」
「えっ? いや、でも……」

 私の謝罪などには触れずに、彼は打って変わったように真剣な面持ちでそんなことを言う。敬語、意識してはいなかったけれど、彼は気に入らないのだろうか。馴れ馴れしくされる方が苦手だとばかり思っていた。なんにせよ、鎮まれ、心臓。

「なまえさんは年上なんですし、僕はお世話になる側です。敬語を使われるのは居た堪れないので、やめませんか」
「あ、うん、そっか。……わかった」

 敬語の方が話しやすい、という気持ちは正直あるが、特にこだわりがあるというわけでもない。本人がやめてほしいと言うのなら、それを拒否する理由もない。すんなりと頷けば、雪男くんは優しく微笑んでくれた。先程までの、思わず震え上がるような笑みではなく、本当に優しい微笑み。笑顔の使い分けができるなんて、彼はやはり器用だ。ほんのりと色づいた頬を隠すように、買い物袋から大量の食材たちを取り出し冷蔵庫に入れる。何も言わずに隣に立ち、さりげなく重いものを運んでくれる雪男くんに、またひとつ鼓動が高鳴ったなんて、やっぱりどうかしている。明日、病院に行った方がいいのかな。――なんて、本当はそれが何か気づいているくせにね。

「……雪男くん」
「はい?」

 不思議そうにこちらを見つめる雪男くんに、ひたすら心臓が痛くなる。やっぱり病院行こうかな。

「……何を言おうとしたか忘れちゃったから、やっぱりいいや」
「なんですか、それ」

 控えめに笑う雪男くんに、私もへらへらと笑みを返す。楽しいけれど、どこかつらい。何にだって終わりがあることくらい知っているから、余計に今が愛おしい。考えないようにしていても、いつだってその事実がついてまわる。いっそ言ってしまいたいな。だけどそんな勇気もないや。いつか言えるときが来たら、そのときが彼との終わりなのだろうか。始まってもいないのにそんなことを考える自分が、ひどく馬鹿らしい。

「これ、どこに置きますか?」
「あ、それはね……」

 少し考えすぎだ。やはり"ありえないこと"に遭遇して、未だに頭が混乱しているのかもしれない。無意味にへらへらと笑いながら雪男くんと荷物の整理をしていると、不意に彼が手を止めて、なまえさん、と私の名を呼んだ。なんだろうと彼を見遣れば、ひどく真剣な眼差しと目が合う。

「大丈夫ですよ」

 彼が柔和な表情で放ったその一言が、すっと心に馴染んで溶ける。なにが、なんて聞けないけれど、もしかしたら彼はすべて気づいているのかもしれない。私が彼や、彼の世界を知っていることも、何に不安を抱いているのかも、ぜんぶ。きっと雪男くんはエスパーなんだ。そうに違いない。いろいろと考えたけれど、大丈夫のたった一言で私の心は驚くほど晴れたから、もうそれでいいや。現金なやつだと、自分を笑う。けれどもそこに先程までの鬱屈さはない。それはやはり、雪男くんのエスパーのおかげなのだろう。

「ありがとう、エスパーくん」
「誰ですかそれ」

 呆れた顔でため息をつく雪男くんは、もうすっかりいつもの彼だ。けれどふと先程の真剣な眼差しを思い出して、思わずどきりと胸が鳴る。なるほどこれは、モテないわけがない。

「今日の夕飯どうしようかなあ」

 肉じゃがでも作ろうかな。得意料理と言ったら、それくらいだ。あと、卵スープ。

「料理はされるんですか?」
「まあ、一応、少しだけ」
「家庭的ですね」

 にこりと、穏やかに微笑んだ雪男くんが、今だけは少し憎い。お願いだからそれ以上微笑まないで。あ、でも真剣な表情も格好いいからやっぱり覆面でもしてて。お願いだから。――なんて、言えるわけがない小心者です。鼓動がうるさい。心臓の痛みって内科でいいのかな。明日行こう。




熱っぽいので冷たい手を所望しています


To be continued

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11/11/9 加筆修正




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