あなたは夢の見過ぎです
*逆トリップ








 カーテン越しの日差しが酷く眩しくて、私は小さく唸って寝返りをうつ。ぼんやりとした意識の中で今日の予定はなんだったかと思い返せば、幸運にも今日はバイトも休みで友人との予定も入っていない完全なオフの日だ。安いアパートに一人暮らしのため、遅くまで寝ていてもその怠惰を咎める者は誰もいない。ああ、一人暮らしさいこー。そんな怠慢な気持ちを隠すこともなくベッドの上でごろごろと転がっていると、居室の方からがたんと大きな音が響いた。平日の、一人暮らし。ペットを飼っているなんて落ちもなければ、唯一合鍵を持っている幼馴染みが遊びに来た様子でもない。大体彼女は平日は殆どバイトが入っていて休みなど稀だ。――じゃあ、今の、音は? 途端に襲う恐怖心に、心臓がばくばくと早鐘のような鼓動を刻む。血の気が引いたような感覚に、私の優雅(自称)な朝を返してほしい、思わずそんな馬鹿みたいなことを考える。あれ以来物音はしないが、もしかしたら誰かが息を潜めているだけかもしれない。気の所為だったのかも、なんて思えるほど楽観的でもなければ、そんな小さな音でもなかったのだ。どうしよう、怖い。怖い、どうしよう。頭が混乱してどうしたらいいのかわからない。一人暮らしを始めたのはつい二ヶ月ほど前からで、当然その間にこんなことは一度もなかった。一人暮らしは怖いという負のイメージを振り払って、必死に親を説得した。元来過保護な親が私の一人暮らしを許してくれたのは、幼馴染みであり家族同然の友人とルームシェアをするからと嘘をついたからだ。友人も心配しながらもその嘘に乗ってくれた。不安なときはいつでも様子を見に来れるよう合鍵を渡すことを条件に。それでも今日まで二ヶ月間、本当に何事もなく平穏に一人で暮らしてきた。なのに、なのに、なのに……! 混乱する思考に涙目になりながら、のっそりと成る丈音を立てずに上半身を起こす。いつまでもこうしていられない。なんとかしなきゃ。そう思うのに、立ち上がれない。どうしてこんなときに限って携帯を居室に置きっぱなしなのか。自分の不運さを呪う。

「――よし、」

 小さく、小さくつぶやいて、私はゆっくり立ち上がる。音を立てないように慎重に歩を進めて、出入口の扉に手を掛けた。もし、もし、相手が刃物を持っていたら、私は殺されてしまうのだろうか。刺されて、金品を奪われて、誰かに発見される頃には意識不明の重体とかで、そのまま死んでしまうのだろうか。ふとそこまで考えて、ぶるりと身震いする。怖い。けれど、ここにいては外部との連絡手段もない。窓から逃げることも考えたが、アパートの2階というなんとも微妙な高さから飛ぶのは、高所恐怖症の私には到底出来そうにないことなわけで。大体日頃から運動不足で元来運動音痴な私に、無事に着地しろなんていうのがそもそも無理な相談なのだ。だとしたらもう、正面から堂々と出ていくしかない。固唾を飲んで、ドアノブを回す。ゆっくりと、慎重に。音を立てるな、今気づかれたら終わりだ。そう自分に言い聞かせ、徐に扉を開いた。水を打ったように静まり返る居室に、全身黒ずくめの刃物を持った男が佇んで――いなかった。

「……あ、れ?」

 面食らったように素っ頓狂な声が零れたが、そんなことはどうでもよかった。いない、いない。刃物を持った人物なんて、どこにもいない。

「よかったあ……」

 思わず零れた安堵のつぶやきに、自分がどれだけ恐怖に緊張していたかを思い知る。今更体が小刻みに震えて、涙が溢れそうになった。とりあえず、お茶でも飲んで気分を落ち着かせよう。そう思い、台所にある冷蔵庫を目指して今だに震える足を動かした。――ところで、ある異変に気づく。どう見ても部屋の面積には合わない大きめのテーブルの死角になって、人が倒れているのだ。安堵に少し緩んでいた表情が、再び凍りつく。その人は、ぴくりとも動かない。まさか、死んでいる? いやいやそんな馬鹿な、ここは私の部屋だ。私一人が住む部屋だ。誰もいないはずだし、常に鍵も掛けてある。誰が倒れているというのだ。おかしいおかしい。

「あ、あの……?」

 とりあえず、恐る恐る声を掛けてみる。刃物らしき物は見当たらないし、何よりこんな所で倒れられているのは迷惑だ。一体この人は誰なんだろうか。うつ伏せで倒れているため顔が確認出来ないが、体格からしておそらく男性だろう。

「あのー、大丈夫ですか……?」

 ぴくり、男性の指が一度だけ震える。どうやら生きているようだ。よかった。

「う……っ」

 苦しげに呻いて、ゆっくり顔を上げるその人。どうやら視線だけで辺りを見渡しているようで、左斜め後ろにいる私の存在には気づいていないらしい。私は成る丈穏やかな声音で、彼に声を掛けてみることにした。

「あの、」

 私の呼び掛けに、弾むようにして振り返った彼の顔を見て、私はある違和感を覚えた。さっぱりと切り揃えられた短い茶がかった黒髪。清潔感溢れるシンプルな黒縁眼鏡。その奥で見開かれた深海みたいに深い青。目許と口許にある特徴的な三つの黒子。彼は私の大好きな漫画、アニメの登場人物にそっくりだ。そう、あの、スノーマンの名を持つ長身の黒子眼鏡。あまりの驚愕に言葉をなくしていると、同じく驚愕していたはずの彼がのっそりと立ち上がった。そのままこちらに歩み寄ったりはせず、一定の距離を保ったまま申し訳なさそうに少し眉尻を下げて、徐に口を開いた。

「すみません、ここはどこなのでしょうか?」

 その声に、衣服に、私のまさかは確信に変わる。心地好いテノールは私の鼓膜を震わせて、次に脳へと響いてくる。黒地のロングコートはその色とは相対して、聖職者の証。胸元で控えめに輝くブローチが、彼が神に仕える立場の者なのだと強く主張する。

「――あの……?」

 一向に言葉を発しない私に、彼は訝しげな顔をしながら再度呼び掛ける。その声にはっと我に返れば、吃りながらもなんとか声を搾り出すことができた。

「あっ、は、はいっ!? えっと、ここ!? ここ、ここは私の家です!」
「いや、そうではなくて……」

 半ば混乱状態で叫ぶように言えば、彼は苦笑して首を横に振った。ああ、恥ずかしい。もう帰りたい……あ、ここが私の家か。なんて、馬鹿みたいなことを一人でこっそり思っていると彼は、ここは何丁目ですか? と尋ねてきた。どうやら住所が知りたいらしい。

「あ、えっと、ここはですね……」

 普通、ならば。いつの間にか自分の家で倒れていた不審者として、彼を警察に突き出すべきなのだろう。けれど彼は、私の予想が本当に正しいのならば彼は、おそらく"不審者"とはまた違う成り行きの人だ。漫画や、小説の中でだけ存在するような出来事に巻き込まれた、被害者の一人。因みにもう一人の被害者は、言わずもがな、私だ。どうにも不思議なもので、いつもはそうなったらいいのにと妄想に耽っているくせに、実際にそうなると今度は夢であってほしいと願わずにはいられなくなる示す生き物らしい。 そんなことをぼんやり思いながら、今いる住所を彼に説明してやる。その間一貫して黙り込んでいた彼は、私が住所の説明を終えると同時に複雑そうな、なんとも言えない顔つきで口を開いた。

「……正十字学園は、ご存知ですか?」

 知ってます。とは言えなかった。なぜなら彼は別次元の人間で、私が彼の"世界"のことを知っていてはおかしいから。私は貴方を知っているのだと、云ってしまったらきっと何もかも話さなければいけなくなる。それは非常に面倒だ。元来極度の面倒臭がりやな私には、大分荷が重い。そもそも、信じてもらえるかもわからない。頭のおかしい女だと思われるのだけは避けたい。黙っているのもなんだか罪悪感を感じるが、ここは黙っていた方がいいだろう。とは言っても、一歩外に出たら彼は自分で気づくかもしれないが。何せ"この世界"で彼は、とても人気者なのだから。

「すみません。知らない、です」

 言ったあとに募る、罪悪感。胸の辺りがきゅうっとして、息苦しい。まるで騙しているような気分だ。いや、実際知っていて嘘をついているのだから、騙しているのと同じか。嘘をつくのはあまり得意ではないから、うまく言えているか顔が引き攣っていないか、自信がない。特に彼は洞察力が優れていて、非常に鋭い。どきどきどきどき、鼓動の音が彼に聞こえてしまわないか、不安になる。

「……そうですか」

 彼は顔を顰めて、囁くような小さな声でそう言った。どうやら私の挙動は眼中にないらしく、私はとんだ杞憂だと彼にばれないように小さく息を吐いた。

「あの……唐突で申し訳ないのですが、少しの間でいいので僕をこの家に置いていただくことはできませんか」
「……はい?」

 耳を疑った。え、いま、なんて? おそらく顔に出ていたのだろう。彼は困ったように笑って、すみません、と頭を下げた。謙虚だなあ。

「名前も名乗らず失礼でしたね。僕は、奥村雪男といいます」

 そう言ってにこりと、人好きするような笑みを浮かべた彼――奥村雪男に、私はさして驚きもせずどうもと御辞儀をしてみる。正直、ああやっぱり、という気持ちだ。思った通り、彼は生きる次元の違う人。と言っても今はこうして目の前に、同じ空間にいるのだけれど。それは彼も自覚しているようで、「僕はどうやら、元いた世界とは違う所に来てしまったようです」と真剣な面持ちで話している。普通ならそこで即警察に通報するのが落ちなのだが、生憎私は彼の人となりをそれなりに知っているので、そんな無作法を働けない。そんなことをしたら此処に身寄りのない彼はどうなってしまうのか。――まあ、彼ならばどうにでもなりそうだというのが本音なのだが。

「信じては、もらえないでしょうが……僕は、違う世界から来ました」

 何か帰れる道標が見つかるまで、ここに置いてはいただけませんか。そう言って深く、深く頭を下げる奥村雪男に、私はつきりと良心が痛むのを感じた。彼は本当に真剣なのだ。突然なんの身寄りもない異世界で目覚め、それを悟り、悩み、見ず知らずの女に頭を下げる。それは言葉にしてしまえば軽く聞こえるかもしれないが、ひとつひとつが重く、とても重大なこと。私は関わった者として、彼と同じように真剣にそれを考えるべきだろうに……。頭の中は混乱するばかりで、ちっとも彼の"これから"を真剣に考えていなかった。自分が酷く、恥ずかしい。私はひとつ決意をして、今だに下がったままの彼の頭を上げさせる。

「こんな安アパートでよければ、いてくれて構いませんよ。ちょうど一人暮らしなので、誰に気兼ねすることもありません」

 自分なりの精一杯の笑顔で、穏やかに声を掛ける。彼は心底安堵した様子で、またひとつ頭を下げた。本当に謙虚で感心してしまう。

「これからよろしくお願いします。住まわせていただく以上、出来る限りの家事は手伝いますので」
「そんな、気を使わないでください! 住んでいいって言ったのは私なんですから!」

 私がそう言えば彼は、そういうわけにはいきません、と笑顔を見せる。その笑みがなんだか怖くて、有無を言うことができなかったのは、別に私がチキンだからとかでは断じてない。私は彼が彼の生徒に腹黒と称されていることを知っているからか、その爽やかな笑顔を見ると、どうしても黒い微笑みに見えてしまう。腹黒と称される理由がなんとなくわかった瞬間だ、などと大分失礼なことを考えていると、彼は今度こそ爽やか笑みで、お名前は? と尋ねてきた。

「みょうじなまえです。よろしくお願いしますね、奥村くん」
「はい、よろしくお願いします。――あの、よければ、雪男と呼んでいただけませんか? 僕もなまえさんとお呼びするので」

 人好きするような微笑みでそう言うから、私は意味もなく顔が熱くなる。ああ、彼は質の悪い天然タラシだ。その見目に、何人の女の子が彼に惚れたのだろう。私も彼が好きだが、それはあくまで、漫画のキャラクターとして。言い訳みたいに自分にそう言い聞かせて、なんともない顔で笑う。気持ちを押し殺すのは、わりと得意だ。

「じゃあ、雪男くんですね。改めてよろしくお願いします!」
「はい。あと、あの、もうひとつだけ。……おいくつか聞いてもいいですか?」
「えっと、18ですよ」

 女性に年齢を聞くということに抵抗を抱いているのか言い難そうに声の調子を落とした雪男くんを、紳士的だと思いながら答えれば、彼は驚いたように目を見開いた。え、その反応は、なに?

「……18に見えませんか?」
「あ、いえ……少し見た目が幼く見えたので、年上だということに驚いてしまって。あ、僕は、15なんですけど、てっきり同じくらいかと……」

 見た目が幼い、それは彼なりに言葉を選んだ結果なのだろう。だがしかし、残念ながら私は童顔などではなく、むしろ顔だけなら年相応、もしくは少し上に見られるくらいだ。ならば彼は何を見て私を15歳だと思ったのか。答えは簡単だ。身長、という悪魔のような二文字。そう、私は、背が低い。18歳という年齢にして、身長が153cmしかないのだ。雪男くんはたしか180cmだったはず。長身な彼からしてみれば、短躯な私は幼く、自分と同じくらいの年齢だと思われても仕方がない。少なくとも18歳には見えないだろう。なんとか高校生を名乗っていいくらいの年齢だ。まあ、高校生ではないけれど。仕方ない、何せ中学二年生の頃から身長の成長がぴたりと止まったのだから。こればかりは最早どうしようもない。

「……すみません」
「いいですよ。気にしてませんから」

 本当は少しだけ気にしているが、申し訳なさそうに眉尻を下げる雪男くんを見ていたら、そんなことはどうでもよくなる。大体、実年齢より若く見られるのはいいことだ。多分。何はともあれ、これから彼と生活を共にするのだから、こんなことをいちいち気にしてはいられない。

「じゃあ、まずは、お買い物行きましょうか! 一緒に住むならいろいろ要るでしょう?」
「あ、はい」
「あ、コートは脱いでくださいね。結構目立ちますから」

 無言でコートを脱ぐ雪男くんを横目に、私は鞄から財布を取り出し、テーブルの上に無造作に置かれていた携帯電話を掴んだ。そこではたと気づく、私、部屋着のままだ。

「ちょっと着替えてきますね。すぐ済ませますから」
「はい。慌てなくてもいいですよ。ゆっくり着替えてください」

 優しげに笑う雪男くんに一言感謝を告げて、財布と携帯を持ったまま自室に入る。部屋着を脱ぎながら、お買い物かあ、とぼんやり考える。自分から提案したはいいものの、二人で買い物なんてまるでデートのようだ。と、そこまで考えてぶんぶんと首を横に振る。雪男くんの生活品を買いに行くだけであって、これは決してデートなどではない。……でも、なんだか、少しだけ。大好きなキャラクターとお買い物なんて、夢でしかなかったことが実際に起きて、嬉しく思っているのも事実なわけで。

「パンツとスカート、どっちにしよう」

 あれこれと悩みに悩んだ結果、雪男くんを30分も待たせることになるのは、もう少し先のお話。




あなたは夢の見過ぎです

けれど目の前の彼は、たしかに現実

To be continued


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11/11/9 加筆修正




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