此の気持ちに名前は要らない






「奥村くんは好きな子いるの?」

 僕の横でおとなしくノートを覗き込んでいた彼女が突然突拍子もないことを言うから、僕は訝しげな顔をして彼女を見遣った。それをさして気にした風でもなく、彼女は今だにノートだけを見ている。その様子に、また少し不審感が募る。

「みょうじさんには関係ないよ」

 口から零れた突き放すような言葉に、しまったと眉根を寄せても最早遅い。自然な動作でみょうじさんを一瞥すれば、彼女はそっかと笑って決してノートからは視線を外さない。みょうじさんは、不思議な人だ。他の女子のように何かと僕に構うくせに、他の女子のように僕に媚びる様子は一切ない。以前なぜ僕に構うのかと尋ねてみたが、みょうじさんはただ笑ってこう言うだけだった。――奥村くんが寂しそうだったから。それ以来一層、奥村くん、奥村くんと構ってくるようになった。正直彼女のことはあまり知らないので、対応に困ってしまうのが本音だ。それでもわりと長い期間、おはよう、今日もいい天気だね、お昼一緒に食べようよ、午後の授業も頑張ろうね、またね、ばいばい、などと言われ続けていれば自然と打ち解けてくるのが必然というもので。今では自分と兄しか住む人のいない男子寮旧館の自室にまで上がり込むことを許可している。まったく流されっぱなしもいいところだと、自分で自分にため息をつきたくなる。お互いその気が無いとはいえ、みょうじさんは女性で、自分は男だ。しかも今は兄がいない。完全にふたりきり。……って、僕は何を考えているんだ。頭に浮かんだ邪念を振り払うように、咳ばらいをひとつ。自然にできていただろうか。変に思われはしなかっただろうか。一度意識しだすと考えはとまらなくなり、僕は真横でずっと文字の羅列を見つめるだけのみょうじさんにちらりと目線を送った。

「なぁに?」

 幸か不幸か、ちょうど彼女もこちらを見ていたようで、僕の視線に気づいたみょうじさんは小首を傾げて目を丸くした。その仕草がなんだかすごく可愛く思えて、僕はごまかすように眼鏡のフレームを押し上げる。

「なんでもないよ。みょうじさんこそ僕を見てなかった?」
「あ、ずるい」

 話題の中心を自分から相手へ移せば、みょうじさんはずるいと言って微笑んだ。ああ、僕はどこかおかしいのかもしれない。彼女の笑顔を見て動悸がとまらなくなるなんて。

「みょうじさんは、好きな人、いるの?」

 尋ねたあとに馬鹿馬鹿しくなる。自分は関係ないよなんて突き放しておいて、相手のことは一端に気になるのだから、随分虫のいい。それでも一度口から出てしまった言葉はなかったことにはならず、それどころか痛いまでの静寂を引き連れてくるのだから、厄介此の上無い。ふと、黙り込んでいたみょうじさんがにこりと微笑んだ。徐に口を開いて、僕の目を真っ直ぐに見つめる。

「いるよ」

 彼女の眼は酷く真剣で、ああ冗談じゃないんだなとやけに冷静な頭で考える。元来、気安く冗談を言うような人でもないが。

「へえ、同じクラスの人?」

 僕はこんなことを聞いてどうするんだろう。どうするつもりなんだろう。他人の色恋話には今も昔も興味なんてなくて、これからもきっと興味なんて抱かないだろう。何年何組の何々さん、何々くんと付き合ってるらしいよ。クラスの女子がそんな風に楽しげに話している噂話が聞こえても、心動かされるなんてことはただの一度もなかった。元来そういったことに人一倍興味が薄い僕なのに、なぜみょうじさんのことだけは気になるんだろう。なぜこんなにも胸が締め付けられるんだろう。ひとり思考に耽る僕に小首を傾げながら、みょうじさんは違うよと笑う。

「その人はね、特進科の人なの」
「え、」
「すごく頭がよくて、運動神経も抜群で、かっこよくて、女の子にもモテるような完璧な人なんだ」
「…………」
「でもね、なんだかとても寂しい背中をしているの。クラスで孤立してる様子はないみたいだし、女の子にもモテてるんだけどね」

 好きな人を想ってか、頬をほんのり紅く染めて饒舌に語るみょうじさんを、なんとも言えない表情で見ている僕。どことなくシュールなその光景に、もしもこの場に兄がいたら大笑いされることは必至だ。だけど今の僕には実際、そんなことはどうでもよくて。それよりも余程重要なことを、考えなければいけない。――特進科に、そんな超人いただろうか? みょうじさん曰く、その人は相当文武両道で眉目秀麗らしい。特進科にそんな人がいるのなら、自分が知らないはずがない。必死に考えを巡らせてみるが、ぴんとくる人物がひとりもいない。思わず眉根を寄せた僕を気にもとめず、みょうじさんは尚も続ける。

「ひとりでも生きていけそうなくらいしっかりしてるのに、実は脆そうなところとか、儚い感じがしてなんだか放っておけないの」
「……みょうじさんは、その人のことが本当に好きなんだね」

 なんだかよくわからない胸の痛みを抱えながら、僕はにこりと微笑んだ。けれどみょうじさんは、反対に困ったような微妙な笑顔を見せるから、僕は自分の笑顔が余程引き攣っていたのだろうかとひとり焦る。

「奥村くん、気づいてないの?」
「え?」

 何を、とは言えなかった。僕の中でばらばらに彷徨っていたピースがカチリと嵌まる。僕は特進科で、頭はいい方だし、運動もできないわけじゃない。かっこいいかはわからないが、人並みの顔だとは思う。女の子からもよく声を掛けられるし、お弁当を貰うこともある。僕が行き着いた答えに目を見開くと、みょうじさんはくすりと笑って頬を染めた。みょうじさん、とつぶやく自分の声が、酷く頼りない。

「ねえ、私の名前、なまえっていうんだよ。知ってる? ――雪男くん」

 にっこり。花のような笑顔を見せる彼女に、僕の鼓動はどうにかなってしまったらしい。

「知ってるよ、なまえさん」

 君の名前は随分前から知っているのに。僕はこの気持ちの名前を、これからもずっと知ることはないだろう。



(だってちっぽけな言葉なんかじゃ、この気持ちを納得できない)



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処女作。
11/11/9 加筆修正




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