たぶんしあわせうんとしあわせ *名前変換無
才能をください。なんでもできる、あなたみたいな素敵な才能を。私だって、なにもかも平凡に人生を終えたいわけじゃないの。あなたみたいになんでも余裕にこなしてみたいし、みんなからすごいねって持て囃されたい。そう言うとあなたは、くすくすと笑って私の髪を優しく撫でるの。そうすると私は、まるでチョコレートのようにどろどろに溶けて、あなたに流れ込んでしまう。冬の空気のようにひんやり冷たくて、だけど心地好いあなたの微笑みにあてられて、今日も私は溶けるのです。
「でね、雪男くん! ……聞いてる?」
毎日の習慣。あなたとの電話。同室のお兄さんがお風呂に入っている間だけの、秘密の通話。その時間、およそ二十分。だから私は、その貴重な二十分を雪男くんと楽しくお喋りして過ごしたい。なのに雪男くんは、私の話をちゃんと聞いてくれてるのかよくわからない。電話は相手の顔が見えないから、こういうときすごく不便だ。雪男くんは実は面倒だとか、思ってないかな。一度考え出すと思考はどんどん悪い方へ働いていくもので。聞いてるよ、なんて雪男くんが笑っているけれど、今の私はそれどころじゃない。雪男くんに、会いたい。
「ねえ、雪男くん」 『なに?』 「……やっぱりなんでもない」
会いたいなんて、言えないや。ただでさえこうして毎日電話に付き合ってくれてるんだから。それだって私から望んだことで、雪男くんは結構予定を詰めているんじゃないかな。彼がとてつもなく多忙だということを、私はちゃんと知っている。これ以上我儘なんて言えないよ。呆れられたくなんかないし、嫌われるのはもっと嫌。いつだって雪男くんには好きでいてもらいたい。なんて、それが既に我儘なのかな。
『ねえ、会おうか』
電話の向こうで、彼が優しく笑っているのがわかる。どうして雪男くんは、いつだって私の望む言葉をくれるの? なんだかずるい。でも、嫌じゃない。私は自分で恥ずかしくなるくらい明朗な声色で快諾すると、すぐに女子寮を出て雪男くんを待つ。電話を繋いだままでいれば、当然雪男くんにもそれが伝わるわけで、気が早いね、なんて笑われてしまった。
『あ、ごめん、キャッチ入った。いったん切るね』 「うん、わかった」
そう言ってぷつりと通話は途絶える。寂しい。でも、すぐに会える。そう思えば、あら不思議。寂しさなんて吹っ飛んじゃう。鼻歌交じりに携帯電話をいじっていると、突然手の中のそれが震え出す。――雪男くんだ! ディスプレイに表示された名前を見た瞬間に舞い上がった気持ちをそのままに、通話ボタンを押して携帯電話を耳にあてがう。
「もしもしっ!」 『もしもし。――ごめん。会えなくなった』 「……え?」
思わず素っとんきょうな声を上げて硬直する私に、雪男くんはひどく丁寧に事の経緯を説明してくれた。さっきの電話が塾長からの緊急業務連絡で、明後日までに彼が受け持つ科目のテストプリントを作成しなければいけなくなったらしい。齢十五という若さで塾の講師を務める雪男くんは、それだけでも忙しいのに、みんなと同じように学校生活を送りながら自身も毎日勉強に励んでいるのだから、その苦労は計り知れない。だから、いくら寂しくても、私は彼に気苦労をかけたくない。胸中は残念な気持ちでいっぱいだけど、それを声に出したりはしない。努めて明るい声音で答えて、電話を切ろうとすると、雪男くんに待ったをかけられた。
『もしよかったら、もう少し電話で話さない?』 「え? いいの?」
プリント作らなくちゃいけないんでしょ? そう問えば、良いんだ、と優しい雪男くんのココアみたいにほろ苦く甘い声。
『会うまではちょっと無理だけど、電話くらいなら大丈夫だよ。兄さんが戻って来るまであと十分はあるから、それまでたくさん話そう』
優しい言葉に、思わず涙が出そうになる。ありがとう。僕の方こそ、ごめんね。気にしないで。ありがとう。ふたりして笑う。自室に戻る道すがら、声を潜めてお喋りしていると、なんだかすごく悪いことをしているみたいで、どきどきわくわくした。楽しくて、なんだ、会えなくても寂しくなんかないや。雪男くんとのお話は今の私にとってなくてはならない習慣で、その時間はとびきり甘くておいしいケーキを食べたときよりもしあわせで、とろけてしまう。あなたが私の言葉に相槌を打って、その甘さに溶けてしまった私は、あなたをまた一段と好きになるの。そうやってあなたをどんどん好きになっていつの日か、私は跡形もなく溶けて、無くなるのかな。それでもきっと、私はしあわせ。
「雪男くん、すき」 『僕は愛してる』
耳元で囁かれる愛の言葉に、体がぽうっと熱を持つ。冬のこたつみたいな、気持ちの良い暖かさ。鼓膜から脳へと流れ込む言の葉たちは、彼自身のように優しく心地好い。この時間があと八分しか続かないなんて。そうは思っても、お仕事だから仕方がない。さすがにそこで文句を言うほど我儘でもない。私はいつだって彼の疲れを癒すような存在でいたいのだ。雪男くんが私にとっての陽だまりであるように、私だって、そうで在りたい。
「私、雪男くんを元気づけられるように頑張るね!」 『え、いきなりどうしたの?』 「んー? ふと思っただけ」
甘いなあ。今この瞬間が。とろけそうなくらい顔が緩んで、本当にみっともない。でもいいの。しあわせだから! なかなか会えないから、寂しくなるときはいくらでもある。そんな日は電話越しに甘えてみるの。そうすると彼はくすくす笑って、私をうんと甘やかしてくれる。それだけで不思議なくらい満たされる。だから会うのと同じくらい、電話って好きなんだ。
「雪男くん、今度の日曜空いてる?」 『あ。……僕が先に誘おうと思ってたのになあ』
ちっとも悔しくなさそうな声でそんなこと言うから、私は満たされた心で窓を開いて夜空を見上げてみる。星はないけど、月は綺麗。雪男くん、月、綺麗だよ。しっとりとそう言えば、電話越しにガタリと音が鳴り、窓を開け放つ快音。
『本当だ、すごく綺麗』
穏やかな声と、澄んだ空気。夜の冷たさに身を包めば、携帯電話から流れる雪男くんの声が、まるで声楽みたいに心地好い。離れてるのに、近くにいるみたい。
「同じ空の下、なんだね」 『そうだね。離れていてもこうして繋がってるんだ』 「素敵だなあ」
ほうっと息をついて、瞼を閉じる。その裏に浮かんだ愛しい人の微笑みに、自然と心が暖まる。あなたの声に耳を傾け、その緩やかで穏やかな一時一時に身を委ねると、私の頬は桜のように色づいて、心が満開を迎えるのです。
「そういえば、そろそろお兄さんが戻って来るんじゃない?」 『良いんだよ、少しくらい待たせておけば』
雪男くんが少し意地悪な声で笑うから、私は意味がわからずに思わず小首を傾げてしまう。そんなことしても相手には見えないのに、電話で話しているとつい余計な動作までしてしまうものだ。なんだか少し恥ずかしくなる。だから気づかなかった。雪男くんの言葉の意味も、電話を始めてからとうに二十分を越えていることも。彼のお兄さんの、気遣いも。
「でね、雪男くん! ――え、なんで笑ってるの?」 『ふふ、いや、幸せだなあって思って』
しあわせなあなたとしあわせな私。ふたりで笑い合えば、きっともっとしあわせだよね。
たぶんしあわせうんとしあわせ
(それもこれもあなたとだから!)
- - - - - - - - - - 恋人の雪男くんと電話。 ベビーピンクの花畑様への提出作。 |