三門市立第四中学校。三門市の中でも辺鄙な場所に位置し、近界民も滅多に現れない比較的平和でのんびりとした学校。田舎とまでは言わないが、中心街からは離れた立地のせいか「流行」や「個性」には少し敏感。なんてことない至って平凡な本校の上空には、今日も雲一つない青空が澄み渡っていた。そんなある朝の出来事。ひとつのニュースが私の耳に届いた。 「緑川、ボーダーのA級隊員に昇格したらしいぜ!」 ぱっと声が響く方向へ顔を向けると、まるで自分のことのように興奮しながら熱く語るクラスメイトの姿。ボーダーに入隊できただけでも脚光を浴びるこの学校で、正隊員どころかその中でも「精鋭」と評されるA級隊員。学校中で話題にならないはずがなかった。 ドクンドクンと高鳴る鼓動を胸に手を当て落ち着かせる。深呼吸をひとつ。よし、大丈夫。私は落ち着いてる。緑川くんが、A級。緑川くんが、A級。ゆっくりと頭の中で情報を噛み砕いて、消化した。もう一度息を深く吸って……なんて悠長なことをしている間に、今日のヒーローが教室に入ってきた。 思わず目を奪われてしまうが、それはこのクラスにいる誰もが同じこと。当の本人は数多の視線に怯むことなく、むしろニヤリと不敵に笑った。 「あれー?もしかしてもう知ってんの?情報早いね。」 瞬く間の出来事だった。わぁっ!とクラスメイトに囲まれた彼は落ち着いていて、各方向から捲し立てられる質問に軽く返事をしつつ、私の前の席に腰を下ろす。私は彼に話しかけることはせず、無造作に跳ねた後頭部を後ろからじっと見つめた。落ち着かせた鼓動はいつの間にか、再びドクンドクンと鼓動を増していた。 私は彼、緑川駿くんに、密かな恋心を抱いている。 ■■ 思えば、緑川くんはいつだって格好良かった。小学校の頃から明るくハツラツとしていて、それでいて何でもそつなくこなせる器用なタイプ。少々生意気な一面があるため先生からは目をつけられていたけど、そんなところも私たち同学年からはポイントが高かった。私たちが躊躇ってしまうラインをぴょんと軽く飛び越えていく。そんな身軽さと思い切りの良さがただただ眩しかった。 だからと言っていいのかわからないけど、私は緑川くんがボーダー隊員になると聞いたとき、それほど驚きはしなかった。この地区でボーダーに入隊する人は少なく珍しいけれど、緑川くんには都会に対する底知れぬ恐怖とか、敷居の高さとか、そんなものは関係ないのだろう。まだ入隊も決定してない頃、教室のド真ん中で高らかに宣言した彼に、私は心の中から密かにエールを送った。 緑川くんは、ボーダーに入る前も、入った後も変わらず格好良い。A級に昇格するまでの武勇伝が一体いくつあるのだろうか。本人に聞いてみたい気持ちは十二分にあるが、彼とは対照的に引っ込み思案で冴えない自分とのギャップにいつだって開きかけた口を閉じた。別にいいの。見てるだけでしあわせだから。 けど、こういう場合、私は一体どうしたらいいんだろう。 「緑川、お前最近調子乗りすぎじゃね?」 「軽ーくボコらせろや。」 「あんたら誰?見覚えないんだけど。」 学校帰り、校舎裏の目立たない場所にて。緑川くんが先輩に因縁をつけられていました。 「お前、鬱陶しいんだよ」 「下級生のクセに生意気な態度取りやがって」 「へぇ。ってことはあんたら先輩?後輩に寄ってたかって、なんていうか…ダサいね!」 にっこり笑う彼の表情からは皮肉の色が見え隠れしている。3人の先輩に囲まれているにも関わらず相手を煽っていく緑川くんに、こちらが冷や汗をかいてしまう。せ、先生とか読んだほうがいいのかな…。 「口の聞き方に気ィつけろや!!」 振り下ろした拳をひょいと簡単に避ける緑川くんに、見ていた残りの2人も危害を加え始めた。持ち前の反射神経で避けつづけていた緑川くんを、ハラハラしながらもなんとなく安心した気持ちで見守っていたのが凶と出たのか、先輩の拳が緑川くんの右頬を思い切りよく殴った。鈍くて嫌な音が響き渡る。私はヒュッと息を飲む。緑川くんは殴られた勢いのまま地面に尻餅をついた。 「ハッ、ザマァねぇなぁ。いいのか?優秀なボーダー隊員サマ、トリガー使ってもいいんだぜ?」 ニヤニヤと背後でスマホを構える先輩のなんと意地の悪いことだろう。一発入れたことでいくらかスッキリしたのか、座り込んだ緑川くんを満足気に見下ろす先輩たち。もう見てられない。慌てて先生を呼びに行こうとした、そのときだった。 「使うかよ。」 「……あ?」 「あんたらみたいな小物、トリガー使う価値もないね。」 フッと笑って相手を小馬鹿にした緑川くん。殴られて、見下ろされているはずなのに、私の目には緑川くんが相手を見下しているように感じた。カッとなった先輩は、再び緑川くんに拳を振り上げた。 「死ね!!!」 「せ、先生!!こっちです!!生徒同士が喧嘩してます!!」 呼びに行く時間すら惜しかった。普段大して使わない声帯を震わして、叫んだ声は向こうまできちんと届いているだろうか。「やべぇ」「はやく」、慌てた声色とバタつく足音に、鼓動の音だけがうるさく響く。シン…と静まり返った空間にようやく息を吐き、建物の陰から様子を伺った。緑川くん、ちゃんと逃げ切れたかな…… 「ねぇ。」 「ぅきゃっ!?」 「今の、あんたの仕業だよね。」 大きな瞳にじっと見つめられ、思わず視線を彷徨わせる。かろうじて肯定の意を示すため頷くと、目の前の彼は押し黙った。口を開いたと思ったら、漏れたのは微かな息の音だけ。今度は緑川くんが視線を彷徨わせはじめた。そんな不思議な彼の行動を見守っていると、「あ、のさ。」と歯切れの悪い言葉が紡がれた。 ナマイキやって、先生に怒られているときすら口籠もることのない緑川くんが、たかだか私相手に戸惑っている。理解した瞬間、軽い衝撃を憶えたが、そんな私の戸惑いには気づかなかったようだ。 「……ありがと。」 その物言いはなんともヤケクソで、「ほんとは言いたくなかった」感に満ち溢れていた。そのまま去ってしまった緑川くんを目で追いかけることもなく、頭が真っ白になった私は、目を見開いてその場に硬直した。 顔が、身体が、ひたすらに熱い。 ■■ 次の日の朝、天気は快晴。昨日と大して変わらず、雲一つない青空が澄み渡っている。今日もいつもと変わらず、平和でのんびりとした日常が待っている、はずだった。 「……おはよ。」 「えっ、……ぉ、はよう。」 私の前の席、いつもならこちらを見向きもしない彼の瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしていた。突然の挨拶は私を驚かせるには十分すぎて、咄嗟に返した挨拶はあまりにもか細いものだった。そんな私を緑川くんは数秒、じっと見下し、何も言わずに着席した。少しして彼の周りには人が集まる。非日常が日常へと戻ったことに、安心と戸惑いの気持ちが入り混じった。 それからというもの、私の平凡な日常に非日常という名のスパイスがほんの少しだけ、加えられるようになった。なんてことはない。朝の「おはよう」と帰りの「ばいばい」、プリントを後ろにまわすとき緑川くんと目が合うようになったとか、たまに次の授業を聞かれるとか、そんな程度のことだ。たくさんお話しする仲になったわけでもないし、ましてや親睦が深まったわけでもない。ただ少し、緑川くんに私の存在が「認識」されるようになった。それだけの話と言ってしまえばそれまでだけど、私はその"ほんの少し"の非日常がたまらなく嬉しかった。 「ねぇ一ノ瀬」 「どうしたの?」 「ボーダー、入らないの。」 またある日の出来事。くるりと振り返り、私の目を見て真剣な声色で話す緑川くんは、なんだか吹っ切れたような表情を浮かべていた。言葉の意味を正しく理解した私の頭の上に、無数のハテナマークが浮かぶ。一体彼の頭の中で、どんな議論が行われたのだろうか。 「えっと、たぶん私じゃ試験に落ちちゃうよ。緑川くんみたいに運動神経よくないし。」 「戦闘員が向いてないならオペとかやればいいじゃん。トリオン少なくても大丈夫だし。」 「おぺ…とりおん……」 ポンポン飛び出す専門用語にますます首を傾げる。そもそも、緑川くんがこんなにたくさん話しかけてくることすら珍しかった。熱を帯びそうになる頬を必死に抑えつけ、なんとか返事をする。この不思議なやりとりは、ボーダーの勧誘とみていいのだろうか?万年人手不足とは聞いているけど、緑川くんがわざわざ私に声かけてくる特別な理由は、全くと言っていいほど分からない。 「あの、なんで私…?」 「別に、特に理由はないけど。」 嘘、それは絶対に嘘だ。私が知っている緑川くんは、無闇に他人をボーダーに勧誘するような人じゃない。それを裏付けるように私からスッと逸らされた視線にますます疑惑の念が浮かび上がる。一体、どうして?そんなことを考えているうちに、1人の男子生徒が緑川くんの席に近寄ってきた。 「おーっす緑川。……あれ?珍しいな。一ノ瀬さんと話してんの?何の話?」 「別に、大した話じゃないよ。」 内心ビックリである。ボーダーへの勧誘って、大した話じゃないの?なんではぐらかしたの?なんてことないような顔で友達と話を合わせる彼をポカンと見つめた。そんな私をチラリと横目で見る緑川くん。「余計なこと言うなよ」的な意味合いが見て取れたため、とりあえず頷いておいた。 「えっなになに、今のアイコンタクト。」 「なんでもないって。」 先ほどはサラリとかわした質問も2回目となってはさすがに苦しい。ニヤニヤと表情を変えたクラスメイトに、露骨にイヤな顔をする緑川くん。 「……緑川、一ノ瀬さんのこと好きだったりする?」 「そんなわけないじゃん。話が飛躍しすぎ。」 思わぬ質問にドキッとしたのも束の間、呆れた顔でため息を吐く緑川くんに膨れた気持ちが萎んでいく。突拍子もない質問に速答できてしまうくらいには、私はなんとも思われていないという事実に、胸がジクジクと痛みに悲鳴を上げた。それでもなんとか平常心を保ち、口下手な私はにこにこと愛想笑いを続ける。 えー、と落胆の声をあげるクラスメイト。頼むからもう余計なことは言わないで…なんて思った直後、明るい表情でこちらを見る姿にイヤな予感がした。 「一ノ瀬さんは?緑川のこと、どう思ってんの?」 「は!?」と慌てた声がどこからか聞こえた気がしたが、ドッと冷や汗をかく私には気にする余裕もなかった。「こいつ、ボーダー隊員でA級なんだぜ、すごくね?」と自慢気に話されるが、それはもう知ってます。 それに、A級になったとか、ボーダー隊員だからとか、そんなことはどうだっていい。私が緑川くんを好きになった理由は、"ボーダーA級隊員"だからじゃない。何年もかけてじっくりと温めてきた恋心を、こんな場面で伝えたいとも思わなかった。 「……秘密、かな。」 「…!」 「えー、2人ともつれねーなー」 興が削がれたように去っていったクラスメイトに内心ホッとする。そういえば、緑川くんとの会話の途中だった…と前を向き直し、思わず目を見開いた。いつも笑ってる印象の緑川くんが眉間にシワを寄せ、何やら難しい表情をしていたから。 「み、縁川くん…?」 「ねえ、やっぱりボーダー入ってよ。戦闘員でもオペでもエンジニアでもいいから。」 「え、エンジニアって…」 そんな無茶な…とさすがに言い返そうとした瞬間、机の上で握りしめていた私の手を覆うように、緑川くんの手がぎゅっと優しく握りしめた。思わぬ感触に目を見開き、自身の手を凝視する。 「あのさ、」と聞こえた声は、きっと聞き間違いだと思った。いつも自信に満ち溢れていて、誰が相手でも萎縮することなく堂々としている。そんな彼の声が、少しだけ震えていたから。 「次は絶対、"カッコいい"って言わせるから。」 「……え、」 「覚悟しといて。」 私を置いてけぼりにして言いたいことを全部言った緑川くんは、くるりと前を向いてこちらを向く気配すら感じさせなかった。今の出来事、全部まとめて夢なんじゃないかとすら思ったが、後ろから見える緑川くんの耳は赤く染まっていて、今の出来事が現実だと思い知らせてくる。林檎のように赤く染まった頬を両手で押さえ、上昇する熱を必死に抑えた。 知らない。何年も見てきたのに、あんな緑川くん知らない。ただでさえ格好いいのに、もっとカッコよくなっちゃうの?ボーダーに入隊したら、もっとカッコいい緑川くんを見ることができて、それってつまり、 「…みどりかわくん。」 「…………。」 「わ、私……ボーダー入隊するね。」 もう後ろは向いてくれないと思っていたのに、"入隊"の言葉を聞いた緑川くんは反射的に振り向いた。パチリ、目が合った瞬間、顔が燃えるように熱くなった。私の熱が移っちゃったのかな、緑川くんの顔も真っ赤だ。えっと、何言おうとしたんだっけ、あ、そうだ、つまり、つまり…… 「きっと私、緑川くんのこと……もっと好きになっちゃうね。」 緑川くんにだけ聞こえるように、私の"秘密"を暴露した。何年もじっくり温められ、とろとろに溶けたあまったるい私の恋心はちゃんと緑川くんに届いただろうか。押し黙り、ゴクリと喉を鳴らした緑川くん。彼が口を開く前に、チャイムの音が私たちを現実へと引き戻した。 次の日、緑川くんが入隊申込書を私の机に叩きつけ記入するまで帰してくれないことも、入隊後は毎日一緒にボーダー本部まで足を運ぶようになることも、ボーダー本部では緑川くんがたくさんお話してくれることも、幸せいっぱいで浮かれた私には想像できるはずもなかった。 back page |