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桜の満開も近い日差し柔らかな春。
隣で眠る一さんを起こさないように、そっと布団を抜け出した。

辺りはまだ暗い。
日が登りきらないうちはまだ残る少しの寒さに手を擦り合わせた。
自身の手を少しでも温めようと吐き出した息がほのかに白い。
そこまで寒さに耐性のない体に羽織ってきた上着をかけ直して、縁側に座って夜明けを待つ。
太陽が顔を覗かせるまで、きっともう少し。

「そこで何をしている」

突然背中にかかった声にびくっと肩を揺らした。
細心の注意を払って隣を抜けてきたというのに、どうやら起こしてしまったようだ。
単に彼が剣客として凄いのか、私が不甲斐ないのか、一体どちらなのだろう。
どちらも、といった意見は心に傷を作るので遠慮したいところである。
きっと前者だと信じよう。

「一さん。起こしちゃいましたか」

声を発した主を振り返って苦笑い。
すぐにまた視線を空に戻すと、私に習って一さんも隣に腰を下ろした。
どうやら彼も興味があるらしい。

「こんなに朝早くに何があった」

「何かあったんじゃなくて、これから起こるんですよ」

これから起こる光景を思って小さく笑んだ。
ふと腰回りに温もりを感じて上空から目線を下ろすと、原因は隣に座る一さん。
彼の腕が私の腰を抱いている。

「朝方はまだ冷える。こうしていれば少しは温かいだろう」

二人で生活してからしばらく経つとはいえ、こうして詰まった距離が少し恥ずかしい。
けれど、近付いた距離を嬉しく思う気持ちも本当で、これくらいなら大胆になってもいいかと彼の肩に頭を預けた。
肩越しに見上げた一さんの頬がほんのりと色付いているのが、暗さに目が慣れたおかげではっきりと分かる。
前々からそうだが、一さんは少し照れ屋だ。
一さんの為にあえて少し、と言っておこう。

「あ、一さん。見えてきましたよ」

彼の横顔が照らし出されて、時間だと空へ視線を戻した。
私たちの家を囲む山々が日の光を浴びて徐々に顔を出す。
その山頂辺りの空が次第に白くなっていく様がとても綺麗だ。
もう少し明るくなってくると、夜と朝が入り交じって紫がかった空を拝めるだろう。
それがまた好きで、最近は早起きが楽しみの一つとなっている。
こんなに朝早く起きるのは毎日とはいかないので、週に何度かしか見れていないのだが。

「これが見たかったんです」

個人的な意見だが、春は夜明けの瞬間が一番綺麗だと思っている。
春を知らせる桃の花や、咲き乱れる桜の花。
もちもちとした食感が楽しい甘い桜餅に、花を思わせる色鮮やかな三色団子。
春らしく微笑ましいものは沢山あるけれど、この時期にしか見れないこの景色は、何にも代えられないだろう。

「なまえ、次から俺も邪魔をしていいだろうか」

朝の知らせから隣の一さんに視線を移す。
朝日に照らされた一さんが眩しくて目を細めた。
眩しい光の中で見えたのは彼の笑顔。
優しく笑う一さんに鼓動が高鳴った。
綺麗なのは空だけではなかったらしい。

「気に入ってもらえました?」

一さんの表情を見れば一目瞭然なのだが、気になって聞いてみた。
自分の好きなものを好きになってもらうというのはなかなか嬉しい。
ましてや、その相手が想いを寄せている人だ。
結婚はしていないので夫婦ではないが、生活を共にしているので近いものはあるかもしれない。
同じ好きを共有出来て嬉しいに決まっている。

「あぁ、綺麗だ。とても」

一さんの言葉にまた胸が高鳴った。
綺麗な風景に言ったのであって、決して私に言ったのではない。
分かってはいても、まるで私に向かって言われたような錯覚に陥ってしまう。
顔が熱い。

「はい、綺麗ですね。とても」

すぐそこにある一さんの手に自分の手を重ねて握る事で羞恥を凌いだ。
目を伏せる私の頭上でくすりと小さく笑う声がした。
凌いだはずの熱が上昇した気がして、頭を預けていた彼の肩口に顔を埋めた。

一人で眺めても美しいと感じていた景色を、愛しい人と二人で眺めるとより美しいのだと知った今朝の気分は、とても澄んでいて心地良い。
早起きは三文の得といった諺を体験して、なんだか嬉しくなった。