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過去のお返し



家を出る時は間違いなく快晴だった。
美味しそうな綿菓子のようにふっくらとした雲が青い空に浮かび、どこかに出掛けたくなる気にさせる天気であったはずだった。
待ち合わせている人に会える喜びもあいまって、うきうきとしながら軽い足取りでやってきたというのに、なんだこの雨は。
楽しみにしていただけにショックも大きく、気分と共に肩も下がる。
予測していなかった為に傘の持ち合わせがない。
少しでも雨を凌ごうと、待ち合わせ場所近くにあるカフェに小走りで駆け、屋根の下へと体を滑り込ませた。
一心地つくとハンカチで多少塗れた体を拭う。
私はこの程度で済んだが、待ち合わせている彼は大丈夫だろうかと心配になり、しとしとと涙を流す空を見上げた。
カジノで働いてる為彼の睡眠時間は通常朝から始まるのだが、約束した時間は昼なので、精々仮眠をとれたくらいだろう。
そんな疲れきった体を雨に濡らすだなんて、更に体力が削られてしまうのではないだろうか。
やはり午後からの待ち合わせにするべきだったかと後悔するが、私がどれだけ提案しても彼は首を縦に振ってはくれない。
頑なに頷いてはくれないので私が折れるのだが、大事にしてくれていると分かるので、喜びも手伝って甘受している部分もある。
それでも彼が心配な事には変わりがないので、会えばいつも同じ言葉を送ってしまう。
お疲れ様、と。
変に言葉をかけるより、労って労りたいと思った。
今日も会ったら一番に言おうと、雨模様の空を見上げたままくすりと小さく笑った。
瞬間、影が私を覆った。
何事かと顔ごと真上を向くと、青く可愛らしいデザインの傘がそこにあった。
突然現れた傘の存在に数度瞬くと、持ち主を確認しようとゆっくりと振り返った。
きっと先程まで私の胸の中を占めていた彼に違いないと確信しながら。
いや、私の胸の中を占めるのは先刻だけではない。
いつだって彼だ。

「ユアン」

私に傘を差し出しているユアンに微笑みかけると、普段分かりにくいユアンの表情が和らいだ。
あまり濡れていないところを見ると、彼は早い段階で雨を防げていたらしい。
いつも身に纏っている優美な服はなんら変わりはない。
ユアンの無事を確認すると、よかったと小さく息を吐いた。

「遅くなって、ごめん」

「ううん。そんなに待ってないし、大丈夫だよ」

申し訳なさそうに謝るユアンが、私との距離を詰めた。
ぴったりと寄り添うように対面するユアンが伸ばしてきた手に髪を絡め取られて、それだけで胸がドキドキと騒ぎ出し落ち着かない。
撫でるように髪を掬うユアンに、ざわつく胸を落ち着かせて笑顔を向けたのだが、彼はまだ安心出来ていないようだ。

「でも、こんなに濡れてる」

濡れていても綺麗だけど、と付け加えられたユアンからの言葉に、せっかく落ち着かせた胸の音が一層増して、最早隠すのは至難であると、少し顔を俯かせた。
嬉しいけれど恥ずかしくてそわそわと落ち着かず、ユアンの顔を直視する事が出来なかった。
どれだけ共に過ごそうとも、未だに慣れない感情に振り回されてばかりいて、いけないと俯かせた顔はそのままに目線だけを上げ口を開いた。

「ユアンは、その傘どうしたの?」

きっと道中雨に困って購入したのだろうと予測はしていた。
しかしユアンが今手にしている傘のデザインを見る限り、女性用である事に間違いはない。
傘を入手したまでの意図は分かるが、女性用の傘を選んだ理由が分からない。
男性用にデザインされた傘も持っているのかと思ったが、どう見てもここにある傘は一本だけ。

「貴女は覚えている?貴女と俺が初めて会った、子供の頃の話を」

勿論覚えている。
怒られて泣いていた私は、善行をして許しを請おうと、通りがかりの男の子に傘を貸した事がある。
小さい頃の出来事だったのですっかり忘れていたが、ユアンのおかげで思い出す事が出来た幼少時の出逢い。
まさかその男の子とこうして再会した上に恋人としてお付き合いをする事になるとは、当時からは全く想像も出来なかった。
首肯して続きを促すと、聞く体勢に入った私に届いたのはたった一言だった。

「お返し」

もう少し続くと思われた話の続きは一言で終わり、呆気にとられた私はぱちぱちと目を瞬かせた。
お返し、とはどういう意味であるの分からず、正確な答えを聞こうとユアンの言葉を復唱すると、手に持っていた傘の柄を私に握らせながら彼は頷いた。

「そう。あの時の、お返し」

されるがままに渡された傘を持ち、眺めた。
つまり、子供の頃に私がユアンに貸した傘のお返しがこの傘だ、という事か。
なるほど、女性用のデザインの傘を持っていた理由がやっと分かった。
可愛らしい傘に笑みが深まり、喜びを表すようににっこりと微笑んでユアンを見た。
私からのありがとうに、ユアンも満足気に見える。
今更だけど、と言いながらその表情は優しい。

「あれ?でも、そうしたらユアンの傘がないよね?」

そろそろ行こうとかけられた声で、傘が一本しかない事に気付きユアンを見上げた。
買ってきたのなら何故二人分購入しなかったのかと、首を傾げた私からつい先程手渡された傘を奪われ、再びユアンの手の中に納まった。
何をしようとしているのか尚分からなくなりじっとユアンを伺っていると、ぐいっと肩を寄せられ体をよろめかせながらも彼の腕の中にすっぽりと納まる。
顔を上げると、より近くなったユアンとの距離に大人しかった胸が急激に高鳴って、急いで目を背けたものの、早まった鼓動は収まってはくれない。

「こうするから、平気」

恥ずかしさは感じても嫌ではなく、むしろこうして近くにいたいと思ってしまったからなのか、うんと返して大人しくユアンに寄り添った。
雨で少し肌寒い空気が暖まっていく感覚に頬が緩む。
些細な事でも幸せをくれるユアンと共に、足場は悪くとも気分は良い一歩を踏み出した。

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梅雨という事で。
元々拍手用だったのでカット多い。
気が向いたら書き直します。