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Kiss me.



「よし、帰るか」

シンクに溜まった食器類を全て洗い終え、一つの曇りもなく磨き上げた。
店内の掃除も完了し、まるでブルーベルが輝いているようだ。
ぐるりと辺りを見回して確認をしてはよしっと満足気に一人頷いた時、背後からかけられた声に振り向くと既に帰り支度を終えたアレクがそこにいた。
彼も己の仕事を済ませたらしい。
隠さなければならない関係だからなのか、こうして二人でいれる時間が嬉しくて、うんっと元気な返事をすると急いで帰る支度をしようと身に付けていたエプロンを脱ぎ取った。

「おい」

後は鞄を持てば帰る支度が済むというところで呼びかけられ、一度静止して声の主を見る。
呼び止めたにも関わらずなかなか続かない言葉に首を傾げていると、手を出せと言われて尚訳が分からない。
いいから早くと急かされるまま黙って手を差し出すと、私よりも大きく骨張ったアレクの手にそっと包まれ撫でられた。
急な事に驚いて反射的に反応した体がびくっと跳ねたが、気付かれなかったのかアレクの視線は包まれた手から動きはしない。
自分の手に何かおかしな点があっただろうかと、彼の視線を追うように手元に目をやるが何も変わりはない。
聞かなければ分からないままだろうと、語尾に疑問符を乗せて名前を呼んだ。

「アレク?」

「…手、荒れてんな」

ぼそりと返ってきた答えは私を心配してのもので、アレクの優しさに心が温まり笑みが漏れる。
不器用だけれど思わず笑顔になってしまう優しさをいつもくれる。

「水仕事多いし、仕方ないよ」

令嬢らしい綺麗な手ではないかもしれない。
しかしこれが仕事であるし、ブルーベルで働く日々を気に入っているので私は構いはしなかった。
無論令嬢に成り済まさなければならないので、肌のケアを怠ってはいないが。
心配する事はないと伝えたくて、にっこりと出来る限りの笑顔でアレクを見上げた。

ここで、そうかと言って目元を緩めたアレクに油断しきっていた私が悪かったのだと思う。
離すと思われた手が次第に高く上がっていき、辿り着いたのは彼の唇。
ちゅっと小さく音をたてて私の手にキスが落とされた。
突然の事に真っ白になった頭が現状を把握すると、沸騰しそうなほど熱くなる。
ついには口付けられた手から熱が伝わってくるような感覚に恥ずかしくなって、アレクの顔を直視出来ずに目を伏せた。

「そんな顔すんじゃねー、バカ」

言いながらぐいっと手を引っ張りずんずんと歩き出すアレクに、引き摺られるようにしてブルーベルを出た。
今度は何だと目の前を歩くアレクに必死でついていくが、歩幅が違う為いくら頑張っても小走りになってしまう。
家までこれでは体力が続かないだろう事は簡単に予測出来たので、確実に反応してもらえるように少し大きめの声で彼の名を呼んだ。
望み通り反応を示して振り返ったアレクの顔は、ぶすっと不機嫌に見えるものの頬がほんのりと赤い。

「急にどうしたの?アレク、変だよ」

「お前のせいだろうが」

知らないうちに何かしただろうかと記憶を辿るが覚えはなく、むしろ私がされた側ではないかと先刻のやり取りを思い出し再び熱がこもる。
いきなり何をしてくれたのだとじっとアレクを見る目が非難めいたものになってしまっても、私は何も悪くはないはずだ。
はずだが、だからと反論しようと口を開いたアレクは繋がれた手に力を込めて言葉を荒くした。

「お前可愛すぎんだろ」

怒られるのかと思わせた荒い言葉は予想外に褒め言葉で、ストレートな表現に何も言えないまま顔を俯かせる事しか出来なかった。
恥ずかしさと嬉しさで、絶対と言えるほどおかしな顔をしているだろう。
こんな顔をアレクに見られたくはなかった。

繋がれたままの手がくいっと引かれて二人で歩き出す。
考慮してくれたのか、私にもついていけるほどに歩幅はゆっくりとしていて、また小さな優しさを感じる。

「さっさと帰るぞ。ここじゃ抱き締める事も出来ねぇ」

前を向いたまま放たれた言葉に照れよりも喜びが勝って、熱の下がりきらない顔を緩ませた。


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5月23日はキスの日だそうですね。
キスの日にちなんで即席で書いてみましたが、大したもんでもなく…
きっと家でちゅっちゅするんだろうと思います(笑)