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月が綺麗でした



仕事帰りに飲みに行かないかと誘われて、会社のメンバーと居酒屋で食卓を囲んでいる。
場所はあの時と同じ池田屋。
揃った顔触れも大して変わりはない。
ただ一つ違うのは、共に過去の日本へとタイムスリップした先輩がいない事だけだった。
一緒に現代へと帰ってきたはずだった。
出社すれば先に着いていた先輩がおはようと笑いかけてくれていたし、数日の間は毎日のように顔を合わせていたのだから、一緒に帰ってきたのは間違いない。
それが突然姿を消して、ある日を境にぱったりと先輩を見なくなった。
確信にも似た胸騒ぎがして家まで足を運んでみたものの不在で、表札を確認すると住人の名前は先輩のものではなくなっていた。
信じたくなくて目を見開き息を飲む。
シャツがくしゃくしゃになるほど胸元を掻き毟り、悪い予感を掻き消した。
きっと引っ越しただけだ、そうに違いないと自分に言い聞かせて、後ろ髪を引かれる思いを振り切り、先輩の住居であったはずのマンションを去った。
次の日、会社の同僚に話を振ってみても、上司に聞いてみても、誰一人として先輩を覚えている人はいなかった。

どうして。

どうして誰も先輩を知らない。
どうして忽然と消えた。
どうして俺に一言も相談してくれなかった。
どうして、悪い予感ばかりが当たるのか。

神の計らいなのか、消えた先輩は現代に存在しないものとなっていた。
消えた先は既に分かっている。
きっと過去の日本へと戻っていったに違いない。
先輩は幕末へ戻っていってしまうのではないかと心のどこかで思ってはいた。
幕末時代を過ごしている時から、先輩の気持ちに勘付いていたからだ。
それを都合のいいように気持ちに気付かない振りをして、現代へ帰れば傍にいれるのは俺だけだからと、甘い考えでいた結果がこれだ。
帰ってきてからというもの、会社でおはようと言って出迎えてくれる笑顔も、俺のくだらない話に向けてくれた笑顔も、曇っていたのは目に見えて分かっていた。
何故笑顔が明るくないのか、ずっと先輩を見てきた俺が気付かない訳がない。

あぁ、好きな男が出来たのかと、四季で働きながら随分と落ち込んだものだった。
しかし自分達の時代に帰ってきた時、隣にいられるのは俺だけだと思い込んでいたし、振り向かせようと決意もしていた。
帰るまでの辛抱だと、ぐっと拳を握って耐えていたというのに、いざ帰ってきてみればその人はもういない。
波乱ばかりの幕末時代へ帰りたいと思うほど、先輩はあの人に惚れ込んでいたようだ。
俺も後を追おうと桜の木を何度か訪れてみたが、何も変化は起きず、俺だけがぽつりと一人取り残されたような錯覚に気が狂いそうになった。
今まで当たり前のようにいた先輩が、いない。
ぽっかりと穴が空いたような心を保つのは、苦しいと一言で表せるものではなかった。

それでも日常に差し障りのないように普段通りを努めようと、笑顔は絶やさなかった。
周囲に心配をかけたくはなかったし、話せる内容でもないので無駄に話しかけられる事を避けていた。
そうして時間だけが過ぎていき、ボロボロな心を引き摺った体も疲れきっていた。
痛んだ心は時間が癒してくれると聞いた事があるが、どうやら嘘らしい。
噂は当てにならないなと、飲み会からの帰り道を一人歩きながら自嘲した。
ふと空を見上げると白く輝く月が見えて、そういえば先輩と見た事があったなと目を細める。

「見て、篠宮くん!月がすっごく綺麗!」

高揚して月を指差しながら、満面の笑顔で俺を見る先輩がそう言っていた。
先輩がこの有名なフレーズを知っていたのかどうかは今となっては分からない。
けれど俺は、言わずにはいられなかった事を覚えている。

「本当だ。月が綺麗ですね」

同意した俺に、またにっこりと微笑む先輩の笑顔が月よりも輝いて見えて、たとえ意味が通じていなくても嬉しくなって微笑み返した。
思い出だけが鮮明だ。
今見上げている月からは何も感じられない。
思い出だけが蘇るばかりで、ほんの少しも綺麗だとは思えなかった。
ただそこに浮かんでいるだけだ。
先輩がいないだけで見える景色まで変わり、まるで色がないモノクロの世界に立っているようだ。

「ねぇ、先輩。先輩も今、月見てたりする?」

誰もいない道中で月に向かって話しかけた。
次第にぼやけていく月が俺を眺めているようで、堪らず声に出していた。
同じ空ではないかもしれない。
繋がってはいないのかもしれない。
それでも今この時に、先輩もこうして月を見ていたらいいと思う。

「月が、綺麗だったよ」

しばらく動けずにじっと眺めていた俺の側を一筋の星が流れた。
どれだけ長い時間眺めても、月は薄くぼやけたまま、淡く俺を照らしていた。

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twitterのコピーライターbotを眺めていたらこれは篠宮やろ!と閃きまして、書き手仲間の方に触発されつつ、つい筆をとりました。