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ほっとチョコレート



朝からそわそわとしていた。
休日にも関わらずこうして学校に向かっている今も、そわそわと落ち着かずに浮足立っている。
いや、昨日から落ち着きなどなかったのかもしれない。もしかしたら、それ以前から妙に意識をしていたのかもしれなかった。
かもしれない、ではない。意識をしていたのだ。日を追うごとに強く今日を感じていた。

2月14日、聖バレンタインデーである。

休みであるのに風が冷たく寒い中、バレンタインだからと寮を出て学校へと向かっている。
目的地に近付く度にドキドキとうるさい心臓が体温を上げている気がして、普段迷惑にしか思わない雪が心地良く感じてほっとした。積もった雪の上をさくさくと音をたてて歩くと落ち着くとは、大分秋田の厳しい冬にも慣れたものだ。それも今日限りのような気もするが、今日だけでも雪に対して心穏やかでいられるのだ、良しとしよう。

寮からそう離れていない学舎がすぐに姿を見せて一層胸が騒ぐ。
自分に喝を入れようと、入れてきたチョコを抱くかのようにぎゅっと鞄を抱きかかえた。

勇気を抱えていざ校舎に踏み入れようと一歩足を進ませ正門を越えると、そこでさくっと鳴った雪にさえドキッと胸が跳ね、鞄を抱く手により強く力がこもる。
大丈夫、きっと渡せる、大丈夫と呪文のように内心唱えて緊張を解しながら中へと進んでいった。

何故休日にバレンタインだからといって学校へ赴いたかというと、彼氏が部活動に参加するべく学校の敷地内にある体育館で精を出しているためである。
バスケットボール部に所属している私の彼氏には休日など関係なく、いや、休日だからこそ普段より力を入れて練習に取り組めるのであろう、朝早くから体育館で汗を流している。バレンタイン当日にチョコを渡すには自分が出向くしかないと、恥ずかしさからくる緊張を纏いながらも高鳴る音と共にやってきた次第だ。

上手く渡せるかは分からない。彼女という立場にも関わらずしなくてもいい緊張が邪魔をして、どもって上手く渡せないかもしれない。バスケットに夢中な彼氏がバレンタインというイベントを覚えているのかも分からない。それでも渡したいと思った。
このチョコは気持ちだ。分かってもらえなくてもいい。ただ改めて形にした私の気持ちを受け取ってほしいと思ったのだ。

正門を潜り抜け彼氏がいるであろう体育館を目指す。目視出来る距離まできて、乾いた喉を潤すためにゴクリと唾を飲み込んだ。
大丈夫、渡せるともう何度目か分からない励ましを自分にかけて体育館入口まで近づくと、まばらに女子生徒の影が見えて何事かと首を傾げながら中を覗いてみると、いつも通りバスケットボール部の面々が部活動に勤しんでいた。常時と何が違うのかと問われたら何も変わらないとしか答えようがないが、あえて言うのなら観客が常より多いという事か。

不思議に思いながらも練習の邪魔をするのは悪いと休憩まで待つ事しばらく、見学している最中に気付いた事がある。
私が彼氏の姿を追ってしまうのは必然として、他の見学者である女子生徒達も各々注目している選手に夢中である事から一つの推測が浮かび上がった。推測には違いないが、きっと確定されるべき予想だろう。多分ここにいる女子生徒は自分と同じ、気持ちを渡しにきた人らだと思っていいはずだ。やたらと女子生徒が多いのはそういう事かと溜息を一つ零して瞼を伏せるが、弱気になるのはまだ早いと自分を奮い立たせてしっかりと彼氏を目に納めた。

しかし私のちっぽけな勇気はすぐさま砕け散る事となった。
部員が休憩に入ると、大人しく見学していた面々が一斉に動き出したのだ。甘い物が好きだと噂で聞いた一年生に群がる女子に呆気をとられ、同時に私もと意気込んだのはいいものの、つい先程までそこにいたはずの彼氏の姿がない。
どこに行ったのかと辺りを見回しても体育館内には見当たらず、クールダウンに外にでも出たのかと軽い気持ちでひょっこりと入口の戸から顔を出した私の目に映ったのは、彼氏が顔を赤らめた女子生徒からチョコだと思われる可愛らしい包装紙に包まれたプレゼントボックスを贈られている光景だった。その彼氏の表情は笑顔。私の脆い心はそれを見ただけで砕けて勇気など欠片もなくなった。

失念していた、私の彼氏は大層女子に人気があると。バレンタインという恰好のイベントで、他の女子も渡すであろう事などよく考えずとも分かった事だろうに、自分の事でいっぱいいっぱいだった私は考える事さえしなかった。

何もここで引き下がる事はないと分かってはいた。誰がなんと言おうが私が彼の彼女である事に変わりはないし、伝えたい気持ちは私だけのものだ。堂々と彼の目の前に現れ胸を張って好きだと宣言してみせてもいいだろう。けれど体育館にやってくるまでの間に私がどれだけの力を要したか。
彼が私の知らない気持ちを受ける瞬間を見た。それだけで今まで振り絞ってきた力が空になってしまい、繰り返してきた大丈夫の言葉も効力を失ってしまっていた。そこまでの勇気が、私にはない。
正しくは、ないのではなく、ショックで失せてしまった。

とぼとぼと朝来た道を引き返す。あんなにも心強かったさくさくと鳴る雪がとても寒く感じてやるせなさを増長させる。渡せると強く念じて喝を入れたのに結局このざまかと吐いた溜息が、白く空へと飛んでいった。

行きよりも近く感じた寮に安らぎが生まれ、すっかり住み慣れた自分の部屋にただいまと声をかける。返ってくることのないおかえりに少しの寂しさを感じながら鞄からチョコレートを取り出して、座る事も忘れ呆然と眺め続けた。

それからどれだけの時間が過ぎたのか分からない。私を現実へと引き戻したのは、来訪者を告げるインターホンの音だった。
はっとして持ったままの鞄を部屋に放り投げ慌てて返事をしながら玄関のドアを開けると、訪れた人を目にした瞬間ぽかんと口を開けて呆けてしまった。
体育館にいたはずの彼氏が、変わらない柔和な笑顔でそこにいる。

「やぁ、なまえ」

「氷室くん…」

呆けた私が声に出せたのは、彼の名前だけだった。何故、と問いているのが表情から分かったのだろう、おかしいなと彼が不思議そうに首を傾げた。
何の事か分からず私も一緒になって首を傾げると、えっとと続けた彼に驚きを隠せずぎょっと目を見開く。

「午前中で部活が終わるから会いに行くってメール送ったんだけど、もしかして、気付いてなかったのかな?」

確認するために急いで放り投げた鞄の中を漁ると、メールの受信を知らせてピカピカと携帯が光っている。呆然としていたとしても、手にしていた荷物が振動で知らせてくれていたはずだ。
何故気付かなかったのかと肩を落とした。ごめんなさいと謝罪した言葉は罪悪感から震えていた気がする。理由が理由だけにいたたまれない気持ちになって、つい涙目になってしまったのも仕方がないと思いたい。

焦る私の様子を見て構わないよと言いながらくすくすと笑う彼は本当に怒ってはいないようで胸を撫で下ろした。この程度で怒るような人ではないと知っているが、要は私の気持ちの問題だ。不快にさせずによかったと安堵する。

「それで、お邪魔してもいいかな?」

部屋の中を指差しながら伺う彼を立たせっぱなしだったと気付いて、慌ててどうぞと中へ進めた。なんだか慌ただしいと思ってすぐに、朝から心が忙しないのは私だけかと溜息を落とした。

備え付けのソファに腰を落ち着けた彼に何か飲み物をと簡易キッチンへ足を向けたところで閃いた事柄に思わず、あ、と小さく上げた声が彼の耳にも届いたらしい。え?と問われ、顔の前でぶんぶんと両手を振ってなんでもないと主張する。動きが大きかったからか、それとも何が不審に思ってか、彼は目を瞬かせたが特に追求をしてくる事はなく、そう?と置きっぱなしにしていた雑誌に目を落とした。
危うく勘付かれるところだったが、バレる事もなかったのでひとまずは安心していいようだ。

閃いたというのも、渡せないまま持ち帰ってきたチョコの件である。
溶かしてドリンクとして彼に差し出せば違和感なく渡せるのではないかと思いついた。ホットチョコレートなんて珍しいと突っ込まれれば、バレンタインにちなんで等と答えればごく自然だろう。別にチョコはないのかと問われたならばこのドリンクがそうだと素直に言えばいいし、聞かれなければ聞かれないで構わないと思った。
普段感じている想いを伝えたいのも個人的自己満足にも似た行為であるとも考えられる。ただ私が用意したチョコをどんな形であれ彼に渡せればそれでいい。それこそ自己満足かもしれないが。

いい案ではないかと早速準備を始める。早くしないと待たせてしまう時間が増えてしまって申し訳ない。けれど間違いなく気分は上昇していた。



「お待たせ」

甘い香りを漂わせたマグカップを彼の前に置いた。ありがとうと礼を言いながら受け取った彼はどうやら香りで分かったらしい。あ、と短く声を発してゆっくりと口元へと運んだ。
途端、ふふっと笑いを零す彼に何かおかしかったかと不安になりおろおろと一人戸惑った。まさか不味かったのだろうか。しかし味見をした限りでは普通に飲める味だった。では何がおかしいと言うのか。

「よかった、安心したよ」

彼の言っている意味が分からず今度は私がぱちぱちと目を瞬かせた。安心したとは、何に対して安心したのかさっぱり分からない。

「チョコ、貰えないと思ってた」

「えっ?!」

予想外の言葉に驚いて何も返せず、口からつい零れたのは素頓狂な声だった。私の思惑が全てバレているのではと先程とは違う不安が顔をもたげた。

「さっき帰っただろ、せっかく体育館まで来てくれたのに」

「気付いてたの?!」

「逆に聞くけど、気付かないと思ってたのか?」

俺を見くびりすぎだと鼻を指でつつかれ、うぅと唸りを上げながら鼻先を擦る。まさか気付かれている上に見られているとは思わなかった。
わざわざ体育館まで足を運んでおいて知らぬ間に帰ってしまった私からはきっとチョコなんて貰えないのだろうと、ひっそり肩を落としていたなんて彼が言う。
とんでもないと間髪を入れずに発した声が思いの外大きく、恥ずかしくなって膝を抱えて座る事で顔を隠した。

「で、なんで帰ったの?」

彼に隠し事は出来ないようだ。素直に目撃した光景をぼそぼそと話すことにした。なんだかとてもいたたまれない。

正直に告白を見ていた事を話すと、片手で顔を覆った彼が見られてたのかと罰が悪そうに呟いた。私の勘は間違っていなかったらしい、やはり告白だったようだ。
罰が悪そうにするという事はこれも予想通りチョコを受け取ったのだろうか。
あの時の彼の笑顔が脳内によぎってズキリと胸が痛む。ギュッと胸元の服を強く掴んで痛みをやり過ごそうとした時、顔を上げた彼が言った。やたらと真剣な顔で、鋭い真っ直ぐな目で私を見て言った。

「ちゃんと断ったよ。チョコも受け取ってない」

受け取っていない…?
ならばあの嬉しそうに笑った顔は何故?
思考が追いつかなくてぐるぐると回る脳が破裂しそうだ。

「俺には彼女がいるから応えられないって言ったら分かってくれたから安心して。可愛い彼女なんだって、惚気けてきたくらいだよ」

言いながら見せた彼の笑顔は体育館で見た笑顔と同じもので、蕩けてしまうのではないかと思わせるものだった。
ではあの時に私が目撃したものは私の事を思って浮かべたものだったというのか。
理解した途端に顔が熱くなっていくのが分かる。今の私はきっと真っ赤な顔をしているに違いない。

見られたくなくて顔を俯かせた私を彼が呼ぶ。無視が出来るはずもなく、そろそろと顔を上げた私に極上と言える笑顔を見せた。それはとても愛しそうな、表情から気持ちが溢れ出るばかりで、逸らす事を拒否した目が彼に釘付けになった。

「チョコ、ありがとう。嬉しいよ」

「ううん、受け取ってくれてありがとう。大好き」

あまりにも嬉しそうに笑うものだから、私も嬉しくなりつい本音をぽろりと零した。言った後で気付いても時は既に遅く、普段恥ずかしがってあまり気持ちを口にしない私がストレートに伝えた事に驚いた彼が目を見開いたまましばらく動かない。
一層熱が集まった気がして、少しでも熱を下げようと頬に手をあててみるが効果は薄い。

「なまえ」

ようやく動きを見せた彼に目を向けると、ずいっと距離を詰めてきたので驚いて反射的に身を引いた。が、彼の方が一枚上手だったようだ。
逃さないとでもいうように伸びてきた腕が腰に回され、がっちりとホールドされてしまったために今度は私が身動きがとれない。
顔が、近い。

熱い。

「もう一度、ね?」

こんなに甘い声に抗えるはずがない。大好きと小さく呟いた私の口を塞いだ味は甘い甘いチョコレートだった。

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匿名様よりいただきました「照れてなかなかチョコを渡せないヒロインが家に遊びにきた氷室にホットチョコを渡す甘めなお話」というリクエストでした。
素敵なシチュエーションをありがとうございました。
2015、バレンタイン