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歌は苦手だ



現代に還ってきてから習慣になった事がある。
幕末時代でも愛でていた桜の木に毎日欠かさず話しかける習慣だ。
話の内容はなんてことのない日常ばかりで、飲んだ酒が上手かったとか、上司に叱られたとか、買い物に行ってきたとか、くだらないものを一人でつらつらと語るだけ。
傍から見たらおかしな人だと思われる行為だろう。
それでも止める気はなかった。
あの世界と繋がっているのはこの桜の木のみ。
ひたすらに話しかけていれば声が届く気がした。

仕事が休みの日は一日中何をするでもなく桜と共に過ごす。
花が枯れ、枝だけが冷たい風に吹かれていようとも傍を離れる事はなかった。
桜を見ていると笑顔を思い出す。
胸の中にある笑顔は、今でも元気をくれて心を温かくしてくれる。
昔から変わらず支えてくれている笑顔に堪らない気持ちになって、胸が張り裂けそうだった。
柔らかく笑う顔が愛しくて切ない。
見ていたいのに目を逸らしたくなる矛盾を抱いて顔を顰める事は少なくない。
しかし、というよりかは、やはりと言うべきか、縫いつけられたかのように視線を送っていた。
そんな複雑な視線を受け止めてくれる人はここにはいない。

寂しさを紛らわせるためにイヤホンを取り出して耳に装着した。
最近よく聴く曲がある。
部屋を片付けていたらひょっこりと出てきたCDをなんとはなしに流してみたのが切っ掛けだった。
学生時代に手に入れたこのCDは人に勧められて購入した物だ。
聴けば絶対に気に入ると言い切って勧めてきた本人は目が腫れるほど泣いて聴いていたな、と思い出して思わずくすっと笑みを零した。
懐かしさに浸ってつい手を伸ばした曲は、今の自分が歌詞と重なって見えて、暇があると聴くようになった。
ワンフレーズを音に乗せて口ずさんでみる。
昔から歌だけは上手くいった事がない。
それは大人になっても変わらないらしい。
久方振りに音を紡いだ声は見事にリズムを掴めていない。
ははっと苦笑する事しか出来なかった。
笑い飛ばそうとしただけのつもりが涙まで出てくる。
泣くとは思わず自分でも驚いたが、しとしとと流れる涙を止める気にも拭う気にもなれなかった。

「やっぱ歌は苦手だわ」
言いながら空を見上げて桜を眺める。
風に揺れた枝に笑われた気がして微笑んだ。
そうやって笑っていてほしいと思う。
だから自分も笑っていようと思う。
今はそれだけを願い続けた。

「ねぇ、先輩。先輩は今どこで何してんの?」

孤独は今尚も胸を締め付け、絶望を味わう時もある。
原因は一人の女性だが、こうして過ごしてこれたのもその人のおかげだ。
結局自分が左右されるのは貴女なのだと笑った。

失って初めて気付くとは思わなかった。
今では伝える事は叶わない。
失くしたものは大きいけれど、幸せならばそれでいい。
幸せを与えてくれたのは貴女だ。
自分はこうして傍で笑顔を見せ続けると約束しよう。
だからどうか、元気と安心と勇気をくれるあの陽だまりのような柔らかい笑顔でいて。

「好きだ」

呟いた声を枯れた桜の木だけが聞いていた。

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癒月の「you」という曲を引用させていただきました。