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今日の夢にもあなたを見たい



あなたは一目惚れを信じるだろうか。
一目惚れから始まる想いを信じるだろうか。
私は信じていなかったし、ただ惚れやすい人の戯言だろうと笑い飛ばしていたはずだった。
それが今ではどうだろう。
初めて目にしたその時から、彼を視界に入れようと私の両目が必死になっている。
人より容姿がいいからだと当初は理由づけていた。
私も女だ、見目のいい男がいればつい目で追ってしまうのは仕方のない事だと思う。
雑誌を読んでいたらたまたま好みのモデルがいて、この人格好良いなと思うような、そんな感覚だろうと思っていたのだ。
彼を初めて見たのは、私のアルバイト先である池田屋という居酒屋だった。
スーツを着た男女の集団に、仕事内かとすぐに当たりはついた。
何も珍しくはない、よくある集団の一つに彼はいた。
特別気になる団体でもないのに、しばらくは目が離せなかった。
それというのも、何度も言うがただ少し私の好みにあった人がいる、というだけだと思っていた。
仕事仲間もあの人いいねと言って高揚していたので、私の好みは人から外れていないと思う。
名前も知らない、面識のない人。
ほんの少し聞こえる胸の音は、仕事仲間と同じミーハー心だと信じていた。
いや、思い込んでいたのかもしれない。

彼はよく池田屋に顔を出していた。
よく、といっても月に一度。
多くても月に二度ほどの来店だ。
しょっちゅう来る訳ではないものの、贔屓にはしてくれているらしい。
どんな来店頻度であれ、私の中で彼は常連客だった。
そうしたかっただけかもしれない。
話した事は一度もないが、声を聞いた事はある。
料理を提供した時に聞こえてきた彼の声は、爽やかな風貌をそのまま音にしたような、聞いていて心地のいい声だった。
ほんの少し聞こえる胸の音が、はっきり聞こえるようになっていた。

言葉を交わしたのは、それからまた少し経っての事だった。
いつものようにお待たせしましたと声をかけながら料理を差し出すと、頼んでいないと断られた。
驚いて伝票を確認すると、提供しなければならないのは向かいのテーブル。
つまらない配膳ミスに、やってしまったと歪みそうになった顔を急いで下げて謝罪した。
申し訳ございませんと放った言葉に降りてきたのは、大丈夫と今では聞き慣れてしまった声。
かけられた言葉はたった一言なのに、彼の声だとすぐに気付いてゆっくりと顔を上げた。
よくある間違いだと言って笑う彼を見た時、耳障りなくらい胸の音が煩かった。
会話という会話でもない。
けれど私にはこれが初めての彼との会話であった。
そして自分の気持ちに気付いた瞬間だった。
彼が店に来る度びそわそわと落ち着かなくなるのは、彼の姿を探してしまうのは、近くを通っただけで嬉しい気持ちになるのは、私が彼に想いを寄せているのだと。
くだらないと思っていた一目惚れがまさか自分に降りかかってこようとは思ってもいなかった。
ましてや好きという感情に気付いたところで、私と彼は従業員と客でしかない。
彼の事を何一つとして知らない私が、進展など望めるはずもなかった。
変わりなく彼を接客するだけ。
そんな私に思ってもいなかった好機が訪れた。

アルバイトが休みで丸一日自由に過ごせる日に、せっかく天気もいい事だしと外出をした時だった。
前方から歩いてくる男性を私が見間違える訳がなかった。
思わず足を止めて、あ、と小さく声が漏れた。
店以外で会うとは思っていなかったので、驚きがそのまま表れてしまった。
もっと驚いたのは、相手も同じ行動をとった事だった。
あ、と漏れた私の声を追うかのように、あ、と彼の声が聞こえてきた。
私を覚えているからこその彼の動きに堪らなく嬉しくなって、勝手に緩んだ頬を無理矢理笑顔に変えて会釈した。
そのまま流れで食事を共にする事になった彼は、篠宮恭と名乗った。
外回りついでに昼食をとろうとしていたらしい彼の目の前には、美味しそうなパスタが置かれている。
一人で食べるのは寂しいから会えてよかったと笑う彼に、いちいち照れてしまう私はもう少し落ち着いた方がいいようだ。

この日は食事をしながら他愛のない会話をして終わった。
時間の流れが早くて、別れなんてあっという間だった。
もっと話していたかったと名残惜しく感じるが、どんなに短くとも間違いなく幸せな時間だった。
浮かれすぎて連絡先を聞くのを忘れ、後で自分を叱咤したほどである。
食事を境に話す機会が増えたのは嬉しい進展だった。
店に来る度に一言二言交わすようになって、以前より親しくなったように感じた。
少し親しくなったところで店の従業員と客に変わりはないので、それ以上の関係になる事はない。
顔を見る度に膨らむ欲を解放するために自分は何をするべきか。
考えても店以外に接点はなく、次に彼がやってきた時に勝負に出ようと決めた。
次に進むためには、動くしかないと思った。
彼は一ヶ月後に店にやってきた。
帰り際会計時にわざわざご馳走様と声をかけてくれるのを知っている。
そのタイミングを計ってすかさず声をかけた。
話があると切り出した私は、そんなに切迫した表情をしていたのだろうか。
そんな顔をしなくても話ならちゃんと聞くよと笑った彼は、私の緊張を和らげてくれたのだと思う。
もしかしたら自分勝手な解釈をしただけで本当は違うのかもしれないが、私は彼が気遣ってくれたのだと感じた。
彼の優しさを感じたのはそれだけではなかった。
私の都合で呼び止めたにの関らず、仕事が終わるまで待っていてくれると言う。
友人相手であれば申し訳なく思うものを、彼には嬉しく感じて胸が高鳴った。
今から始める告白が理由でドキドキとしているだけかもしれない。
何に対して鼓動を速めているのか、訳が分からなくなるほどに緊張していた。
喉が渇き、足が上手く動かず、前を向くのが難しい。

「あの、私、篠宮さんが好きです。よかったら付き合ってください…っ」

それにも関らず想いを伝えられたのは、結局好きという気持ちのおかげだった。
よく知りもしない人に恋心を抱く。
なんて愚かしいのだろうと思っていた。
なんて夢見がちなのだろうと思っていた。
実際には理屈でどうにか出来る想いではないのだと知った。
突然の告白におかしな奴だと笑われてしまうかもと予想はしていたし、振られる確率の方が高いのも分かっていた。
分かっていても、何もせずに終わってしまう事だけは避けたかった。
この時、答えを聞くのが怖くて固く目を閉じていた私が悪かったのだと思う。
少しの間を置いて聞こえた彼の答えに浮かれて気が付かなかったのだ。

「いいよ。俺も気になってたんだ、みょうじさんのこと」

付き合えるだなんて夢みたいで、けれど夢ではない彼の返事に喜びが溢れて涙が浮かんだ。
気付かなかったのは、涙で視界が滲んでいたのも理由の一つかもしれなかった。
OKの返事に嘘をつかれた訳ではない。
むしろストレート教えてくれていたのだと今になって思う。
私が相手だから告白を受けてくれた。これは間違いない。
しかしこの時から、いや、きっともっと前からだ。
初めて顔を見た時からだろう。
彼は私を見てはいなかった。
目を閉じていなければ、視界が滲んでいなければ、この時に気付けていたのかもしれない。

付き合う事になって連絡先を交換した。
携帯を開けば彼の名前がいつでも見れる。
それだけで元気が出る気がした。
何度二人で出かけても慣れずに篠宮さんと呼ぶ私を見兼ねたのか、距離があるようで寂しいからとせめて君付けで呼ぶようにお願いされた。
いきなり名前で呼ぶのは羞恥から躊躇われたので試しに篠宮くんと呼んでみると、彼はとても嬉しそうに笑った。
それからは彼を篠宮くんと呼んでいる。
付き合ってからしばらく経った今でも、この呼び方は変わっていない。
篠宮くんと声をかけるだけで、彼の笑顔がうんと柔らかくなるのだ。
その笑顔を見ていたい一心で、彼を名前で呼ぶ事はなかった。

「髪、伸びたんじゃない?」

ふいに彼が髪に触れてきた事があった。
手を繋いだしキスもしたというのに、髪に触れられただけでドキドキと落ち着かない。
髪に限定された事ではなく、彼に触れられる度に好きという気持ちを感じた。
元々ショートボブだった私の髪は、肩につくほどに伸びた。
いつだったか、長い髪の方が好きだと彼に聞いてからずっと伸ばしていた。
手入れが大変だからという理由であまり伸ばさずにいた髪が、ここまで長くなるのを見るのは久しぶりだった。
髪が短いより長い方が落ち着いて見えるという話を聞いた事がある。
雑誌で読んだのか、テレビで見たのか、はたまた友人から聞いたのか、今となってはソース元を覚えていないが、年上の彼に見合う姿になりたいと願ったのも髪を伸ばし始めたきっかけだった。
肩まで伸ばすのに結構な時間を要したというのに、腰辺りまで伸びるのは一体いつになるのやら、考えただけで溜息を吐きたくなった。
どれだけ時間がかかっても伸ばす意思は変わりはしないが。

「伸ばしてるの。もっと伸ばそうと思ってる」

「いいじゃん、似合ってる」

髪を撫でながら彼は言った。
未来の私を想像して興奮したのか、喜びで頬をほんのり染めて彼は言った。
あんまり喜んでくれるものだからめげずに頑張って伸ばそうだなんて胸中で意気込んでいた私を見て、一体彼は誰を見ていたのか。
この時の私はまだ、彼の意図に気付く事なく、この交際は円満に上手く続いていると思っていた。

この恋の行方を先に教えてしまうのなら、今でも彼とは付き合っていて交際は続いている。
ショートボブから肩まで伸びた私の髪が、胸元まで伸びるほどの時間が経過した。
髪が伸びる度に似合っていると笑う彼は以前と変わらない。
ただ、髪が伸びていく間に、いくつかの違和感を彼に感じるようになっていた。
初めて彼に手作りの料理をご馳走した時、玉子焼きをやたらと褒められた。
褒められるだけなら何も疑問に感じる事はなかったのだが、やはり玉子焼きが一番好きだと彼は私に言ったのだ。
単純に彼の好物なのかと当初は聞き流した。
それが違うと知ったのは、もう少し後になってからだった。
毎度褒めるものだから好物なのかと聞いてみると、そうではないと彼は首を振った。
私の作る料理の中で玉子焼きが一番好きなのだと彼の口から聞いた時、初めて何かがおかしいと感付いた。
好物という訳でもなく私が作るものの中で一番好きだと言うのなら、初めて私の手料理を口にした時にやはりと言うのはおかしな話だ。
それを皮切りに話が噛み合わない点がいくつか出てくるようになった。
和服が似合うと言われても彼の前で浴衣を着た事は一度もないし、彼が懐かしいと言いながら見上げる桜も私達の間に特別な思い出である訳ではなく、毎年至って普通に眺めているだけのはずだった。
おかしいと思いながらも何がどの様におかしいのか分かる事はなく、決定打となったのは彼に初めて抱かれた時だった。
熱に浮かされた私の意識を呼び戻したのは、他でもない大好きな彼の声だった。
彼も熱が高まっていたからこそなのだろう。
ベッドの中で彼の口から放たれたのは、私の名前ではなかった。
鈍器で頭を殴られたかのようなショックが私を襲った。
先輩とは一体、誰なのか。

考えずとも、先輩と何度も呼ぶ彼の声を聞いて分かってしまった。
篠宮くんと呼ぶだけで嬉しそうに笑うのは、きっと先輩とやらが彼をそう呼んでいたに違いない。
長い髪が好きなのも、玉子焼きが好きなのも、和服が似合うのも、桜に思い出があるのも、全て私相手の話ではなかったのだ。
いや、ある意味私が相手だからこそなのだろう。
思わず名を呼んでしまうほどに、私と先輩は似ているようなのだから。
その人と重ねて見るほど私は彼女に似ていて、彼は彼女を好いているらしい。
あぁ、そうだったのか。
全てを把握しても、その一言しか出てくる言葉はなかった。
夢から醒めた気分だった。

それでも未だに交際を続けているのは、彼の中に少しでも私が住んでいると知ったからだ。
それを知ったのも彼に抱かれている時だった。
真実を知った後、彼と別れようと思った。
付き合っているのも目の前にいるのも私だというのに、彼が見ているのも付き合っているのも私ではない。
こんなに報われない恋なんてあんまりではないか。
抱かれる度に自分以外の女の名前を聞くのも辛かった。
彼の腕に抱かれながら、これが最後だと自分の中で決めた時があった。
その時私は見てしまったのだ、嫌というほど聞いた女の名前を言い放った後の彼の顔を。
彼の思惑は叶った訳なのだから、さぞかし満足なのだろうと思っていた。
今でも忘れられずに想っている先輩という女性の、ありもしない熱を感じて浸っているのだと思っていたのだ。
それがどうして、彼の顔が泣きそうなほどに歪んでいるのか。
きっと彼は罪悪感を抱いているのだと気付いた。
私と彼女とを重ねている事への罪悪感。
いけないと思いながらも影を求めてしまう自分への嫌悪感。
それでもやめられずにまた重ねていく彼の歪んだ顔を見て、つい笑顔を浮かべて彼を抱き締めた。
彼の中にたった少しでも私がいるのなら、まだ希望があると思った。
今は違う女性で埋め尽くされた彼の心を、私で塗り替えてやりたいと思った。
彼が苦痛に顔を歪ませた瞬間が、先輩でも他の誰でもない、私だけを見てくれている瞬間。
今の私にとって、最高に幸せな瞬間だった。
幸せを感じるために、私は何度でも彼に抱かれる。
いずれ私の名前を呼んでくれると信じて、ほんの一瞬に夢を見ている。

そうして今でも続いている。
お互いまともな恋愛とは言い難い付き合いだと自覚している。
狂っていると思った事もある。
それが今では、この付き合いも円満だと言えるのではないかと思う自分がいる。
好きな人に固執しいて過ごすのも悪くはないと思い始めたのだ。
今日も、明日も、その先もずっと、あなたの夢を見ていたいから。

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お題提供:寡黙「今日の夢にもあなたを見たい」