novels | ナノ

17



昨日、氷室にキスをされた。
一晩経っても夢じゃないと思えるのは、唇に残った熱が消えないからだ。
冷たい雨の中で、火照るようなキス。
氷室の想いを目の当たりにして、このままではいけないと焦燥感に駆られた。
今日一日の授業は全て終わってこれからバイトだというのに、一時も氷室の顔が頭から離れてくれない。
氷室に混じって浮かぶ幼馴染みの顔にずきりと胸が痛む。
初めてのキスが幼馴染みではなかった事に落ち込んでいる訳ではない。
大して抵抗もせずに難なく受け入れてしまうほどに、氷室とのキスが嫌ではなかった事実が私にショックを与えている。
その事実は、自分で思っている以上に氷室という存在を受け入れている事に気付かせてくれた。
それでも浮かんでくる幼馴染みの顔は、今でも好きだからなのか、それともただの未練なのか、混乱した私には分からなかった。
唯一分かっているのは、氷室は私の事が好きで、私も触れ合うのが苦ではないくらいに氷室が好きだという事だ。
氷室へのこの気持ちは恋情なのだろうか。
そうじゃなくても、これから先今以上に気持ちが大きくなる確率は高い。
告白を受けてしまおうか。
しかしいざ想いに応えようとすると幼馴染みの影が邪魔をする。
はっきりしない自分の気持ちに、自分の事ながらイライラした。

「私は誰が好きなんだろう」

「ん?みょうじさん何か言った?」

バイト中まで頭を悩ませていたら、どうやら心の声が実際出ていたらしい。
いけない、仕事に集中しないと。

「何でもありません」

「そう?ならいいんだけど。それよりこれ、テーブルまで持っていってもらえる?番号と引き換えてきて」

お客様がオーダーしたメニューが出来上がったらしく、プレートを手渡された。
乗っているのはLサイズのコーラとポテト。
どっかの誰かさんみたいだなと思いながら、オーダーしたお客様の元へと向かった。
今は悩むのをやめて、自分に与えられた仕事に集中しよう。
そう思ったのも束の間だった。

「「あ」」

客席に行くと見知った紫色の髪。
思わず声が漏れてしまった。
まさかどっかの誰かさんが本当にいると思っていなかったのだ。
紫原からも声が聞こえた気がしたが、気のせいだという事にして、お待たせしましたと笑顔でオーダーされたメニューを机に置くと、ごゆっくりどうぞとにこやかに席を離れようとした。
のだが、待ってと呼び止められて、ついでにがっちりと手を掴まれた。
やはり、先程の反応もだが、紫原は私を知っている?
それこそ、まさかだ。
だって私は紫原と関わりがない。

「アンタでしょ、なまえって」

手を掴まれたので振り返ると、私の名前まで把握されていて驚いた。
他人に関心がなさそうな紫原がどうして私を知っているのか。
赤司が私の話をしているとは思えない。
ではよく一緒にいる氷室が話しているのだろうかと考えがよぎったが、氷室もあまり自分の話をしなさそうなので、その線は薄いと判断した。

「そうだけど」

紫原を詳しく知っている訳ではないので、どうして私を知っているのか見当がつかない。
本人に直接確かめるしかなさそうだ。

「室ちんがさぁ、今日ずっと変でさぁ。なんかあったんでしょ?」

「どうして私に聞くの?」

「アンタしか考えらんないし」

どうして、とは口に出さなくても答えてくれるようだ。
面倒そうに見えて口が止まる事はない。
そういえば成績も悪くなかったなと思い出す。
廊下に貼り出された順位表はいつも上位に紫原の名前があった。
頭の回転は早いらしい紫原は、目を逸らさず、手を離さず、はっきりと言葉を続けた。

「なまえが好きなんだって言ってた」

ひゅっと音が鳴ったのが分かった。
息が止まりそうだ。
氷室はいつだってストレートな想いを隠さない。
何を言ってくれているんだろうと思うと同時に、胸が締め付けられた。
多分、行動を共にする事が多い紫原には打ち明けていたんだろう。
それは氷室の想いの表明であるかのように感じた。

「室ちんはアンタが好きなんだって。アンタは?」

「私は…」

私は誰が好きなんだろう。
声にまで出た呟きが脳内を巡った。
ストレートにぶつけてくる紳士的な氷室と、気持ちの表現が不器用な赤司。

「分からないの」

答えた声は小さく震えた。
幼馴染みへの想いが薄れている証拠だとも思う。
当初の目的をもうすぐ果たせるのだろうか。
喜ばしい事だ。
だとしたら、やはり私は氷室の告白を受けるべきか。
相手が真剣だからこそ、曖昧な返事はしたくなかった。
それが今やっと答えが出そうだ。
やっと忘れられる、初恋を。

「そんなの簡単じゃん」

物思いに耽っていると、あっけらかんとした声に目を瞬かせた。
簡単ならこんなに悩んでいないというのに、よくぞスパッと言い切ってくれる。
簡単だという理由を求めて紫原を見た。

「アンタが傍にいたいと思うのは、誰?」

大きく目を見開いた。
頭にかかった靄が晴れていった気がした。
私が傍にいたいと思う相手は、小さい頃から一人しか思い当たらなかった。