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16



氷室から告白されてから数日が経った。
返事はすぐじゃなくていいと私の頭を一撫でしてから立ち上がった氷室が家まで送ってくれて、それから一切進展はない。
バイトがある日はいつも通り送ってくれるし、接し方も特に変わる事はなかった。
ただ、以前より氷室が積極的に感じる。
前から優しいとは思ってはいたが、最近はなんだか特別優しい。
早く断らなければと思うものの、私はそれが出来ずにいた。

離れてからも私の中に住まう幼馴染みが今でも薄れる事なく生き続けるのは、私がまだ赤司を好きな証拠だ。
ならば氷室の気持ちに応えられる訳がないと思う反面、氷室と付き合えば赤司を忘れられるのではないかと考える。
付き合ってさえいない今でさえこんなに優しくしてくれる氷室の事だ、付き合えば大事にしてくれるだろうと容易に想像出来る。
彼ならこの想いを打ち消して忘れさせてくれる気がした。
今はまだ友情以上の感情はないが、付き合っていくうちに夢中になれる気もした。
しかしそれは利用に過ぎない。
真摯な気持ちをぶつけてくれた氷室に対して失礼だと思った。

そうしてもんもんと考えているうちに、返事をする事もなく数日が経過していた。
返事はすぐじゃなくていいと言ってはくれたが、待たせすぎだろうと溜息を吐いて本日のバイトを終えた。
店を出ると手を振って私を出迎えてくれる氷室がいる。
これが当たり前になったのはいつからだっただろう。
気分転換になんとなく見上げた空は、雲に覆われていてまるで私の心のよう。
ちっとも気分転換にはならなかった。

「一雨来そうな感じだね。少し急ごうか」

私につられて空を見た氷室が天気の様子を伺って心配そうに言うと、私の手を引いていつもより少し早い歩調で歩き出す。
繋がれた手に目が釘付けだった。
解かなければと思うのに、嫌な感じは全くなくて動揺した。
動揺してると気付かれたくなくて、ついていくのに必死な振りをして後を追った。

「間に合わなかったか。濡れちゃったね」

早めに歩いていたけど家に着く前に雨に降られて、結局濡れて帰る事になった。
本当に雨が降るとは、氷室の予想とやらは凄い。
二人して傘を持っていなかったので、私も氷室もずぶ濡れだ。
私を送らなければ氷室は無事に帰れただろう。
申し訳なさでいっぱいになった。
氷室が雨に濡れたのは私のせいだ。

「辰也先輩、よかったら家寄ってってください。制服乾かしますから」

そのままでは風邪を引いてしまうだろうし、せめてものお礼にそれぐらいはさせてほしかった。
なのに氷室は困ったように笑う。

「俺としては願ってもないお誘いだけど、そんなに簡単に男を家に上げたらダメだよ」

そうかもしれないけれど、私には氷室が風邪を引いてしまう方が問題だった。
しかしどんなに説得しても氷室が首を縦に振る事はない。
どうしてこんなに意固地なのか。
むっとして頬を膨らませると、大袈裟に溜息を吐かれてまたむっとした。
何故私が聞き分けのない子みたいになってるんだ。
ただ心配しているだけなのに。

「なまえは俺と二人きりになっても平気なんだね」

いきなり話題の方向性が変わって、え?っと返した時には既に氷室の腕の中にいた。
顎に手をかけられたかと思うと唇に柔らかな感触が重なる。
何が起きたのか分からず目を大きく開くと、綺麗な氷室の顔がすぐそこにある。
手から、腕から、唇から、あらゆる箇所から氷室の熱を感じる。
そしてやっと理解した。
私は氷室にキスをされているのだと。
なんで、どうして…

「んぅ…っ」

混乱した私の隙を割るのは簡単だったようで、口内にまで氷室の熱が進入してくる。
舌を絡めて何度も角度を変えては口を塞ぐ氷室のキスは、少し荒っぽかった。
繋がった唇から氷室の想いがなだれ込んでくるような感覚に、耐え切れなくなってぎゅっと彼の制服を握り締めた。

「た、つやせん、ぱい…」

ようやく解放されたものの、上手く息が出来なくて舌ったらずに名を紡ぐ。
どうしてと聞きたいのに、荒くなった呼吸が邪魔をする。
熱が伝染して困惑は深まる一方だ。
なのに、何故私の心はこんなにも高鳴っているの。
何故とどうしてがぐるぐると回っている。

「俺は平気じゃないから、なまえのお誘いはありがたいけどやめておくよ」

そう言って私の頭を撫でる氷室の手が、指が、熱い。
見つめる事しか出来なくてじっと見上げていると、耳元に顔を寄せてきた氷室にびくっと体を跳ねさせた。
耳にかかる氷室の髪が、吐息が、くすぐったくて身を強張らせる。

「好きだよ、なまえ」

なんて甘い声で言うんだろう。
あまりの甘さに耳が溶けてしまいそうな錯覚を、勢い良く耳を手で覆って振り払った。
氷室の顔が見れなくて俯くと、頭上におやすみと言葉を降らせて彼は去っていった。
雨に打たれて重い体は、冷たくなっているはずなのに熱い。

熱の中心部となった唇をそっと指でなぞる。
私が夢見たキスは幼馴染みだったはずなのに、氷室にされてどきどきしている自分がよく分からない。
考えれば考えるほど、胸が張り裂けそうだった。
助けてと懇願して手を伸ばした先に、いるはずのない赤い髪が見えた。