数日前の話だ。昼間、ピークタイムのファミレス。黄土色のテーブルには、黒髪の青年が項垂れながら顎を乗せていた。彼の名前は高尾和成。現在司法試験の為に、過酷な日々を短い睡眠で廻している。

 しかし、彼は試験について机に突っ伏す程に悩んでいる訳では無いようだ。向かいの席に座り煙草を吹かす顔の整った男性は、空いた手で明るい茶髪を掻いた。

「……いや、マジでどうしたら良いンすかね? 宮地サン」

「1、舌噛んで死ね。2、首吊って死ね。3、オレに命乞いしながら死ね。お前どれが良い訳?」

 灰皿へグシャリと吸い殻を押し付けた宮地は、今日もスーツを着こなしていた。高尾が知っていたのは学ラン姿の彼で、また別なフォーマルな姿に違和感を覚える。自分だって学ランを脱ぎ捨て何年も経つ筈なのに、こうやって昔の仲間を時の流れへ乗せられずに居る。

「どれも嫌っスよ!!」

 高尾は再度机に突っ伏して、生意気な後輩を演出した。素早く手慣れた動作で胸ポケットから煙草の箱を取り出した宮地は、イライラ気味に乱暴な回答をする。

「面倒くせぇんだよ! 昼休みに呼び出してコイバナかよ! 女子か? お前は女子か?」

 火の着いたライターを高尾の目の前へ差し出した宮地。危うく前髪燃えそうになった高尾は、慌てながら上体を後ろに反らした。

「ライター! 危ないって!」

 ニヤリと笑った明るい茶髪の男は、くわえていた煙草へ火を着けた。

「大坪が、人のモン奪うのはやめろって言ってたぞ。アイツはイイコちゃんだからな」

 宮地の口から懐かしい名前が出た。彼の厳つい肉体を思い出した高尾は、眉を潜めて口を尖らせた。宮地が大坪へどんな話をしたのかは知らないが、恐らくイメージ良くは話していないだろう。

「喋ったんスか!?」

 宮地からの返事は無く、二人の座ったテーブルにだけ無言が広がる。重い空気に溜め息を漏らした高尾は、一人言のように今の気持ちを白状した。

「……オレ多分、A子ちゃんから好きって言われたら……火神を裏切る覚悟はあります」

「女子のコイバナよりは、マシな話題だな」

 気だるそうに煙を吐いた宮地清志は、大人の男性と呼ぶに相応しい風貌だった。ソレが"成長"とはまた別なステップである事に気付いた高尾は、苦い顔を噛み殺して笑顔を見せる。

 熱中した何かが終わる瞬間、宮地清志は何を考えていたのだろうか。そして、自分は何を考えていたのか……。今は、ソレすら思い出せない。

「チンケなプライドって奴です」

 努めて明るい声でそう答えた高尾は、表情を崩さない。しかし、今も尚バスケへ熱中し続ける火神大我が、高尾和成の脳内で歪な笑みで彼を責めた。


 :: :: :: :: ::


 記憶を現在に戻して……キスを終えた高尾は、短気で意地悪な先輩までもが後ろでゲラゲラと笑っている気がしていた。幻聴だ。疲れ過ぎたのだろう。恥ずかしまぎれに髪を掻いた男は、次の言葉を探していた。

 このまま黙って去って欲しい気持ちもある。彼女が火神に一途で居たいのなら、ソレはソレで諦めが付く。そして、少女を好きになった理由も"火神に勝ちたかっただけだ"と言い訳出来る。

 ――決して、A子の弱さに惚れた訳では無い。彼女なら本当の意味で自分を必要としてくれるだろう。依存してくれる筈だ。彼女の中で【高尾和成】が、世界の中心になるだろう。……最悪な理由だ。醜い自分にヘドが出る。

 振られたい。
 付き合いたい。
 拒絶されたい。
 必要とされたい。

 下らない葛藤が脳内で審議を始めた時、目の前のA子が震えた声でこう言った。

「……私、高尾君だったら良いよ」

 真っ赤な顔したA子の肯定的な返事に、意表を突かれた高尾は慌ててしまった。彼氏持ちの女性へ強引にキスしてビンタでもお見舞いされるかと思ったのに、まさかの交際許可に頭が追い付かないようだ。

「ちょっ……何言って……」

「高尾君とだったら……きっと後悔しないもん!」

 泣きそうに俯いた少女は、着ているトップスの裾を握った。皺になった衣服と拳が葛藤を表しているようで、男の良心が痛む。

「でも、それじゃ火神を……」

 ここで火神の名前を出して良い人間を演じた。正直、高尾からすれば火神が不幸になろうがどうだって良いのだ。

 ……むしろ、不幸になれば良い。情熱に身を焦がせる火神大我が憎い、許せない、悔しい。けれど、そんな考えを持っている自分が一番許せなかった。

「今の火神君は、前の火神君じゃないの! 私、もう待つのツラいよ!」

 ハッとした高尾は、気付かず俯いていた顔を前に向けた。

 確かに、高尾も火神へ違和感を持っている。ここ数ヶ月の火神大我は異常だ。まるで自分を自分と認識していない。宣戦布告をした日の台詞は今でも覚えている。――火神はあの日、確かにこう言った。

『"オレ"に言うなよ』

「……火神は、火神じゃないのかもしれない」

 ――じゃあ、一体誰なんだよ?

 口から出た言葉があまりに夢物語過ぎて、高尾は神妙な顔を崩して苦笑いをした。





 黒子テツヤは何をするでも無く、ただ座り自分の重ねた手を眺めていた。不安を隠すに最適なのは、何も考えずに居る事だ。

 紫原なんて、数分前に何も言わずにマンションから姿を消した。白状なんかじゃない。……彼はきっと怖いのだ。失敗して、知り合いが命を落とすのが。

 五分なんてきっとあっという間だろう。親友である彼等が入れ替わったのだって、奇跡に近い。ならば、二度奇跡を起こしても構わないだろう。

 "奇跡"と云う単語に、黒子は小さく笑った。中学から身近にあった言葉がこんなに心許なく、ちっぽけなモノだとは思わなかったからだ。

 二人が並んで眠っている大きなベッドは、暗い雰囲気に満ちている。仮死状態とは言え、生気の無い友人達を見るのは苦痛だった。入れ物でしか無い肉体は心元無くて……黒子は目を逸らして二人に背中を向けた。

「テツヤ、安心すると良い。失敗はしないから」

 赤司と緑間は注射器を取り出し、各々が刺す場所を探り出す。緑間にいたっては左手首に巻いた腕時計を睨み、額に汗を浮かべている。

「……人を殺すのは、簡単なのだよ」

 そう呟いた緑間は、火神の肌に針を刺す。黒子が何かを言おうと口を開いた瞬間、青峰の右手指先が動きを見せた。

 まずは、青峰が息を吹き返したらしい。肺へ急激に空気が入り込み、咳き込みが始まる。

 注射器を抜いた赤司は、目を開けた青峰にライトを当てて瞳孔肥大を確認した。そして眩しさに顔を逸らす旧友に笑みを見せる。

「おはよう、大輝。三分間の臨死体験はどうだい?」

「…………」

 ゼェゼェと肩を弾ませる青峰は凶悪な目付きで、涼しい顔をした赤司を睨んだ。

「青峰、君? 戻れたんですか?」

 重要な質問を問うた黒子へ、青峰はゆっくりと首を縦に振って答えた。発声しない彼に、赤司が状況を話し掛ける。

「話せないどころか、息を調えるので必死だろう。当たり前だ。アドレナリン投与で強制的に目覚めさせたんだから」

 注射器をカランと棄てた赤司は、ベッドの縁に腰掛けて腕と足を組む。汗ひとつかかない冷静さは、人間味が無く不気味だった。

「……普通だったら死んでるのだよ」

 赤司は、額の汗をポロシャツで拭く緑間を鼻で笑う。冷徹な性格を見せる中学からの天才は、時計に目線を落とす。

「コッチはアドレナリンにも反応が無い。心肺蘇生だ、真太郎」

 顔を上げた赤司は、真っ直ぐに火神の傍へ向かう。隣に寝ている火神を見た青峰は、蝋人形のような物体にゾッとした。

「……オイ。時間、ねぇんだろ?」

 上半身を起こした青峰は、強烈な目眩で視界がホワイトアウトするのを感じた。

「焦るな、青峰」

 再度額の汗を拭う緑間がAEDの電源を入れる。離れるように指示を出した装置は、数秒後にスタンバイが出来たと教えた。

「焦るなったって……」

 青峰の手を黒子が握る。普段冷たい彼の手が汗ばんでいる。温かさに驚いた青峰は、依然として表情を無に固定したままの黒子テツヤの右手に握り返した。

 火神の蘇生は無言で行われた。AEDがオートマチックに作動し、緑間の行う心臓マッサージで軋むベッドの音以外は静寂そのものだ。ドラマや映画のように電子音で心拍数を測定しなければ、激を飛ばす医者も居ない。作業に似た救護は静かで、現実感を薄れさせる。緑間が眼鏡を外して頭を左右に振ったその時に、変化は訪れた。

 火神は突然咳混んで、真っ赤にした顔を歪めた。肺へ入り込んだ酸素量が多すぎた為か、ゴホゴホと苦しそうに悲鳴を上げる。

「火神君! 火神君!!!」

「……久々にデケェ声、聞いたな。黒子」

 うっすらと目を開けた火神は、高校からの相棒が涙を目尻に溜めているのを見た。人生で二度目の蘇生したのだ。前回のように寝起きに近い穏やかな気分では無い。未だに肺はキシキシするし、心拍数も高い。……でも生きている。己の血潮に生を感じるのだ。

「良かった……、良かった……」

 緑間は膝から崩れ、ずれた眼鏡を直した。安堵が全身の力を抜き、体躯の芯を弱くさせる。

 青峰はアドレナリンのせいで昂る高揚感を必死に自制した。ゴーサインさえ出れば、彼はマンションを走り抜け、富士山をも登坂するだろう。走る代わりに、火神へ震える声で言葉を掛けた。

「お前は、ホンットウに……手間の掛かる男だな」

「お前に手間掛けさせた事……あったか?」

 青峰の浅黒い鼻がツンとしたのは、涙を堪えたからだ。その細い目を擦る手のひらは褐色で、凄くしっくり出来た。――やっぱ、オレはオレでしか生きられないんだ。青峰大輝は、ここ最近毎日鏡越しに見ていた赤毛で二股眉毛の男を視界に入れる。悔しいが、少しだけ格好良く見えた。きっと鏡で見すぎて、見慣れただけだろう。

「……言わなきゃいけねぇ奴居んだろ、お前には」

 火神に背を向けて鼻を啜った青峰は、天井を向いて涙腺の緩みを誤魔化そうとした。戻れたのだ。これで遂に、全員が幸せになれる。

「火神君、あれだけ彼女に執着してましたからね」

 黒子も微笑みながら火神の熱過ぎる恋心をからかった。カフェで見せたあの身勝手な姿も、青峰の部屋で怒鳴った姿も今は懐かしい。行き過ぎに近い愛情だって、情熱的で真っ直ぐな火神大我らしかった。

 自分の手を眺め眉毛を触っていた火神は、青峰と黒子が自分の話題を口にしていたと知ると、驚いた口調になる。

「彼女ォ!? オレに!? 春からアメリカだぜ? 作るかよ! 彼女なんか!」

 青峰と黒子の困惑した表情へ肩をすかして笑った火神は、再度自分の身体を確かめている。その冗談とも取れる火神の態度に、青峰は目を細くした。

「……A子だ。ふざけんなよ、見苦しいぜ?」

 火神は特徴的な眉を片方だけ上げて、青峰を見た。

「それが死にかけた人間とする話題か?」

「オレだって死にかけたっつーの」

 溜め息混じりに答えた青峰は、火神のトンチンカン具合に頭を抱えた。

「オレは彼女を作る気もねぇよ。別れるの分かってて付き合う馬鹿が居るか?」

 その時、黒子は気付いていた。火神は自分に嘘を付くのが下手だ。自分の気持ちに正直な男なのだ。例えば彼女に会いたい気持ちを抑え、忘れた振りをしているとしたら……そんな事、火神大我には出来ない。忘れなきゃいけないと知りながらも、すぐに立ち上がり彼女へ会いに行く筈だ。

 つまり、火神は本当にA子を忘れているのだ。いや……『無かった事にしている』と言った方が正しいのかもしれない。

 一部始終を黙って見ていた赤司が、愉快そうに口角を上げる。この場で状況を理解したのは彼だけのようだ。

「どうやら火神は、記憶の一部を置いて来たみたいだな」

「……どこにですか?」

 ポーカーフェイスを崩さない黒子が、分かりきった答えを赤司へ尋ねた。勿論、相手はソレに答えたりしない。

 そして赤司の言いたい事を直感的に悟った青峰は、表情を緊張させた問い詰めるかのように質問をぶつけた。

「どういう事だよ!! どこに忘れんだよ!?」

 緊迫と混乱を同時に起こした青峰へ、緑間が口を挟む。

「火神は恋愛に関する感情を捨てて来たのだよ。お前の内部に……記憶ごと」

「オレの中に……火神が……?」

 一度火神を見た青峰は、拳でマットレスを殴る。そして細い眉を潜め小さな声で呟いた。

「……どうにかしろよ」

 まるで絶望したかのような青峰の声は、問題が終わっていない事を示唆しているかのようだ。

「本当にお前の中に火神が居る事を確かめたいのなら、まずは会わなくてはいけないのだよ。……A子って人物に」

 緑間は、見た事もない少女を探す羽目になった事へ呆れた。火神の彼女と云うなら尚更だ。今日まで神経すり減らして来たと言うのに、これからは他人の色恋沙汰に巻き込まれるようだ。

 今すぐにでも確かめたい青峰が縁に腰掛けA子へ電話をしても、少女は出ない。イライラした青毛の男は、爪を噛みながら貧乏揺すりをした。

「オイ、青峰何だよ? さっきから」

 そんな中、子供のようにイタズラで、少年のようにニヤニヤした赤毛の男、火神大我は愉快そうにこう言い放った。……まるで他人事にしか聞こえない台詞は、青峰大輝を失意させる。携帯を火神のベッドに投げた青峰は、何を言えば良いかすら判らなかった。――頭に浮かんだのは、火神の香りが好きだと笑った一人の少女の姿だった。

 火神大我は愛する人を捨てたのだ。傷付くのを恐れ、無かった事にした。最悪だと罵られても、彼は何も知らないし何も感じない。記憶を消す事が出来ないのなら、無かった事にすれば良い。たまたまにタイミングが合ったのだ。……青峰大輝の身体から離れるタイミングが、最善のチャンスだった。

 彼女を愛し過ぎた代償が"今"と云うのならば、神様はとんでもなく残忍で、恐ろしく残酷な存在だ。いや……これも全ては自業自得だろう。

 ――だってそう、彼は……。


  火神大我は人を
     愛し過ぎる

    END



 想像以上にきらびやかなラブホテルの一室。癖のある香りはシーツの匂いだろうか。赤黒いシーツと枕が淫靡さを醸す。

 A子は自分のした事を後悔して居ない。ある人物からの着信が、握ったスマートフォンの画面を明るくしている。三回目の呼び出し前に電源を切った。火神と別れると決めた以上、"彼"と話す必要など無い。履歴に残った"青峰"の文字は後で消せば良い。

「……オレ、あんまこういう所来ないんだよね。でも、今は実家暮らしだから……ごめん」

 ベッドサイドの大きな鏡越しに目が合う。先に視線を逸らしたのは高尾和成だ。強張ったこの背中は、彼にはどう見えるのだろうか。A子が俯き、鏡から目を離すと、背後から深く息を吐く向こうの緊張を感じた。

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