薄暗い寝室に佇んだ赤毛の男は、部屋の中央に鎮座したベッドの端に座る。黒子と緑間は、電車の都合で帰ってしまった。バイクがある赤毛の男は、アチラ側を向き巨体を横たえる青い髪の男を眺めた。ベッドサイドのテーブルには鎮痛剤の箱が積み重なっていて、半分以上が空だ。 「沢山飲めば効くって訳でもねぇぞ?」 「……知ってるよ、そん位」 調子の悪そうな低い声が返ってきた。空の箱を握り潰した赤毛の男は、無感情を装い相手に声を掛ける。 「オレ、この姿で……さつきに会いに行こうと思う」 「――……勝手にしろ」 てっきり『オレの身体で何する気だ』と拒否されると思っていた"青峰"は、相手のレスポンスに驚く。 「止めねぇのかよ……?」 「行きたけりゃ、勝手に行け」 そんな言い方をされたら、まるで突き放されているようだ。でも【青峰大輝】は知りたい。小さい頃から一緒に居た【桃井さつき】が、今も"自分"を心配しているのか――。 彼女から離れたのは青峰からだ。彼女に甘え続けるのは嫌だった。彼女が他の男と幸せになるのを、近くで見るのが嫌だった。自分が……一番近くで幸せにしてやりたかった。男が"そんな感情"に始めて気付いたのは、『彼氏が出来たの』と顔を赤らめ恥ずかしそうにする桃井を見た時だった。 項垂れ、唇を噛む。青峰が桃井と最後に会ったのは成人式だ。遠くで見た晴れ着姿は記憶から薄れ、今は振袖の色さえ覚えてはいない。幸せそうなその笑顔は自分に向けられたモノでは無かった。だから、話し掛けるのを躊躇わせた。 「青峰、後悔すんなよ……?」 背を向け横たわる"自分"が、そう声を掛ける。まるで当時何も出来なかった二十歳の自分が、背中を押してくれているようだ。 「……悪ィ、火神」 "この身体"じゃなきゃ出来ない事がある。【桃井さつき】に会おう。会って聞いてみるんだ。どんな返事が聞けたとしても、きっと元の身体に戻れば何のリアクションも出来ない。それならせめても、桃井が今も自分を気に掛け……願わくは"一番近い存在"だと、思って居ますように……――。 男は問いたい。ずっと近くに居た幼馴染みへ――。火神だったらきっと、ストレートに尋ねるだろう。 『青峰の事、どう思ってんだよ――?』 :: :: :: 寝室のドアが閉まる。廊下から漏れていた僅かな灯りが遮断され、部屋は完全に暗闇と化した。来客が全て帰り、一人きりになった世界で仰向けになり、浅黒い二の腕で目元を隠す。鎮痛剤のお陰で頭痛は良くなった。 緑間は言う。 「鼻血が出るのは、体温が著しく高いからなのだよ。火神の脳は今、抱えきれない程のエネルギーを以て常にオーバーヒートを起こしている。熱の逃げ場がどこにも無いのだから、身体だって逆上せるだろう」 ――そんな事を言われても、意味がさっぱり判らない。余りに現実離れした理論を吸収出来る程、火神大我の思考は柔軟じゃ無い。 「…………頭、痛ェ」 初めて入れ替わった日を思い出す。野太い悲鳴が聞こえ目を開けると、自分が身体を揺すっていた。このベッドの上で……――。全ての始まりが、ココなのだ。 そして青峰に頼まれ、アイツの部屋でB美に会った。大人しい女性が好きな自分からしたら、真逆のタイプだったが……一緒に居て楽しかった。不思議だ。B美を思い浮かべると、頭部の痛みが引いていく。もうこのまま、彼女だけを考え眠りに就きたい。 きっと夢の中で、自分はB美と性交をするだろう。額から汗を流し、二股の眉を過ぎ、少し焼けた身体まで垂れる。少女に覆い被さるのは、紛れもない"オレの身体"だ……――。唇を貪り、乳房を捏ねれば、女は扇情感煽る声で自分に応える。 その淫らな行為を、哀しそうな顔をした"一人の少女"が見ていた。――瞬間、頭が暴れるように痛み出し…………男は目を覚ました。 「……はぁっ、はぁ……。はぁ……」 冷や汗を、黒い手で拭う。"火神"は妄想の途中で寝てしまったらしい。仰向けになったまま天井を眺めれば、暗闇に目が慣れたのか"照明の輪郭"を掴めた。 口に手を置くと、鼻息荒く指の隙間から抜けていく。落ち着きなく足を動かせば、シーツと踵が擦れる音がした。 再度眠りの世界へ旅立とうとしたその時、玄関のベルが廊下に響いた。終電すら発ったこんな時間に来客のようだ。くたびれた身体を起こし、少し汗臭いTシャツのまま青毛の男は玄関へと歩む。 「……大輝、じゃなくて……大我?」 インターホンで確認もせずに玄関を開ける。マンション自体の入口をどうやってすり抜けたかは知らないが、そこにはB美が立っていた。珍しく申し訳が無さそうで、一応の常識はあるようだ。 「どうした?」 「どっちに会えば良いか、分かんなくて……寝てたなら、ごめん」 「入れよ、時間も遅いだろ」 ついさっきまで彼女を夢で犯した事へ罪悪感を持つ男は、入れるようドアを開き、来客を迎え入れた。 「……アッチ行かなくて、良かったかもな?」 先に廊下を歩く背中に向かい、男はそう呟いた。 「どういう意味?」 「さぁな」 先程自分に『さつきに会いたい』――そう言った向こうが、女を部屋に招き入れる可能性は低い。 「大輝、また浮気してんの?」 廊下の途中で立ち止まったB美は、眉を吊り上げ怒りを見せた。 「浮気はしてねぇよ。青峰、そんな器用な男じゃねぇ」 "火神"もまた、青峰の記憶を見た。断片的ではあるが浮気をしているようなモノは見当たらなかった。代わりに、ある真実を知る。知ってしまったからこそ、火神は"身体の使用許可"を出した。 B美の腕を掴み寝室へ誘導すれば、部屋の一部が散らかったままだ。沢山のティッシュは丸いゴミ箱から溢れ、幾つか床に落ちていた。 「何これ……? 血?」 足元に落ちた塵紙には血液としか言い様がない染みが付着している。しかも、何十枚とあるモノ全てにだ……。その異様な光景に、B美は大きな瞳を限界まで開けた。 「鼻血だよ。興奮し過ぎた」 「おかしいでしょ? こんな量……! これ全部……」 白と赤しか見えない塵紙を掘り返せば、似たようなゴミの中に四角い箱と、薬の小包装を見た。 「ゴミ箱漁るなよ」 「薬の箱だって……! 量がおかしいでしょ!!」 空の鎮痛剤が五箱。何時から飲み始めたかは知らないが、明らかに正しい用量を超えている。 「頭に負担が掛かんだってよ、入れ替わりって」 「大輝も熱出してた……!! アレも関係あるの!?」 向こうが熱を出した事実を、男は初めて知る。あの野郎……黙っていやがったな? 【青峰大輝】に対する不信感が、火神に向かって牙を剥く。 「向こうは、大丈夫そうだ。オレの身体は頑丈だからな?」 「……大輝の身体は?」 空箱を握りながら相手の顔を見上げると、爬虫類顔した男は表情を崩さないままB美の両肩に手を置いて誓う。 「コッチも、オレがどうにかしてやる」 そんな頼り甲斐ある台詞を告げ、青峰は女の頭を大きなその手で撫でた。 「…………どうやって?」 場所を移動し、ベッドに腰掛けた褐色肌の男は、目の前に佇む女の二の腕を握ると優しく微笑む。それは、大分くたびれて下手くそな笑顔だった。短く柔らかめな髪はボサボサだし、眉間と目元の皺は笑顔で消えたりはしない。多量に冷や汗を掻いて流しもしない身体は、スポーツ後のようにツンとした異臭を放つ。 「お前と居ると、頭痛いのが和らぐな」 それでも【青峰大輝】は、彼女からしたら魅力的だった。良い匂いを纏い、顔も髪型も完璧に整っていた【黄瀬涼太】の誘いを振り切り、B美はココへやって来た。 「……ズルいよ」 「何がだよ?」 『安心する。お前の傍が……一番』 赤毛の男にそう言われたのは、一昨日の夜だ。そうやって二人の人間から、特別扱いされた。なのに、不安は拭い切れずに纏わり付く。 「……こういうのって、浮気になるの?」 「"こういうの"って、どういうのだよ?」 青峰は、甘く低い声で質問をする。B美の頬に垂れる髪を掬い、耳の上部へ掛ける。 「……なぁ、お前はオレと何をしたいんだ?」 質問のニュアンスを変えた男は、今度はB美の頬を指先で撫でた。 目線が同じ高さにある二人は、どちらからともなく自然に唇を合わせた。男は一度閉じられた唇を舌でなぞり、それが合図だと半ば強引に口内へ捩じ込んだ。B美の頭を抱え、身体を捻り柔らかなベッドへ押し倒す。 ――……さぁ、汗臭いTシャツなんか脱ぎ捨てて、夢の続きを始めよう。淫らで、恥を忘れ、そして艶かしい世界へ二人で沈み行くのだ。 + + + 「…………生理近いの。多分……今日か明日」 「何が言いたいのか、判らねぇ」 重ねた肌からじんわり熱を感じるのだが、それは男の熱が女に移った証拠だ。少しザラザラする鮫肌に唇を付け、鎖骨の向こうにある窪みへ舌を這わせる。枕から浮いた頭を手のひらで抱え込まれ、首が僅かに痛む。 「だから……好きにして良いから、"一回"で満足して?」 「そりゃ、"火神"の性癖だろ?」 男はそう言い、クツクツと肩で笑った。 「――……大我?」 暗闇の中なら溶けてしまいそうな男は、女の白い腰を五本の指でなぞる。 「お前、彼氏の名前も忘れたの?」 「……は?」 かろうじて、何かしらの状況が変わったのは理解出来る。しかし……まるでスイッチが切り替わったかのようなその変化に、B美は恐怖を感じた。 「次に名前間違えたら、容赦なく捨てるぜ?」 甘い声が耳元を這う。軟体な生き物のように鼓膜を震わせ、そして心臓を掴む。 「冗談だよ、安心しろ」 上体を起こした青峰は、固まったままのB美足を開き、すっかり勃った自身を擦り付ける。相変わらず反応が良くて、性器の先へ粘膜が纏わり付いた。 「――オレにはもう、お前しか居ねぇんだから」 青峰の表情からは、何の感情も悟れない。その台詞が冗談か本気か。そもそも、今目の前に居る男が一体誰なのか……――。 女は何も知らない。 ――涙も枯れた。全て幻だと思えば、立ち直りだって早かった。そう強がっても、きっと目を覚ませばまた絶望に暮れるのだろう。A子は、フラれた相手にメッセージを送ろうとアプリケーションを開くのだが、結局何も打てずにソレを閉じる。 スマホを充電器にセットして天井を眺めれば、メッセージが着信された。きっと大学の友人からだ。さっき"彼氏にフラれた事"を報告した。惨めさを同情されるのも、孤独よりはマシだ。 見る気にならない電子機器は、いきなりにA子を呼び出す。ビクリとした少女は、ディスプレイに表情された名前を見て更に驚く。出ようかどうか迷っている内に、留守電に切り替わったソレはプツリと切れた。 小さな電話機を手に取ったA子は、【高尾さん】と書かれた着信履歴とにらめっこをした。無視をしている訳ではない。ただ、誘いをどうすれば良いか判らないだけだ。 整理付かないままに名前をタップし、発信を始めた。握ったスマートフォンは仄かに温かく、コール音がやけに響いた。 『……やっと出たぁ!』 途切れた電子音の後に、相手の安堵したような声が響いた。 「……すみません。無視するつもりじゃ」 電話の向こうに居る相手は、クスクスと笑いを漏らした。何を面白いと思っての含み笑いなのか、彼女は検討付かずに困る。 『開口一番に謝られたのは、初めてだよ』 「……すみません」 この流れに、相手はとうとう声を上げて笑った。明るい笑い声が受話口の向こうで弾ける。きっと彼は人柄優しい人物なのだろう。 『謝らなくて良いけどさぁ……。何かあった?』 明るい口調が、途端に落ち着いたモノへと変化した。 『声に元気が無いから』 明朗活発な【高尾和成】と言う男の声は意外にも落ち着いていて、機械を通せばまるで父親のように包容力がある。発音も綺麗で、聞き取りやすい。火神の力強い声とは対照的だった。――だからこそ、何か惹かれるモノがある。 『……ってもまぁ、オレが会う時はいつも元気無いけど』 「高尾さんのせいでは……」 男の優しさが、今はただ苦しい。あぁ、そうか……。高尾もまた、どこかしら【火神大我】に似ているんだ。 ――付き合い始めた頃の火神も、こんな風に自分の些細な変化さえ見てくれた。『嫌だ』と言えば無理強いせずに頭を撫でてくれる。デートの最中に靴擦れして足を引き摺れば、おんぶして街を歩いてくれた。恥ずかしくて降りたいと告げれば、豪快にタクシーを呼ぶ。――お礼すら満足に言えない自分を、"愛しい"と言ってくれた。 思い出したら、また胸の奥が痛む。堪らなく会いたくなる。火神の逞しい背中が、今はただ恋しい。 『和成で良いよ。"高尾さん"だと、山の名前みたいじゃん』 男性と親しく話した事がないA子は、そんな冗談にさえ巧く返せなくて黙ってしまう。 『オレとご飯食べ行くの、嫌?』 「嫌では、無いです。ただ、火神君に申し訳無くて……」 頭に浮かんだのは、高尾の事を相談したあの日の事だ。クシャクシャになったシーツの上で仰向けになれば、肌触りの良い皮膚が自分を包んだ。身体の交わりを拒み続けた筈なのに、いつの間にか性交に溺れていた。 しかし、その後にやって来た青髪の男が自分を"常識"を揺する。成人した大人が、涙を流し顔を歪ませた。子供のように寂しさを打ち明け甘え、口付けをし、自分を突き放した。 『火神は、好きにしろって言ってたけど』 それは、どっちの火神君……――。そう聞きそうになって、A子は口を接ぐんだ。どちらであったとしても、自分は両方から距離を置かれた。 無言をフォローしたいのか、電話の相手は尚も誠意ある優しい言葉を告げ続けた。 『こんな事言ったらアレだけどさ……、嫌がる事や変な事はしないから』 別段警戒をしている訳では無いのだが、高尾はそう注釈した。"嫌がる事"や"変な事"に具体例を上げなくとも、身体の関係を示唆している事は判る。自分達はもう子供では無いのだから――。 『オレはただ、A子ちゃんの楽しそうな顔……見たいだけだか……ら、ハハハ……コレ恥ずかしい台詞だわ』 歯の浮く台詞に恥ずかしくなったのか、高尾は最後を笑いで誤魔化した。少女はずっと黙ったままなのだが、今度はこの無言に耐えられないのか、男は慌てて機関銃のようにまくし立てた。 『あ、明日の夜までにメッセージ頂戴! 嫌なら! 要らないから!! うん、要らないから!!』 最後にそう言われて、電話は切れた。通話時間は五分と少し……。意外と長く話していた事に、A子は驚いた。そうして返事の期限を与えられた彼女は、通話終了の画面をただ眺めていた。 "その男"が朝一番から駅近のカフェに足を運んだのは、中学の相棒から誘いがあったからだった。オープンテラスにお目当ての人物が座っているのを見た男は、季節が移り厚手になった"水色のパーカー"へと声を掛けた。 「よぉ、朝っぱらから何だよ?」 声を掛けられた少年は、読んでいた本に栞を挟み閉じる。そうして思っていたより晴れた表情する男に、着席を促した。 「おはようございます。心配だから呼んだんです」 「心配されるような事してねぇよ」 ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、褐色肌した【青峰大輝】はお洒落な模様が彫られた椅子へと座った。ドカッと座り、長い足を組む。 「頭痛いのは、治ったんですか?」 踝を回し、つまらなそうな顔をする青峰へ、黒子テツヤはそう声を掛けた。質問された男は、じっとりした目を黒子へ向ける。 「頭ァ……? テツ、お前オレの事馬鹿にしてんの?」 「火神君……?」 フンと鼻を鳴らした青峰は、黒子の口から出た名前に眉間の皺を深くする。 「オレが火神に見えんなら、医者に行けよ」 「――……戻ったんですか?」 黒子が信じられないと言わんばかりに口を開いた瞬間、背後からまた声が飛んできた。 「よぉ、悪ィ。寝坊して……」 「火神君!」 振り向き、赤毛の男の名を呼ぶ。欠伸を噛み殺していた男は、逆三角の目から滲み出た涙を落とした。 「……んだよ、朝から元気だな?」 眠たそうな顔のまま、だらしない声で火神はそう言う。 「キミは火神君ですか?」 挨拶より先に奇妙な質問をされた赤毛の男は、面倒そうな顔をして黒子の質問に答える。 「……はいっ? テツお前、何言ってんだ? 戻ったら真っ先に報告してやるよ」 首をゴキゴキ鳴らし、気だるそうに欠伸をした火神の身体に、黒子はまた声を掛ける。 「青峰君……?」 「今ん所はな?」 パニックになった黒子テツヤは、背を向けていた褐色肌の男を視界に入れ、自分の頬を軽く叩いた。 「"火神君"は、どこに行ったんですか?」 「火神? 火神だったら……」 黒子の質問に特徴的な眉を潜めた赤毛の男は、椅子に座る褐色肌の男を視界に入れた。 「――お前、誰だ?」 黒子の身体を押し退け、赤毛の男は"自分"へ問う。確かに、注意してよく見れば昨日までの目付きと明らかに違う。刺すようなその眼差しは、二十二年間毎日鏡で確認してきた――【自分の目付き】そのものだった。 「テメェは、ライバルの名前も忘れたのか?」 椅子から立ち上がった褐色肌の男は、テーブルに手を置く。そして自信に溢れた顔で唇を動かし、自己紹介を始めた。 「……【青峰大輝】だよ。――忘れんな、二度は言わねぇぞ?」 |