A子は、腕の中の男をより強く抱え込む。少女の胸に顔を埋めた肌の浅黒い男は、自分の逞しい腕を相手の背中へ回そうとするのだが、途中で躊躇し下ろした。

「あのよォ……その、こんな身体だから……嫌なら別に無理強いはしねぇけど」

 青髪の男は額を相手の胸元に押し付けたままに話始める。しかし掠れて上手く声が出ない。それでも伝えたい想いがある男は、醜いままにソレを続けた。

「抱き締めても、良いか?」

 相変わらず脈打つ度に頭が痛い。身体に意識が抵抗している内は、この痛みが和らぐ事は無いだろう。

 でもこうして少女から聴こえる鼓動は自分と同じ位に早くて、誰かと時間を共にしている実感が湧いた。その相手が愛しい人間なのが堪らなく嬉しくて、恐ろしく切ない。

 頭を撫でられ、それが肯定の合図なんだと悟った青髪の男は、一度下ろした腕で小さな身体を思いきり抱き締めた。

 一度身体を離し、相手の顔を見る。怖いモノ見たさだ。今A子を見たとしても、彼女は自分に愛しい眼差しを向けてはくれないだろう。それでも"火神"は表情を確認した。

 少女がどんな顔をしていようが、鍛えられ平均よりも厚い胸板へ迎え入れる事に変わりは無い。強情さ故の抱擁は、彼女に何を思わせるのだろうか――。

「……なぁ、キスは?」

 なるべくこの顔を見せないように耳元で囁くのだが、如何せん声質は変えられない。

「目ェ瞑れよ。そうすりゃ……誰にキスされても、救いがあるだろ?」

 勿論そんなの"目眩まし"にしかならない事は判っている。だから男は「……少しはな?」と、自分の言葉にフォローを入れた。

 素直に目を瞑るA子の顔を眺めれば、相手は恥ずかしいのか、ほんの少し口元がはにかんだ。せめて彼女の頭の中には"自分"の姿があって、ソイツとキス出来る事を心待ちにしていますように。信仰心も無い癖に、男は神にそう願う。

 A子の頬に手を添え、本来の自分の唇よりずっと薄い【青峰大輝】の唇を付け、最後に恋人らしい動作で一時の別れを告げた。

 ――必ず迎えに行くから。

 そんなありふれた約束さえ口に出すのを惜しむ程、"火神"は彼女とのキスに没頭する。この身体が、自分のモノだったら良かったのに……――。頭の中で【入れ替わったあの日】を深く後悔し、時間を巻き戻したくなる。

 賢くない男は、その決断が賢くない理由を知らない。

 男は何も知らない。

 二度も"別れに似た台詞"を告げられた彼女の気持ちも、そして傷心した彼女に近付く男の存在も。

 ――男は何も知らない。





「何時まで待たせるのだよ!! 馬鹿者!! 貴様らは何も変わって無いのだよ!!」

 所定の場所に呼び出されてから数分しか待っていないにも関わらず、眼鏡の男は二人を怒鳴り付けた。律儀過ぎる理系程、時間を大切にする典型的なパターンである。

「……久しぶりのご対面だっつうのに、随分なご挨拶だな?」

 マンションのエントランスから光が漏れ、足下の階段を照らす。火神大我の所有するマンションの前に集った三人は、挨拶もソコソコにビリビリした空気に包まれた。

「すみません、ちょっとゴタゴタが……」

 色素の薄い少年が呟く。きっと道行く人々は彼の存在に気付かない。

「青峰はどうした? 逃げたか? 相変わらずの逃げ癖なのだよ」

「……青峰君なら、目の前に」

 隣に立つ赤毛の男を指差し、黒子は緑間に入れ替わりの事実を伝える。二重の眉を片方だけ上げた男は、緑間へ当て擦りをぶつけた。

「逃げ癖あって悪かったな。保守的なんだよ、オレは」

「……ややこしいのだよ」

 額に手を置き大袈裟に溜め息を吐いた緑間は、そのままの姿勢で火神の身体へと問い掛ける。

「頭痛は無いか? 身体がダルいとか」

「そうだな。お前の小言聞きすぎて、頭が痛ェ」

 【火神大我】の口からは絶対出ないであろうその嫌味に、緑間は中の人間が青峰である確信を持った。

「無いのか。なら安心したのだよ」

 隣に立つ赤毛から鍵を手渡された黒子は、ソレでマンションの自動ドアを開ける。その後ろには人並み以上に背の高い男が二人続いた。

「いいか?頭痛が始まったらすぐに言うのだよ。ほっといたら脳の形が変わるぞ」

「……話聞いただけで、具合悪くなりそうだぜ」

「どの位で変わるのですか?」

 後ろを振り向いた黒子が緑間に訪ねる。彼の前にはエレベーターがあり、依然として上昇を続け階数は9を指している。当分は降りてこなさそうだ。

「……知らん、人それぞれだ。コイツら位スカスカな脳ミソだったら、進行も早いのだろうな」

 緑間は火神の身体を見る。視線を受けたその男は、面倒臭そうに両肩を軽く上げると口をへの字に曲げ、「火神には負けるぜ」と冗談を口にした。

「そう言えば、火神君……鼻血出してました。一昨日からだって」

 黒子は目と口を大きく開け、さっき見た光景を二人に教えた。友人の鼻からいきなり血液が垂れて来た光景は、衝撃が大きかった。本人が平然としていたのも、またその場の違和感を生むのだった。

「何で言わねぇんだよ!! オレの身体だぞ!!」

 火神は黒子の肩を掴み、怒鳴る。彼等以外に誰も居ない静寂が似合うエントランスに、男性のしゃがれた声が反響した。

「火神がここに着いたら、体温を測れ。高くなっている筈なのだよ」

 緑間は眼鏡のブリッジを上げながら、腕を組む。黒子は強く掴まれた肩が痛む筈なのに、顔色ひとつ変えずにいた。

「体温高くなってりゃ、顔が赤い筈だろ?」

「青峰君、肌黒いから顔色判りません」

 そんな冗談を言われた赤毛の男は、手を離し眉を潜めてイライラし出す。

「仕方ねぇだろ、日焼けなんだから」

 赤毛の男は、忙しなく足を鳴らしながらに右手親指の爪を噛んでいる。その子供のような仕草を横目に入れた黒子は、彼に指摘を入れる。

「爪噛む癖は、治らないんですね」

「貴様……火神の爪を噛んで何とも思わんのか?」

 似たような癖を持っている緑間は、それを棚に上げ問い掛ける。するとさっきまで何も思わなかった赤毛の男は、足を止め顔を引き吊らせた。

 ::  ::  ::

 "本来の家主"が戻って来たのは、三人が入室した三十分後だった。仕方無しにリビングにある大型テレビでバラエティーを眺めていた彼等は、玄関が開く音が聞こえたと同時にソレを消した。

「……悪ィ。遅れた」

 褐色肌に青毛の男は、ライダースーツを脱ぎダイニングのテーブルに放る。そして向こうに続くリビングへ足を運んだ。

 大型テレビの前に黒子が正座し、ガラステーブルの前では緑間が勝手に入れたコーヒーを飲んでいる。革製のソファーには赤毛の男が寛いで横になっていた。

 ソファーに座ろうとした青毛の男は、我が物顔で横たわる赤毛男の足をひっ叩いた。ピシャリと軽い痛みにさえ表情変えない赤毛の男は、拗ねた相手へ面白くなさそうな台詞を吐く。

「火神ィ……。オレはお前の為に、彼女の相手してやったんだぜ?」

 一人分のスペースを譲ってくれた男を睨み、青毛の男は座りながら足を投げ出した。

「股開かせなくても、方法は幾らでもあんだろ」

 卑猥なその返しに緑間は怪訝そうな顔をし、意図せずに情事後を見てしまった黒子は二人から目を逸らす。

「――高尾が手ェ出そうとしてるぜ? お前の可愛い可愛いお姫様にな」

 【火神大我】の口から予想外な名前が飛び出し、元相棒だった緑間は眉を潜める。

「何でソコで高尾が出てくるのだよ……」

「お前の方が詳しいんじゃねぇの?」

 赤毛の男は『知らない』と言わんばかりに肩を竦め、ついでに足を組む。

「高尾だけは、何を考えて居るのか……分からないのだよ」

 顎に手を置いた緑間は【高尾の行動理由】を考えるのだが、さっぱり何も判らない。そもそも、何故高尾が火神の彼女を狙おうとしているのかも謎だ。

「狙われてるって、A子がそう言ったのか?」

 だらしなくソファーに座る青毛の男はそう聞いた。高尾とA子がエスケープしたあの日に、きっと何かあった筈だ。手離した事が急に不安となり、今更ながらに後悔を生む。

「本人が宣戦布告して来たんだよ。律儀な坊っちゃんだよな?」

「……彼らしいですね」

 【高尾和成】の飄々とした性格を知っている黒子はポツリと呟く。きっとあの黒髪の男からしたら、その"宣戦布告"もゲームの始まりにしか過ぎないのだろう。

「どういう事だよ?」

 横目で隣に座る"自分"を捕らえた青毛の男は、唸るような声で問いた。

「高尾も好きなんだってよ、火神の彼女が」

「何でもっと早く言わねぇんだよ!!」

 姿勢を正した青毛の男は、隣で足を組み頬杖付いた"自分の身体"への怒りを露にした。

「言う前にテメェがキレて追い出したんだろ?」

「クソッ!!」

 彼女が狙われていると知った"火神"は、短く切り揃えられた青い髪を掻き毟り落胆する。そんな仕草をした男はデカイ図体を折り曲げ、ショックの色を隠せないようだ。

「感謝して欲しい位だぜ。友人の為に興味ねぇ女抱くオレの身にもなれよ」

 その"余計な一言"に、青毛の男はピクリと身体を反応させた。そして言葉の意味を飲み込んだ瞬間、彼の浅黒い腕は隣に座る男の襟首へと伸びていた。

「――だったら……! セックスする必要ねぇだろ!!」

 褐色の手に襟首を持ち上げられ、顔面に怒号と唾が飛ぶ。急に悪者にされた赤毛の男はその怒りに触発され、今まで抑えてきた【焦り・苛立ち・そして必死に隠した絶望感】が、内部で爆発したのを感じた。

「誘ったのはアッチだ! オレは帰れって言ったんだよ!! 嫌だって泣き付いたのもアッチなんだよ!!」

 きっと二人はこの瞬間に、抱えていた不快な感情が全て"怒り"として吹き出たのだろう。青毛の男は赤毛の男をソファーに押し倒し、馬乗りになった。

「っざけんじゃねぇぞ!! ゴラァ!!!」

 勢い余った青毛の男が握った拳を振り下ろそうとすれば、赤毛の男は相手の太くバランスの取れた首を右手で掴んだ。

「んだよ!? やんのかテメェ!! 大体お前"別れんな"とか言ってただろ!? そしたら次は"エッチすんな"だァ!? 勝手が過ぎんだよ!!」

 赤毛が怒鳴ったすぐ後に、青毛の両手がソイツの首へ回った。互いが互いの首根を掴み、牽制し合う。

「少し考えりゃ善悪付くだろ!? どんだけ下半身で物事判断してんだ!!? 青峰テメェはよォ!!」

 二人が動く度に、負荷に耐えられないソファーはギシギシとフローリングを軋ませる。

「何だよ!? ビビってんのか火神!! 首絞めりゃ元に戻るかもな!! ホォラ、やってみろよ!!!」

 組み敷かれて仰向けの男は、乗り上げた"自分の身体"を挑発する。ギリギリと軋む音が届きそうな位に歯を食い縛る青髪の男は、褐色肌の指先に力を込め出す。同時に絞まり始める首に、爬虫類らしさが垣間見えるその顔が歪んだ。

「火神君! 青峰君!」

 黒子は膝立ちになると、ソファーの上の二人を宥めようとする。しかし、好戦的な両者にそれが届く事は無かった。

 いよいよもって二人が首を絞め合い、取っ組み合いの抗争を始めるかと思われたその時だった。

「少しは大人になるのだよ!!!」

 テーブルを叩く乾いた破裂音、そしてティーカップが跳ねる激しい音と共に、罵声が二人へと飛んだ。

「オレは貴様らの弛い話を聞きに来た訳でも、喧嘩を見に来た訳でも無いのだよ!!」

 緑間は手が緩んだ二人を交互に睨みながら怒号を続けた。――確かにこんな喧嘩をさせる為に呼んだ訳では無いのだ。静まりかえった部屋に、小さく薄い声が響いて消える。

「……喧嘩するのは後にして下さい」

 息を乱し、肩が動く程に興奮した二人は、どちらともなく身体を離した。



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