夜が濃くなり、公園には誰も居なくなる。設置された巨大な丸時計を見ると、既に21時を過ぎていた。星も瞬かない曇り空にボールの弾く音だけが響く。自分以外に誰も居ない空間で、男はディフェンスをシミュレーションしながら器用にボールを掴み宙高く跳ぶ。ガシャンと激しく金属が軋んだ。掴んだリングから手を離せば、ガチャガチャと止まらない揺れが続く。

「……はぁっ、………はぁ……クソッ」

 息も荒く悪態付いた彼は、コンクリートの地面をタン、タンとバウンドしたボールを大きな手のひらで掴む。10月に入っても未だ生温い気温にしっとり汗を纏っていた。

「――どうしちまったんだよ……オレ……」

 Tシャツの肩口で額を拭けば、男は眉を下げる。その形は二つに分かれていて、前髪に半分隠れる。

「……重いんだよ、この身体」

 こうやって他人の身体を借りて初めて気付いた。青峰本体である"あの身体"は、素晴らしい恵体だ。全身にバネが無いこの身体じゃ、上手くシュートも狙えない。成る程、火神がダンクシュートなんてストレートな技しか出来ない理由を今初めて知った。

 それでも跳躍力が抜群に高いのは、筋力で補っているからだろう。こうなるのにアイツはどれだけの努力をして来たのだろうか。――最初からスポーツするのに恵まれた肉体を授かっていた"自分"には皆目見当も付かない。このズッシリした身体の重さも、違和感を生む。

 でも今はこの違和感が有難い。最近は持っていた青峰大輝の記憶さえも薄らいで、時々自分は【火神大我】だと思ってしまうのだ。それが酷く怖い。夜眠りに就く度に、目覚めたら"青峰大輝である自分"の意思が消滅している気がした。新しい朝をもう二度と感じなくなりそうで、それは即ち死をも表している。ネガティブな彼は、魂が肉体に食われる様を想像して歯を食い縛る。

 遊園地の日から一週間……。今日まで誰とも連絡を取っていない。黒子テツヤやA子が主に『連絡下さい』と催促を寄越すのだが、男はそれをずっと無視していた。時々【青峰大輝】の四文字が着信履歴にあると、猛烈に頭が痛くなる。

 ジムのバイトは暫く休みを貰った。今は何もしたくない。大学の講義も少ないこの時期は、日がなこうやって身体を動かしていた。じゃないとまたあの火神の記憶ダイジェストが始まるからだ。

  ::  ::  ::

「……お疲れ、様」

「待たせたな?」

 次の日、とある駅にA子を呼び出したのは他でもない。――別れを告げる為。オレは火神みたいに優しくは無い。自分に甘く、他人に冷たい。そうやって自由に二十二年間を生きてきた。

「今日は、オレん家行こうぜ?」

 バイクに跨がりフルフェイスのヘルメットを渡す。オドオドしたA子は、いつもより短めな膝丈スカートに後悔しているようだ。裾を引っ張り、丈を伸ばそうとする。

 ため息ひとつ溢した赤毛の男は、収納ボックスからジャージを取り出し少女へ渡す。少し機械油が臭いが我慢して貰う他無い。

「ありがと……」

 小さなミュールを脱ぎ、公然の場にも関わらず少女はズボンを履く。腰元を押さえないと下がってしまう程にブカブカで、丈もかなり長い。それなのに女は嬉しそうにニコニコしている。ヘルメットを被った相手の首がフラフラしていて、父性本能が刺激された。

「早く乗れ」

 腰に小さな手が回る。背中にコツンと当てられた固い感触を確認し、エンジンキーを回す。始動したと同時に座ったサドルから振動が響いた。この排気ガスのクソッタレな匂いが好きだ。男は皆そういう生き物なんだ。

「もっとちゃんと掴まれよ」

「えっ……あっ……、はい」

 小さな手を大きな手で包む。こんなに小さな生き物が、自分と性交したら子供を犯している気分になるのだろうか……?規格が過ぎた身体は不便だ。シックスナインも出来ない。ふしだらな男は、背中から感じる熱へ浮かされ、ふしだらな妄想を始めながらに地面を蹴った。





「大我、寝たの?」

 青峰に連れられやって来た"火神家所有のマンション"は豪華で、B美は驚いた。本人は「別に?広いと時々寂しいな」と嫌味無く笑う。浅黒い肌に似合わない程の爽やかな笑顔は、魅力的にも感じた。

 バスタオルで髪を拭きながら、裸の女は寝室へと入る。電気が消え、家主も素っ裸のままにベッドの中央で寝息を立てていた。

「起きてよ、イイコ過ぎるでしょ?」

 ベッドに腰掛け肩を軽く揺すっても、相手は起きない。浅黒い胸元がシーツの白と対比を濃くする。B美は、濡れて肌に付く髪をバスタオルで乾かしながら溜め息を付いた。

「……寝たんなら帰るからね?」

 拗ねた彼女は男へ背中を向け、仕方無しに脱がされ枕元に投げられていた下着を手に取る。背後から腕が伸びている事にも気付かずに、ブラ紐を肩に通す。

 いきなり肩に重みを感じた彼女は、驚きで身体を跳ねた。犯人から横顔にキスをされ、せっかく付けたブラをまた外されてしまう。

「…………ほらね?寝たフリだと思った」

「驚いた癖にか?」

 悪戯が成功した子供よろしく笑う爬虫類顔した男は、背後から華奢な身体を更に抱き締める。

「泊まってけよ……。一晩中セックスすんだから」

「信じらんない……絶倫」

 そうこう言ってる合間にも青峰の股間に付いた肉棒は地面と平行にまで元気を取り戻していた。

「何回目だ?今日来てから」

「……三回は、した」

「じゃあ後三回」

 太くて筋張った二本の指が乳首を挟んで捏ねる。後ろ首に二、三度キスを受けたB美は、内部に居る【火神大我】の絶倫具合にグッタリしていた。三回とは言っても、この男は中々イかない。射精しそうになったら動きを止めては愛撫を始めるのだ。最初はその気遣いが嬉しかったけど、一回の行為が長いのもしんどいモノだと知った。

「無理、アソコ痛いもん。眠いし」

「なら今一回シて、起きたら二回だな?」

 無邪気な青峰は、振り返ったB美から両頬を摘ままれるのだが、元々輪郭がシャープなこの男は日に焼けた皮膚だけが伸びる。

「ナカに出せば、一回で良いんだけどよォ」

「何それ?意味判んない」

「外出しだと、途中で出すの我慢すっから満足感ねぇんだよ」

 射精寸前で膣内から性器を抜き、腹に出すのは一度堪えなければいけない。すると満足感が少ない為、何回でもシタくなるのだ……と青毛を掻きながら説明をしてくれた。この身体が【青峰大輝】だった頃にはそんな事無かったのに……と、B美は異変が起きる前の彼を思い出す。

「ゴム付けたら?」

「サイズが無いから抜けるぜ?」

 伸びた頬の皮膚が更に伸ばされ、男の顔が歪んだ。そして痛みで「うぁー……」と情けない声を漏らす。

「大輝もピル飲めってうるさいの」

「煙草吸わねぇんだろ?」

 じんわりと響く頬の痛みを逃す為に両手で擦る青峰は、遠回しに女性側の避妊を催促する。それは避妊や女体への知識が乏しく、お互いの快楽を選んだ果ての発言だった。

「そう言う問題じゃない!」

 文句が始まりそうな女の頭を撫で、軽いキスをする。そして細くしなやかな指をすっかり反り勃った自身へ誘導してやれば、B美は困った顔をしながらも指を絡め上下に動かす。

「ま、何でも良いけどな?舐めてくれりゃ」

 小さな頭を押せば、横髪を耳に掛けるB美から気持ちの良いフェラチオがプレゼントされた。





「ここ、オレん家」

 着いたのは高層マンションでは無くて、二階建てのアパートだった。白い壁に二階部分には突き出た通路。一般的な安アパートが『自分家だ』と目の前の男は告げた。備え付けられた外階段を昇り、二階へと進む。A子は慌てて追い掛けようと、裾が長いジャージを膝辺りで持ち上げ長さを調節する。

 火神が部屋を解錠し、鉄製の玄関扉を開けばお洒落な匂いはしない。ほんの少し汗の混ざった、部室のような香りがした。芳香剤も使わないこの室内は"男性の匂い"で満ちていた。玄関には散らばったDMと公共料金の使用量確認書。狭い玄関には靴が乱雑に積み上がる。彼は履いていたバッシュを脱いでスニーカーの上に重ねた。

「上がれよ」

 スリッパを指差し、自分は靴下のままにフローリングをベタベタと歩く。「お邪魔します」と呟いてスリッパに足を通し、脱いだ靴を揃え男の後ろに付いていく。狭い台所には鍋やら食器やらが雑に突っ込んであった。汚いシンクの横には空き缶、プロテインの袋、クエン酸の筒。傍には計量スプーンが投げられていた。

 一人暮らしにしては大きな冷蔵庫に、オモチャのマグネットが傾いて張り付く。

「……言っとくけどな、火神のマンションが特殊なんだよ」

 一般的な男性の部屋なんてこんなモノだ。特に生活力が低い青峰大輝は、水回りの衛生観念が雑だ。トイレには使い終わったペーパー芯が何本か転がっているし、四隅には埃も溜まっている。

 だけど、ワンルームは予想より綺麗だった。ベッドの上のシーツはしわくちゃになったままだったが、床に余計なモノがあまり置かれていない。全体が落ち着いているのに、ピンクのクッションだけが違和感を醸し出す。

 それでも家主は雑な性格らしく、棚の上が多少ゴチャゴチャしているし、テレビの前にはアダルトであろうDVDが剥き出しで数枚出しっぱなしだった。

 ロンTの袖を捲った男はテレビを付けた。映ったバラエティーは芸人が旅先でグルメを堪能するモノで、笑い声やSEが奏でる賑やかさに静かな部屋は包まれた。

「……火神く……――」

「オレは、火神じゃない」

 カーペットの上に胡座を掻いた火神は、トントンと机のDMを指で叩く。そこに書かれた名前は【青峰大輝】。

「あおみね……だい、き……?」

「言いたい事は、判るか?」

 その言葉に俯いてしまったA子は、精一杯身支度をしたのだろう。いつもより可愛く見える。女のお洒落なんかよく知らないけど、格好も髪型も地味成りに工夫をしている。――火神と幸せな時間を過ごせると信じて、彼女は努力をして来たに違いない。

 その彼女から大事なモノを奪う。努力を無駄にさせる。鬼のような決断だ。だけどオレは火神じゃないし、この女がどうなろうと自分が大事だ。

「距離を置いて欲しい」

「――……」

 簡単だ。女なんて何回も振って来た。飽きた・浮気されたした・性格の不一致。B美の前の女は一年付き合って別れた。

 ガヤガヤとテレビだけが騒ぐ、無言の時間が続いた。ソレを裂いたのは女の方だった。彼女は相変わらず堪えた感情を逃がそうと、スカートを強く握っている。多分、これはA子特有の癖なのだろう。裾が捲り上がり、白い太ももが露出していた。

「……お弁当、ありがとう」

「弁当……?」

「全部……食べてくれたの……"あなた"でしょ?だから」

 A子は微笑んだ。でも目頭からは涙が滲んで、落とした。天気雨のように不似合いな水滴は赤らんだ頬を何度も滑る。

 火神の中に居る"青峰"は手を伸ばし、その涙を拭いてやろうとしたが、途中で手を止めA子から視線を逸らした。

 ――胸が痛い。四角い液晶の向こうでは今人気のリアクション芸人が、小魚の踊り食いに挑戦している。五月蝿くて、明るくて楽しそうな笑いが部屋に響いた。こちらの部屋では女が泣いている。世界は平行の筈なのに、あぁ……あちら側は酷く遠いな。





 火神に「最後に駅まで送ってやる」と言われたが、一人になりたくて断った。最後とは言え、優しくされたらまた甘えたくなる。

「……全てが戻ったら、"火神"がお前を迎えに行く」

 そう言われたって、彼女からしたら告げた本人が【火神大我】なのだ。その台詞は茶番にも似ていた。

 暗い住宅街をトボトボ歩いては視界が滲む。フラれるのがこんなに辛いとは思わなかった。明日もまた大学で講義だ。友人のノロケを聞きながら教授の退屈な話を聞く。――堪えられる気がしなかった。やっぱり火神には好きな人が出来たのだろうか?自分が出ていった後、幸せそうな顔で誰かに連絡する相手が浮かんだ。それなら惨め過ぎて涙も出てこない。

 最低かもしれないが、今あの色黒の怖い顔した男が「オレが火神なんだ」と自分を求めて来たら、応えてしまうかもしれない。

 ライトやネオンで明るくなってきた駅前。フラリとカフェに入れば、落ち着いた雰囲気と美味しそうなケーキ類に少しだけ癒された。

 自分と年も変わらなさそうな女性店員へホットのカフェモカを頼んだ。外の気温は未だに冷めないが、温かいモノを飲んで気分を落ち着けたかった。金額を告げられ鞄の中を漁る。

「――……あ」

 連鎖のように最悪が重なった。入れて来た筈の長財布が無い――。財布も忘れるなんて……。泣きたくもなるが、彼女は鞄を覗いたままに動けなくなった。頭が痛い、顔が熱い、ザワザワしたモノが背中に広がる。更には後ろに何人か並んでいる。このままで居ては不信な眼差しを受けるだろう。

「……お客様?」

 ――それは唇を噛み、財布が手元に無い事を告げようとした瞬間だった。

「あの、この子オレの連れなんですよ。会計一緒で。オレはコレ!んで、サイズは中くらいの!!」

 後ろから手が伸びてきてレジに千円札が出される。理解出来ないA子は後ろを振り向けば、黒髪の男性と目が合う。彼はキョトンとした顔のままに片目を閉じてウィンクをした。A子は、そんなお茶目な動作にも反応出来ず、ただ顔を逸らした。

「そちらのランプ下でお待ち下さい」

 女性店員は二杯分の代金を引いた僅かな釣銭とレシートを男性に手渡す。そしてマニュアル通りにレジ前から横の商品渡し口へと誘導した。

「あの、私……お金……」

 『持ってない』と言おうとして顔が赤くなる。貧乏か、もしくは間抜けな女だと笑われる気がしたからだ。

「お金?良いよ。ナンパだから」

 男は冗談を言いながら若い男性店員から二つのドリンクを手に取り、ホットカップの方をA子へと渡した。口調が飄々としていて不快感や嫌味を一切感じさせない。

 受け渡し口の近場に備えられた立ち飲みのカウンターに立つ男は別段お洒落な訳では無いが、何か人を惹き付けるモノを持っていた。火神のように顔立ちが派手でも無い。けど、パーツが全て整っていた。彼の涼しげな顔は女性受けが良さそうだ。

 名前も知らない相手をどう呼べば良いかも判らずに、ホットカップを両手で掴みA子は狼狽えた。そんな様子を察した黒髪の彼は、スプーンで生クリームを掬いながら少女に言葉を投げる。

「高尾だよ。――オレは高尾和成。名前当ててあげようか?…………リエちゃん?」

 幾らか考えた割にはテキトウな感じもするが、名付けた本人はしっくりきたようでフンフンと少し上を見ながら頷いていた。

「お金払います!」

 たかだか数百円に必死になった少女を見て、高尾はハハハ……と笑った。

「まぁ、それでリエちゃんの気が済むならなぁ……」

 全く知らない名前で呼ばれ、挙げ句に馴れ馴れしく"ちゃん付け"されるが、全然嫌じゃない。その屈託無い態度と笑顔に全てを許される。【高尾和成】はそういう人間なのだ。

 高尾のチノパンからワンコールだけの着信が響いた。相手は気まずそうな顔をしてスマートフォンを手に握り「いっつもワンコしかしないんだよね?」と、独り言のように呟いた。

「お金都合付いたら連絡頂戴、リエちゃん」

 黒髪の男はスマホを耳に当て、紙ナプキンの裏に雑な字で11桁の数字を記した。ズイッと自分の元に寄越した男は通話が始まったのか、電話の向こうと会話を始める。そうしてA子へ手を振り、横を過ぎて出入口に向かった。

「――何?遊びたくなった?ツレないね、真ちゃん。たまには時間……――」

 自動ドアの向こうへ男は消える。カウンターテーブルに残された薄いナプキンを手に取る。未だに火神を思う彼女は、その紙をどうして良いか判らずに手帳に挟んだ。



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