「――何だよ、忙しいんだよオレは」

 ファミレスへ呼び出された火神大我は、キャップを外しながら待ち合わせ相手に文句を言う。キャップにしまっていた前髪がパララと額に落ちた。羽織ったジャージを脱ぎ、空いている椅子に放る。向かいに座る褐色肌の人物が、そんな火神を鼻で笑った。

「忙しい、って無駄に筋トレしてるだけだろ」

「リハビリって言えよ」

 火神は左足で力強く床を踏む。痺れるような痛みが骨まで響くのだが、赤毛の男は顔色ひとつ変えない。火神の足首には、厳重に巻かれたギブス。昨シーズン中、オーバーワークにより左足首を故障した。高校時代は身体の管理をしてくれる【カントク】と云う存在が居たが、今は居ない。プロになり自身で管理するようになった途端、怪我をしてしまった。――その結果、"温存"と云う名の療養期間を提示された。

 同じように青峰も膝に爆弾を抱え治療中である。練習中に接触事故を起こし脛から膝を強打した。接触した相手へ当たり散らした青峰はチームに居づらくなったのか、あれから結局練習には行っていない。時々「高校時代から何も変わんねぇ……」と皮肉めいた事を、寂しそうに言う。だが一人でもチームを引っ張るだけの能力がある青峰を上層部は戦力外にせず、彼は今もスターティングメンバーに名を置いている。

 日本に居るのは嫌だ。

 ――それは、彼等が共通で思っている事だった。この才能さえあれば不自由しない青峰と、周りに合わせてモチベーションが上下してしまいがちな火神は、今の環境に不満を持っている。強者である彼等が未だ国内のチームで燻っているのは、日本のバスケットボール協会に問題があるとしか思えない。プロの世界に入り実感した……実力だけでどうにかなる訳では無いと云う現実。

「奢ってくれんのか?」

 椅子に腰掛けた火神は、ランチメニューを開き端から端まで指を滑らせる。

「――ソレ全部か? 冗談寄せよ」

 青峰はそれを見て小さく笑う。呼び出しベルがあるのに、火神は手をヒラヒラさせ「スンマセ―ン!」と、大声で店員を呼び出した。予告通りにメニューの端から端まで頼んだ火神に、青峰はゲッ……と言う顔を見せる。

「リハビリ中だから食わなきゃなんだよ」

「してなくても食うだろ」

 呆れた青峰は、似合わないストローを使いオレンジジュースを飲み干した。


 ――――――――


「……で? 青峰、用事って何だ?」

 目の前へ次々に運ばれてくる食料品を片っ端から胃に突っ込んだ火神は、食後のコーヒーを啜りながら青峰を見る。

「……いや、大した事じゃねェんだけど」

 前置きをした青峰は、何て言葉を始めれば良いのか判らず、結局ストレートな質問をぶつける事になった。

「…………こないだ居た、あのオンナ。連絡先知らねぇか?」

 ストローを意味無く弄り、グラスの中の氷をかき混ぜる。

「惚れたか? 意外だ」

 火神はニヤニヤしながら紙ナプキンで口元を拭いた。その簡略的な発想にイラッとした青峰は、拳で机を叩き火神を睨む。重々しくドンッと鳴ったテーブル卓へ、近くに座っていた客が驚き、視線を送っていた。

「テメェは、いつから噂好きのババァみたいになっちまったんだ?」

 周りの視線と青峰の嫌みに肩を竦めながら、火神は「連絡先、聞かなかったのか?」と質問を返す。

「――駅で別れたからな……」

 青峰は火神へ嘘を付く。本当は一晩を共に過ごした。そして彼女の処女を貫いた。シーツに染みた赤い斑点と、ベランダで見せた黒子テツヤの笑顔だけが、青峰の脳裏へ浮かぶ。

「電話番号なら聞いた。オレの料理食って何かあったら困るからな?」

 火神はジャージから最新のスマートフォンを取り出す。アンケート用紙と鉛筆に手を伸ばすと、11桁の数字だけを書き、青峰へ渡す。

 ――名前、分かんねぇじゃん……。心の中で火神へ悪態を付き、青峰はその恩知らずな感想を紙ごとポケットに突っ込んだ。

「金、借りたんだよ。電車代も無くて。返さなきゃ最悪だろ?」

 言い訳には最適だ。そう思って口にした理由だが、火神はそんな青峰に違和感を覚えた。

 別にあの後二人が駅で別れていようが、実は一晩を共にしていようが、火神にはどうでも良かった。コーヒーを口にしようとカップを持ち上げたが、中が空になっている事に気付く。

「金ならオレか黒子が代わりに渡してやるよ」

「――律儀な男なんだよ。オレは」

 青峰は口を尖らせ、まごまごしい口調で火神の提案を却下した。

「青峰、お前律儀なのか!!」

 火神はわざとらしい口調で驚くと、自身の手のひらを上に向け、青峰の前へと差し出す。

「……だったら返せよ。オレから借りた五千円」

 青峰は、火神が付き出した手のひらにレシートを叩き付け、唸るような声を出す。

「これでおあいこだろ? 利子付きでもな」

火神は、印字された五桁に届きそうな金額に目を丸くして「そんなに食った? オレ」と苦笑いをした。


 先にファミレスから出た火神は、未だ椅子に座る青峰の姿をガラス窓越しに確認する。彼は先程渡した紙を取り出し、手に握った折り畳み式携帯を打ち込んでいた。

 そうして確認した火神は口元の口角をニヤリと上げると、キャップを深々被る。左足首を回し、入念にストレッチをした赤髪の彼は、口笛を吹きながら負荷が掛からない程度にジョギングを始めた。

 ――青峰は、自分以外に、もう一人【人の玩具を奪って喜ぶガキ大将】が存在する事に、全く気付かないでいた。


 …………………


「この前は、ありがとうございました」

 黒子が吐く息が、ほんの少し白くなる。今日は日付の割にはやけに寒く、乾燥していた。午前中で授業が終了した二人は、駅前の繁華街を並んで歩く。

「……こちらこそ、ご馳走様でした」

 ○○と黒子は頭を下げ、お礼を言い合う。実習も無事終わり、あとは長期休暇前のテストに挑むだけだ。あの日から1週間程経ち、久々に黒子と会った。彼から「本屋に行きたいです」と誘われ、賛成しようとした瞬間に青峰の台詞を思い出した。

『……なあ、お前いつもこんな風にフラフラ付いて来んの?』

「元気、無いですね。大丈夫ですか?」

 同じ歩幅で歩いてくれる黒子の横顔を見た○○は、小さく首を振った。この彼となら肩を並べて歩ける。あの日、背中しか見せずに先に進んでしまった褐色肌の男とは、比べ者にならない程に気遣いが伺える。そんな彼女は、思い切ってずっと気になっていた話題を振った。相手が優しい黒子テツヤだからこそ聞ける質問だ。

「最近、会った? ……その、あの人達と」

 質問の意図が見えず立ち止まり、こちらを見た黒子へ「楽しかったから、また会うなら誘って欲しくて!!」と付け加えると、納得した彼は口を開いた。

「いえ、会ってないです。黄瀬君から色々誘われてはいましたが、忙しいし……。それに……」

 言葉が途切れた黒子は、数秒の沈黙の後に呟く。

「賑やかなのは、好きじゃない」

 寂しそうに笑った黒子。○○は、昔はこんなに表情豊かだったかな? と彼の昨今を比べてしまう。

「合コンとか誘われるんですが、興味無くて。火神君と青峰君はしょっちゅう行っては『行くだけ無駄だ』って愚痴愚痴言ってます」

 あぁ、やっぱり彼も合コンとか行くんだ……。そうやって親しくなった女の子と、この前みたいにホテルに行って……――。

 あの手慣れた感じがそれに真実味を持たせた。同じ年なのに大人っぽく感じたのはそういう経験の差だろう。

「……これは内緒なんですが」

 黒子はぐっと顔を寄せ、耳打ちをする。こういう密着が平気になるのは、見た目が中性的であまり異性を感じさせないからだろう。

「――火神君はオトコもイケます」

 仰天すると、黒子はしれっとした顔で「秘密ですよ」と囁き、耳元から離れる。

 何故か火神が黒子の上に重なって、快感に眉を寄せる絵が浮かんで顔が紅くなる。そんな○○の妄想を察したのか、黒子は「……ボクは違いますからね」とジトっとした目を彼女へ向けた。

「火神君は見た目が派手ですから、ほっといても人が寄ってきます。……オトコばかりですが」

 辛辣なオチに笑っていると、黒子は次いで○○が一番知りたかった事に触れ始めた。

「青峰君は、理想が高いんですよ。今まで身近に凄い幼なじみが居たから……。目が肥えています」

「……凄い、幼なじみ?」

「アイドルなんかよりずっと可愛らしくて、スタイルが良かった。毎週必ず、誰かに告白されるような方です」

 そんなハイスペックな女に猛アタックされた事に気付かなかった黒子は、○○が内心とんでもないショックを受けている事にも気付かない。

「ボクはあの二人が付き合って結婚すると思ってました。お似合いでしたからね」

 少女に追い討ちを掛けた黒子は、止まる事無く青峰の話題を続けた。

「だから、彼女が出来ても続かないんです。最長で3週間でした。内2週間は連絡来ても無視してましたから……酷い人です」

 黒子は、無口になり俯いてしまった○○に気付くと、少しだけ眉を寄せて申し訳なさそうな顔をする。そして、その小さな口から謝罪を述べた。

「別に、青峰君を悪く言うつもりは無いんですが……。すみません」

 それでもしばらく無言が続く。黒子は後悔した。もしかしたら、自分は友達の陰口を叩く卑しい人間だと思われたのかもしれない……。彼はこうやって、喋り過ぎるといつも後悔する。

 二人は気まずいままに目的地へ到着する。全国チェーンの大きな本屋は、本や雑誌なら各種何でも揃えていて、学生の間で重宝されていた。「では、ボクはあっちに……」と別行動を提案する黒子。頭の裏側がガンガンして、一人になりたかった○○はそれを了承する。

 幼なじみの存在にショックを引き摺るそんな彼女へ、鞄の中のスマホが着信を知らせた。タイミング悪すぎ……と文句を言いながら画面を見ると、知らない番号からの着信。090から始まる数字とにらめっこした彼女は、それに出ることにした。

「……はい」

少しの無言の後、向こう側から低い声が届く。

『……………よぉ、オレ、青峰だけど。今大丈夫か?』

 思いもよらない相手からの着信に、全身の体温が一気に上がった。頬が熱い、目が潤む。驚いて口が開くが、言葉が出て来ない。低く男らしい声は、電話越しだと余計に低く、更に色気を感じる。

『嫌なら切るけど……。悪かったな』

 胸と頭が一杯で、何も話せない彼女の無言を【迷惑なんだろう】と判断した青峰は電話を切ろうとした。慌てた○○は、店頭にも関わらず大声を出す。

「……っ! 待って!!」

 声が裏返ってしまい、恥ずかしさで首を竦めた。他客の視線が痛い○○は、眉を困らせる。

「なっ何……ッ?」

『こないださ、金置いてっただろ。返す』

「いいよ、別に」

 電話なのに首を振り、返却を拒否する。

『良くねぇよ。届けてやる。どこ居んの? 今』

「……明日じゃ、駄目?」

 ○○は、今日に限って下着の上下が揃っていない事を悔やんだ。それに少しでも自身を磨きたい。黒子の言っていた"ハイスペックな幼なじみ"がどのレベルなのか判らないが、彼の瞳には少しでも可愛く映りたい。○○は、自分の中の乙女な部分を最優先させた。

『別に良いけど。……あぁ、お前さ、最近テツに会ったか?』

 それはタイムリーな質問だった。彼女は丁度、黒子と一緒に居る。

「一緒に本屋に居るよ? 今は別行動してるけど」

『…………そうか、黙ってろよ? こないだの事は、誰に言うな』

「……え? あの」

『オレは、バスケのプロ選手だ。下らねぇゴシップは困んだよ』

 青峰は、あの夜を"下らないゴシップ"と斬って捨てた。約束も取り次がないで切られた受話口からは、通話終了の電子音が流れ続ける。○○は愕然と立ち尽くした。


 ……………………


 明日アイツに金を渡したら、もうこれ以上は関わらない方が良いのだろう……。

 急いで電話を切った青峰は、先日の行いを今更ながら後悔した。大切な友人である黒子が知ったら深く傷付くだろう。彼が誰かに恋心を持つのを初めて見た。

 桃井にだって関心を惹かれなかった黒子が選んだ相手。どんな女かと思ったら普通だった。抱いても、やはり普通だった。胸がデカイ訳じゃない。愛嬌はあるが、秀でて可愛い訳でもない。セックスのテクも無い。性格だって、ただ落ち着いているだけだ。

 名前も覚えていない。知っているのは黒子テツヤの知り合いである事と、門限のあるお嬢様だと云う二点のみだ。青峰は携帯を放り、自室のベッドに身を投げる。彼女を思い出そうとすると、白と赤の、あの光景が浮かぶ。

 ――早く全てを終わらせたい……。今すぐにでも罪悪感から逃れたい青峰はそのまま目を閉じ、眠りの世界へとその身を誘う。