来る約束の日。授業はいつもと変わらずに終わり友人と別れた○○は、木々に囲まれコンクリートで舗装されたハーフサイズのバスケットコートに居た。約束の時間まであと十分程ある。天気に恵まれ空は晴れ渡り、雲が高い。秋らしい空模様に、昨日抱えた悲しさが少しだけ和らいだ。

 今日はマフラーが要らない位にまだ暖かい。それでも最後の記念にと着用したその贈り物は、残念ながら本日返品しなくてはならない。

 プロ競技用までに上げられたバスケットゴールはリングの位置が高く、どうやったらあの高さにダンクシュートを決められるのか○○には不思議で仕方なかった。近くに落ちてたボロボロのバスケットボールは砂ぼこりにまみれている。手に取るとズッシリと重く、ソレをあんな風に自在に操れる彼等を尊敬した。

 暇をもて余した○○は、両手でボールを持ち下から掬うようにリングへと投げる。しかしそのボールはネットの下部を掠り、向こう側へと飛んで行った。慌ててボールを取りに行き、茂みの中で茶色いボールを見付ける事が出来た。

 ボールの救出に成功しさっきまでの場所へ戻ると、いつの間にか待ち合わせていた人物がベンチに腰を掛けている。久々の日本の気候が寒いのか、手袋をした相手はスーツを着用し、スポーツ新聞で胸から頭までを隠している。座るその隣には一体ソレをどうするのか、赤とピンクで基調された花束が置いてあった。

「火神君? いつから居たの?」

 ゴールの正面側に鎮座するベンチへ声を掛けた○○は、嬉しい再会に顔を綻ばせながらソチラへ向かう。依然胸から上をスポーツ新聞で隠す相手は、ガサリ……とページを捲り彼女の質問に答えた。

「……お前が、シュートの真似事してる時からだ」

 相手が放ったその言葉に、○○は固まった。一瞬だけ、彼女は何が起きたのか分からなかった。……新聞越しに聞いたその声は、低く色香さえ漂う。酷く聞き覚えがある声だった。

 ――だって私はこの声にさえ恋をしていた。

 そもそも火神はこんな酷い言葉を、相手に告げたりしない。それならばこの目の前に座る人物はきっと……。

「……忙しいんじゃ、無かったの?」

 ○○が口を開けば、至極小さい声しか出なかった。今日も、スポーツ新聞の一面は野球とサッカーの話題。ペラリと捲った二面にやっと"彼"の目出度いニュースがあった。バサリと半分に折り畳みその欄を示してくる相手は、ようやく顔を見せてくれた。

「あぁ、忙しいぜ? 今からこの新聞社に苦情を入れに行かなきゃだ」

 変わらぬ口癖の後に場所と写真が最低だと文句を言いながら、自分が写った記事の隣で彼はニヤリと笑う。最後に会ったG.W.の頃より青い髪が伸び、大人っぽさが増していた。

「火神の方が良かったか? アイツは男前だからな」

 悪戯大好きで嘘付きな"狼少年"はスポーツ新聞を畳み、肌を隠す為だけの手袋を外すとベンチの横に置いた。そして花束を持って立ち上がると、背の高さにやっぱり驚く。それは猫背気味だった背筋が伸び、姿勢が正しくなった為でもあるだろう。相も変わらずに似合わないスーツをノーネクタイでラフに着こなした青峰は、片手で器用に上着を脱ぎ肩に担ぐ。

「良い男、出来たか?」

 首を横に振った○○は、真っ直ぐ前を向けなかった。今の自分は凄い顔をしているのだろう。泣くのを必死に堪え、下唇を噛む。それでも、目頭と鼻が痛むのを誤魔化す方法なんか無かった。

 自分に近付いた相手がバサッ……と乱暴に花束を差し出すモンだから、せっかく咲いた綺麗な花から花びらが舞う。ヒラヒラと地面落ちたソレらは、風に拐われ何処かへ旅立った。

「……花束持って、ここまで来たの?」

 この辺一帯に花屋は無い。だから青峰はきっと、ココでは無い場所で購入しわざわざ抱えて来たのだ。

「お前ら女は、男が恥ずかしい思いをすると喜ぶんだろ?」

 青峰は「悪魔だ」と皮肉を口にする。

「今時、女性に花束なんか……流行らないよ?」

「じゃあ花屋は閉店だ」

 ○○はずっと欲しかったのだ。聞きたかったのだ。……その自分勝手で、自信に溢れた横暴な返しが。

「最後の答え、出してやる」

 そう言って青峰は両手を伸ばし、○○が巻いていたマフラーを優しく外した。首輪を外すように、ゆっくりと。

「……悪かった」

 青峰は最後に大きな手で○○の頬を撫でながらそう呟き、彼女からプレゼントを奪った。ソレを自身の首に巻いた男は、困ったように微笑む。

 出された結論を悟った瞬間、ソレは○○から思考回路と行動力の全てを奪うのだった。

 ――結局、自分は彼のドラマのヒロインにはなれなかったのだろう。平凡過ぎて、何の魅力も持ち合わせて居ない。青峰大輝の通過点にしか過ぎなかった事に、視界から水滴を押し出そうとした○○は瞬きをした。

「なぁ、○○? 握手しようぜ?」

「……握手?」

「握手で始まり、握手で終わるのが礼儀だ」

 礼儀なんか重んじない傍若無人な彼は、こんな時だけ都合良くそういうのに頼る。

 ……そうか。それならばコレは、別れの握手に分類されるだろう。

 ○○は震える右手を差し出した。唇を噛み、目を瞑る。サヨナラを言えない代わりに、日本人らしく握手で別れを告げる事になったようだ。

 劇的な出会いから約一年。一日でも彼を想わなかった日は無かった。好きなアイドルも頻繁に変わる○○からしたら、信じられない位に深くて長い愛情だった。彼女は、青峰を心の底から愛していた。

 涙が何滴も地面に落ち続けるが、ソレを止める事は出来ない。こんな惨めな別れ姿しか見せられない子供な自分を、彼女は憎らしく心の中で責めた。

「……泣くなよ。お前を泣かせる為に来た訳じゃねぇんだから」

「……ごめ、……なさっ……っ」

 青峰は溜め息ひとつを溢し、そんな震える相手の小さな右手を掴むと、握手では無い動作を素早く行った。

 手首を軽く掴まれ、青峰の指が触れた。思わず目を開けた○○は、青峰の行動の結果に絶えない涙を流しながら、目を更に見開いた。

「お前にやるよ。新しい首輪だ」

 右手の薬指に嵌められたソレは、華奢なピンクゴールドのリングで、一粒の小さな宝石が付いていた。本物だろうが偽物だろうが、そんな事はどうでも良い。それはただ可愛くて、そして綺麗だった。青峰だって意味も判らずに右手のココに押し込んだ訳では無いだろう。だってこの指が意味するのは……。

「…………サイ、ズ……ぜん、ぜんっ……ちがうよぉ……!」

 今度はサプライズに涙が止まらない彼女は、お礼よりも先に指輪がユルユルな事を非難した。気を抜いたらすり抜けてしまいそうな程に全くサイズが合っていない。大雑把な彼らしいそのミステイクさえも、今はただ愛しかった。やっぱり合わなかったか……と、青峰は気まずそうに頭を掻く。

「……それで良いんだよ。お前、どうせアッチ行ったら太るんだろ?」

 青峰は皮肉ひとつを投げ付けながら、泣き止まない彼女を胸元に招待した。せっかく新調したスーツとワイシャツも、彼女がぐじゃぐじゃにしてくれるようだ。

「オレ、住み込みの家政婦探してんだけど?」

「……もっと、マシな誘い方ないの?」

 鼻を啜り胸元に顔を埋めた彼女が、自分の誘い文句を非難をしてくる。だから彼は聞き返した。

 いつもの調子で、頭が悪いのを理由にしながら。

「例えば? 馬鹿だから分かんねェ」

「それ……本人に聞く?」

 浅黒い手が○○の頬に触れ、優しく撫でる。乾燥して少しガサガサした手のひらの質感に、○○はこれが夢じゃないとようやく実感出来た。彼女の問い掛けに「……あぁ」と呟いた青峰は、グッと顔を近付ける。そして唇と唇が触れる擽ったい距離で、呟いた。

「それが一番、手っ取り早い」


 ………………………


 この結論が、本当に正しいかどうかは判らない。自分の未来は"闇"に飲み込まれる可能性だってあるだろう。日本はまだまだバスケットボールに対しての興味が薄い。サッカーや野球と違い、大方の人間が『NBAプレイヤーは?』と聞かれればマイケル・ジョーダン位しか出て来ないだろう。国内のリーグで活躍する選手の名前さえ、大衆は知らないのだ。

 青峰は彼女に答えを出す前、以前のチームオーナーに会いに行っていた。自身の状況を報告する為に。

 門前払いも上等だとアポ無しに本社へ押し掛けた筈だが、受付の電話一本で面会の許可が降りた。

「……アチラで広告契約が三本か。良くやったなぁ。奇跡のシンデレラボーイ君……?」

 下界を見下ろせるその広い窓を背に、厭らしく眠たそうな瞳を持つ男性は、パチ、パチと静かに拍手をした。しかしそんなお座なりの激励も途中に、ヌルリとした蛇のような眼差しで彼を刺す。

「お前は、俺の抱えるタレントだ……。勝手な行動は慎め」

「契約は好きにしろ。どんな仕事でも受けるぜ? オレは」

 負けじと言い返す青峰は、目の前の男だけには敗北したくなかった。だから睨み付けながら思いを口にする。

 契約なんか好きにしろ。どんな仕事をやらされようと受けて立とう。タダ働きでも構わない。

 ――でも、コレだけは譲れなかった。

「但し、オレの人生はオレのモンだ。テメェの所有物じゃねぇ」

 真っ直ぐに睨んだ青峰は、オーナーが口角を上げた事にももう怯まない。

「………覚えておけ? お前の背後には、常に"アレ"がある事を」

「良い刺激だぜ? ソレ」

 そう言って青峰は、踵を返しその部屋を後にした。ガクガク膝を笑わせ出た前回とは違い、しっかりとした男らしい足取りで退室をしたのだ。


 自分に向けたあの生意気な流し視線に、大物感を見たその男性は、顔を伏せ肩で笑い出す。やがて声を上げゲラゲラ笑い、あの時から変わらない眼鏡の似合う秘書へ「例の契約書を持って来い」と催促する。

 ヒラリと机に出されたたった一枚の枷。これからもコレがある限り、彼は挫折の度に苦しむに違いない。だからその男性は、契約書をこうする事に決めた。

「……気に入った。返してやろう、その人生」

 そう呟いて彼は、一人の若造を恐怖へ叩き落とした一枚の原本を二つに引き裂いたのだった。


 絨毯が敷かれたエレベーターの中で溜め息を付いた青峰は、たった今自分を苦しめた"恐ろしい契約"が無効になった事を知らずに居た。恐らく三年経つまでそれに気付かず、青峰はずっと有る筈の無い七千万円の違約金を背負い過ごすのだろう。

 でも、構わなかった。ソレが今日まで自分を追い掛けてくれたから世界のステージに立てた。不発弾を抱え走るスリルも、きっと悪くないだろう。


 ………………………


「泣き顔を整える努力しろ」

 長いキスから唇を離した青峰は、顔を真っ赤にして泣く彼女に憎まれ口を告げた。すると怒った彼女から、せっかくあげた花束でバシッと腰元を叩かれ、花びらが舞った。

「付いて来いよ、○○」

 それは、たった一つの……彼女が最も欲しい言葉だった。

「……家政婦で良いの?」

「お前さ、今も飲んでんの? ピルだよ」

 今はもう服用していない○○は、その質問に首を横に振り答えた。

「何だ……」

 少し残念そうにした青峰は、今まで我慢してきた性欲をコントロール出来る自信が無かった。もしかしたら今日これから○○と交わえば、彼女の膣内で欲を出してしまうかもしれない。

「じゃあ、もう一個役割が追加するかもな?」

「……追加?」

「ベビーシッターとか」

 その冗談に、彼女は再度花束で青峰の腰元を叩く。怒りながらも、彼女の顔は幸せそうだった。

 若い自分達からすれば、結婚とか家庭とか妊娠とかは……まだまだ先な話である気がした。

 それでも、もし彼女とソレを築く日が来たら……土下座のひとつもしよう。似合わないスーツをかっちり着て、デカイ図体を折り曲げ、許しを乞うまで額を床に付けるつもりだ。

「あっ! そう言えば、火神君は? 元気なの?」

 青峰の決意も余所に、スーパープレイ見せて貰うと云う約束を少しだけ楽しみにしていた○○は、火神の動向を聞いた。青峰は少し考え、スカした態度でテキトウな事を言う。

「さぁな? その辺フラフラしてんじゃねぇの?」


 ………………………


 確かに火神大我はその辺をフラフラしていた。

 彼もまた似合わないスーツをラフに着て、ある人物と会っていたのだ。お目当てのソイツは、大学の中庭で面会を許してくれた。片手に本屋の紙袋を抱えていて、相変わらずに読書少年のようだ。

 十段程の短く広い階段の真ん中に火神が立ち、最上段に居る高校時代からの相棒へ背を向けている。二人の目の前に広がる中庭は、思わず駆け回りたくなる程に芝生が綺麗だ。

「……帰国、したんですね。青峰君と」

「アイツはアイツで、答えを出しに行ってるよ」

「幸せにしてくれるんですよね? 彼女を」

「多分な? 指輪買ってたし」

 俯いた黒子は、ほんの少しだけ青峰に嫉妬していた。そしてパンツスーツに両手を突っ込んだ火神は口を開き、呼び出した目的を背中越しに告げる。

「……付いて来てくれ、黒子。オレにはお前が必要だ」

「それは、友達としてですか?」

 またしても答えを告げずに無言を貫く火神の姿勢から否定を感じた黒子は、わざとらしく溜め息を付いた。

「……ボク、最近新しい習い事始めたんです。その内必要になるから」

 黒子は最上段から一段一段ゆっくりと降りる。少年はすぐに追い付いた相手の広い背中に額を預けると、脇腹から抱えていた紙袋を差し出す。黒子の意図を読み取った火神は、雑に紙袋を破いて中の本を確認した。

【すぐに使える! 日常英会話入門】

 そう書かれた題名に、火神は特徴的な眉毛を下げてハハハ……と笑う。背中越しに感じる黒子の気配からはもう拒絶を感じなくて、火神はそれが堪らなく嬉しかった。

「火神君の背中は、寄り掛かるのに良い高さです」

「そうか?」

 振り返り黒子を抱き締めたくても、くしゃくしゃになりつつある"この顔"を見られるのが気まずくて……結局火神は立ちんぼを続ける事にした。

「誰かに寄り添うのも悪く無い。キミが教えてくれた事です」

「……黒子。お前の全部、オレが抱えてやる」

「ソレは、女性に言うから格好良いんですよ?」

 似たような会話をした事がある二人は笑いあった。しかし……それに続く火神の返事だけが、その時とは違っていた。

「お前じゃなきゃ、駄目なんだよ。オレは」


 ………………………


「消えたんですね、もう一人のキミ。乱暴だけど気に入ってました。……少しは」

 火神は相棒のその台詞に苦笑いをすると、胸元を指差し呟いた。

「まだ、きっと居る」

 でも、もう"彼"は必要無さそうだ。守るべきモノが出来た自分は強い。黒子テツヤさえ傍に居てくれたら、どんな汚れた世界でも輝けるだろう。

 火神大我は緑が綺麗なこの大学の中庭で、プロポーズに似た言葉を口にする。

「お前が卒業したら、迎えに来てやる。待ってろ? 相棒」

 黒子は呆れたような笑顔を、相手に向かって見せた。

「……就活しなくて楽ですね、それ」

 ――そうして二人は、この先どんな未来が待ち受けて居たとしても……こうしてきっと、明るく笑うのだ。