デベロップメントリーグの選考会議は荒れていた。チームオーナーまでもが集った場で流された一本のVTR。それは前代未聞の内容で、《誰なんだ! このアジア人は!》と怒号に似た疑問が飛んだ。その圧倒的なオーラは、画面から彼だけをピックアップしてしまう。それはついお気に入りのメンバーを、人数の多いアイドルチームから探してしまうのと同じだ。

 その男が持つ"努力、才能、運"その全てを兼ね備えたオーラは圧倒的で、他者の存在を喰う。彼をコートに放てば、すぐに富と栄誉と支持者を運んで来てくれるだろう。

 ――しかし、我が身を気に掛けず臨む姿勢は恐すぎた。あんな乱暴で自身を追い込む選手……雇った所で、いつ怪我をするかも分からない。幾ら速くてデザインの良いスポーツカーだって、ブレーキが無くては誰も購入しない。他者を巻き込んでの事故だって起こすだろう。

 ――青峰大輝が未だに選ばれないでいるのは、そういう理由だった。全員が限界まで悩むのだが、彼を欲しいと言うチームオーナーは現れない。

《……では、彼は選考漏れと言う事で》

 また別のステージで頑張ってくれ……。選考会議に居る全ての人間が彼を見送った。その強烈な才能を潰す事に、名残惜しさを感じながら。そうして、この日本人選手データは破棄される。

 シン……としたその場へ、電話の呼び出しが鳴った。この会議室へ、外線からの着信だ。秘書が慌てて駆け寄り電話を受ける。そして内容に驚愕したその男性は、何度も「Really?」と繰り返した。全員が電話の方を注視し、秘書の慌て様に内容を知りたがる。

 電話を置き、ハァ……と溜め息ひとつ溢した応対者は、その場に居る全ての人物へ告げた。

《青峰大輝を欲しいと云う方々が居ますが……》


 ―――――――――


 火神は病院内であるにも関わらず、全速力で走った。大部屋に並んだ"あるベッド"に向かって、走らずには居られなかったのだ。

 彼が剥ぎ取りそうな勢いで淡い水色のカーテンを引けば、右足首をギブスにより固定された青峰がコチラを見る。カーテンと同じ色の入院着を身に纏った彼は、ダンベルを握っているのだが……よく見ると手が震えていた。恥ずかしいのか、青峰はソレをサッとベッドの中に隠した。息を整えながら、火神は青峰に言葉を掛ける。

「……思ってたより退院が早そうだな?」

「左足で跳んで、左足で着地してたからな」

 ニヤリと笑い、片手を優雅に上げた青峰は「バレエのお陰だ」と言う。バレエの動きを応用した彼は、飛翔も着地も片足で行っていた。左足にジャンプの負担を掛ける事で、右足首を保護したのだった。バレエと異なる場面であっても咄嗟にその仕草が取れるのは、彼の運動能力が秀でている証拠だ。

「………なぁ、ちゃんと最後まで……聞いてくれよ」

 早速にも本題を出した火神は、ベッド横の丸椅子に腰掛る。そしてソッポを向いて頬杖を付いた。正直を体現したような相手だ。青峰はその台詞と態度だけで結果が判り、苦笑いで誤魔化す。

「……落ちたか」

 青峰は布団の中で両手を強く握り、ソコから全身が震えるのを抑える。テスト中に大怪我をしてしまったのだ。基より期待などしていなかったが、やはり"不必要"と烙印を捺されるのは精神的に辛かった。

 ――これからどうしようか? 日本に帰って働きながらコーチにでもなるか? 幸い自分はまだ若い。進める道は幾らでもある。専門へ通いスポーツインストラクターにでもなれば良い。そして、家に帰ったら出迎えてくれる温かい家庭を作ろう。フラフラ遊び歩く事に魅力を感じなくなっていた青峰は、そうやって知らぬ間に"大人"になっていた。

 でも、未来には絶望しか無いこんな男を……一体誰が愛してくれると言うのだ? 今度は強く衣服を握る青峰は、先日に火神から聞いた言葉を思い返す。

 "彼女"と一緒に居たと言う男は、きっとオレよりもずっと眩しい未来があるだろう。じゃなきゃ"彼女"は選ばない。

 青峰大輝は凡人にもなれない。それが今は、堪らなく悔しくて悲しくて……惨めだった。

 目を瞑り唇を噛む青峰を横目でチラリと見た火神は、大袈裟に溜め息を付いた。

「最後まで聞けよ。言っただろ? お前、そんなんだから駄目なんだよ」

「……っせぇよ」

 険しい顔をした火神が、今にも壊れそうな青峰を捉える。

「青峰、もう一度、テストだ。足が治ったら一ヶ月後に……また別の場所で」

「セミプロ団体が拾ってくれんのか? そりゃ感謝しなきゃだな」

 青峰は、火神と視線を合わせられなかった。こんな惨めな自分を見られたくは無い。用が済んだのなら、今すぐこの場から姿を消して欲しいとさえ願う。

「セミプロじゃねぇよ」

「じゃあ何だ? アマチュアか? ……良いんだ、火神。オレはもう」

「辞めるのか? バスケを」

 火神の質問へ黙り込む青峰は、先日から"受からなかったら、選手を引退する"と云う決意をしていた。誰にも言わず、ひっそりと……。

 そんな重々しい決断をした相手へ、火神は先程アレックスから告げられた内容を報せる為に口を開いた。しかしどう告げたら良いか判らないようだ。数回頭を振った火神は、結局何時ものように、皮肉めいてしか言えなかった。

「……次のテストは一軍のだ。今度は……接触に巻き込まれて、失敗すんなよ?」

 カーテンの隙間から僅かに見える青い空を眺めていた青峰は驚き、目を限界まで開いた。振り向いたら火神がニヤニヤしながら「嘘だよ、馬ァ鹿」と言いそうで振り向けなかった。しかしコレが嘘だったとしても感情は湧き上がり、そして興奮で身体が震えた。

「……NBAの一軍で、お前を欲しいって、チームが……あるんだって……よ?」

 その震えながらの声は、演技には思えなくて……青峰は思い切り火神の方を振り返った。

「これでもお前……引退すんのか?」

 火神は困ったように眉を下げ笑っていた。目尻に涙を溜めながら、泣くのを堪えながら笑っていたのだ。その顔で、彼が"最高の知らせ"を運んできたと知った青峰は、自分の世界が静止するのを感じた。


  ――――――――


 悪い噂は良い噂より浸透するのが早い。その噂は最初、悪いモノとして流れた。

『二軍リーグを怪我で中断させた選手が居て、ソイツが全員のヤル気を奪い去った。だから合格者が居ない』

 その奇妙な話に興味を持った、あるNBAプレイヤーは、VTRの閲覧を自ら希望した。何て事は無い。ただの気紛れだし、そんな馬鹿野郎を酒のツマミにするのも悪くない。

 ――ただVTRを見た彼は、酒を呑むのも忘れ呆然とした。こんな狭い画面越しにも伝わる"馬鹿野郎"の動きに、気付かずに魅了されていたのだ。その一流プレイヤーはすぐに電話を掛けた。夜中だろうが知るかと、何度も何度も繋がるまで掛けた。やがて応答された電話に向かってこう叫んだ。

《凄い選手を見付けた!!》


 ―――――――――


「こんなの聞いたコトねぇよ!! 青峰ェ!!」

 感極まって抱き着いた火神が、自分の顔のすぐ横でえぐえぐと泣き始める。嘘でも、幻聴でも、夢でも無かった。青峰大輝は手にしてしまったのだ。

 挑んだ世界を遥か飛び越え、小さな頃から憧れていた……一流の頂点でプレイ出来る権利を。

 子供のように泣き出した火神に感謝の気持ちが伝わればと、青峰は静かに彼の赤い頭を撫でてやった。時々鼻を啜りながら。

「おれも、二軍リーグの……じげんあるっで……アレッグズがずいぜんじでぐでだァ……」

「何言ってっか、分かんねぇよ、馬鹿」

 上記の結果を聞いたアレックスは、ついでに青峰大輝と戦っても謙遜ない存在感がある人物を紹介していた。

 ――その人物は、周りのレベルが高ければ高い程にソレを凌ぎ、頭角を現すプレイヤーだ。周りに左右されやすい彼は"一長一短"ではあるが、場所によっては最高の広告塔になる。熱く目立つその外見は、男女共にウケも良い。写真を見た選考員は、目の前の美女の《一番弟子だ》と言う台詞に後押され、彼を直接観たいと言い出したのだ。

「お前こそ、張り切り過ぎて怪我すんなよ?」

「骨折ったら、オレも一軍行けっかな?」

 そんな冗談を言い放った火神は「明日から師匠のシゴキが待ってる……」と呟き、ジャージのポケットからすっかり温くなったバドワイザーの瓶を二本取り出した。震える手でキャップを開け、二人はソレを一気に煽った。そして乾杯するのを忘れていた事に笑う。青峰は瓶をサイドテーブルに置き、両手で顔を拭った。

 ――最終結果が出たのなら、報告をしなければ。自分達を支えてくれた全ての人々に。

 青峰は、契約を終え只の電話帳になったガラパゴス携帯を手に取った。まずはコイツの充電機を、あのダン箱から探さなくてはいけない。嬉し涙を流しながらクツクツと笑った自分は、地球上で一番幸せな人間だ。


 ………………………


《なぁ、聞いたか? 日本人がまたNBA入りするかもしれないってよ?》

 練習後、ロッカールームにてチームメイトからそう言われた一人のアジア人は、巨体をのそっと動かすと自分のロッカーから日本メーカーのスナック菓子を取り出した。去年出国する時に買ったソレは、賞味期限がギリギリだ。そのアジア人は、自分の身の丈程あるロッカーへ背中を預け、袋をガサガサと揺する。

《んで……? 名前はァ〜?》

《何だっけ、名前》

《何か日本語だと色の名前らしいぜ? お前と一緒だよ、アツシ》

 ソレを聞いた紫原は、対象が誰だかすぐに判った。

 ……やっと来たか。

 紫原は、袋をバリリっと開けて、ガサガサと袋内をまさぐる。

 この巨人のように背が高いアジア人は、英会話であっても気の抜けた喋りは日本に居た頃と何も変わらない。しかし普段はこんなでも、試合になれば切り替わるようにプレイが激しくなるから怖いモノである。

《気を付けた方が良いよ? ソイツ、めっちゃ食うから》

《お前以上に食う奴居るのか?》

 紫原のその言葉に一人が驚き、もう一人が笑った。そうやって二人は偏食気味にスナック菓子ばかりを貪るチームメイトを皮肉った。しかし、紫原敦はそんな二人をジロリと流し見すると口を開く。

《お菓子じゃねぇよ。プレイを、だよ》

 そうボソリと呟き、彼は半端に食べたスナック菓子をまたロッカーにしまう。試合中でも無いのに彼の話し方が変わった事に、二人の選手は眉を潜めた。

《オレ……練習しなきゃ》

 おやつタイムも途中に、油の付いた手をTシャツで拭いた紫髪のアジア人はノソッと立ち上がり、シューズを掴んで更衣室を後にする。残されたチームメイト二人は互いに目を合わせ、肩を竦め首を捻った。

 紫原敦は、嬉しいのと同時に強大な恐怖と焦りを感じていた。置いてきた筈の相手がもう自分のステージへと登って来ようとしているからだ。彼がウサギで、自分はカメだと思っていた。

 しかし、目を覚ましたウサギは、そのご自慢の駿足ですぐ後ろまで追い付こうとする……。背後から迫り感じる圧倒的オーラに、紫原の背筋が冷えた。それを拭うのに、彼はアリーナへ続く渡り廊下の先を睨んだ。


 ―――――――――


「……青峰、行ってくるぜ」

「お前のへっぽこプレイが観れなくて、残念だ」

「激励を、どうも」

 火神は片眉を上げ、その嫌味を受け入れる。本当は青峰にも修業の成果を見せ付けたかったのだが、この場合は彼の足を治すのが優先だ。アレックスに出発を促される火神は、青峰の前に拳を前に付き出した。青峰はソレと火神の顔をジロリと見た後、溜め息ひとつに自分の拳をぶつけた。

「いつまでも青臭ェ事してんじゃねぇよ。お前も、テツも」

「黒子もまだコレすんのか?」

「あぁ、空港で。恥ずかしくて、死ぬかと思った」

 嬉しそうに満面に笑った火神を、青峰は鼻で笑い飛ばしてやる。

「受かって来るからな、青峰」

「達者でな、火神」

 ウィンドブレーカーを翻した火神は、何だか"自分を追い越しそうな気"がして笑える。迂闊にプレイしていたら、また追い越されるな……コイツに。カーテンから二人が消え、一人になった安静指示が出ている青峰は観に行きたかった事に大きく息を吐いた。

「……コッチもけじめ、付けてやるか」

 青峰はココから先選考テストに受かって眩いステージへ立ったとしても、落ちて日本でコーチの世界へ進む事になっても……"彼女"へ自分の出した最終的な答えを告げようと決めていた。

 ほんの気紛れで水色の折り畳み携帯に残る三桁の同じ数字が並ぶ番号へ着信を飛ばすが、勿論解約されたソレは繋がる事がなくて……青峰は下手くそに笑った。

 世界は絶えず変わり続ける。そして、何かひとつの"きっかけ"で目まぐるしく変化してしまう。彼も次のステージへ進まなくてはいけない。不安が青峰の頭を過る。それは、一年前とはまるで違う環境が彼を待っているからだ。

 それでも、オレはもう逃げない。大丈夫だ。だって自分は"眩い光"なんだ。

 きっと、未来は明るい。


 ―――――――――


 それは十月の、いつも通りの朝だった。そしていつも通りの時間に起きた○○が家族の揃うリビングへ向かえば、父親と弟が食事を取っていた。

 テレビは相変わらず毎日同じニュース番組。今の時間はスポーツの話題が始まる。プロ野球もそろそろ熱くなってきたし、ゴルフだってツアーが終わりそうだ。サッカーも世界大会があるし……秋はスポーツが何かと賑わいを魅せる。

 そんな中に、ひとつの嬉しいニュースが最初のトピックスとしてその食卓に舞い込んで来た。

『快挙です! 日本人から三人目のNBA選手!!』

 黒髪短髪が爽やかな男性のニュースキャスターが嬉しそうに白い歯を見せる。まだ頭が冴えない彼女は、男性の声は入ってくるのだが意識を向けていない為に内容を聞き流していた。

「あ、アオミネダイキだ」

 トーストをかじっていた弟がまるで商品名のように"愛しい彼"の名を口にした。彼女の父親は画面に出たその選手の姿を見た瞬間、テーブルの上でガッツポーズをする。思わず画面を見た彼女は、父親の感動を見逃していた。

 まるで踊っているかのようなシュートモーションの彼は、真剣な表情であの青い髪を靡かせている。口から心臓が飛び出るかと思う程に、それはいきなりの対面とニュースだった。

 最後に膝の上で頭を撫でた事を思い出した○○は、まるで彼と居た日々が夢の中の出来事のように感じた。そしてじっと手のひらを眺める。

 ――そうか。彼は小さい頃からの夢を叶えたのだ……。そこにどんな苦悩と葛藤とドラマがあったのか、日本にいた彼女は知らない。

「……何してんの? 姉ちゃん」

 高校生の弟は、眉を潜め姉の奇行へ突っ込みを入れた。バツが悪くなった○○は、話題を逸らすのに乱暴に質問を投げ掛ける。

「アンタ、ファンなの?」

「オレじゃないよ、父ちゃんだよ。ファンは」

「何だ? 気に入ったか? 男前だからなぁ。背なんかこんなに高いんだぞ?」

 知ってるよ……。○○は、心の中で父親に声を掛けた。むしろ、娘からしたら父親が知っていた方が驚きだ。

 本当は、彼女の父親はずっと前から青峰大輝に魅了されていた。それこそ○○よりずっとずっと前の話だ。顧問として付き添った大会で、彼のプレイを観てからずっと……。

 コートの上ではああやって天才で居るスタープレイヤーだって、悲しければ嗚咽を漏らすし、弱味を握れば得意気に憎まれ口を叩くし、嫉妬すれば怒るし、コントロール出来ない性欲に負ける。そうだ……。画面に映るそのスタープレイヤーは、とんでもない人間だった。そうやって○○は、周りの人間が知らない"彼の姿"も知っているのだ。

 酔えばガラスを割るし、感情のままに部屋を滅茶苦茶にする。適温でお湯を張る事も出来ない。嫉妬して大衆の前でキスをねだる、いつも愛されている実感を欲しがる。スーツが似合わないと自虐する。溢れた後悔を嗚咽と一緒に漏らす。字だって下手だ。告白の台詞だって今思えば、身勝手でエゴにまみれた言葉だった。


『じゃあオレだけ見てろよ、ずっと』


「お前がこんな男前、連れてきてくれたらなぁ」

 そう言って父親は空になった皿をテーブルの奥に寄せ、今日の朝刊を手に取る。本当に連れて来たらぶっ倒れる癖に。一番最初に門限を破らせた相手が憧れの人物だと知った父親はどう反応するのだろうか。

「アオミネダイキ、春の区営大会来たよ? スーツ着てた。ベンチで女の人とキスしてたってさ。違う学校の奴が見たって騒いでた」

 その噂話に父親は眉を潜めた。咳払いをした中年男性は、新聞を広げて社会面を読み始める。リビングを賑やかすスポーツニュースは、既にサッカーの話題へと移行していた。弟はサッカーには興味が無いのか、ボケッとしながら食事を再開する。

「……ごちそうさま」

「何だ? 全然食べてないじゃないか」

「お腹、いっぱい」

 本当は、胸が一杯だった。自分はこんな素晴らしい人の一番近くに居られた事が誇らしく嬉しかった。僅かな人数以外の、誰も知らない秘密に近い恋だった。

 しかし、同時に寂しくもある。それは全てが過去の話で、新しく始まった今の彼の物語に自分は登場しないからだ。


 ………………………


 寒くなった風が少女の髪の毛を乱した。季節は晩秋で、もうすぐ黒子に誘われ初めて火神のマンションに行った日に追い付こうとしていた。あの場所は既に別の所有者へ引き渡されているし、慰めてくれる為に自分を乗せてくれた白い大型車も、中古として何処かにはある筈だ。

 ○○は走り出した。本当の理由は判らないが、きっと何かを振り切りたいのだろう。白い膝丈スカートを翻しながら、彼女は全速力で走る。黒子から貰った御守りが鞄に当たり、優しい音色で励ましてくれた。

 最寄り駅に着く頃には息も絶え絶えで、ハァハァと息を乱しながら外のベンチへと腰掛ける。スマホを覗くと友達からメッセージが届いていて、その他愛の無い愚痴に○○の顔が綻んだ。

 ……いつになったら"彼"は迎えに来てくれるのだろう。そもそも、彼は日本に戻るのだろうか? 早速にも夢の準備を初めているのかもしれない。綺麗なダンサーの彼女と、お祝いだと同棲を始めている可能性だってある……。こうして様々な予想をすると、只の大学生でしか無い平凡な自分が惨めで厭になって来る。

 入力画面もそのままに、彼女はぼんやりと空想の世界へ居た。それを醒まして現実世界に戻したのは、握っていた機器の軽快な着信音だった。

 慌てて画面に写った名前を見ると、先に懐かしんでいた人物で……彼女は直ぐ様に応答した。

「……もしもし」

 普遍的な対応をした彼女へ、電話の相手はフランクに言葉を返した。それは流暢な英会話だった。

『How are you?』

「……どうしたの? そっち何時? 夜?」

 気紛れだろう突然の着信。驚く彼女に、電話の主は優しい声で質問へ答えた。

『いや? 今は日本。帰国した、ついさっき』

 ――火神が帰ってきた、日本に。今朝テレビで観た"彼"は、この大地に足を踏み入れたのだろうか?

 もし帰国していると言うなら、遠くて近い距離に目頭が熱くなりそうだ。もう泣かないって、黒子が励ましてくれたあの日に決めたのに……。○○は弱くなりそうな自分に喝を入れ、火神に歓迎の言葉を送った。

「お帰りなさい。黒子君、喜ぶよ?」

『そうか? ……まぁ、そうだと良いな』

 どこか上の空になってしまう○○へ、火神は遂に知りたかった情報を提供してくれた。

『あ、そうだ。青峰も一緒に帰って来てるぜ?』

 ソレを聞いた○○は、今すぐにでも場所を聞き出して会いに行きたかった。都心に居ると言うのなら最短で行ける電車に飛び乗るし、他県に居るのなら飛行機を予約しても構わない。

 ……でも、言えなかった。それは"彼"に『会いたくない』と、拒絶されるのが怖かったからだ。新しい恋人が出来たなら、自分は"邪魔"になるから……。

『それより○○、お前さぁニュース観たか?』

 無言になった彼女を気遣ったのだろう。火神が話題を提供した。

「凄かったね……。青峰君」

『"奇跡のシンデレラボーイ"だ、アッチじゃ。アイツまたキセキの名前背負ってる』

 ワハハ……と豪快な笑い声が電話口から漏れた。気持ちが良い笑い方に、○○の気持ちが和らぐ。やはり火神は凄い人間だと思った。まるで暗い心を明るく照らし、人を安心させる太陽だ。

 青峰大輝はアチラじゃすっかり"ヒーロー扱い"だと、赤毛の彼は言う。大衆の心を鷲掴みにしたアジア人は、天性の才能と諦めない姿勢がサクセスストーリーとして高く評価され、上記の異名を付けられた。火神は『トンでもないシンデレラだな!』と、またゲラゲラ笑う。

『青峰に喰われちまったけど、オレもNBAプレイヤーだ』

 その報告に驚いた彼女へ、火神は『二軍だけどな?』と補足を入れた。それでもNBAはNBAだ。火神はテストに受かり在籍出来た自分を誇らしく思っているだろう。後は二人ともドラフト会議での指名を待つだけだ。恐らく"奇跡のシンデレラボーイ、青峰大輝"へのドラフト指名は、今回の目玉の一つになるだろう。その位、彼のテストでの逸話は、大衆から強大な支持がある。

『明日、昼間とか空いてるか?』

「お昼の2時からなら、時間あるよ。後は帰るだけだから」

『会いに行くよ。青峰に頼まれてる。あげたモン、返して貰って来いって』

 風が彼女の横髪を拐い、耳元で騒いだ。心臓が掴まれたように痛んだ○○は、その意味を悟った。

 ――彼は、自分に与えた"首輪"を外すのだろう。頭の後ろを木槌で叩かれているようだ。計り知れないショックが彼女を襲った。


 ………………………


「マフラー……貰ったんだろ? 返してくれってさ。ケチ臭ェ男だよな?」

『青峰君は……?』

「シンデレラボーイは忙しいんだよ。取材やら何やらで」

『……可愛いから、気に入ってたのに』

「じゃあ、明日着けて来いよ。冷えるらしいからな。最後位、見逃してくれんだろ?」

『……そうだね』

 都内のとあるビジネスホテルに入室している火神は、電話の相手が泣きそうに明るい声を出している事に胸が痛んだが、わざとらしく微笑んだ。

 明日の待ち合わせ場所は彼女の大学近くの公園。バスケットゴールがあると教えてくれた彼女へ最後に「スーパープレイ見せてやる」と約束をし、男は電話を切った。

 通信機器をベッド近くのテーブルに置いた火神は、同室に居る人物に最終確認をする。

「これで良いんだな? もう後悔すんなよ?」

 電話を切った火神は彼にそう言葉を投げる。

 窓際に置かれた円形のサイドテーブルに頬杖を付いたそのスタープレイヤーは、窓ガラス越しに殺風景なビルの裏側と屋上をチトチト歩く一羽のカラスを眺めていた。そして、たった一言こう返事をする。

「……あぁ」


 ――結局この道を選んだ彼は、静かに目を閉じ彼女の顔を思い浮かべるのだが、そのビジョンは酷く朧気だった。