その日、黒子は朝から落ち着きが無かった。それは黄瀬から伝えられた青峰の選考テストが"本日"であると聞いたからだ。時差の為に何時から開始するかは不明だったが、彼等は今日の為に遠い地まで旅立ったのだ。ソレはまだ暑さが厳しい九月の、第一週の事だった。

 麦茶でも飲んで落ち着こうと、黒子は食器棚からグラスを掴むが、手元が狂い床に落ちた。ソレは激しい音を立て割れてしまう。慌てた少年が破片を拾おうとすると、チクリとした痛みの後に指先へ血溜まりが出来た。冷静沈着な黒子らしからぬ動作に、本人自身が不安を覚えるのだった。

「おっちょこちょいですから、ボクは」

 黒子は独り言でそう誤魔化し、割れてゴミになったグラスを拾い始めた。もう手を切らないよう、慎重に……。


 ―――――――――


 アメリカ、10:27am。
 大アリーナ、選考会場。

 他薦自薦問わずに選ばれた志願者達が集ってきた。やはり本場は違う。選手の体格、自信、テクニック、更には纏うオーラが日本とは桁違いだ。前日眠れなくて瞳が真っ赤に染まった火神は、近くにドカッと座った黒人男性の腕が自分の二倍ある事に圧倒されていた。

 それでは本日の主役はと言えば……火神の貸した電子辞書で下らない単語を探し出し、ククク……と含み笑いをしていた。

「緊張しねぇのかよ。お前は」

「今更してどうすんだよ?」

 火神がチクリと嫌味を言えば、青峰はまた下品な単語を探し、肩を震わせていた。

「小学生か、コイツは……」

 そうやって呆れた火神は、頬杖付いてソッポを向く。

「バレエでも踊れば合格するかもな? なんせ視聴率引っ張れっから」

 そう冗談を飛ばし欠伸ひとつかましてむにゃむにゃした肌の黒いアジア人は、集団の中で酷く目立っていた。それは、他の志願者がピリピリしている中、彼だけがノホホンとしていた為だろう。

 アリーナの出入り口から、綺麗なスーツに身を包んだ三名の人物が現れた。それぞれがバインダーを抱え、厳粛な雰囲気で会場を飲み込む。脇に付いているのは通訳だろう。この場には国籍様々な選手が居る。……自身の実力を信じた人間ばかりだ。

「しゃんとしろ、青峰」

 火神は、相手の丸まった背中を叩いて送り出す。青峰は言われた通りに背筋だけはしゃんとするのだが、顔はまだむにゃむにゃしている。ふと立ち止まった青峰は、振り返る事無くライバルへこう告げた。

「ありがとな、火神」

 顔も見せないで言われた"初めてのお礼"に火神は微笑み、踵を返し二階の観客席へと向かった。今まで心の何処かにはあった醜い"嫉妬"を拭い去りながら……。

 選考内容は至ってシンプル。12人のプレイヤーを4ブロックに分け、オールコートの3on3で三試合行う。青峰は、水色のユニフォームを着させられた自分のチームを見た。小柄な白人と、背は高いがヒョロヒョロした白人の二人……。

 何だよ、ハズレくじじゃねぇか……。青峰は失礼ながらにそう思い、肩を下げて落胆した。

 勘違いしてはいけないのが、これはゲームの勝敗が結果に繋がる訳ではない。味方であっても、目線をテスト基準で見れば"敵"だ。コートに立つ他の五人より優れている部分を見せないと、自分のテクニックを売り込めない。

 ――何人の合格者が出るか判らないテストは、緊張が解ける事無く始まった。

 第一戦を前に、それぞれに五分間のミーティングが与えられる。……しかし青峰は固まった。言語が理解出来ないからだ。白人の二人は英語で何か意見を出し合っている。ボードにマジックで何かを書いているが、アジア人の彼はそれを目で追う事しか出来ずにいた。

 柵の上で頬杖を付いた火神が、二階席からそんな様子になっている青峰を眺め、溜め息を付く。

「大丈夫かよ……アイツ」

 チームミーティングが終わり、ぐちゃぐちゃに書き記されたボードをチビな白人からかっさらった青峰は、ブツブツ言いながら何かを考え込んでいた。大方、丸印と線が複雑に絡み合った指示板から戦略を読み取るつもりだろう。

 結局、このアジア人は言葉を発する事無く、選考試合が始まった。


 ―――――――――


 第一試合、彼のチームは十点の差を付けられ敗北した。それでも、屈強なセンターが居た相手チームにここまで食らい付いたのだから大したモノである。その結果の裏には、チビ白人の活躍があった。彼はスティールが得意らしい。小さい身を屈め、後ろからドリブルを奪いノッポの白人へ弾丸のようなパスを回し、シュートが決まる。後半は抑えられ気味にはなったが、ゲームの流れを自分達側に運んでくれた。

 そして彼は、ドリブルテクニックも抜群にあった。奪えると言う事は、その部分で"他者より秀でていなければ"出来ない。彼等がミーティングで話していた作戦はコレだったのだ。何も知らされなかった青峰は、自チームに点が入るのをただ眺めていた。

 試合自体の動きがずっとそうだった。来たボールを百発百中でリングに入れていた以外、特に目立ったプレイもせず青峰は初戦を終えていた。完全にハブられているに近い。もしかしたらあの二人は、同じチームの青峰を潰しに掛かっているのかもしれない。

 火神は眉を潜めチビな白人を二階席から睨んだ。

 大した活躍も出来ずに試合に負けた青峰だが、意外にも悔しがったりしない。彼は、火神の隣に来ると始まった別チームの試合をボンヤリと眺め始めた。

「チームメイトと居なくて良いのか?」

「言葉通じねぇのに、一緒居てどうすんだよ」

 言語の壁がまたしても青峰の邪魔を始めたようだ。背中を丸め寂しそうにコートで繰り広げられている試合を眺める彼は、可哀想にも見える。活躍する場をチームメイトに奪われているのだ。火神は、慰める言葉をも掛けられないでいる。

「……大丈夫なのか? お前」

「何が」

「何がって……お前このままじゃ、ただシュート決めるだけの奴って評価されて終わるぜ?」

 それじゃあこの選考会じゃ拾って貰えない。シュートを決めるなんて、大前提なのだから。

「心配してんのか? 火神」

 コートから視線を外さずに青峰はそう声を掛けてきた。

「あ、あぁ……そりゃあ」

 ばつが悪そうな返事をした火神は、どうしてやる事も出来ない事を悔やむ。青峰は歯切れ悪い火神をジロリと見て、彼に向かい言葉を紡いだ。

「最初はこんなんで良いんだよ。最初は、な?」

 何か思惑を含んだ台詞を吐いた青峰は、ニヤリと口角を上げる。そうして観戦していた試合が終了を告げるほんの少し前、青峰は羽織っていたウインドブレーカーのポケットに両手を突っ込みアリーナへと戻って行った。


 二戦目前のミーティングも状況変わらず、二人は英語で話始めた。青峰は欠伸をしながらボードを見ている。あの姿は選考員にどう見えているのか、上から眺めている火神の方が不安になってしまった。

 だが、青峰は何も気にしないのかジャンプボールのポジショニングを、センターラインと自チームのゴールとの間に位置取った。今時、中学生でもそんなふざけた場所に居ない。相手チームは何か秘策があるのかとオロオロしたが、結局一人がセンターラインと青峰の間に立った。

「……馬鹿かよ、アイツ」

 火神はガックリ頭を下げた。隣に居る別チームの挑戦者達が指差し笑っている。恥ずかしくなった火神は、思わず呻いた。

 開始のホイッスルが鳴り、ジャンパーがボールに触れたその四秒後……。ボールは、肌が浅黒いアジア人の手の中にあった。アリーナに居た全員がその動きに圧倒された。

 ボールがジャンパーの手に触れると同時に青峰は走り出した。前に向かって。案の定ボールは相手チームが弾いた。ジャンパーの飛距離が違う事は先の試合で確認している。青峰は、走ると同時にジャンパーの手首の動きを読んだ。自分の前に立つ人物へ回すなら、身体か手首を後ろに捻るだろう。だが、ジャンパーは手首を捻らずに前へ弾いたのだ。全速力で走った青峰は、ボールの流れるコースへと飛び込んだ。

 絶妙なタイミングでボールを拐った彼は、振り向くと同時にその反動でボールをぶん投げた。集団から少し離れ、ノーマークに近かったノッポの白人に向かって。

 白人はボールを受け取ると、オールクリアな状態で華やかなダンクを決めた。しかしそんなせっかくの魅せ場も、喰われていた。その前のアジア人によるカットとパスにより……。

 ――何故? 背後を一度も見ていないのに、何故今の場所が判る? ゴールを決めた白人は"何故"で頭が一杯になっていた。

《……まぐれだ》

 背の小さいお座なりのチームメイトが彼にそう声を掛ける。チラリと視界に入れたそのアジア人が自分なんかよりずっと巨大に見えたノッポの白人は、思わず目を擦った。

 柵から身を乗り出すように青峰のプレイを見ていた火神は、会場の雰囲気が変わるのを感じていた。例えるなら自分のライバルを中心に、嵐が吹き荒れ始めるのだ。

 背の低い白人は、試合も途中に呻いた。潰そうとしていたアジア人が活躍を魅せ始めたからだ。自分がしようとしている事は先を越され、更にはいつの間にか自分達に完璧なパスを回す。誘導されるようなそのコース……白人の背筋に冷たいモノが走る。あのアジア人は、カットインの場所もタイミングも最高だ……。誘われるようにアジア人へボールを回すと、綺麗な動作でフックシュートを決める。まるで踊るかのようなフォームに魅とれてしまった自分が憎い。歯を食い縛ったチビの白人は、野次るような汚い言葉を吐いた。

 そしてディフェンスしていた相手チームの選手は、アジア人のモーションに息を飲んだ。ドリブルで一歩下がったかと思えば、ソイツの手からボールが消えている。頭にハテナを浮かべている間にも自分の脇をすり抜け、リバウンドのポジションを取られていた。

 動きが読めない、シュートモーションが見えない。……何も出来ない。

 青峰は、最初の一試合目を捨てていた。それは、以降のゲームを握る為だ。さっき二階席でぼんやり見ていたのだって、チームの特性と各プレイヤーの動きを全て観察していたからだ。彼の"洞察力"は、秀でて鋭い。ソレは桃井さつきにも匹敵する。彼女と違い、青峰はプレイヤー目線で観察出来る。それは大きなアドバンテージとなった。

 全てを把握したい青峰は、最初から二試合目以降に己の全てを掛ける事にしていたのだった。

 二階席に居る選手達がヒソヒソと話をしていた。聞き耳を立てた火神は、会話の内容に驚く。

 この選考テストで栄光を得られるのは一人か、多くて二人……。

 選考員が一ヶ所に固まり、何かを話している。バインダーを覗き、しきりに誰かを指差していた。その"誰か"は見なくても判る。牛耳ってしまったのだ……。青峰大輝は、たった十分でこのステージを。

 火神は小さくガッツポーズを取ろうとしたが、不意に嫌な予感がした。グラスが床に落ち、砕け散るような……そんな不吉な予感だ。

 もうすぐで出て来る筈だ。自分が受からないと判った瞬間、成功者を引き摺り込む……そんな奴が。花宮真に似た、そんな悪どい考えを持ってしまう"弱い"プレイヤーが……。

 火神の読みが的中するのは、その数分後の事だった。


 ――その選手は自分が"最強"だと思っていた。壁のようにガッシリした体格と高い身長。パワープレイを得意とし、カレッジでも脚光の的だった。称賛を得て、今日まで過ごしてきた。

 ……なのに、何故だ。何故選考員は自分を見ない? 何故……? あぁ、あの切れ長な瞳が憎さを倍増させる。何故あのアジア人中心にゲームが廻っているんだ?

 その選手は、自分が何をしているのか気付くと同時に、ジャンプした相手のユニフォームを握り力一杯ぶつかっていた。シュートは決めたが空中で体勢を崩した青峰は、着地の瞬間に足を捻る感触を覚え、背筋から凍った。

 鈍く激しい音がの後に、何かが床に叩き付けられる音が聞こえた。コート内の全員が動きを止め、倒れた二人へ視線を送る。

「      」

 火神は叫んだ。……何と叫んだか、それは本人にすら理解出来ない。静まったアリーナに、しゃがれた彼の声だけが響いた。

 火神が転がるように慌ててアリーナへ向かうと、選手達が全員接触事故現場に群がっていた。その男達を乱暴に掻き分け火神の視界に入ってきた青峰は、右足首を押さえ蹲り、苦悶の表情をしている。玉のような汗を額に纏い、痛みに神経を磨り減らしているその姿に、火神はただ呆然とするしか無かった。


 ―――――――――


 大学の構内を○○は一人で歩いていた。理由は、次の授業を友人と受ける為"待ち合わせ"をしているから。人通りが多く、見知らぬ学生とすれ違う。そんな中、後ろから急に声を掛けられた。

「……後藤さん、振ったらしいですね」

 いつの間にか背後に立っていた黒子の存在に、○○は肩を跳ねる。彼のこの"存在感の無さ"はいつも人を驚かせてしまう。

『便利だが厄介だ……』

 彼がいつしかこう言っていた事を、彼女はふいに思い出した。

「えっ? 黒子君、久しぶり?」

「青峰君を選んだって事で、良いんですよね?」

 唐突な台詞に思わず頷いた○○は、その動作で自分の意思を相手に伝える。

「……そうですか」

 表情が読めない黒子はそう呟き、人通りの多いこの通路で数年前のある出来事を話し出した。

「○○さん、覚えていますか? ボクがセンター試験前に部活の大会と板挟みにされ困っていた時に、キミは声を掛けてくれた」

 二、三年前の出来事なのに、黒子からしたらまるで大昔のようだった。目の前に居る少女がある言葉と提案で、当時の自分を救ってくれた。……だから今から提案するコレは、黒子成りの恩返しに当たるのだろう。柔らかく笑った黒子は、久々に話す彼女へ優しく声を掛けた。

「今度は、ボクがキミを救う番だ」


 ―――――――――


 青峰は火神に支えられ、待機していたドクターの元へ運ばれた。足を地に下ろす度、激痛が走り額に脂汗を流し顔を歪めながら……。

 火神は電話でアレックスに状況を説明する。所々に怒鳴りを入れ、怒りにより興奮していた。

《結論から言うと、骨に微量のヒビが入っています》

 レントゲン結果を告げられた火神は、椅子へ乱暴に腰掛けそして神に祈った。もしも神が存在すると言うなら、この残酷な現実を今すぐ打ち砕いてくれ。会場から『三十分は待つ』と連絡が入ったらしい。愛想も無いナースがそう告げてくれた。だが、それは三十分を過ぎれば自動的に"棄権"とみなされる事を含んでいるのだ。

 結果を通訳して貰った青峰は、残念そうに小さく笑った。そうしてベッドへ仰向けになり、痛みで全身に汗を掻き続ける姿で彼は呟く。今を打破する方法は、これしか無いから……。

「一番強い鎮痛剤、打てよ」

「……馬鹿言うな」

「アメリカなら、打てんだろ? 日本より簡単に」

「無茶だ。デメロール辺りで止めとけ」

 両腕で目元を隠し、溢れ出る涙を押し戻しながら青峰は横たわったままに呟く。
「医者に伝えろ。モルヒネでも良いから……今すぐ立てる薬を打てって」

 しかし火神は首を横に振り、それを拒否する。その動作に頭へ血が昇った青峰は、寝そべった身体を火神の方向へ向け、出せる最大のボリュームで怒鳴った。余りのでかさに鼓膜が対応出来ず、自分の耳までもがビリビリする。

「モルヒネ打てって言ってんだよ!!! そう伝えろ!!!」

「無理だって言ってんだろ!!! 死にてぇのか!!!」

「そうだ!! 死ぬ気で挑んでんだよ!! オレは!!!」

「だったらこんなトコで無茶言うんじゃねぇよ!!!」

 肩で息をしながら二人は吼えた。

 "モルヒネ"。……それは強力な鎮痛剤だ。日本では耐え難い癌の鎮痛へ使われる。劇薬にも指定されているソレは、アヘンから製造される完全なる麻薬である。患部へ注射すれば、痛みは快楽へ直ぐに変わるだろう。

 ――しかし、副作用が強過ぎた。使用量も量らずに健康体である彼が無闇に使えば、強烈なアヘン中毒・激しい嘔吐感・上下も判らぬふらつき・最悪は心肺停止だ。そんな風に、大なり小なり各種器官に必ず多大な影響を与える。それじゃあ諸刃の剣にもならない。折れた刃先を握り戦うようなモノだ。

 「それでも良い」と、青峰ならそう言うだろう。だが仮に身体が順応したとしても、彼に待ち受けているのはやはり【不合格】と云う"絶望"だけだ。

「……ドーピング対象なんだよ。モルヒネ投与は」

「じゃあどうしろって言うんだよ!! アドレナリンでも直接打つか!!?」

 青峰はどうにも出来ない悔しさで、固いベッドをドンドンと叩く。感情は言葉にならず、咆哮となり部屋に響いた。安静にしていても、彼の患部は脈打つ痛みに犯されていく。

 ――悔しいが、青峰のチャレンジはたった今、幕を閉じた。上演も半端に、あとはエンドロールへと突入するのを待つだけだ。接触したあの選手を殺してやりたい位に憎んだ火神は、立ち上がり座っていた椅子を蹴り飛ばして苛立ちを抑えようとする。……だが、頭を垂れ両拳で叩くのを止めた青峰は、静かに呟いた。

「……テーピングしてくれ。火神……ギッチギチにだ」

「馬鹿言うな!! ヒビ入ってんだぞ!! 今だって歩けねぇだろ!!!」

 怒鳴って制止した火神が恐れているのは、自身にも起こった"粉砕骨折"だった。ここでそんな事になったら、それこそ合格云々の話じゃない。完治する前にシーズンが始まってしまう。……そんな選手を、一体誰が雇うと言うのだろう。

 どん詰まりになったこの部屋で、消えようとしていた"光"がまた明かりを灯し始めた。それは決して『明るい』とは言えない。煤で汚れた電球を付けるに似た灯りは、それでも暗い世界を照らし出す。

「オレはキセキの世代の、スーパーエースだ」

 輝かしい過去は捨てた。この呼び名だって、久々に口にした。

『過去の栄光にすがるな』

 ……笑えるな? そう言われた事だってあった。

 違う、これはすがるんじゃねぇ。"踏み台"にしてやるんだ。過去から現在までの全てを踏み付け、より高みへと駒を進めるんだ。

 そうやって、オレは今より高く跳ぶ。

「奇跡のひとつも起こさないで、何がエースだ……」

 青峰は上半身を起こし、息も絶え絶えに再度あのステージへ立つと言う。彼の見開いた目は決意で固められ、決して閉じる事は無いだろう。『諦める』と云う選択肢を拒絶した男には、何を言っても抑止にはならない。

 火神はその情熱に負けた。そして青峰のその"意固地"に賭けてみる事にしたのだ。

「……大馬鹿野郎だよ、お前は」

 蹴った椅子を戻した火神は、英語で医師に処置方法を伝え始める。鎮痛剤を患部にブロック注射、限界までテーピングで固定。無茶苦茶だ……。鎮痛剤は痛みを抑えるだけでしか無いのに……彼は戦うと言う。

 これが適切な処置か、火神には分からない。きっといつか訪れるだろう。この判断を『殴ってでも止めれば良かった』と後悔する日が……。でも信じる事にした。青峰大輝が、自分に"最高の奇跡"を見せてくれると、火神はそう信じるのだ。

「起こしてくれ」

 神経を削ぐような痛みに、青峰の目元がピクピクと痙攣した。彼は顎が割れそうな位に歯を食い縛り、麻痺を始めた膝がガクガクするのを気力で抑える。

 治癒の為に動作を拒否する身体を無理に動かせば、彼の全身からは滝のような汗が吹き出た。右足を床に付けると、上手く動かずにガクンと体躯が右へと傾く。火神が支えていなければ無様に転んでいただろう。――だが、これで良い。膝に力が入らないのは麻酔が効いてきた証拠だ……。

 痛みを引き連れフラフラになりながら青峰は、病室から最初の一歩を踏み出した。


 ―――――――――


 会場であるアリーナへ着く頃には鎮痛剤も効いてきたようだ。それでも足を地に付けると、痺れるような痛みが患部を襲う。ソレが背中の神経を通り、脳が身体を動かすのを拒否した。

 選考員の男性が慌ててやって来た。通訳が「続けるのですか?」と質問する。スーツ姿の彼が「Are you OK?」と何度も聞いてくる。だって彼等は、激しい音を立てて崩れたアジア人は『骨に支障が出た』と報告を受けていたから……。

 でも挑戦者は立っている。歩いている。再び挑もうとしている。ドーピングを疑ったが、処置方法と本人の様子を見る限りは心配無さそうだ。

「……ヒビ入ってても、足さえ付いてりゃ動くんだよ。オレは」

 通訳が選考員へ青峰の言葉を告げると、全員がその発言に驚く。一人が「Crazy...」と呟いた。その単純な単語は、青峰にも理解出来た。

 そうだ……イカれ野郎だ。オレは、最高に馬鹿な男なんだ。


『待ちくたびれたぜ』

 もう少し寝てるか?

『馬鹿言うな、今が最高の出所だろ』

 そうだ、好きなだけ暴れてくれ

『ビビんなよ?』

 上等だ、全てを魅せてくれ

『……じゃあ、本気で行くぜ』



 青峰は羽織っていたウインドブレーカーを脱ぎ、その辺へ投げ再びコートに立った。

「悪ィな、トイレが長くて」

 接触事故で激しく崩れた筈の人物が、涼しい顔をしてコートに戻ってきた。それに全ての選手が驚いていた。着ているユニフォームは汗にまみれ、水色が濃く変色している。髪の毛もシャワーを浴びたようにグッショリしていた。

 ――だけど、目の前の日本人の表情は穏やかだった。そうして一人のアジア人は、誰にも通じない言語で選手等へこう告げる。


「さぁ、始めようぜ? ……ココからがオレの、本当のステージだ」