八月後半。火神の誕生会も終え、二人の修行も佳境へと進んでいる。そんな中、カラッとした真夏日に一人の日本人がとあるバレエスタジオへとやって来た。

「黄瀬!? 何でココに!?」

 驚いた火神は、壁に凭れだらしなく座っていた姿勢を正す。彼の質問の答えは、黄瀬の後ろでニヤニヤしているアレックスの顔を見ればすぐに判った。……いつの間に。火神は、黄瀬の抜け目の無さを少し羨む。

「汗、ビッシャビシャっスね」

「食っても食っても腹減るぜ? 踊りもヒップホップみてぇだし」

 予想以上にハードなレッスンに、火神はすっかり疲弊していた。普段は使わない筋肉を酷使するのだ。脚なんかすぐ悲鳴を上げる。しかし立ち上がった火神は、日本に居た頃に比べれば日に焼け、腕や脚がガッシリしていた。背筋もシャンと伸び、姿勢が美しくなっている。頭の天辺から爪先まで眺めた黄瀬は、小さく口笛を吹いた。

「青峰っちは?」

 火神が真っ直ぐ鏡の前を指差すと、ソコには華奢な少女に激を飛ばされながら汗を散らし踊る肌の浅黒い男が居る。その姿に"遥か昔"を思い出した黄瀬は、小さく笑った。

「ダメダメプーっスね」

「踊れてるだろ?」

「貸してくんないっスか?」

 黄瀬は、火神のシューズを指差しながらそう頼む。火神は意図が判らないまま、相手へ脱いだシューズを放り投げた。ゴロンゴロンと床に転がったソレを片手で持った黄瀬は、鏡の前へと足を運ぶ。

「……全ッ然駄目っスね。アンタ、何も分かっちゃいない」

「は? 黄瀬? お前、何で……?」

 トントン……とシューズを足に差し込み、隣に立った黄瀬の姿に青峰は驚く。そして鏡に向き合った黄色髪の男は、右手を優雅に上げ静止した。

「モデル、舐めんな?」

 そう一声告げると彼はバレエの動きを始める。それは先程まで青峰が踊っていた動きだが、彼の荒々しいモノとは全然違う。繊細且つ大胆で、モーションひとつをピックアップしても、それぞれに"魅せ場"がある。

 美しいとはこう言う事だ。闇雲に動きを覚えるだけでは無い。

 青峰は、目の前の友人にただ圧倒された。そして負けず嫌いな闘志が、また鏡の前に彼を立たせる。横目でチラリと黄瀬の動きを盗もうとすると、声を掛けられた。

「……アンタさぁ、一人で踊ろうとするから駄目なんスよ」

「どういう意味だよ」

「本来バレエは、誰かに見せる為踊るモンなんスよ。ただ強引に相手振り回して、コッチ向かせるだけじゃ……逃げられるっスよ?」

 ギクリとした青峰は、ステップを止める。そうだ……黄瀬の言葉はその通りで、結局『コッチを見ろよ』と、気紛れと我儘と強引さで振り回すから、自分の傍には誰も居なくなる。

「……そんなアプローチしか出来ねぇんだよ。オレは」

「今は違うでしょ?」

 キュッと足を止め踊りを終えた黄瀬は、身体が汗ばむ前にバッシュを脱ぎ、持ち主に返す。

「ブカブカだから、上手く踊れなかったっス」

 そんな嫌味を言いながら。

「……何だよ、ソレ」

 青峰は右手を眺め、二、三度握った。そしてさっきまで自分に伝わらない言語で喝を飛ばしていた"異国の少女"を見る。彼女は目が合うと、やはりサッと顔を下げてしまう。

 見せたい相手か……。

 青峰は手を上げて、何度も挑戦しては駄目出しを喰らったその踊りを始めた。ステップや動きは覚えたのに、コーチングをしているあの綺麗な少女は決して【合格】をくれなかった。

 今は、自分のすぐ傍でアイツが見ている気がした。だから存分に魅せてやろう。

 アイツはきっとこのステップの名称も知らないだろう。大丈夫だ、それ位教えてやるよ。だからお前はただ傍に居て、オレを頼ってくれれば良い。

 コーチの少女は驚いた。『表現が堅い』と何度も言ったのに治らなかった彼が、今はこんなにも伸び伸びと踊っていた。

 元々手足が長い青峰は、動きが大きくなる。だから演技の堅さも人一倍目立つ。青峰が最も大事にする"勝ちたい"と云う欲望は、真っ直ぐ過ぎて身体をガチガチにしていた。ただ踊っているだけだった図体のデカイ彼は、遂に"踊る意味"を見付けた。

 少し離れた場所に居た火神さえも"その違い"に気付いていた。

「何だよ。柔らかくなったな。アイツ」

「アレっスか? 言ってたコーチって」

 ポカンと青峰の変化に魅入っている少女を顎で差した黄瀬に、火神は答えた。

「美人だろ? ダーリン付きだ」

「青峰っちもデレデレしますわ」

「アイツ、あんなんがタイプだったか?」

「……アンタは相変わらず、本質が見抜けないオトコっスね」

 あのコーチの向こう側に"また違う人物"を見出だした黄瀬は、意地悪にクスクスと笑う。その台詞と仕草にハテナが浮かんだ火神は、「何だかなぁ……」と呟きながら頭を掻いたのだった。

 短い演目を終えた青峰は、ツヤツヤに磨かれたフローリングに腰を下ろした。コーチが初めて拍手をしてくれ「perfect!」と褒めてくれる。大の字になって床に寝そべった男は、蛍光灯の眩しさに目を細め笑った。……脚がガクガクで、殆ど動かないのに。

《今より難しいターンが入ったらもっと時間が掛かったかもね? 構成がステップとジャンプだけだったから》

 コーチは、たった一ヶ月でマスターした"天才"に向かって負け惜しみに似た台詞を告げる。勿論ソレは、言語の違う青峰に理解される事は無かった。


 ―――――――――


「……○○さん。その、来てくれてありがとう」

 デートに誘われた○○は、待ち合わせ場所で相手がフニャリと笑うのを見た。犬のように愛くるしい笑顔に、お洒落なTシャツがよく似合う。黒髪はワックスで固められ、爽やかに立っている。ほんのに鼻を付いた整髪剤の香りが、男の子である事を主張している。

「観たい映画があってさ。一人じゃ恥ずかしいじゃん?」

 そう言えば……青峰とのデートと言えば、待ち合わせてホテルに行き、ご飯を食べてアパートに行く事が多かった。こうやって肩を並べ歩く事も少ないし、手を繋いだ事も無かった。

 あぁ、一回だけあった。初めて会った夜、彼は強引に手を握りホテルへと連れて行ったのだ。初めて男性と手を繋いだ、性行為をした、誰かと一晩を共にした……。起きた瞬間に下半身が鈍く痛み、自分が知らない匂いがした記憶がある。それは独特なリネンと、自分を抱き締め眠る"相手の匂い"だった。

「……考え事? 大丈夫?」

 過去を振り返っていた○○の顔を覗き込む男子学生は、心配そうな表情をしていた。学生らしいデートだと思う。大型ショッピングモールで映画なんて、若いからこそ楽しいのだろう。

「ううん? 映画……久しぶりだな、って」

「SFなんだけど、大丈夫? 恋愛映画にする?」

 上映案内の巨大なポスターが目線の位置に並んでいた。彼が観たいのは話題の洋画だった。チケットを買いに二人で並ぶ。休日の今日は混んでいるのか、スタッフは忙しそうにしている。途中で上品な制服に身を包んだ女性スタッフが声を掛けてくれた。

「あの、失礼かもしれませんが……値札、付いてますよ?」

 感じが良い笑みで、スタッフがハサミを貸してくれた。

「えっ!?」

 ○○が慌てて確認すると、確かに首に巻いていた長スカーフに値札タグが付いている。

「……ありがとう、ございます」

 顔が紅くなった○○は、黒地に花柄のスカーフを鞄にしまい、その場で俯く。気に入っていたのに、何故かもう着けるのが嫌になってしまった。

「……離れよっか」

 付き添いの彼は並びも途中に、恥を掻き混乱した彼女を列から退避させてくれた。

「……何て言っていいか分かんなくて、ゴメンね? それよりさ、上映まで時間あるからご飯食べようよ」

 笑いもせず、気まずそうに話題を逸らしてくれた彼の判断は正しい。一般的にはソレが正解だろう。でも、○○は内に燻りを感じた。我儘だと思われるかもしれないが、気付いていたなら指摘して欲しかった。だって、そうすればこの恥ずかしい部分に、互いがモヤモヤを抱えなくて済む。ドジを冗談で済ませる事が出来る……。

 万引き扱いされようが、店先で笑われようが、『お前の値段か? コレは』と安価な事を乏されようが……○○からしたら、あの人の判断が"正しかった"。嬉しかった、愛しかった。

 そうやってニヤニヤと、失敗を笑いに変えてくれる"彼"が……好きだった。思い出した懐かしい感情に、熱持った目頭を冷まそうとすれば、涙が落ちる。

 薄暗い通路の奥にある館内エレベーター前。俯き立ち止まる○○を、彼は不思議そうに見た。

「泣いてるの?」

「……ごめんなさい、私……恥ずかしくて、面倒な女なの……本当に、ごめんなさい」

「服の値札なら大丈夫だって。オレも時々、やっちゃうし」

「……好きな人が居るの」

 少女のその言葉に、男性の身体が硬直した。突然の話題にふにゃふにゃした笑みが真顔になると、皮肉にも整った顔が引き立つ。

「アメリカに居るの! 頑張ってるの! 応援、したいの……!」

「アメリカ? いつまで?」

「いつ帰ってくるかなんて……分からないよ……」

 こんな暗い通路の端で、彼女は感情を溢れさせ、遂には嗚咽を漏らしてしまった。幸いエレベーターを使う人間は居ないのか、誰もここには来ない。敷かれた黒いカーペットには、○○の涙が絶えず落ちる。

「……置いてかれたの……私。捨てられたのに……。でも、まだ……!」

「もう良いから!!」

 ――気付いたら、○○は男性の腕の中に居た。背中に手が回り、温もりを感じる。相手の肩に額を押し付けると、少女は目を閉じた。私は……あの身長差で、向こうが息を吸う度、膨らんだ胸元が額を押す感触が好きだったのだ。彼の厚い腰元に腕を回すと、浅黒く逞しい両腕で頭を抱えてくれた。

 相手を優しく押して、○○は離れた。潤んだ瞳を指で拭い、指に付いた化粧の痕を眺めた彼女は、ぐちゃぐちゃになった顔で相手を見る。

「…………私が本当に欲しいのは、ひとつしか無いよ」

 目を見開いた男性の眼差しが自分を刺す。好意を押し返すなんて、傷付ける答えだとは思う。でも、彼が自分にどれだけの好意を寄せているのかは判らないが、自分だって"彼"に尽きる事ない愛情を、今も寄せている。青峰大輝の癖や皮肉めいた言葉を思い出して、居る筈なんか無いのに街で探して、すれ違い様に似たような香水を嗅いでは絶望するのだ。そんな日々を過ごしているのだ。

 きっとこの恋は"不安と後悔"しか生み出さないだろう。今、目の前に居る男性と交際をすれば素敵な世界が待っているかもしれない。全てが新しく、何もかもが変わるのだ。――でも○○は拒否した。誰かが開けた穴を、他の誰かで埋めるのは嫌だった。きっと時間が穴を修復してくれる。だから、ソレを待つ事にした。

 穴埋めに誰かを使えば、どこかで必ず二人を比べては片方を否定してしまうのだ。そうやって傷付けるような、最も残酷な決断は捨てよう。今は笑えなくて良い。信じてる、この祈りが届く事を。きっと迎えに来てくれる……。

 もしも"彼"と出逢えて過ごした時間が奇跡と呼べるモノにカテゴライズされるのなら、少女はもう一度だけ奇跡を信じる事にした。神様は一度だけ、クリスマスの夜の願いを叶えてくれた。だから私はまた"彼"を待てるんだ。

 ――彼女は強い、強いからこそ美しい。黒子テツヤはそこに惹かれた。そして青峰もきっとその強さを信じて、手紙に執着のひとつを残し海外へ向かったに違いない。

「ごめんなさい! 振り回して……本当に、ごめんなさい!!」

 決断をした少女が、ひとつ大人になる丁度その時……彼女のスマホが着信を知らせていた。


 ………………………


 自身の掲げた目標を達成した男は、留守電の日本語を聞き通話を終了した。メッセージを残すようなみっともない真似はしたくなかったのだ。それは自身のプライドが許さなかった。アチラが昼なら、コチラは夜中だ……。土曜日の筈だから出ると思ったのにと、彼はグローバルで使えるスマホを持ち主に投げて返した。

「出なかったのか」

「時間が時間だからな」

 ベッドに身体を横たえた青峰は、マットレスの柔らかさにウトウトする。

「……男と歩いてたらしいぜ? 黒子以外の」

 英語で書かれた雑誌を閉じた火神が、先程黄瀬からリークされた"現実"を伝えてやる。

「……そうか」

「モテ期到来みてぇだな」

「安心したぜ」

 ベッドから起き上がった青峰は、その辺に脱ぎ捨てていたバッシュを掴むと、部屋から出ようとする。

「夜に一人で出歩くのは、オススメしねぇけど?」

 火神もそう言いながら、競技専用の上履きを掴む。

「……いい。一人になりてぇ」

「何かあっても、どうにも出来ねぇからな」

 付き添いを拒否された火神は、掴んだシューズを床に放る。ゴトンとワンバウンドしたソレは、爪先がアチラコチラを向いていた。放り投げれば当然の結果だ。両者が同じ方向を向くことは、奇跡に近い。

 青峰は玄関に掛けられた鍵を掴むと、ここから少し離れた場所にあるレッスン場へ向かった。じゃないと……身体を動かさないと潰れそうになる。きっと悔いた感情が内側から溢れて、暴れていただろう。抑える為に拳を握り、早歩きで異国の夜道を進む。

 火神は、一人になった部屋で溜め息付いた。……本当の愛とは難しいモノだ。見せ掛けの恋なら失敗したって次がある。でも、本気であれば本気である程、恋愛とは次に進むのに時間が掛かる。……火神だっていい加減次へ進むべきなのは、分かっていた。彼だって毎日待っているんだ。誘いを断り、日本に残った相棒からの連絡を……ずっと。


 ………………………

 映画館脇の寂しい通路で相手と別れた○○は、しばらくの間長椅子に腰掛けボンヤリ青峰と過ごした日々を考えていた。涙が通った皮膚は、乾いてバリバリになっている。少女はスマホを取り出し、画像検索で見付けた"彼"の写真を眺めようとした。正直、見た目だけならそこまでタイプでは無い。ヤンキーに似たあの強面は苦手だ。

 その時、不在着信に気付いた○○は着信履歴を探る。そうして出て来た見た事もない数字の並びに、彼女は頭を捻った。携帯番号でも無い、固定電話かと思った彼女は試しに掛け直すことにする。――発信すると、繋がるまでに大分時間が掛かりはしたが、保留音が数回流れた。しかし、緊張が解ける前に相手が通話ボタンを押したのか、電話がいきなり始まる。

『――Hello?』

「……あの、○○です。ハロー?」

 ○○が相手の流暢な英語にオドオドすると、電話の向こうで笑い声が弾けた。その声には聞き覚えがあって『オレだ、火神大我だよ』と返って来た瞬間、ようやく心から安心出来た。

 『ちょっと待てよ』と一度通話を切られ、しばらくしてまた知らない番号からの着信が入る。

「……これ、火神君の番号なんだ」

『コッチでスマホ契約したんだよ』

 見慣れない数字の並びは、海外で取得した番号だからか……。安堵した彼女へ、火神が判りきった質問をする。

『……どうした?』

 こちらもついさっきに着信があった事を告げると、『あぁ』と相槌を打った後に『お前さぁ、国際電話だぜ? 馬鹿みたいに請求されるからな』と火神は電話口でクツクツ笑い出した。相手はわざわざ電話料金の為に掛け直してくれた。申し訳無さに恥ずかしくなった○○へ、早速ながら火神が事実を告げるのだった。

『……電話したのは、オレじゃねぇよ』

「……えっ?」

『○○が電話出ねぇから、ガッカリしてたぜ? アイツ』

「アイツ?」

 火神の言葉に喉から心臓に掛かった○○は、内側を何かで撫でられたような気がした。一瞬の緊張は、期待を含んだモノだった。

『オレの傍に居るのは、一人だけだろ?』

「……青みね、く……」

『そうだ、青峰だ』

 その解答に、感激と後悔の涙が溢れてきた。引っ込んだと思った体液は温かくて、何滴も太ももの上で握った手の甲に落ちる。

 会いたい、話したい、もう一回言葉を交わして伝えきれなかった想いを全てぶつけたい。叱咤も、激励も、愛の言葉も、泣き言も……。どれだけ想っても物理的なこの距離は、二人を邪魔し会える希望を消し去る。

「……声、聞きたい」

『アイツ、今ここに居ねぇんだよ。こんな時間に自主練だとよ』

 相手から『悪ィな……』と謝られるが、彼女は責められなかった。そもそも電話に出なかったのは、"彼"以外とデートをしていたからだ。これは罰だ。またフラフラしていた自分の行いが、どう転ぼうとしているのか……怖くて仕方がない。

『アスリートってな、考え事し出すと身体を動かしたくなる生き物なんだぜ?』

 青峰は今、自身を責めている所だ。自分の出した答えを、後悔と云う形で……。"愛する"と云う事は難しい。違う個体がお互いを求めるのだ。こんな風にすれ違ってしまう事だってあるだろう。彼と黒子テツヤのように、相手に一線を置かれる日も来るだろう。思い出が余りにも美し過ぎて、未来さえも輝かせる。

 例え、自分達に苦しい結末が待っていようとも。

 だから火神は、涙で声が震えている彼女には言わないでおく事にした。二人の"愛情"が本物ならば届く筈だと信じているから。代わりにヒントに似た言葉を掛けてやった。これ位だったら、助けてやっても良いだろう。

『何でだか知らねぇけど……青峰の奴。バレエを一ヶ月ちょっとでほぼマスターしたからな。化け物だ、相変わらず』

 答えが知りたいのなら、自分で聞いてくれ。『何でそんなに頑張ったの?』と聞いてやれ。鼻と肩でひとつ笑った"彼"は、得意の嘘で本音を隠すだろう。


『出来ねぇ事あんのが、嫌なだけだ』


 ―――――――――


 彼の背後にあったのは、たったひとつの願掛け。遠い相手が自分だけを想い、積もった気持ちが溢れてはいないだろうか。

 ……オレは寂しいんだ。だから、たったひとつの言葉が聞きたい。

『会いたい』

 それに準ずる言葉なら何でも構わない。オレは……青峰大輝は弱い。卑怯で卑屈で卑下が得意で……。

 男は、指先で鏡に映った自分を指差す。汗で髪は塗れ、レッスン用にしたTシャツもヨレヨレで、御世辞にも「綺麗」とは言えない。バッシュなんて、たった半月でひとつ壊した。コレも、もうボロボロだ。ゴムが床を擦る摩擦音が室内に響く。青峰は、真っ直ぐな瞳で鏡の自分と視線を合わせる。相変わらず眉間の皺は深く、目付きが鋭い。乱れた息のせいで、口だって半開きだ。

 誰か……異国の地で戦うこの戦士に称賛をくれ。

 栄光を、激励を、拍手を――。

 いや……"誰か"じゃない。慰めが欲しいのはただ一人。

『……愛してるよ?』

「そうか。オレもだ」

 鏡に映った男が微笑んだ。その顔があまりに幸せそうだったから、ステップを止めた青峰は俯く。自分の生み出した"幻聴"は、都合が良すぎて……笑えた。それは恥ずかしがり屋の"彼女"らしい、小さな囁きだった。

 最後まで諦めない。
 やる事は全てやった。
 オレは自分を信じている。

 ――テストまで、残り一週間。不思議と不安は無い。


 ―――――――――


『何か、伝えたい事あんなら伝えてやるよ』

「……あのね? タグ、また付けたまま街歩いちゃった」

 そうとだけ言って口を接ぐんだ○○は、音も立てずに涙をひとつ落とす。火神は、無言になった電話先に向かって『それだけか?』と笑う。

 ○○は、その後に続く台詞を飲み込んでいた。だってこれ以上の重荷には、なりたくなかったから……。

 私……やっぱり青峰君が居ないと駄目みたい。

 皮肉にも"その言葉"は、今の青峰が一番欲しているモノであった。しかし、何ヵ月も彼の声を聞いていない彼女は、そんな事知るよしもない。そうして、海の向こうに居る相手へ届けたいこの深い愛情は、行き場を無くして悲観へと変化していくのを、彼女は胸に感じた。